第七章2『歪な歴史ほど夜に刻まれる』
※ナディア視点――星局事務所
星局事務室には、夜の静けさがしみ込んでいた。
書棚に囲まれたこの部屋は、まるで深い水底のように静まり返り、ガス灯の明かりだけが、ゆらゆらと命を灯していた。
帳簿の影が壁に揺れ、私はそのゆらぎをぼんやりと眺めていた。
音ひとつ立てるのもはばかられる空気の中で、マクレーン教官が報告書を手に立ち尽くしている。
「……ミルカ嬢、披露による全身脱力、意識消失。
今は死んだように、寝ているらしいです」
報告書の紙には細かい皺。
彼が机にそれを置いたとき、その指先にこもった怒り。
それらが言葉にじわりと滲み出ていた。
「シルバーは……なんであんな真似をしたんですかね。
敵と、ダンスの真似事なんて……。
本気を出していれば、あの程度の少女に手傷一つ負わせるはずがなかった。
それが、本来の奴のはずなんだ」
私は机に積まれた書類の束に目を落とし、静かに返す。
「最低の星、エセイー・マーガ。……最低の烙印。
共和国としては、それでも確認せざるを得なかったのよ。
戦えるのか。居場所を作るに足る者なのか、って」
手元で紙を揃えるふりをしながら、その動作が自然に止まった。
気づけば、指先に紙の端が食い込むほど力が入っていた。
「訓練を施して、短刀を与えて技術を仕込んだ。
だけど――特筆すべき才はなかった。
それでも彼女は笑っていた。ただ居場所を作るために。それだけのために」
マクレーンは視線を落とし、拳を固める。
磨き抜かれた机の表面に、わずかな震えが映り込んでいた。
しばしの沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「……だからか。彼女の短刀……あんなにも丁寧にメンテされていたのか。
切っ先には曇りひとつなく、柄も彼女の手にぴったり合うよう削れていた。
あれは――必死だったんだ」
◇ ◇ ◇
「マクレーン教官、あなたも知っているはずよね。
シルバーの出自と、この城に来た経緯」
私がそう言うと、マクレーン教官は静かに頷いた。
「ああ、あいつは十歳のとき、六年前の長雨による土砂崩れで両親を亡くした。
それからの二年間、村のあちこちを手伝って、その日の食事をどうにか得て、生き延びて……で、洗礼であんな星を得てしまって……それから、だ」
その声には悔しさが滲んでいた。
おそらく煮えくり返るような、やるせなさが、彼の胸に渦巻いてるのだろう。
「でもね、教官――その話には、あまり表に出ていない裏があるのよ」
私は机の引き出しから、一冊の古いファイルを取り出す。
「その洗礼の少し前に、シルバーの生まれた村の村長や村の人々から、陳情が届いたの。
どうか、あの子を王都で保護してやってほしいって。
あの子は私たちに甘えようとせず、ただ笑みを浮かべ、周囲の人たちの手伝いをしながら、その日の食べ物を労働の対価として受け取るだけだった……と」
そして、そのファイルには、こうも記されている――。
両親を失ったあの日から彼は、シルバーは一度も泣いていない、と。
まるで仮面のような笑顔で、口角だけを持ち上げたまま。
次の日から普通に生きていた。
そんな表情で彼は周囲の救いの手を、ただ拒絶し続けた。
このままじゃ、あの子は壊れてしまう。
そんな声が、ファイルにはいくつも添えられていた。
もしも……目の前に飢えた子供がいて、そして自分の手元に余った食べ物があるとする。
それを差し出そうとして、その子に笑顔で拒まれたら。
――その痛みが、どれほどのものか。
幼かったあの子には、わからなかったのね。
救おうとしても、届かない苦しみ。
だからこそ、無理やりにでも仕事を与えた。
労働という名の救済と接点を。
それはそれで……辛いのよ。
普通の、まともな大人であればなおさら。
「王はその陳情を受けて、すぐに王都での保護を決断したわ」
シルバーはそういう子。
どこまでも人に甘えず、無理をして平気なふりをして。
そして無作為に人を助け続ける。笑みを浮かべながら。
――それが、周りの人間にとって、どれほど、残酷なことか。
◇ ◇ ◇
「私達はそういう事実を、記録という形でここに積み上げている」
ガス灯の火が、静かに揺れている。
「五十六年前の戦い。そしてそれ以前から。
外れとされた星を得た者たちはずっと……さまざまな扱いを受けてきた」
「戦う力すら乏しいと見なされれば、当たりを引いた国への『貢ぎもの』として差し出されたこともある。
盾として消耗されるか、恩恵の性質を調べるための実験体にされるか……それともただ見殺しにされるか」
言葉にできない、もっと悲惨な歴史もある。
だがそれは、ここで言うべきじゃない。
「星を授かった瞬間から、個人の願いなんてものは踏みにじられる。
名も残らず、記録にもならず、ただ運が良かった、悪かったと片付けられて、そして終わっていく」
私は深く息を吐いた。
「でも、逆もある。――当たりを引いた子たち」
「国の英雄として祭り上げられ、期待を浴び、踊らされ。
そして――使い潰されていった」
「どちらにしても、星が人を守ったことなんて一度もないのよ。
だから私は記録するしかないの。せめてもの証として」
私は紙束の上にそっと手を伸ばし、積もった埃を指で払う。
マーガの『勝者』が遺す歴史は……きっと夜に書かれたのね。
歪なまま、光の下には出せぬことばかりで。
夜と酒と勝利の酔いの中でなければ、あの賛美の嵐は綴られなかったでしょうね。
「星の力に、個人の願いはいつだって置き去りなのよ」
室内に、ひときわ張り詰めた気配が走った。
一拍置いてから、私はゆっくり立ち上がり、窓辺へ歩いた。
室内は静まり返っていたのに、私の革靴の音だけが、やけに重く床に響いた。
窓の外には、白い月が浮かんでいた。
その光は冷たくも、どこか優しげだった。
「シルバーとミルカ――二人の違いがあるとすれば、
それは、明日を生きてほしいと願ってくれる誰かが、そばにいたかどうか」
「シルバーにはいた。村の人達、王、もちろん貴方もね、教官。
でもミルカには……おそらく、誰もいなかったのね」
そのとき、扉がノックされ、兵士が慌ただしく駆け込んできた。
「報告します! シルバーが医療室から姿を消しました!」
私は窓の外を見たまま、振り返らずに言った。
「今は、探さないでいてあげて……お願い。
あの子は、シルバーはきっと今、ようやく――」
言葉が喉で絡まり、それ以上続けられない。
何を言えばいいのか、私にもわからなかった。
「……いいの。もう、そっちはとっくに二人が動いているわ。
ルーシェと、ラスティーナ王女がね」
風がカーテンを揺らす。
月光が静かに部屋へ流れ込んでくる。
――窓は、開いたままだった。




