第七章3『夜に還る』
――夜の村は、まるで世界そのものが眠りに落ちたかのように。
耳に響く沈黙と共に、しんと静まり返っていた。
家々の窓には灯りひとつなく、人の足音も話し声も、もうどこからも届かない。
それでもこの場所には、誰かの記憶がそっと淡い靄のように漂っている。
苔むした石畳。崩れかけた井戸の縁。
あのころ、夕焼けのなかで笑い声を交わした納屋の影。
手を伸ばせば触れられそうなほどに、過去の光景が静かに胸の内に重なっていく。
懐かしさと痛みのあいだで、心がふと止まりかける。
風がそよぎ、梢を揺らした。
そのかすかな音が、胸の奥をくぐもらせるように、淡く、痛く、鳴った。
気づけば俺は、その風のただ中に立っていた。
時間が、ここだけ流れを止めたかのような感覚。
月明かりがやわらかく小道を照らし、風は遠くの季節を連れてくる。
甘く、ほろ苦く、少しだけ残酷で――
もう戻れない場所の匂いが、そっと頬を撫でた。
そして目の前に、かつての……我が家。
記憶の中より小さく見えるその家は、静かに夜を抱きしめるように佇んでいる。
その家の窓のひとつだけが、かすかに明かりを灯している。
ほかの部屋はすべて、深い闇に沈んでいるというのに。
あたかも夜の中でひとつだけ目を開けているような、そんな光だった。
俺は足音を落とさぬよう、そっとその窓辺に近づく。
息を止め、指先すら震わせぬようにして、静かにその窓を覗き込む。
――そこに、ひとりの少年。
机に突っ伏したまま、じっと動かない。
小さな背中。肩に積もった時間の重さ。
その光景から、俺は目を逸らすことができなかった。
ずっと遠ざけていた。いや本当は――
怖くて見ようとしなかったもの。
それが、今ここにいる。
喉がきゅうっと詰まり、指先に微かな震えが宿る。
けれど何となく、わかっていた。
この場所で、自分がすべきことを。
ポケットに手を差し入れ、銀糸を取り出す。
母が遺してくれた、あの日の銀糸。
手に巻き取っていくたびに、過去の自分にそっと触れるような気がした。
「あのとき……誰かに、こうしてほしかったんだろうな」
指先で巻いた銀糸は、静かに肌に馴染んでいく。
それはぬくもりではなかったけれど、確かにそこにある、という手応えがあった。
俺はぎゅっと、拳を握る。
風が止まり、世界が月の呼吸だけで動いているような、静けさが満ちる。
俺は腰を捻り、拳を振りかぶった。
力ではなく、祈りを宿して。
その瞬間、窓の向こうで部屋の中の少年が顔を上げる。
その目は、何時の間にか俺を見つめ返していた。
「迎えに来たぞ――」
ぶん、と拳がうなる。
銀糸が夜の空を裂き、爆ぜたような轟音があたり一面を揺さぶった。
窓が砕け、壁が弾け飛ぶ。割れたガラスと木片が風に舞って、夜空に散った。
「――シルバー・ヴィンセント」
少年は、こちらをじっと見つめている。
頬には乾いた涙の跡。
目は赤く染まり、唇は声にならない言葉を押し殺していた。
その姿は、あまりにも――あの頃の俺のままに。
ようやく迎えに来た。
ずっとひとりで耐えていた、あの日の自分。
誰にも気づかれず、泣くことすら許されなかった、幼い俺に。
◇ ◇ ◇
――ぱちり。
「え? 何だ、夢か」
目を開けると、夜風が静かに吹き抜けていくのを感じた。
屋根の上。月光が銀の薄衣のように辺りを覆っていた。
月明りが眩しい夜、そんな屋根の上の風景を見渡す。
右にはルーシェ。
茶色の髪が風にそよぎ、やさしい眼差しが空に向けられている。
そして左にはラスティーナ王女。
紅い髪が光を帯び、まるで小さな炎のようにゆれていた。
ふたりのあいだに挟まれて、俺は何も言えなかった。
ただその静けさと、二人のぬくもりが胸の奥に溶けていく。
冷たくなっていた場所に、ようやく灯がともるように。
ルーシェが、そっと右手を重ねてくる。
「……お母さんの糸、切れちゃったね」
視線を落とすと、指に巻いていたはずの銀糸。
何時の間にか握る拳に切れ、風になびく様にほどけていた。
そのまま、やさしく揺れながら夜の中へ消えていく。
「でも、きっと見ててくれたんだと思う」
ラスティーナが、左手で俺の手を包み込む。
「これからも……私達は、そばにいますわ」
俺の胸がいっぱいになって、そのまま言葉にならなかった。
拳を膝に置き、小さくうつむいたまま、やっとのことで声を絞り出す。
「……ごめん。ずっと……ありがとう」
少しの間をおいて、もう一度。
「いてくれて、ありがとう」
その言葉に応えるように、ふたりの腕が、そっと俺を抱きしめてくれる。
あたたかく、静かに、確かに。
風がまた、そっと吹き抜けていった。
夜が、過去と未来をつなぐ橋を渡してくれたようだった。
◇ ◇ ◇
その唄は誰にも知られずに消えていった。
あの夜だけに許された、ひとりの道化師の唄。
旋律というより衝動。音ではなく、言葉にならない叫び。
けれどそれは確かに――唄だった。




