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真心の狼  作者: 真壁 仁
4/6

番外編「刃の誓い」 前編 ――相棒――

歓声は、自分に向けられたものではない気がした。


 全国少年空手選手権、中学生の部・決勝。

 相手の中段突きを半歩で外し、松嶋雅也の右足が弧を描く。上段回し蹴りが相手の側頭部を捉えた瞬間、主審の旗が高く上がった。


「一本! それまで!」


 会場がどよめく。

 十三歳の少年は、礼をしてから顔を上げた。


 観客席には、選手の名前を書いた横断幕がいくつも揺れている。カメラを構える父親、泣きながら手を振る母親、肩を叩き合う道場の仲間たち。


 その中に、雅也を待っている顔はひとつもなかった。


 表彰台で受け取ったトロフィーは、思っていたよりずっと重く、ずっと冷たかった。


「優勝おめでとう、松嶋くん。お母さんは?」


 大会の係員に何気なく聞かれて、雅也は短く答えた。


「仕事っす」


 嘘ではない。母一人で息子を育てるには、日曜日も休んでいられなかった。それを恨んだことはない。

 ただ、帰り道の渋谷のスクランブル交差点で、トロフィーを抱えたまま信号を待っていると、なぜだか自分だけが透明になったような気がした。


 アパートの部屋は暗かった。

 テーブルには、母の字で書かれたメモが一枚。


『ごめんね、今日も遅くなる。ご飯は冷蔵庫に入ってるから』


 雅也はトロフィーを棚の上に置き、しばらく眺めてから、電気を消した。


 日本一になった夜。

 この部屋で、それを知っているのは自分だけだった。


 強くなった拳は、行き場を失った。


 秋が来るころには、雅也は道場に顔を出さなくなっていた。代わりに足が向くのは、夜の渋谷だった。


 センター街でぶつかった高校生。道玄坂で絡んできた大学生。肩で風を切って歩く年上の不良たち。

 誰と殴り合っても、雅也は負けなかった。


 勝つたびに、胸のどこかが少しだけ軽くなる。

 だが朝になれば、その軽さは跡形もなく消えている。だからまた、夜の街へ出る。


 その繰り返しの中で、ひとつの名前を耳にした。


「渋谷で一番ヤバいのは誰かって? そりゃ魔打羅だよ。中でも葉山って人は別格だ。あの人に喧嘩売った奴は、みんな病院行きか、渋谷からいなくなってる」


 雅也は、その名前を胸の奥で繰り返した。


 葉山。


 一番強い奴を倒せば、この空っぽの感じも埋まるのかもしれない。

 十三歳の少年は、本気でそう信じていた。


 十一月の夜だった。


 宇田川町の奥、雑居ビルの裏手にある駐車場。改造バイクのエンジン音と、男たちの笑い声が反響している。


 その中心に、一人の男がいた。


 壁にもたれ、煙草をくゆらせている。騒ぐ取り巻きの中で、その男だけが静かだった。静かなのに、その場の空気をすべて握っている。


【魔打羅 初代特攻隊長】

葉山(はやま)

――笑いながら、刃を抜ける男。


「あんたが葉山か」


 雅也が声をかけると、駐車場の空気が止まった。

 取り巻きの一人が、腹を抱えて笑い出す。


「おいおい、ガキが迷い込んできたぞ。ママのところに帰りな」


 雅也は男を無視し、まっすぐ葉山だけを見た。


「俺とタイマン張れ」


 葉山は煙草を地面に落とし、ゆっくりと靴底でもみ消した。


「名前は」


「松嶋雅也」


「ああ……聞いたことあるな。空手で日本一になったガキだろ」


 葉山の口元が、わずかに上がった。


「いいぜ。来いよ、チャンピオン」


━━━━━━━━━━━━━━━━

 松嶋雅也 VS 葉山

━━━━━━━━━━━━━━━━


 先に動いたのは雅也だった。


 踏み込みと同時に、左の刻み突き。続けて右の逆突きを脇腹へ。手応えはあった。大人でも膝をつく急所を、正確に打ち抜いた。


 だが、葉山は倒れなかった。


 それどころか、笑っている。


「いい突きだ。道場ならな」


 次の瞬間、雅也の視界が揺れた。

 髪をつかまれ、顔面に膝が突き刺さる。鼻の奥で、鉄の味が弾けた。


 構えを取り直そうとした雅也の胸ぐらを、葉山がつかむ。額が飛んできた。頭突き。目の前に白い火花が散る。


 審判はいない。止める者もいない。

 ルールのない場所で、雅也の空手は半分も役に立たなかった。


 それでも、雅也は倒れなかった。

 歯を食いしばり、渾身の上段蹴りを放つ。葉山の頬をかすめ、男の顔から笑みが消えた。


「……へぇ」


 葉山の右手が、ジャケットの内側に滑り込んだ。


 銀色の光が、夜を裂いた。


 左肩に、焼けた鉄を押しつけられたような熱が走る。

 一拍遅れて、それが痛みだと分かった。


 雅也は自分の肩を見下ろした。

 学生服の布地が裂け、そこから赤いものがじわじわと広がっていく。


 膝から力が抜けた。

 アスファルトに手をつく。指先が、自分の意思とは関係なく震えていた。


 ――なんだ、これ。


 喧嘩で殴られたことは何度もある。痛いと思ったこともある。

 だが、これは違う。


 心臓が、喉元で暴れている。

 呼吸の仕方が分からない。

 逃げたい、と思った。


 生まれて初めて、雅也は「怖い」という感情を知った。


 葉山はナイフの血を雅也の肩で拭い、しゃがみこんで耳元で囁いた。


「覚えとけ、チャンピオン。これが渋谷の喧嘩だ。ルールのある場所に帰んな」


 エンジン音が遠ざかっていく。

 気づけば、冷たい雨が降り始めていた。


 雅也は駐車場に一人取り残され、肩を押さえたまま、声も出せずに震えていた。


 傷は、ひと月ほどでふさがった。


 母には「転んで、割れたガラスで切った」と言った。母は何かを言いかけて、結局「気をつけなさいよ」とだけ言った。


 左肩には、白く引きつれた傷跡が残った。


 それからも雅也は夜の街へ出た。喧嘩も続けた。

 ただ、魔打羅のバイクの音が聞こえると、無意識に道を変えるようになった。


 そんな自分が、何よりも許せなかった。


 棚の上のトロフィーには、薄く埃が積もっていた。


 春が来た。


 中学二年に進級した始業式の朝。教室の窓の外では、校庭の桜が風に散っていた。


「今日からこのクラスに転校生が入る。入れ」


 担任の声に促されて、一人の少年が教室に入ってきた。


 ポケットに両手を突っ込んだまま、黒板の前で足を止める。教室を見渡すその目つきに、何人かの生徒が視線を逸らした。


「雨宮裕也。よろしく」


 それだけ言って、少年は窓際の空いた席へ歩いていく。

 すれ違いざま、一瞬だけ雅也と目が合った。


 雅也は、すぐに分かった。

 こいつは、同じ匂いがする。


 昼休みの廊下で、それは起きた。


 角を曲がった瞬間、肩と肩が正面からぶつかった。互いに一歩も引かず、その場で足を止める。


「痛ぇな」


「ぶつかってきたのはそっちだろ」


 周りの生徒たちが、波が引くように距離を取った。

 雅也と裕也は、至近距離で睨み合う。


 どちらも目を逸らさない。

 どちらも謝らない。


 先に口を開いたのは裕也だった。


「放課後、体育館裏」


「上等だ」


 放課後の体育館裏には、二人のほかに誰もいなかった。

 遠くで、野球部の掛け声とバットの音が響いている。


 裕也は学ランを脱いで、フェンスに引っかけた。


「一応聞いとく。お前、喧嘩で負けたことは?」


 雅也の左肩が、かすかに疼いた。


「……ねぇよ」


 嘘だった。

 だが、その嘘を見抜かれたくなかった。


「奇遇だな。俺もだ」


━━━━━━━━━━━━━━━━

 松嶋雅也 VS 雨宮裕也

━━━━━━━━━━━━━━━━


 同時に踏み込んだ。


 雅也の右正拳が裕也の頬を打つ。同じタイミングで、裕也の右フックが雅也のこめかみを捉えた。

 二人とも、一歩も下がらない。


 雅也が中段蹴りを叩き込む。裕也は腹で受け止め、そのまま足をつかんで引き寄せた。至近距離から顎へ頭突き。

 雅也はぐらつきながらも、裕也の襟をつかんで大外刈りで地面に叩きつけた。


 裕也がすぐに跳ね起きる。口の端から血を流しながら、笑っていた。


「お前、空手と柔道どっちもやってんのか」


「お前こそ、どこで覚えたんだよ、その喧嘩」


「どこでもねぇよ。全部、路地裏だ」


 再び拳が交差する。


 殴る。殴られる。蹴る。蹴られる。

 鼻血が飛び、拳の皮がめくれ、膝が笑い始めても、どちらも止まらなかった。


 不思議な感覚だった。


 これまでの喧嘩では、相手を倒すことしか考えていなかった。

 だが今、雅也は殴られるたびに、相手の拳の重さを感じていた。こいつも何かを抱えて、こいつも何かにぶつけている。そんな拳だった。


 最後は、ほぼ同時だった。


 雅也の右拳が裕也の顎を打ち抜き、裕也の右拳が雅也の頬にめり込んだ。

 二人は同時に膝をつき、同時に地面へ両手をついた。


 荒い息だけが、体育館の壁に響いている。


 しばらくして、裕也が仰向けに転がった。


「……引き分け、だな」


「……ふざけんな。俺のほうが、一発多く入れた」


「数えてたのかよ」


 裕也が笑った。釣られて、雅也も笑ってしまった。

 殴り合ったばかりの相手と並んで空を見上げる。夕焼けが、やけに眩しかった。


「なあ、松嶋。お前、なんでそんなに喧嘩してんだ」


 雅也は答えなかった。

 答えるつもりもなかった。


 なのに、口が勝手に動いた。


「……家に帰っても、誰もいねぇんだよ」


 裕也は黙って聞いていた。


「空手で日本一になった時もさ、誰も見に来なかった。母ちゃんは仕事で、親父はいねぇ。トロフィーもらって家に帰っても、暗い部屋があるだけだ」


 言葉が止まらなかった。


「だから喧嘩した。強い奴を探して、ぶん殴って、それで少しは気が晴れると思ってた。……失うもんなんて、何もねぇんだよ。俺には」


 風が吹いて、桜の花びらが二人の上を流れていった。


 裕也は起き上がり、雅也の顔をまっすぐに見た。


「それ、強さでもなんでもねぇぞ」


「……あ?」


「失うもんがねぇってのは、強いんじゃねぇ。ただの諦めだ」


 雅也は言い返そうとして、言葉が出なかった。

 図星だった。


 裕也は立ち上がり、膝の土を払うと、雅也に右手を差し出した。


「失うもんが一つくらいあってもいいんじゃねぇか」


 雅也は、差し出された手を見つめた。

 拳の皮がめくれて、血がにじんでいる。自分の手と、同じだった。


「相棒になろうぜ、雅也」


 初めて、下の名前で呼ばれた。


 雅也はしばらく黙っていたが、やがてその手をつかんだ。裕也が力強く引き上げる。


「……裕也、だっけか」


「覚えとけよ。これから毎日呼ぶことになるんだからな」


 その日、雅也は久しぶりに、まっすぐ家へ帰った。

 暗い部屋の電気をつけ、棚の上のトロフィーの埃を、指で拭った。


 左肩の傷は、もう疼かなかった。


 同じ夜。


 渋谷の片隅で、白い特攻服の男が、苦い顔で煙草をくわえていた。


「松嶋雅也、か……」


 あのガキの名前は、じわじわと渋谷の街に広がり始めている。

 このまま放っておけば、いずれ必ず、魔打羅の序列を揺るがす存在になる。


 男は、夜の闇に向かって煙を吐いた。


 その決断が、一人の女の人生を壊すことになると、男はまだ本当の意味では分かっていなかった。


(後編へつづく)

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