28階の窓を外から叩く人がいたので、開けて話を聞いた
コン、コン、コン。
窓が鳴った。 2時7分。 湾岸のタワーマンション、28階。
マチさんの1時間を済ませてから、真壁さんの車で来た。
「これです」
依頼主の女性がカーテンを指で押さえた。 目尻にクマがある。 30代くらい。 グレーのパジャマ。
「毎晩2時すぎなんです。一昨日は2個。昨日は3個」 「今日で4個目っすか」 「そう。もう嫌で」
「越してきたのはいつっすか」 「先月。契約は30日前」 「前の人のことは」 「聞いてない」 「告知、なかったんすか」 「なかったです」 「そっすか」
前の住人のことなんて、教えてくれない。
俺は手形を見た。
リビングの腰高窓。 アルミサッシ。 ベランダはない。 外側のガラスに、赤黒い手形が4つ。 左上から下へ。 順番に、少しずつ濃くなっている。 4つ目が一番濃い。 指紋も出ている。 掌の皺も。 血だ。
「開けないほうがいいっすかね」
女性がビクリとした。
「開ける気なんですか」 「一応、聞いとこうと思って」 「やめてください。冗談じゃない」
真壁さんが壁際から窓のほうを見た。
「……落ちたんだな」 「そうみたいです」 「前の住人がな」 「そうみたいです」 「何階だここ」 「28階」 「……無理だろ」
真壁さんは目を逸らした。
手元のタブレットを読み上げた。
「前の住人は男性。1年前の今週、寝室のベランダから転落。遺書なし。自殺か事故か判断保留。下の階の住人が、2時すぎに『どん』って音を聞いてる」
分類は乙寄りの丙。 決まりごとは1つ。
「『入れて』って言われても、『どうぞ』は言うな。だとよ」 「言われたら何て言えばいいんすか」 「……適当にごまかせ」 「適当って何すか」 「俺も知らねえよ」
窓の向こうは暗かった。 高層ビルの谷間。 風の音がする。 窓ガラスが時々ビリつく。
「真壁さん」 「なんだ」 「前の住人って、ここで何かしてましたか」 「資料にはねえよ」
その時。
コン、コン、コン。
「……来た」 「来ましたね」
女性が後ずさった。 真壁さんがテレビ台の陰に移動した。 俺は窓の前に立った。
カーテンを横に引いた。
男の顔があった。
窓の外。 28階の外。 逆さまだった。 頭が下。 首から下は見えない。 窓枠の外に消えている。 浮いている。 落ちていない。
顔だけがガラスに張りついていた。 鼻がガラスにくっついている。 目が開いている。 眼球だけが動いた。 俺を見た。
口が動いた。
「入れて」
依頼主の女性が悲鳴を上げた。 真壁さんがテレビ台の陰から顔を出して、また引っ込めた。
「無理無理無理無理!!」
「白洲!」 「はい」 「何だあれ!?」 「逆さまの男の人っす」
ガラスの手形が、1つ増えていた。
「真壁さん、依頼主さんを寝室に」 「お、おう」
真壁さんが女性の腕を引いた。 廊下の奥のドアが閉まる。
窓の男がもう一度言った。
「入れて」
俺は窓の鍵を外した。
「白洲ーーーー!!」 寝室から真壁さんの声が飛んだ。
「開けるな!!」 「どうぞ、って言ってないっすよ」 「そういう問題じゃねえ!!」
窓を開けた。
冷たい風が入ってきた。 ビル風。 耳が痛くなる風。
逆さまの顔が、窓枠のすぐ上にあった。
「入れて」
「入るのはダメです。でも話は聞きます」
俺は窓枠に腰をかけた。 部屋側に足を垂らす。 背中の向こうは28階分の空気。 窓の外の男と、逆向きに座った。
「ここでいいなら、話してください」
逆さまの男が瞬きをした。 上下が逆だから、瞬きも逆だ。 目が閉じて、また開いた。
「……ここ、どこだ」 「28階のリビングです」 「……高いな」 「高いっすね」
「下、見ないほうがいいですよ」 「見たくない」
男の声は小さかった。 風の音のほうが大きい。
「なんで来たんすか」 「忘れた」
「何をっすか」 「大事なもの」
「ここにあった」 「はい」 「大事なもの」 「はい」 「忘れた」
男の口が止まった。
「入れて」
「ダメです」 「なんで」 「決まりごとなんで」
「誰の決まりだ」 「俺のです」
「……変なやつだな」 「よく言われます」
「大事なものって、何なんすか」
男は答えなかった。 代わりに、ガラスに手形をつけた。 6つ目。
「……怖くないのか」
「特には」
男の目が細くなった。 笑ったように見えた。
寝室のドアの向こうで、女性のすすり泣きが聞こえた。
男の手が動いた。 窓枠の内側へ。 5本の指が伸びた。 逆さまのまま。 俺の脇の下を通って、床を這う。
指先が、俺の腕に触れた。 すり抜けた。 怖がっていない人間には、届かない。
寝室のドアへ伸びていく。
「来てる来てる来てる!!」 ドアの隙間から真壁さんの声。 向こうで女性が悲鳴を上げた。
「入るのはダメです」
指が止まった。 畳まれた。 窓の外へ戻っていった。
下に湾岸の夜景があった。 橋の明かり。 倉庫の屋根。 首都高を走るトラックの列。
「あの夜」
男が言った。
「俺は、ここで電話してた」
隣の寝室のほうへ顎をしゃくった。 逆さまなので、顎は上にある。
「渡すもんを部屋に隠してた。驚かせようと思って」 「はい」 「電話しながら、手すりに寄りかかって」
男はそこで止まった。
「……置いたままなんだ」
「まだ部屋にあるかもしれないっす」
俺は窓枠から降りた。 床に膝をついた。
フローリング。 新しい。 綺麗だ。 傷もない。 新品だ。
でも、新品すぎて逆におかしい。
「真壁さん」 「……なんだ」 「ここ、リフォームしました?」 「したらしいぞ。床も壁も」 「ですよね」
俺は巾木に手を伸ばした。 壁と床の境目。 アルミの細い板。
外した。
空洞だった。
中に何もなかった。 埃もなかった。 誰も触っていない。
「……違うな」
巾木を戻した。
窓の男がまた言った。
「入れて」
手形が7つになった。
「7個目だぞ白洲ーー!!」 寝室のドアの隙間から真壁さん。
奥で女性の声。 「入れないでくださいよーー!!」 「入れてません」
もう一度、床を見た。
無垢っぽい化粧板。 色は薄い茶色。 張り替えた板は、ワックスが1回分。 艶が均一。 1枚だけ違う。
リビングの端。 テレビ台の横。 その1枚だけ、木目が逆だった。
板を指で押した。 沈んだ。 少しだけ。
「真壁さん」 「……何だ」 寝室のドアが少し開いた。 真壁さんが顔だけ出した。
「これ、外せますか」 「お前……」 「隙間あるんで」
真壁さんがマイナスドライバーを放ってよこした。 床の隙間に先を入れた。 板が浮いた。
下に、小さな箱があった。
紺色のビロード。 埃をかぶっている。 指輪のケースだった。
蓋を少しだけ開けた。 小さな石が1つ。 台座の上で光った。
閉じた。
「やっぱり、ここだったっす」
俺は窓枠に戻った。 腰をかける。 逆さまの男がいた。
「これっすか」 「……ああ」
男が手を伸ばした。 逆さまなので、手は下から伸びてくる。
俺はケースを渡した。
男の手がケースを握った。 握ったまま、顔のほうに引き寄せた。
ケースを胸に当てた。 逆さまなので、胸は下にある。
「ありがとう」
男が下がった。
窓枠から離れた。 顔が小さくなっていく。 逆さまのまま。 風に乗るように。
消えた。
音はしなかった。
風だけが残った。
「……落ちたか」 「落ちましたね」
真壁さんが寝室から出てきた。 窓の外を覗いた。
「何もねえな」 「何もないっす」 「窓開けた奴、記録に2人いる」 「はい」 「2人とも、次の朝、下で見つかってる」 「そっすか」 「……そっすかじゃねえよ」
窓を閉めた。
ガラスの手形は、全部消えていた。
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0417】 分類:丙(乙寄り) 呼称:窓を叩く人 発生場所:湾岸地区 タワーマンション28階 依頼主居室 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 毎晩2時すぎ、28階の窓を外から叩く音。ガラスに手形が増える。 前の住人の男性(1年前にベランダから転落死)と判明。 担当アルバイトが窓を開け、入室は拒否したうえで聴取。 床板の下から指輪のケースを発見し、窓の外へ返却。以後、音なし。 備考:担当アルバイトに恐怖反応なし。「どうぞ」とは言っていない。 室長所見:(空欄)
◇
3時31分。
真壁さんの車で、緑台の駅前まで送ってもらった。
手当、15万。 1,723万が1,708万になる。 窓1枚で15万。 夜見坂じゃない。 各駅停車しか止まらない、ただの駅。
家は線路の向こう側だ。 跨線橋を上がる。
上から、ホームが見えた。
終電はとっくに出ている。 蛍光灯が半分だけ点いている。 誰もいない。
はずだった。
ホームの端に紺のロングコートの女が立っていた。 腕時計を見ている。 白い手袋に、あの定期券。
マチさん。
夜見坂の待ち人。 腕時計をいつも見ている人。 定期券を胸に当てた人。
夜見坂から出られないはずの人。
白い手袋が、時計の上で止まった。
顔が上がった。
跨線橋の俺を、まっすぐ見た。
微笑んだ。
「おかえりなさいませ、律さん」




