番外編「刃の誓い」 前編 ――相棒――
歓声は、自分に向けられたものではない気がした。
全国少年空手選手権、中学生の部・決勝。
相手の中段突きを半歩で外し、松嶋雅也の右足が弧を描く。上段回し蹴りが相手の側頭部を捉えた瞬間、主審の旗が高く上がった。
「一本! それまで!」
会場がどよめく。
十三歳の少年は、礼をしてから顔を上げた。
観客席には、選手の名前を書いた横断幕がいくつも揺れている。カメラを構える父親、泣きながら手を振る母親、肩を叩き合う道場の仲間たち。
その中に、雅也を待っている顔はひとつもなかった。
表彰台で受け取ったトロフィーは、思っていたよりずっと重く、ずっと冷たかった。
「優勝おめでとう、松嶋くん。お母さんは?」
大会の係員に何気なく聞かれて、雅也は短く答えた。
「仕事っす」
嘘ではない。母一人で息子を育てるには、日曜日も休んでいられなかった。それを恨んだことはない。
ただ、帰り道の渋谷のスクランブル交差点で、トロフィーを抱えたまま信号を待っていると、なぜだか自分だけが透明になったような気がした。
アパートの部屋は暗かった。
テーブルには、母の字で書かれたメモが一枚。
『ごめんね、今日も遅くなる。ご飯は冷蔵庫に入ってるから』
雅也はトロフィーを棚の上に置き、しばらく眺めてから、電気を消した。
日本一になった夜。
この部屋で、それを知っているのは自分だけだった。
強くなった拳は、行き場を失った。
秋が来るころには、雅也は道場に顔を出さなくなっていた。代わりに足が向くのは、夜の渋谷だった。
センター街でぶつかった高校生。道玄坂で絡んできた大学生。肩で風を切って歩く年上の不良たち。
誰と殴り合っても、雅也は負けなかった。
勝つたびに、胸のどこかが少しだけ軽くなる。
だが朝になれば、その軽さは跡形もなく消えている。だからまた、夜の街へ出る。
その繰り返しの中で、ひとつの名前を耳にした。
「渋谷で一番ヤバいのは誰かって? そりゃ魔打羅だよ。中でも葉山って人は別格だ。あの人に喧嘩売った奴は、みんな病院行きか、渋谷からいなくなってる」
雅也は、その名前を胸の奥で繰り返した。
葉山。
一番強い奴を倒せば、この空っぽの感じも埋まるのかもしれない。
十三歳の少年は、本気でそう信じていた。
十一月の夜だった。
宇田川町の奥、雑居ビルの裏手にある駐車場。改造バイクのエンジン音と、男たちの笑い声が反響している。
その中心に、一人の男がいた。
壁にもたれ、煙草をくゆらせている。騒ぐ取り巻きの中で、その男だけが静かだった。静かなのに、その場の空気をすべて握っている。
【魔打羅 初代特攻隊長】
葉山
――笑いながら、刃を抜ける男。
「あんたが葉山か」
雅也が声をかけると、駐車場の空気が止まった。
取り巻きの一人が、腹を抱えて笑い出す。
「おいおい、ガキが迷い込んできたぞ。ママのところに帰りな」
雅也は男を無視し、まっすぐ葉山だけを見た。
「俺とタイマン張れ」
葉山は煙草を地面に落とし、ゆっくりと靴底でもみ消した。
「名前は」
「松嶋雅也」
「ああ……聞いたことあるな。空手で日本一になったガキだろ」
葉山の口元が、わずかに上がった。
「いいぜ。来いよ、チャンピオン」
━━━━━━━━━━━━━━━━
松嶋雅也 VS 葉山
━━━━━━━━━━━━━━━━
先に動いたのは雅也だった。
踏み込みと同時に、左の刻み突き。続けて右の逆突きを脇腹へ。手応えはあった。大人でも膝をつく急所を、正確に打ち抜いた。
だが、葉山は倒れなかった。
それどころか、笑っている。
「いい突きだ。道場ならな」
次の瞬間、雅也の視界が揺れた。
髪をつかまれ、顔面に膝が突き刺さる。鼻の奥で、鉄の味が弾けた。
構えを取り直そうとした雅也の胸ぐらを、葉山がつかむ。額が飛んできた。頭突き。目の前に白い火花が散る。
審判はいない。止める者もいない。
ルールのない場所で、雅也の空手は半分も役に立たなかった。
それでも、雅也は倒れなかった。
歯を食いしばり、渾身の上段蹴りを放つ。葉山の頬をかすめ、男の顔から笑みが消えた。
「……へぇ」
葉山の右手が、ジャケットの内側に滑り込んだ。
銀色の光が、夜を裂いた。
左肩に、焼けた鉄を押しつけられたような熱が走る。
一拍遅れて、それが痛みだと分かった。
雅也は自分の肩を見下ろした。
学生服の布地が裂け、そこから赤いものがじわじわと広がっていく。
膝から力が抜けた。
アスファルトに手をつく。指先が、自分の意思とは関係なく震えていた。
――なんだ、これ。
喧嘩で殴られたことは何度もある。痛いと思ったこともある。
だが、これは違う。
心臓が、喉元で暴れている。
呼吸の仕方が分からない。
逃げたい、と思った。
生まれて初めて、雅也は「怖い」という感情を知った。
葉山はナイフの血を雅也の肩で拭い、しゃがみこんで耳元で囁いた。
「覚えとけ、チャンピオン。これが渋谷の喧嘩だ。ルールのある場所に帰んな」
エンジン音が遠ざかっていく。
気づけば、冷たい雨が降り始めていた。
雅也は駐車場に一人取り残され、肩を押さえたまま、声も出せずに震えていた。
傷は、ひと月ほどでふさがった。
母には「転んで、割れたガラスで切った」と言った。母は何かを言いかけて、結局「気をつけなさいよ」とだけ言った。
左肩には、白く引きつれた傷跡が残った。
それからも雅也は夜の街へ出た。喧嘩も続けた。
ただ、魔打羅のバイクの音が聞こえると、無意識に道を変えるようになった。
そんな自分が、何よりも許せなかった。
棚の上のトロフィーには、薄く埃が積もっていた。
春が来た。
中学二年に進級した始業式の朝。教室の窓の外では、校庭の桜が風に散っていた。
「今日からこのクラスに転校生が入る。入れ」
担任の声に促されて、一人の少年が教室に入ってきた。
ポケットに両手を突っ込んだまま、黒板の前で足を止める。教室を見渡すその目つきに、何人かの生徒が視線を逸らした。
「雨宮裕也。よろしく」
それだけ言って、少年は窓際の空いた席へ歩いていく。
すれ違いざま、一瞬だけ雅也と目が合った。
雅也は、すぐに分かった。
こいつは、同じ匂いがする。
昼休みの廊下で、それは起きた。
角を曲がった瞬間、肩と肩が正面からぶつかった。互いに一歩も引かず、その場で足を止める。
「痛ぇな」
「ぶつかってきたのはそっちだろ」
周りの生徒たちが、波が引くように距離を取った。
雅也と裕也は、至近距離で睨み合う。
どちらも目を逸らさない。
どちらも謝らない。
先に口を開いたのは裕也だった。
「放課後、体育館裏」
「上等だ」
放課後の体育館裏には、二人のほかに誰もいなかった。
遠くで、野球部の掛け声とバットの音が響いている。
裕也は学ランを脱いで、フェンスに引っかけた。
「一応聞いとく。お前、喧嘩で負けたことは?」
雅也の左肩が、かすかに疼いた。
「……ねぇよ」
嘘だった。
だが、その嘘を見抜かれたくなかった。
「奇遇だな。俺もだ」
━━━━━━━━━━━━━━━━
松嶋雅也 VS 雨宮裕也
━━━━━━━━━━━━━━━━
同時に踏み込んだ。
雅也の右正拳が裕也の頬を打つ。同じタイミングで、裕也の右フックが雅也のこめかみを捉えた。
二人とも、一歩も下がらない。
雅也が中段蹴りを叩き込む。裕也は腹で受け止め、そのまま足をつかんで引き寄せた。至近距離から顎へ頭突き。
雅也はぐらつきながらも、裕也の襟をつかんで大外刈りで地面に叩きつけた。
裕也がすぐに跳ね起きる。口の端から血を流しながら、笑っていた。
「お前、空手と柔道どっちもやってんのか」
「お前こそ、どこで覚えたんだよ、その喧嘩」
「どこでもねぇよ。全部、路地裏だ」
再び拳が交差する。
殴る。殴られる。蹴る。蹴られる。
鼻血が飛び、拳の皮がめくれ、膝が笑い始めても、どちらも止まらなかった。
不思議な感覚だった。
これまでの喧嘩では、相手を倒すことしか考えていなかった。
だが今、雅也は殴られるたびに、相手の拳の重さを感じていた。こいつも何かを抱えて、こいつも何かにぶつけている。そんな拳だった。
最後は、ほぼ同時だった。
雅也の右拳が裕也の顎を打ち抜き、裕也の右拳が雅也の頬にめり込んだ。
二人は同時に膝をつき、同時に地面へ両手をついた。
荒い息だけが、体育館の壁に響いている。
しばらくして、裕也が仰向けに転がった。
「……引き分け、だな」
「……ふざけんな。俺のほうが、一発多く入れた」
「数えてたのかよ」
裕也が笑った。釣られて、雅也も笑ってしまった。
殴り合ったばかりの相手と並んで空を見上げる。夕焼けが、やけに眩しかった。
「なあ、松嶋。お前、なんでそんなに喧嘩してんだ」
雅也は答えなかった。
答えるつもりもなかった。
なのに、口が勝手に動いた。
「……家に帰っても、誰もいねぇんだよ」
裕也は黙って聞いていた。
「空手で日本一になった時もさ、誰も見に来なかった。母ちゃんは仕事で、親父はいねぇ。トロフィーもらって家に帰っても、暗い部屋があるだけだ」
言葉が止まらなかった。
「だから喧嘩した。強い奴を探して、ぶん殴って、それで少しは気が晴れると思ってた。……失うもんなんて、何もねぇんだよ。俺には」
風が吹いて、桜の花びらが二人の上を流れていった。
裕也は起き上がり、雅也の顔をまっすぐに見た。
「それ、強さでもなんでもねぇぞ」
「……あ?」
「失うもんがねぇってのは、強いんじゃねぇ。ただの諦めだ」
雅也は言い返そうとして、言葉が出なかった。
図星だった。
裕也は立ち上がり、膝の土を払うと、雅也に右手を差し出した。
「失うもんが一つくらいあってもいいんじゃねぇか」
雅也は、差し出された手を見つめた。
拳の皮がめくれて、血がにじんでいる。自分の手と、同じだった。
「相棒になろうぜ、雅也」
初めて、下の名前で呼ばれた。
雅也はしばらく黙っていたが、やがてその手をつかんだ。裕也が力強く引き上げる。
「……裕也、だっけか」
「覚えとけよ。これから毎日呼ぶことになるんだからな」
その日、雅也は久しぶりに、まっすぐ家へ帰った。
暗い部屋の電気をつけ、棚の上のトロフィーの埃を、指で拭った。
左肩の傷は、もう疼かなかった。
同じ夜。
渋谷の片隅で、白い特攻服の男が、苦い顔で煙草をくわえていた。
「松嶋雅也、か……」
あのガキの名前は、じわじわと渋谷の街に広がり始めている。
このまま放っておけば、いずれ必ず、魔打羅の序列を揺るがす存在になる。
男は、夜の闇に向かって煙を吐いた。
その決断が、一人の女の人生を壊すことになると、男はまだ本当の意味では分かっていなかった。
(後編へつづく)




