辞表を出したら、書類を食べる怪異に食べられた
辞めようと思ったわけではない。
夜の事務所。 蛍光灯が1本だけ点いている。 紙の匂いが濃い。
机の上に契約書の写しが置いてあった。 パラパラとめくる。
『帳契』の項目で目が止まった。
「双方の合意なき場合契約の破棄はこれ認められず」
合意がないと無理。 じゃあ俺が合意しなかったらどうなるのか。バイトは一方的に辞められないのか。
本気で辞めるつもりはない。 ただの実験だ。
引き出しから便箋を出した。 事務用の白い便箋。左下に薄いコーヒーの染みがついている。
1行目に「辞表」と書いた。
ペン先を紙に置いた。
辞表は書き上がっていた。
俺は席を立った。
烏丸室長の席は窓際にある。
室長は座っていた。 手元の書類を読んでいる。 顔を上げない。
俺は机の前に立った。
「室長」 「はい」 「これ」
便箋を差し出した。
室長は顔を上げた。 笑顔だった。
「辞表です」 「そうですか」
受け取った。 両手で。
1秒も見なかった。 1行目も読んでいない。 そのまま横の箱に入れた。
未決箱。 青いプラスチックの箱。
「分かりました」
それだけだった。
何も聞かれなかった。
向かいの席で真壁さんがこちらを見ていた。
「……お前それ正気か」 「はい」 「はい、じゃねえよ」
「あの箱、未決だぞ」 「はい」
真壁さんは頭を抱えた。
◇
23時44分。
烏丸室長はもう帰った。
俺は領収書の束を日付順に並べていた。 真壁さんは報告書の写しをホッチキスで留めている。
「白洲」 「はい」 「これ何枚あった」 「どれっすか」 「丙の報告書。お前が書いたやつ」
丙の報告書は3枚セットで書いた。
「3枚っす」 「2枚しかねえ」
束をめくった。
確かに2枚だった。
「……俺が無くしたっすかね」 「お前が無くしたら『無くしました』って言うだろお前は」 「言いますね」 「じゃあ無くしてねえ。消えた」 「そっすね」
真壁さんは立ち上がった。
「室長!室長に電話……」 「帰宅済みっすよ」 「……ああそうだな。あの人が帰った後に起きるんだよこういうのは」
真壁さんの机の上に報告書の山があった。 7枚の山だった。
6枚になっていた。
「……今」 「見ました」 「今、減ったよな」 「減りました」 「減ったよな!?」 「減りました」
「無理無理無理。なんで消えるの。どこ行ったの。誰だよ」 「誰でもいいんすかね」 「よくねえよ!!」
2枚。
真壁さんは叫んだ。 言葉になっていない叫びだった。 1枚。
最後の1枚が沈んだ。
真壁さんの手のひらが机の表面に届いた。 何もない。
「……消えた」 「消えました」 「全部消えた」 「全部消えました」
真壁さんは両手を広げたまま立ち尽くしていた。
そのとき目に入った。
烏丸室長の机の、未決箱。
辞表を入れた箱だ。
「真壁さん」 「……何」 「室長の机、見てもいいっすか」 「やだ。あの机には近づきたくない」 「じゃあ俺が見てきます」 「……行け」
俺は烏丸室長の席に歩いた。
箱を持ち上げた。
中を覗いた。
空だった。
便箋はなかった。 コーヒーの染みもなかった。 俺の辞表だけが消えていた。
「真壁さん」 「……あったか」 「消えてました」 「は?」 「辞表。なくなってます」
俺は箱を傾けて見せた。
「……白洲」 「はい」 「底」 「はい」 「見ろ」
俺は箱の底を見た。
プラスチックの底。 薄い傷が何本かついている。 その傷の間に、何かいた。
小さかった。 5ミリない。 銀色だった。
死んでいるのかと思った。
触角が動いた。
生きている。
「紙魚。紙を食べる虫っす」 実家の特殊清掃で何度も駆除した。
「ぎゃあああああ!!」 真壁さんが叫んだ。 椅子を蹴って跳んだ。 書類棚の上に着地した。 ファイルが崩れ落ちる。
「無理無理無理無理!!」 「真壁さんそこ書類棚っすよ」 「書類棚に虫湧いてんのかよ!!」 「湧いてますねたぶん」
虫が動いた。 箱の縁を越える。
俺の目の前を通り過ぎた。 書類の束に向かって。 1枚目と2枚目の間に入った。 消えた。
「逃げたっすね」 「どこ!?」 「書類の隙間っす」 「出せよ!!」 「紙食べるんですよこの子」 「だから出せよ!!」
「真壁さん。ガムテープありますか」 「……ガムテープ?」 「ガムテープと、古い報告書の束。あと懐中電灯あれば」
俺は自分の机に戻った。 右引き出しを開ける。 ガムテープがあった。 懐中電灯もあった。
「あったっす」 「……何する気だ」 「駆除っす」 「駆除ってお前虫かよ扱い」 「虫っすよ。紙食う虫」 「怪異だろこれ」 「怪異でも紙食うなら紙魚っす」
俺はガムテープと懐中電灯を持って書類棚の前に立った。
「そこから見ててください。動線見せます」 「動線……?」 「虫の通り道。見えれば次どこ行くか分かるんで」
俺は懐中電灯を点けた。 光を書類の束に当てた。 1枚目の端を照らす。
束の右端にガムテープを貼った。 1枚目と2枚目の隙間を塞ぐ。
これで右側の出口は死んだ。
左端にガムテープを貼った。
俺は束の上端にガムテープを貼った。 横一列。 粘着面を下に。
俺は懐中電灯を上から当てた。
虫が動いた。 上に行こうとしてガムテープにぶつかった。 左に行ってぶつかった。 右に行ってぶつかった。
下に戻った。
下端から這い出た。 5ミリの銀色。 行き場がない。 くるくる回っている。
「出ました」 「……出たか」 「はい。逃げ場なしっす」
虫は止まった。 触角が動かなくなった。
「真壁さん。止まりました」 「……殺したのか」 「殺してないっす。逃げ場探してたのが諦めただけっす」
虫が震えた。
背中じゃなかった。 腹のあたりが震えている。 ガムテープの粘着面に前脚が触れている。
震えが止まった。
音がした。
小さかった。 懐中電灯のノイズより小さい。 でも声だった。
「た、頼まれた」
俺は懐中電灯を持つ手を止めなかった。
虫が言った。
「辞める紙を食べろって」
声が高い。 蚊が耳元で鳴くのと同じくらいの大きさ。 でも言葉だった。 人の言葉だった。
「誰にっすか」
虫の触角が動いた。 1回だけ。 左に曲がって、戻った。
「……夜見坂」
夜見坂。
夜見坂駅。 0時41分。 ベンチの端に座る人。 白い手袋。
「白洲」 真壁さんの声が上から来た。 書類棚の上から。 「今なんて言った」
「夜見坂って言いました」 「……あの駅か」 「はい」 「あの待ち人か」 「たぶん」
俺はガムテープを1枚だけ剥がした。 銀色の虫は、暗いほうへ棚の奥に消えた。
「白洲」 「はい」 「行くのか。夜見坂」 「0時41分なんで」
◇
0時41分。 夜見坂駅のホームに着いた。 シャッターは下りている。 通用口のドアが少しだけ開いていた。
マチさんがいた。
ベンチの前に立っていた。いつもの位置だ。 腕時計を見ている。
「お待ちしておりました」
「遅れてないっす。0時41分です」 「存じております」
ベンチに座った。
「マチさん」 「はい」 「事務所で虫が出ました」
「紙魚です」 「……」 「紙を食べる虫っす。知ってますか」 「存じております」
「その紙魚が言ったんです」 「何をでございますか」 「夜見坂って」
マチさんの手が下がった。 腕時計ごと。 コートのポケットに入れた。 初めての動作だった。
「夜見坂に何か用があったんすか」 「用事ではございません」 「じゃあ約束とか」 「約束はございました」 出た。
「紙魚さんには、切符を差し上げる約束をしておりました」 「切符」 「待合の切符でございます」 「溜まってるんすか」 「溜まっております」
「紙魚さんの好物でございます」
「律さんが『辞める』と書いた紙は」
声が速い。 速くなっている。 1文が終わる前に次が来る。 「この世にあってはならないものでございますので」 「そっすか」
「別に辞めないっすよ」
マチさんの口が止まった。
「確認しただけなんで」
マチさんは動かなかった。
「実験っす」
「あの虫に食わせる必要、なかったんすけど」
マチさんの肩が1センチ下がった。
腕時計の音がした。 ポケットの中で。 チッ、という小さな音。 針が1つ進む音。 その音が、途中で止まった。
止まったまま、次が来ない。
マチさんはポケットから手を出した。ゆっくり。 白い手袋が月の光を受けた。 手首が出た。 腕時計が付いている。
文字盤を見た。 俺も見た。
針が止まっていた。
全部止まっている。
0時41分。
「……止まりました」 マチさんが言った。
俺はポケットに手を入れた。 右のポケット。 指先が紙に触れた。
先月で期限が切れた。 定期券。 夜見坂から緑台まで。 1ヶ月分。 使い終わったやつだ。
出した。
小さかった。
表面に印字が残っている。 黒字が薄れている。
「マチさん」 「はい」 「切符食べさせる代わりに」
定期券を差し出した。
「これあげます」
「……定期券でございますか」 「はい。先月で切れたやつっす」 「使えなくなったものでございますか」 「はい」 「……律さんが使っていたものでございますか」 「はい。毎日通ってたやつっす」
マチさんの手が上がった。 ゆっくり。 両手だ。 白い手袋の指先が定期券の端に触れた。 触れただけで取らなかった。 待っている。 俺が離すのを。
俺は指を開いた。 定期券がマチさんの手に落ちた。
マチさんは定期券を胸に当てた。
コートの上から。 左の胸に。 両手のまま。 押し当てた。
何も言わなかった。 目を閉じた。
目が開いた。
前髪の隙間から光が戻った。 俺を見ていた。 初めて俺の顔を見た。 ちゃんと。
「律さん」 「はい」 「頂戴いたします」
敬語だった。
俺は頷いた。
「明日も来ます」 「お待ちしております」
マチさんの手が動いた。 胸元から。 腕時計を見た。 針は動いている。
「お時間でございます」
俺は通用口に向かった。 ホームの端から階段へ。 5歩。 6歩。 階段の手前で止まった。
振り返った。
マチさんはベンチの前に立っていた。
手が胸元から離れていた。 両手で定期券を持っている。 胸の前。 少し下に向けて。
見ている。
定期券が光っていた。
淡かった。
『夜見坂 ⇔ 緑台』
俺の最寄り駅。
マチさんはそれを見ていた。 両手で持って。 下に向けて。 俺の顔ではなかった。
俺は階段を下りた。
通用口をくぐった。 外の空気が来た。 冷たい。
定期券、新しいの買わないと。
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0416】 分類:丙(内部案件) 呼称:書類を食べる虫 発生場所:宵帳 第三事務所(雑居ビル4階) 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 事務所内の書類が複数消失。担当アルバイトが提出した辞表(1枚)も含む。 担当アルバイトが書類の隙間を塞いで虫(銀色、約5ミリ)を追い詰め、聴取。 虫は夜見坂駅の待ち人の依頼で動いていたと供述。 同日0時41分、依頼主の待ち人と面談。 備考:担当アルバイトに恐怖反応なし。 室長所見:(空欄)




