第十八話 許された問いは一つ
日が落ちてから、剣聖クラウス・ラゼルが客舎を訪れた。
門の兵へ名を告げ、アシュヴァルへの面会を求める。
アルディアの近衛が、取り次ぎに入った。
待つ間、クラウスは剣へ触れなかった。
ここは自国の王都で、王宮が用意した客舎だ。
周囲の兵の配置も知っている。
それでも、今日は安心できなかった。
庭の葉を揺らす風が、建物の角へ抜けていく。
〈風の大精霊の加護〉は、その流れを彼へ伝えていた。
視界の外から迫る刃も、背後へ回る敵も、この感覚で捉えてきた。
〈剣理〉と共に使い、幾度も戦いを切り抜けた。
だが、白銀の男を前にしては、何も分からなかった。
分からぬまま、王に兵を動かさせるわけにはいかない。
だから、ここまで来た。
近衛「こちらへ」
案内されたのは、庭へ面した小さな広間だった。
アシュヴァルは窓際の黒い椅子に座り、記録を読んでいた。
クラウスは入口で止まった。
案内の近衛が退き、扉が閉まる。
皇帝が顔を上げるまで、黙って待った。
皇帝「何用だ」
剣聖「一つ、お尋ねする許しをいただきたく」
皇帝「申せ」
クラウスは頭を下げ、問いかけた。
剣聖「アルディアと我が国の間に戦が起きた場合、御身は戦われるのでしょうか」
アシュヴァルはしばらく彼を見た後、答えた。
皇帝「貴様らの争いに、何ゆえ我が手を下さねばならぬ」
クラウスは、その言葉を受け止めた。
――戦わぬ。
捉えようによっては、そういう意味にも聞こえる。
だが、女王を王位へ据えたのは、この男だ。
今日も、女王の側にいた。
彼女が傷ついたとき。
彼女が倒れたとき。
――同じとは限らない。
その確認をせずに帰れば、自分は王へ何を伝える。
恐ろしいので、それ以上は何も聞けなかったとでも言うのか。
――クラウスは、息を整えた。
剣聖「では、女王の御身に危険が及んだ場合も――」
背後で音がした。
壁際に置かれていた木の椅子が、床へ沈んでいた。
四本の脚が押し潰され、座面が床につき砕け散った。
何かが飛んだ気配も、魔力を集める動作もなかった。
加護も〈剣理〉も、何も知らせなかった。
皇帝の笑みが消えていた。
皇帝「二度、問うことを許したか?」
クラウスは即座に膝をついた。
剣聖「……申し訳ございませんっ」
床へ目を落とす。
立ち上がろうとも、しなかった。
――いや、動けなかった。
皇帝「地を這う虫が、別の虫を食う。そのたびに、我が手を伸ばすとでも思うておるのか?」
怒鳴られてはいない。
だがこの男はそもそも、威圧のために声を張る必要がない。
皇帝「我がどこに立ち、何をするか。貴様の国の都合に合わせ、答えを与えねばならぬことか」
クラウスは黙っていた。
一つ尋ねる許しを得て、問い、返答を受け取った。
それでも、なお自分たちの都合に合わせた保証を求めようとしてしまった。
国家の命運が懸かっている。
その事情を組んでもらえるなどと、この男にも意味を持つなどと、なぜ考えてしまったんだ。
皇帝「それとも、かの女と我が言葉を交わすのを見て、貴様まで同じ場所へ上がったつもりか?」
呼吸が浅くなった。
確かに、見ていた。
女王は、黙っていろと言った。
笑うなとも言った。
皇帝は笑って受け流していた。
その記憶が、無意識に、自分の判断を濁らせていたのだ。
許されている者がいる。
だから、問いを一つ重ねる程度ならば。
そんな考えを、考えたとさえ気づかぬまま持ってしまっていた。
皇帝「下がれ」
剣聖「……はっ」
クラウスはさらに頭を下げた。
立ち上がろうとしたが、膝へすぐには力が入らなかった。
手をつき、どうにか身体を起こす。
扉までの数歩を、静かに進んだ。
背を向けてよいかと、尋ねることさえできなかった。
扉を開け、廊下へ出る。
閉めるときにも、音を立てぬよう気をつけた。
隣国の近衛が自分の顔を見て、心配そうに何か尋ねかけた。
クラウスは首を振った。
今は、何も話せなかった。
*
客舎を出ると、夜風が頬へ当たった。
庭の枝が揺れ、門の向こうには馬がいる。
遠くを歩く兵の気配も、いつものように分かった。
先ほどの部屋で潰れたのは、椅子だった。
自分ではなかった。
防げたからでも、避けたからでもない。
クラウスは手を見た。
剣を握ることなく、今も生きている。
あの場で許されたのは、下がることだけだった。
王へ伝えるべきことは定まった。
皇帝はアルディアの兵ではない。女王の護衛でもない。
自分たちの戦を、同じ高さから見てさえいない。
だが、それを都合のよい弱点として扱ってはならない。
ただ、戦場の敵として数えることも間違っている。
空を見上げた。
そこには星があった。
どこで戦をしようと、夜には頭上へあるもの。
それへ向かって、我らの争いに加わるのかと私は尋ねた。
あの問いは、それに近かったのかもしれない。
クラウスは馬へ向かった。
帰って、話さなければならなかった。
剣を抜く相手と、抜いてはならぬ相手を。
――王が、取り違えないように。




