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あげた定期券で、終電の女が俺の駅まで来られるようになった




「定期券、でございます」


ホームの端から、マチさんが言った。 白い手袋が、あの定期券を高く掲げている。


俺は跨線橋の階段を下りた。


降りきると改札があった。


シャッターが半分だけ上がっている。 「夜間点検中」の札が下がっている。 点検している人の姿はない。 改札機は全部オフだった。


俺はシャッターをくぐった。


ホームに出た。


風があった。 線路に沿って吹く風。 蛍光灯が半分だけ点いている。 点いていないほうは暗い。 暗い側のホームの端に、マチさんがいた。


紺のロングコート。 黒い長髪が風で揺れている。 白い手袋が定期券の端を撫でている。


「お待ちしておりました」


目が細くなっていた。 微笑んでいる。


「マチさん」 「はい」 「ここは緑台です」 「ええ」 「夜見坂じゃない」 「ええ」 「来れたんすね」 「ええ」


「これは、切符でございます」 「はい」 「切符を持つ者は、その区間を行き来できるのでございます」 「へえ」 「夜見坂から緑台まで。各駅停車の止まる駅のホームなら、どこへでも」 「そうなんすか」 「ええ」


「ただ、これは律さんの定期券でございます」 「はい」 「律さんが使った切符でございます」 「はい」 「使い込まれた切符ほど、よく効くのでございます」


マチさんは微笑んだ。


「期限は切れております。でも、それでいいのでございます」


マチさんは一歩近づいた。


「律さんが毎日使った区間でございます。夜見坂と緑台。往復。何十回と」 「そんなに使ってないっすよ」 「使っております」


マチさんは断言した。


「わたくしは数えておりますので」


風が吹いた。 蛍光灯がもう1つ、チカッと消えた。


「でも、改札の外には出られないんすね」 「ええ」 「ホームだけ」 「ホームだけ、でございます」


マチさんは少し俯いた。


「それでも、でございます」


顔を上げた。


「律さんの駅に来られたのでございます」


目が細くなっていた。


「すごいっすね」


俺は言った。


マチさんは少し黙った。 それから、白い手袋を口元に当てた。


笑っているらしかった。


マチさんが歩き出した。


カツン。 カツン。


俺は後ろについた。


マチさんはベンチの前で止まった。 手袋をベンチに触れた。 座面を撫でた。 指先がゆっくり動く。


「ここに座るんでございますね」 「まあ、座るっすね」 「律さんが」 「たまにっすね」 「朝は座るんでございますか」 「座れないっす。混むんで」 「混む」 「7時台は混みます」 「混む駅」


歩き出した。 カツン。 カツン。


俺はついた。


時刻表があった。 マチさんが時刻表の前に立った。 上から順に読んだ。


5時24分。


「早いのでございますね」 「始発は5時24分っす」 「5時24分」


「律さんが乗るのは」 「7時台が多いっす」 「7時」


マチさんの指が止まった。


7時12分。 7時28分。 7時41分。


「7時41分」


マチさんは時刻表から手を離さなかった。


「わたくしの時間と同じ数字」 「ああ、0時41分っすね」 「0時41分と7時41分」 「偶然っすね」 「偶然」


マチさんは繰り返した。


「偶然でございますか」 「たぶん」


ホームの反対側の端まで来た。


マチさんは振り返った。


「律さんの駅」 「はい」 「ここが、律さんの待合なのでございます」


風が止まった。


蛍光灯が全部点いた。 一斉に。 チカッ、ではなく。 フッ、と。


暗い側も明るくなった。


マチさんはホームを見渡した。 端から端まで。 もう一度。


「きれいな駅でございますね」 「普通っすね」 「普通が、きれいでございます」


3時45分。


白い手袋が止まった。


「律さん」 「はい」 「改札のほうが」


俺は振り返った。


電源が切れている。


なのに。


ガタ。


音がした。


ガタガタ。


中で何かが動いた。


切れたはずの電源の奥で、何かが動いている。


「マチさん」 「はい」 「あれ、何すか」 「……見えております」


マチさんの声が低くなった。 白い手袋が定期券を握り直した。


ガタガタガタ。


2台目も動いた。 3台目も動いた。


全部の改札機が中で鳴っている。


シャッターの外側は道路だ。 内側はホーム。 俺とマチさんはホーム側にいる。


改札の横に駅員室があった。


ガタン。


今度は椅子が倒れる音だった。


それから。


「うわあああああ!!」


男の声。 駅員室の中から。


「ひ、ひいいいい!!」


「やめろ!離せ!!離せよ!!」


ドアが開いた。


駅員が出てきた。


出てきた、というより。


落ちた。


膝から崩れた。


40代くらいの男性。 駅員の制服。 制帽が転がった。


顔が青い。 血の気が引いている。


駅員室から出て、改札の横の床を這っている。


「だ、誰か!誰かいるのか!!」


俺がいた。


「います」


「助けてくれ、あの中から――」


ガチャリ。


改札機が鳴った。 1台目。


切符投入口の蓋が開いた。


中から。


手が出た。


白い手だった。 手袋をしている。


マチさんと同じ白い手袋。


いや。 マチさんの手より細い。 もっと長い。 関節が多い。


5本の指が投入口の縁を掴んだ。


2台目の改札機。 切符投入口から、もう1本。


3台目から、もう1本。


「ひいいいいい!!」


駅員が後ずさった。 床を蹴った。


手が伸びた。


3本の白い手が、駅員の足首を掴んだ。


右足に2本。 左足に1本。


細い指が足首に巻きついた。


「離せ!!離せよ!!」


駅員が床を這った。 爪がコンクリートを削る。


手は離れない。


改札のほうへ引きずられている。


「誰か!!誰か!!」


駅員が叫んだ。 俺のほうを見た。


「あんた誰だ!!」 「宵帳です」 「なんだそれ!!関係ねえ!!助けてくれ!!」


「1人ずつなんだよ!!」


駅員が叫んだ。


「1人ずつ!!終電後の当番が1人ずつ消えてくんだ!!」 「今何人目っすか」 「俺で3人目だ!!」 「今月で3人だよ!!始末書も書けねえよ!!行方不明なんて出せねえよ!!」 「出してないんすか」 「出せるか!!駅員が消えたなんて!!」 「じゃあ今までの2人は」 「いない」 「どこに」 「改札の中だよ!!あの中だ!!朝になったらもういないんだよ!!」


俺は改札機の前に立った。


俺はしゃがんだ。


右足の1本目に手をかけた。 冷たい。 指が足首に食い込んでいる。


力を込めて引き剥がした。


パチン。


指が外れた。 手が離れた。


駅員が叫んだ。


「早く!!もう1本!!」


俺は右足の2本目に手をかけた。 引いた。 抜けない。 駅員の靴下がずれた。


パチン。


外れた。 2本目だ。


ガチャリ。


音がした。 4台目の改札機。 切符投入口の蓋が開いた。


中から白い手が出た。


床を這った。 駅員の左足のほうへ。 速い。


「増えた」 「増えたぞ!!何してんだ!!」 「剥がしてるっす」 「増えてんだよ!!」


俺は左足の手にかけた。 引いた。 手袋が滑る。 指が外れない。 力を込めた。


パチン。


外れた。


ガチャリ。


5台目の改札機。 投入口が開いた。 白い手が出た。 右足のほうへ。


俺は右足の手を剥がした。


パチン。 ガチャリ。


6台目。 投入口が開いた。 白い手が出た。 2本同時に。 1本は右足。 1本は左足。


剥がした数だけ増える。 減らない。


駅員が叫んだ。


「何で増えるんだよ!!」 「剥がすたびに出てくるっす」 「じゃあ剥がすな!!」 「でもそのままだと連れてかれますよ」 「どうすりゃいいんだよ!!」


駅員の足が改札に近づいていた。


あと2メートル。


ズルズルと。


「マチさん」


俺は振り返った。


マチさんは改札の内側に立っていた。 一歩も出ていない。 白い手袋が強く握っている。


マチさんの目が変わっていた。 微笑みではなかった。


マチさんの口が開いた。


声が変わった。


駅の声だった。


スピーカーから出る声。 人が発していないような声。 アナウンスの声。


〈まもなく、扉が閉まります〉


バタン。


全部の改札機。 一斉に。


投入口のフラップが閉まった。


金属がぶつかる音が6つ重なった。 1つの音になった。


白い手が挟まれた。


指が。 5本の指が、金属と金属の間で挟まった。


手が止まった。 動かなくなった。


それから。


引っ込んだ。


挟まれたまま、投入口の中へ。 6台全部で同時だった。


白い手が消えた。


フラップが閉まったまま。


静かになった。 風の音だけが残った。


駅員が止まった。 足首から手が離れた。 床に伏せたまま動かない。


目が閉じた。


気絶した。


胸が動いている。 息をしている。


生きている。


俺は立ち上がった。


マチさんは改札の内側にいた。


微笑んでいた。 さっきの顔に戻っていた。 静かな微笑み。


3時50分。


俺は駅員の腰の鍵束を取った。


改札機の側面に点検口がある。 鍵を差した。 回った。 開いた。


中を見た。


切符が詰まっていた。


ぎっしりと。 使い捨ての磁気切符。 何年分か分からない。 一番奥は茶色くなっている。 改札機の中は切符で埋まっていた。


「乗れなかった方々の行きたかったお気持ちでございます」


マチさんが言った。


俺はポケットからゴミ袋を出した。 45リットル。 家業で使うやつだ。


袋を広げた。


特殊清掃の手順。 異物は全部出す。


点検口に手を入れた。 切符を掻き出した。 固まっている。 剥がす。 束ごと引っ張る。


黄ばんだ切符。 茶色い切符。 行き先の印刷が消えかけた切符。


全部袋に入れた。 改札機の中が空になった。 残りの5台も同じ手順で空にした。


袋の口を縛った。 重かった。


改札に置いた。 改札機の上からマチさんに渡した。 白い手袋が受け取った。


俺はスマホを取り出した。 真壁さんに電話した。 3回目で出た。


「……もしもし」 「白洲です」 「……白洲?さっき降ろしたばっかだろ」 「緑台駅で事案でした」 「……は?」 「改札の怪異っす」 「待て。緑台?さっきの駅か」 「はい」 「1人でか」 「駅員が1人います。気絶してます」 「気絶」 「はい。あとマチさんもいます」 「マチ?あのマチか」 「はい」 「なんで緑台に」 「定期券で来れたみたいっす」 「……は?」 「あとで聞きます。先に事案っす」 「言え」


俺は報告した。


改札機から白い手が出た。 駅員の足首を掴んだ。 剥がすたびに増えた。 マチさんが閉めた。 改札の中に切符が詰まっていた。 全部出した。


真壁さんが黙った。


「……お前マジか」 「マジっす」 「待て。調べる」


「……出た」 「何すか」 「緑台駅。今月、駅員が2人。家族から捜索願が出てる」 「今月で2人」 「どっちも終電後の勤務のあと連絡がつかなくなってる」 「宵帳には」 「この駅のは上がってねえ。けど改札の手は前にもある。3年前、別の駅で2件」 「はい」 「掴まれた奴は、2件とも朝までに改札の中に消えてる」 「戻った奴は」 「いない」 「1人も」 「そっすか」 「そっすかじゃねえよ!!お前が3人目を止めたのか」 「マチさんが止めました」 「マチが」 「扉を閉めたんです」 「3人目が消えてなかったのは初めてだ」 「怖くないのか」 「特には」 「お前マジで何なんだ」 「バイトっす」 「……はあ」


ため息が聞こえた。


「丙で手当10万申請する」 「駅員は宵帳で保護する。朝までうちで預かる」 「切るぞ」


電話が切れた。


画面の時刻は4時6分。


手当、10万。 1,708万が1,698万になる。


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0418】 分類:丙 呼称:改札の手 発生場所:緑台駅 改札(終電後) 担当:白洲律(アルバイト)/真壁鉄平(正職員、電話で対応) 経過: 終電後、改札機の切符投入口から白い手が出て、当番の駅員の足首を掴む。 同駅では今月、駅員2名が当番の後に所在不明(家族が捜索願)。 担当アルバイトが手を剥がすも、剥がすたびに別の投入口から増加。 契約怪異(待ち人)の構内放送により改札が閉鎖、手は退去。駅員1名を保護。 改札機6台の内部に、回収されていない使用済み切符が多量。全て除去。 備考:同種の事案は3年前に他駅で2件。掴まれた者は2件とも翌朝までに所在不明。担当アルバイトに恐怖反応なし。 室長所見:(空欄)


◇


4時8分。


ベンチは冷たい。 マチさんが隣に座った。 白い手袋を膝の上に置いた。 コートの裾が座面に垂れる。


「律さん」 「はい」 「今夜、わたくしは律さんの駅を見ました」 「はい」 「ベンチがありました」 「はい」 「時刻表がありました」 「はい」 「自販機がありました」 「はい」 「蛍光灯が、全部で8本」 「数えたんすか」 「数えました」


マチさんは少し胸を張った。


「来たときは、点いているのが4本。消えているのが4本」 「よく見てますね」


マチさんは前を向いた。


線路の向こうは暗い。 架線が1本、月の光を拾っている。


「5時24分の始発」 「はい」 「7時41分の、律さんの電車」 「はい」 「0時41分の、わたくしの時間」 「はい」 「全部、数えました」


マチさんは白い手袋を動かした。 コートの内側へ。 胸元から、薄い革の帳面を出した。


黒い。 契約帳。


「律さん」 「はい」 「お願いがございます」 「何すか」


マチさんは帳面の上で指を止めた。


「週7時間を」 「はい」 「週10時間に、していただけないでしょうか」


風がホームを抜けた。 蛍光灯が1つ、チカッと鳴った。


マチさんは帳面から顔を上げた。 まっすぐ俺を見ている。 微笑んでいる。 白い手袋が、帳面の端を握っている。


4時10分。


「大学あるんで」 「はい」 「8で」


マチさんは首を傾げた。 白い手袋が帳面の上で止まった。


「9、でございます」 「8っす」 「9でございます」 「大学あるんで」 「聞いております」


マチさんは微笑んだ。 目が細くなっている。


「8時間は」 「はい」 「足りないんでございますか」 「足りないっす」 「何が」 「単位が」 「単位」


マチさんは繰り返した。 白い手袋が帳面の角を撫でた。


「律さん」 「はい」 「週8時間では」 「はい」 「わたくしは、足りないのでございます」 「わかってます」 「わかっていて8を」 「わかってて8っす」


「……8時間半」


俺が言った。


マチさんの手袋が止まった。 帳面の上で。


3秒。


マチさんが顔を上げた。 まっすぐ俺を見ている。 目が細くなった。 さっきまでより、細い。 口の端が上がった。 少しだけ。


「……嬉しいのでございます」


声が小さかった。 風より小さかった。


白い手袋が帳面から離れた。 コートの内側に消えた。 胸元の奥。


手袋が出てきた。 黒い革の小箱を握っている。 朱肉だった。


親指が朱肉に触れた。 白い手袋に、赤い指ができた。


赤い親指がページに落ちた。


押した。


音はしなかった。


赤い印が残った。 丸い。


印の横に、細い字が浮いた。


『週 8時間30分』


「毎晩、1時間12分51秒でございます」


51秒まで言うんだ。


マチさんは印を見ていた。


空が白んできた。


4時52分。


マチさんはベンチに座っている。 白い手袋が膝の上。 俺はつなぎのポケットに手を入れている。


駅員は宵帳の車で運ばれた。 真壁さんが迎えに来た。 4時40分。 駅員を担いでいった。


「お前も帰れ。始発までいるのか」 「います」 「……そうか」


真壁さんは駅員を乗せて走った。 尾灯が角を曲がった。


それから俺とマチさんだけになった。


5時1分。


空が白い。 マチさんはベンチから立った。 ヒールの音がした。 カツン。


改札のほうへ歩いた。 改札の内側。 一歩も出ていない場所。 そこに立った。 俺のほうを向いている。 白い手袋が定期券を持っている。


「律さん」 「はい」 「まもなく夜が明けるのでございますね」 「そっすね」 「5時24分」 「はい」 「始発でございます」


5時20分。


遠くで音がした。 車輪がレールに触れる音。 低い音。


くる。 始発がくる。


5時23分。


ホームの端が明るくなった。 ヘッドライトの光。


光がホームに入った。


マチさんが改札の内側からホームを見た。 電車が見える目。


「まもなく」 「はい」


マチさんは俺を見た。 まっすぐ。 目が細い。 微笑んでいる。


「お気をつけて」


それだけ言った。


俺はベンチから立った。 つなぎのポケットから手を出した。 改札のほうへ歩いた。


シャッターをくぐった。


振り返った。


マチさんがいた。 改札の内側に。 白い手袋が定期券を持っている。 俺を見ている。 まっすぐ。 微笑んでいる。


ずっと見ている。


……これ、毎朝見送られるのか。

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