後編 ――刃の誓い――
初夏の夜。渋谷・円山町の外れにある、閉店したバーの奥。
薄暗いカウンターの向こうで、葉山はグラスの氷を指で回していた。
向かいに座る男は、白い特攻服の袖をまくり、腕に刻まれたタトゥーを無意識にさすっている。
【魔打羅 一番隊 隊長格】
猪口潤也
――強さを守るために、守るべきものを差し出した男。
「松嶋雅也ってガキが、最近好き放題やってます」
猪口の声は、わずかに硬かった。
「最近、転校生とつるみ始めて、ますます手がつけられねぇ。このまま放っておけば、いずれ魔打羅の看板に泥を塗る。……葉山さん。あのガキを、始末してほしいんです」
葉山はグラスを置いた。
「お前がやればいいだろ」
「……俺がやって、万が一負けたら、一番隊の面子が丸潰れです」
「なるほどな」
葉山は笑った。
その笑みに、猪口は背筋が冷えるのを感じた。
「いいぜ。あのチャンピオンとは、もう一度遊んでやりてぇと思ってたところだ。ただし――」
葉山の目が、猪口を射抜いた。
「タダってわけにはいかねぇ。お前の女、郁美っていったか。あいつを寄越せ」
猪口の手が止まった。
「……それは」
「嫌ならいい。この話はなしだ。お前が自分であのガキとやり合えばいい」
沈黙が落ちた。
グラスの氷が、からん、と溶けて鳴る。
猪口の脳裏に、郁美の顔が浮かんだ。
自分のバイクの後ろで、風を受けて笑っていた顔。「潤也」と呼ぶ、少しかすれた声。
だが同時に、魔打羅の中で積み上げてきたものが頭をよぎる。
序列。看板。面子。
あのガキに負ければ、すべてを失う。
猪口は、ゆっくりと口を開いた。
「……分かりました」
自分の声とは思えないほど、乾いた声だった。
葉山は満足げにグラスを掲げた。
「交渉成立だ」
店を出た猪口は、路地の壁に拳を叩きつけた。
何度も、何度も。拳の皮が裂け、血が壁を汚しても、止められなかった。
それでも、言葉を取り消しに戻ることはしなかった。
それから、ひと月が過ぎた。
夏休みを目前にした放課後。校門を出た雅也の前に、二人組の男が立ちふさがった。
「松嶋雅也だな。葉山さんからの伝言だ」
その名前を聞いた瞬間、左肩の傷が、ずきりと疼いた。
「今夜零時、渋谷川沿いの廃工場。一人で来い」
「……行かねぇって言ったら」
男は、薄く笑った。
「お前が来なきゃ、女が一人、壊れるだけだ」
「女? 誰のことだよ」
「来れば分かる」
男たちは、それだけ言って去っていった。
雅也はその場に立ち尽くした。
知らない女だ。自分には関係ない。そう思おうとした。
だが、足が震えていた。
あの夜の、焼けるような痛み。雨の匂い。アスファルトの冷たさ。
怖い。
正直に言えば、行きたくなかった。
――それでも。
ここで行かなければ、自分はこの先もずっと、魔打羅のバイクの音から逃げ続ける。
自分のせいで誰かが壊れるのを、見て見ぬふりをして生きていくことになる。
それだけは、嫌だった。
「どうした、雅也。顔色悪ぃぞ」
背後から、裕也の声がした。
「……なんでもねぇよ」
雅也は、無意識に左肩をさすっていた。
その仕草を、裕也は黙って見ていた。
深夜零時。渋谷川沿いの廃工場。
錆びたシャッターの隙間から、雅也は中へ足を踏み入れた。
裸電球がひとつ、天井からぶら下がっている。その下に、葉山がいた。周りには十人を超える取り巻き。
そして少し離れた場所に、白い特攻服の男――猪口が、壁にもたれて立っていた。
「来たか、チャンピオン。逃げなかったのは褒めてやるよ」
葉山が顎をしゃくると、取り巻きの一人が、奥から何かを引きずってきた。
女だった。
まだ若い。高校生くらいだろうか。
だが、その姿は見るに堪えなかった。
乱れた髪。腫れ上がった頬。破れた服。手首には、縛られた痕が赤く残っている。
何より、その目に光がなかった。
雅也は息を呑んだ。
壁際の猪口が、視線を床に落としたまま、拳を握りしめている。
「紹介してやるよ。水城郁美。そこの猪口の女だ。……いや、だった、か」
取り巻きたちが、下卑た笑い声を上げた。
郁美の肩が、びくりと震えた。
ゆっくりと顔を上げ、猪口のほうを見る。猪口は、目を合わせられなかった。
郁美の唇が、かすかに動いた。
「……もう、私は」
その声は、ひび割れていた。
「汚れてしまった」
次の瞬間、郁美は床に転がっていた果物ナイフをつかんだ。
刃先を、自分の喉元へ向ける。
誰も動けなかった。
取り巻きたちも、猪口も。
ただ一人、雅也だけが、床を蹴っていた。
刃が肌に届く寸前、雅也の手が郁美の手首をつかんだ。
「離して……っ!」
「離さねぇ」
郁美がもがく。雅也は手首をつかんだまま、まっすぐに彼女の目を見た。
「あんたは汚れてなんかいねぇ」
郁美の動きが、止まった。
「汚したのは、こいつらだ」
雅也の声は、震えていた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。
郁美の指から、力が抜けていく。果物ナイフが床に落ち、乾いた音を立てた。
郁美はその場に崩れ落ち、声を殺して泣き始めた。
雅也は、壁際の猪口を振り返った。
「てめぇ……」
猪口は、顔を上げなかった。
「女一人守れねぇのかよ。それでも魔打羅の隊長かよ!」
猪口の肩が揺れた。だが、何も言い返さなかった。
雅也はそれ以上、猪口を責めなかった。
ゆっくりと、葉山のほうへ向き直る。
すべての元凶は、目の前で笑っているこの男だ。
「……葉山」
左肩の傷が、焼けるように疼いていた。
膝が、かすかに震えている。
怖い。
あの夜と同じように、心臓が喉元で暴れている。
それでも、雅也は一歩、前へ出た。
――怖ぇよ。
――でも、今ここで逃げたら、俺は一生、自分を許せねぇ。
「タイマンだ。今度は、最後まで立っててやる」
葉山の目が、愉快そうに細められた。
「いい目になったじゃねぇか、チャンピオン」
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松嶋雅也 VS 葉山
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あの夜と同じように、雅也から仕掛けた。
だが、もう道場の型ではなかった。
左の刻み突きで顔面を狙い、葉山がのけぞった瞬間に、右のローキックで膝を刈る。体勢が崩れたところへ、腹へ膝蹴り。
ルールのない場所で戦うための空手。この数か月、夜の街で何度も殴り合いながら、雅也の体に刻み込まれたものだった。
葉山が、わずかに目を見開いた。
「……覚えたじゃねぇか」
葉山の反撃。髪をつかもうとする腕を、雅也は内側から払いのけた。
頭突きが来る。首をひねって額で受け流し、そのまま葉山の顎へ右の掌底を叩き込む。
葉山がたたらを踏んだ。
取り巻きたちのざわめきが、工場の壁に反響する。
だが葉山は、口の端の血を舌で舐め取ると、低く笑った。
「おい、お前ら。見てるだけでいいのか?」
その一言で、取り巻きたちが一斉に動いた。
十人以上が、雅也を取り囲む。
背後から鉄パイプが振り上げられる気配がした。
――まずい。
その瞬間だった。
錆びたシャッターが、外から蹴破られた。
「相棒置いて、一人で楽しんでんじゃねぇよ」
月明かりを背に、裕也が立っていた。
「裕也……!? なんで」
「お前、肩さすってたろ。あれ、ろくでもねぇこと考えてる時の顔だ」
裕也は首を鳴らし、取り巻きたちを見渡した。
「雑魚は俺が片付ける。お前は、ボスだけ見てろ」
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雨宮裕也 VS 葉山の取り巻きたち
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裕也が突っ込んだ。
鉄パイプを振り上げた男の懐に潜り込み、顎へアッパー。崩れ落ちる男の体を盾にして、二人目の拳を受け止める。三人目の腹へ前蹴り。
だが、相手の数が多すぎた。
背後から羽交い締めにされ、裕也の動きが一瞬止まる。正面の男が、拳を振りかぶった。
その拳を、横から別の拳が叩き落とした。
白い特攻服。
「……猪口!?」
猪口は、羽交い締めにしていた男の顔面に肘を叩き込み、裕也を解放した。
そして、工場中に響く声で叫んだ。
「俺が、郁美を売った!」
取り巻きたちの動きが止まった。
床に崩れていた郁美が、ゆっくりと顔を上げる。
「てめぇの立場を守るために、あいつを葉山に差し出した。……それは、一生消えねぇ罪だ」
猪口の声が、震えていた。
「だから、せめて――今だけは、こっち側で拳を振らせろ」
猪口は次の男へ殴りかかった。その拳には、迷いがなかった。
郁美は、その背中を見ていた。何も言わなかった。
ただ、その目から涙がこぼれ続けていた。
その時。
工場の外から、地鳴りのような排気音が近づいてきた。
KAWASAKIゼファーのヘッドライトが、壊れたシャッターの隙間から工場内を白く照らし出す。
バイクが、そのまま工場の中へ乗り込んできた。
【魔打羅 二番隊】
大木和也
――誰の犬にもならない男。
エンジンを切った大木は、ヘルメットを脱いで、工場の惨状を見渡した。
「なんだなんだ。魔打羅の面汚しが、面白そうな喧嘩してんじゃねぇか」
「大木……! てめぇ、何しに来やがった!」
葉山の取り巻きが叫ぶ。大木は鼻で笑った。
「通りかかっただけだ。混ぜろよ」
言うが早いか、大木は一番近くにいた取り巻きの顔面に拳を叩き込んだ。
そのまま流れるように、隣にいた裕也にも裏拳を見舞う。
「痛ってぇ!? おい、俺は敵じゃねぇだろ!」
「知らねぇよ。俺の前に立ってる奴は全員殴る」
「ふざけんなこの野郎!」
裕也が殴り返す。大木が笑いながら受け止め、さらに背後の取り巻きを蹴り飛ばした。
敵も味方もない。
ただ、喧嘩そのものを楽しんでいる男がそこにいた。
だが、そのおかげで、取り巻きたちの包囲は完全に崩れていた。
工場の中央で、雅也と葉山だけが向かい合っていた。
周囲の乱闘の音が、遠くに聞こえる。
葉山の顔から、もう笑みは消えていた。
その右手が、ジャケットの内側へ滑り込む。
銀色の光。
あの夜と同じナイフだった。
雅也の左肩が、激しく疼いた。
呼吸が浅くなる。指先が冷たくなる。
――逃げたい。
だが雅也の視界の端には、床にうずくまる郁美の姿があった。
あのナイフで、この男は、何人の人間を怯えさせてきたのか。
葉山が踏み込んだ。刃が、まっすぐ雅也の腹を狙ってくる。
雅也は、逃げなかった。
半歩、斜め前へ。刃が学生服の脇腹を裂く。
かまわず、葉山の手首を両手でつかんだ。
空手の技ではない。柔道の技でもない。
ただ、二度と刃を振らせないという意思だけで、つかんだ。
「――二度目は、ねぇんだよ」
手首を思い切りひねり上げる。葉山の指からナイフがこぼれ落ちた。
雅也はそれを、遠くの暗がりへ蹴り飛ばした。
そこからは、一方的だった。
正拳突きが、葉山の鼻を砕く。
中段回し蹴りが、肋骨にめり込む。
膝蹴りが、腹をえぐる。
怒りが、雅也の体を突き動かしていた。
郁美の光を失った目。
猪口の震える声。
あの雨の夜、駐車場に一人取り残された自分。
そのすべてを、拳に込めて叩き込んだ。
葉山が、膝から崩れ落ちた。
血まみれの顔で、両手を前に突き出す。
「ま、待て……悪かった……! もう、やめてくれ……!」
雅也の拳が、一瞬だけ止まった。
だが、その脳裏に、郁美の姿がよぎった。
「……郁美さんも、そう言ったんじゃねぇのか」
葉山の顔が、凍りついた。
「やめてくれって。何度も、何度も。……てめぇは、やめたのかよ」
葉山は、答えられなかった。
雅也は、葉山の胸ぐらをつかんで無理やり立たせた。
腰を落とし、右拳を下から突き上げる。
渾身の右アッパー。
拳が、葉山の顎を真下から打ち抜いた。
骨の砕ける鈍い感触が、雅也の拳に伝わってくる。
葉山の体が宙に浮き、そのまま仰向けにコンクリートの床へ叩きつけられた。
動かなかった。
気づけば、工場の中は静まり返っていた。
取り巻きたちは全員床に転がり、残った数人は、倒れた葉山の姿を見て顔面を蒼白にしている。
「……嘘だろ。葉山さんが……」
魔打羅の初代特攻隊長。
渋谷で誰も逆らえなかった男が、十四歳の少年の拳の前に沈んでいた。
雅也は、荒い息をついたまま、郁美のもとへ歩み寄った。
学ランを脱ぎ、郁美の肩にそっとかける。
郁美は、びくりと体を震わせた。雅也は、それ以上近づかなかった。
「……もう、大丈夫だ」
郁美はしばらく、何も言わなかった。
やがて、学ランの襟を両手でぎゅっと握りしめ、顔を伏せたまま、小さく呟いた。
「……ありがとう」
それは、猪口ではなく、雅也にだけ向けられた言葉だった。
猪口は、少し離れた場所に立っていた。
郁美に近づこうとして、足を止める。近づく資格がないことを、誰よりも本人が分かっていた。
猪口は郁美から目を逸らし、雅也の前に歩み出た。
「……悪かったな」
低く、かすれた声だった。
「俺の弱さのせいで、お前を巻き込んだ。郁美にしたことは、どれだけ詫びても許されねぇ。それは分かってる」
猪口は、右手を差し出した。
「だが、お前には借りができた。この借りは、いつか必ず返す」
雅也は、その手をしばらく見つめていた。
この男がしたことを、許したわけではない。
それでも、最後に拳を振るったこの男の背中を、雅也は見ていた。
雅也は、その手を握った。
裕也が、口の端の血を拭いながら隣に並ぶ。
「まったく。転校してひと月で、初代特攻隊長とやり合う羽目になるとはな」
「頼んでねぇよ」
「頼まれなくても来るのが、相棒だろ」
雅也は、何も言い返さなかった。言い返す言葉が見つからなかった。
工場の入り口で、ゼファーのエンジンがかかる音がした。
大木が、ヘルメットを片手にこちらを振り返っていた。
「おい、大木。お前、結局何しに来たんだよ」
裕也が呆れたように言う。大木は答えず、雅也と裕也、そして猪口を順に眺めた。
「……お前ら、面白ぇ絆持ってんな」
それだけ言うと、大木はヘルメットをかぶり、排気音を響かせて夜の闇へ消えていった。
敵なのか、味方なのか。
この時の雅也には、まだ分からなかった。
夜明け前。渋谷川にかかる小さな橋の上。
雅也と裕也は、欄干にもたれて、白み始めた空を眺めていた。
二人とも、顔は腫れ上がり、服は血と泥でぼろぼろだった。
雅也は、左肩の傷跡にそっと触れた。
ずっと、この傷が嫌いだった。
この傷を見るたびに、あの雨の夜を思い出した。震えて、何もできなかった自分を思い出した。
これは、逃げた証だった。
――でも、今夜からは違う。
「なあ、裕也」
「あん?」
「俺さ、今夜もずっと怖かったんだよ。葉山の前に立った時、足、震えてた」
裕也は、少し驚いたように雅也を見た。
「怖ぇのは消えなかった。でも、あそこで逃げたら、俺は一生自分を許せねぇと思った」
雅也は、傷跡を指でなぞった。
「この傷は、もう逃げた証じゃねぇ。今夜から、逃げなかった証にする」
それは、誰に聞かせるためでもない、雅也自身への誓いだった。
二度と、目の前で誰かが壊されるのを見過ごさない。
怖くても、前に出る。
刃が刻んだ傷に、雅也は、そう誓った。
裕也は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑って、雅也の背中を叩いた。
「……何、ニヤけてんだよ」
「ニヤけてねぇよ」
「ニヤけてたって」
東の空から、朝日が昇り始めていた。
オレンジ色の光が、渋谷のビル群を少しずつ染めていく。
その光の中で、二人の少年は、声を上げて笑った。
それから、およそ一年後。
中学三年生になった雅也は、魔打羅一番隊隊長・庄野博樹と対峙することになる。
その時、雅也の隣に裕也はいない。
あの夜、橋の上で笑い合った相棒は、春に神奈川へ引っ越していった。
だが、雅也はもう、一人ではなかった。
そしてあの夜、雅也と拳を交えた男たちは――
猪口も、大木も、裕也も――それぞれの形で、もう一度、雅也のもとへ集うことになる。
(つづく)




