第十二話 王は馬で行く
夜明け前の厩舎には、既に灯りが入っていた。
セラが近づくと、手綱を確かめていた厩番が振り返る。
先日、給与の礼を言った男だった。
厩番「陛下。馬はこちらに」
近衛の訓練でも乗ったことのある馬だった。
セラは首筋を撫で、鞍を確かめる。
厩番「脚が丈夫で落ち着いている馬です。もっと見栄えのする馬もおりますが」
セラ「この子がいいです。鐙をもう少し短くしていただけますか」
自分で直しかけた手を引き、厩番へ任せた。
男が調整していると、背後から声がした。
皇帝「まだ乗らぬのか?」
アシュヴァルが入口に立っていた。
黒い衣に白い外套。
荷も持たず、いつもと変わらない姿だった。
セラ「……来るのですか?」
皇帝「貴様の許しが要るか?」
セラ「いえ、人数を確かめているのです。馬も用意しておりませんし」
皇帝「我の足を、貴様が用意するつもりであったか」
言われてみれば、必要な心配とも思えなかった。
セラが黙ると、皇帝は続ける。
皇帝「ならば、一人増やしておけ」
セラは手綱を受け取り、鐙へ足を掛けた。
鞍へ腰を収めると、机で書類を前にしていたときより落ち着いた。
馬の様子を確かめ、門へ向かう。
団長と近衛六人、連絡を担う騎手二人、書記官一人が待っていた。
荷車は出さず、必要な荷はそれぞれの馬へ分けてある。
侍従長は書記官と文書を確かめ、封をした革の袋へ収めていた。
団長「街道へ出るまでは、速度を上げません。不測のことがあれば、私の指示に従っていただきます」
セラ「はい。道中の警護はお任せします」
団長の目が、セラの後ろへ向いた。
アシュヴァルを見つけたが、馬がないことについては尋ねなかった。
侍長「留守中の急ぎの報告は、宿駅を経由してお届けします。それから、現地でお召しになる衣は、袋を分けてございます」
セラ「……承知しました。お願いします」
セラは鞍に括りつけた荷を見た。
自分でまとめたときより、少し増えている。
侍女長が着替えを加えてくれたものだった。
城を振り返る。
まだ灯りの残る窓があった。
帰ってくる場所は同じでも、今は近衛として出ていくのではない。
セラ「では、参ります」
門が開いた。
一行は、まだ静かな王都へ出た。
*
外門を抜けると、団長の合図で速度が上がった。
セラは馬の動きに身体を合わせ、手綱を僅かに緩める。
道幅が広がり、馬も歩幅を伸ばしていった。
背後を確かめると、書記官が必死に鞍へ掴まっていた。
乗れないわけではないが、この速さには慣れていないらしい。
団長も気づいていた。
目が合い、セラは速度を落とした。
皇帝「ほう。もう抑えるのか」
声のした方を見て、セラは手綱を引きかけた。
アシュヴァルが横にいた。
馬には乗っていない。
足を地面から浮かせ、直立したまま、一行と同じ速さで進んでいる。
近衛「……浮いている」
団長「前を見ろ」
振り返っていた近衛が、慌てて姿勢を戻した。
皇帝は道が曲がればそのまま曲がり、馬が速度を落とせば、それに合わせていた。
石もぬかるみも避けない。
セラ「それは、滞空の魔術ですか」
皇帝「貴様らは、そう呼ぶのか」
セラ「扱える者は、ほとんどいないと聞いておりますが」
皇帝「そうか」
説明はそれで終わった。
詠唱も杖もなく、力を込めている様子さえ見えない。
セラは前を向いた。
気にはなるが、今は後ろに続く者たちの速さを確かめる方が先だった。
*
最初の宿駅へ着いたのは、昼より少し前だった。
セラは馬を降り、首筋を撫でてから手綱を渡した。
汗はかいていたが、呼吸は乱れていない。
案内された部屋には、布を敷いた机と椅子が用意されていた。
セラに続いてアシュヴァルが入ると、宿駅の責任者が立ち止まる。
旅支度でもない男を見て、セラへ顔を向けた。
セラ「こちらの御方も、ご一緒です」
アシュヴァルの前に黒い椅子が現れた。
責任者は一歩下がったが、セラが腰を下ろすと、外の者へ食事を運ぶよう声を掛けた。
温かい汁物とパン、干し肉、塩漬けの野菜が並んだ。
責任者が頭を下げる。
駅長「急なことで、十分なご用意ができず」
セラ「ありがとうございます。温かいものがあるだけで助かります」
皇帝の分を運んできた女は、入口から足取りがぎこちなかった。
アシュヴァルの側へ来ると、盆を持つ手が震え始める。
器が触れ合い、汁が縁からこぼれた。
女は慌てて盆を押さえようとしたが、かえって大きく揺らし、盆にも机にも汁をこぼした。
給仕「も、申し訳ございません!」
女はどうにか器を置いた。
汁は、最初より随分減っていた。
責任者が布を取り、女と共に机を拭く。
セラはアシュヴァルを見た。
怒るのだろうか。
作り直せと命じるかもしれない。
だが、皇帝は二人が拭き終わるのを待ち、匙を取った。
残った汁を一口飲む。
女は盆を抱えたまま、その様子を見ていた。
アシュヴァルは匙を置く。
皇帝「馳走は受け取った。下げてよい」
女はすぐには動かなかった。
給仕「……は、はい」
慌てて器を下げたが、皇帝は何も咎めなかった。
空いた場所に、白い皿と杯が現れる。
皿には見慣れない料理が載り、杯には澄んだ液体が満ちていた。
責任者も女も驚いて立ち止まった。
アシュヴァルが顔を上げると、二人は頭を下げた。
駅長「失礼いたしました」
二人が部屋を出てから、セラは尋ねた。
セラ「初めから、ご自分で用意できたのですね」
皇帝「見れば分かるであろう」
セラ「では、なぜ一口召し上がったのですか?」
皇帝「差し出されたからだ」
アシュヴァルは自分の料理を食べ始めた。
給仕を気遣ったとも、宿駅の食事を褒めたとも言わなかった。
セラも汁物へ手を戻した。
塩が利いていて、温かい。
皇帝の皿からは別の香りがした。
同じ部屋で食事をしていても、この男は自分たちと同じ旅をしているわけではなかった。
*
午後、空の荷車三台とすれ違った。
幌は畳まれ、荷台には縄と敷物だけが残っている。
御者たちは近衛に気づき、道の端へ寄せた。
セラ「一度、止めてもよいでしょうか?」
団長が合図を出した。
セラは少し距離を置いて馬を止め、御者へ尋ねる。
セラ「関所から、お戻りですか?」
御者「はい。そうですけど」
セラ「荷は、売れたのでしょうか?」
御者「……あぁ、荷は途中で手放しました」
セラ「それは、予定の取引先ではなく?」
御者「はい。待っている間の出費がかさんで、これ以上は待てませんでしたので」
安く売って帰る者がいると、報告でも読んだ。
その一人が目の前にいた。
帰れば、損をした理由を取引先や家族へ話さねばならないのだろう。
セラ「向こうの関所では、何か言われましたか?」
御者「本国の許可が要る、こちらでは分からんと。何度聞いても同じでした」
隣の御者も口を開いた。
御者「はぁ、お役人様とは何度も話しましたよ。ですが、ずっーとそれです」
言ってから、慌てて頭を下げる。
御者「あ、失礼を……」
セラ「構いません。他の方々も、お戻りに?」
御者「待てる者は、今も待っております。私たちは、もう……」
男は言葉を止めた。
セラも、それ以上尋ねなかった。
セラ「お話、ありがとうございます」
道を空けると、荷車が進み始めた。
今から通行が再開されても、この人たちの損がなくなるわけではない。
セラは手綱を取り直した。
セラ「行きましょう」
*
一日目の宿へ着くと、書記官は近衛に支えられて馬を降りた。
セラも脚が張っていたが、彼の顔色はもっと悪かった。
セラ「大丈夫ですか」
書記「問題ございません」
セラ「少し休んでください。文書の確認は後でもいいので」
書記「いえ、封と冊数だけ先に確かめさせてください。お預かりした大事なものですので」
男は革の袋を抱え直した。
その仕事を任せるために、同行してもらったのだ。
セラは頷いた。
セラ「では、終わったら休んでください。明日も乗っていただくことになりますから」
書記「承知いたしました」
書記官が建物へ入ると、団長が翌日の道を説明した。
坂の多い区間があり、今日と同じようには進めないという。
団長「急ぐあまり、一人だけ先へ出ることのないように」
セラ「……はい」
団長「陛下が勝手に先へ行かれれば、護衛も分けねばなりませんので」
セラ「分かりました。行程はお任せします」
自分と近衛だけなら、と考えたことを見抜かれた気がした。
書記官がいなければ、現地で記録を確かめられない。
自分だけ早く着いても、できることは限られていた。
*
その夜、セラは部屋で地図を広げていた。
侍女長が用意した衣へ着替えると、ようやく汗の冷たさがなくなった。
扉が叩かれた。
返事をすると、アシュヴァルが入ってくる。
机の向かいへ黒い椅子を出し、そこへ座った。
ただでさえ小さな部屋が、さらに狭くなった。
皇帝「明日は、どこまで進む」
セラ「予定どおりなら、関所へ」
皇帝「ならば、何をそこまで眺めておる」
セラ「道と、着いてから確かめることを整理しています」
机には、聞くべきことを書いた紙もあった。
通行を止めた命令。
再開に必要な条件。
商隊の荷と、待つ間に不足しているもの。
皇帝「貴様が先に行けば、早く着くのであろう?」
セラ「私だけ着いても、細かな取り決めをその場で確かめられません。書記官も必要です」
皇帝「そんなもの、貴様が覚えておればよかろう」
セラ「覚え切れていません」
アシュヴァルが笑った。
セラはペンを置いた。
セラ「警護も団長に任せています。私だけ先へ出れば、一行を分けなければなりません」
皇帝「ふむ」
セラ「だから、皆と行きます」
皇帝は朝から同じ姿だった。
疲れた様子も、脚を休める必要もない。
宿の食事が合わなければ、自分で別のものを出せる。
セラ「あなたは楽でいいですね」
皇帝「ならば、貴様もそうなればよかろう」
セラは呆れた。
この男には、それで済む話なのだろう。
今の自分には、馬も、団長も、書記官も必要だった。
皇帝「行くと決めたのであれば、さっさと寝よ。明日、貴様が遅れては話にならぬぞ」
セラは地図を畳んだ。
その点には言い返せなかった。
セラ「おやすみなさい」
皇帝「うむ」
皇帝は動かなかった。
セラが見ても、そのまま座っている。
セラ「……今から寝ますので、一人にしてください」
皇帝「初めから、そう申せ」
椅子ごと姿が消えた。
セラは灯りを消し、寝台へ横になった。
脚が痛んだが、明日も乗らなければならない。
目を閉じると、昼間すれ違った空の荷車を思い出した。
*
その夜、アルディア側の関所では、責任者が商隊の一覧を直していた。
帰った者の名を消し、新たに来た者を書き加える。
通行再開の知らせは、まだなかった。
王都から求められた報告は送ってある。
次に届くのは、隣国への抗議か、商人への支援を命じる書状か。
責任者は筆を置き、窓の外を見た。
待ち続ける商人たちの焚き火が、まだ幾つも燃えている。
翌日、その道を新王が来ることを、彼はまだ知らなかった。




