第五話 最初の裁可
財務官は扉の前で一度足を止めた。
セラではなく、窓際の黒い椅子を見ていた。
そこに座るアシュヴァルを確かめてから、部屋へ入ってくる。
四十代半ばほどの痩せた男だった。
飾りの少ない衣に皺はなく、抱えた革張りの帳面だけが使い込まれている。
財官「財務官、エーベルトにございます」
セラへ一礼し、皇帝にも頭を下げる。
アシュヴァルは応じなかった。
魔術師長が届けた召喚術式の写しを読んでいた。
セラ「先ほど、不足があると伺いました」
財官「はい。今期以降の備えについて、ご報告すべきことがございます。ただ、その前に、本日の支払いをご裁可いただかねばなりません」
差し出された紙には、人の名と数字が並んでいた。
セラは見覚えのある名前を見つける。
同じ詰所で勤務していた騎士だった。
セラ「近衛の給与ですね」
財官「城内警備の兵、厩舎の者、厨房勤めも含まれます。部署ごとの一覧を、後ろへ綴じてございます」
紙をめくる。
城で働く者は、思っていたより多かった。
知っている名前もあれば、所属する部署さえ知らない者もいる。
セラ「私の名前も、ありますが」
財官「今朝までの所属に基づいたものにございます」
自分の給与を、自分で許可する。
つい今朝まで、その金から幾ら実家へ送るか考えていたのに。
セラは名簿を机へ置いた。
セラ「では、支払いをお願いします」
エーベルトは一礼したが、書類を受け取ろうとはしなかった。
セラ「……ほかに、何か?」
財官「命令書の御名についてでございます」
紙の冒頭には、エルドリック三世の名があった。
その下に、城内で働く者への給与を支払う旨が記されている。
セラ「私の名前へ書き直せばよいのですか?」
財官「先に、継承の手続きを整えねばなりません。退位と継承の記録、印璽の引き渡し、臣下への正式な布告が必要です」
セラ「それが済むまで、支払えないのですか」
財官「金は確保してございます。ですが、出納官が新たな御名による命令を受理するには、その根拠が必要になります」
セラは名簿へ目を落とした。
給与の遅れを気にしていた騎士たちの顔が浮かぶ。
家へ送る金を待つ者も、子供が生まれると話していた者もいた。
王が替わったからといって、その暮らしまで待ってはくれない。
セラ「では、先王陛下にお願いできませんか。今日の支払いを、退位前の最後の命令として認めていただくことは」
エーベルトが顔を上げた。
窓際の団長も、セラを見る。
財官「先王陛下のご同意を頂き、退位に先立つ裁可として記録するのであれば、可能です」
セラ「お願いします。支払いを待つ者に、こちらの都合で困ってほしくありません」
財官「侍従長と相談いたします」
エーベルトが書類をまとめると、皇帝が笑った。
皇帝「初めの仕事は、元の王に頼み事か」
王にしたのはあなたでしょう。
セラは言い返したくなったが、どうにか堪えた。
セラ「支払いを遅らせるよりは、よいと思いました」
皇帝「我は、良いとも悪いとも申しておらぬ」
セラ「笑っていらっしゃるので」
アシュヴァルが紙から目を上げた。
セラは背筋を固くしたが、皇帝は怒らなかった。
皇帝「ならば、笑われぬよう励むことだな」
この男とこれ以上話していても、支払いは進まない。
セラは財務官へ向き直った。
セラ「支払いの手配が済みましたら、国庫について教えてください。不足があるというお話も」
財官「承知いたしました」
*
先王の署名が入った命令書は、その日の夕刻に届いた。
給与の支払いを進めると、エーベルトから報告があった。
セラはようやく安堵した。
命令書と共に、退位を記した文書も運ばれてきた。
セラはそこにある署名を見つめる。
自分が守ってきた王の名だった。
その名の下で、王の務めを終えることが記されていた。
正式な即位の儀は、三日後に行われるという。
王都にいる諸侯、軍の幹部、神殿の代表、主要な官吏、他国の駐在使節。
その者たちを集め、新王を公に示す。
遠方の領主へは使者を送り、後日、忠誠の誓約を求めることになった。
セラ「……三日で、何を覚えればよいのですか?」
侍従長は手元の書類を開いた。
侍長「まず、入場の順序からご説明いたします」
立つ場所、進む歩数、受け取るもの、口にする言葉。
説明は、その後も続いた。
セラは机へ紙を置き、書き留め始めた。




