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終電の女の駅が線路の手に食われていて、俺は線路に落ちた




その夜、0時41分にマチさんはいなかった。 今朝は、始発まで見送られたのに。


夜見坂駅、2番線ホーム。 いつもの柱の前。 紺のコートがない。 腕時計を見ている女がいない。


新しい契約の、最初の夜だ。 毎晩1時間12分51秒。 印を押してから、まだ1日も経っていない。


初日から遅れる人じゃない。 秒まで数える人だ。


「マチ、どこだ」


隣で真壁さんがホームを見回した。 ゆうべの「あとで聞く」を本人に聞くと言って、車を出してくれた。 その本人がいない。


「いないっすね」 「いないことってあるのか」 「今まではなかったっす」


頭の上で音がした。 ジジ、と。 電光掲示板だった。


『待合』


マチさんの時間になると、終電の後の板に出る字だ。


ただ、欠けている。 『待』の右半分がない。 『合』の下の口が削れている。 欠けた字が点いて、消えて、また点く。 端から齧られたみたいな欠け方だ。


「白洲」 「はい」 「なんか、下から音しねえか」


した。 足の下から。 カリ、カリ。 砂利をこする音。


俺はホームの端まで歩いた。 黄色い線を越えて、線路を覗いた。


手が生えていた。


砂利の間から、白い手が何本も。 手首から先だけ。 指を開いて、上を向いている。 ホームの下の暗がりにも。


生え方が均一じゃない。 枕木の脇に寄っている。 カビの広がり方と同じだ。 元のある方へ、濃くなる。


1本が指を曲げた。 砂利を1粒つまんで、離した。


カリ。


「うわああああああ!!」


真壁さんが俺の後ろで叫んだ。 2メートル下がった。


「手!手!手えええ!!」 「手っすね」 「冷静に言うな!!下がれ!!」 「ホームまでは届かないっすよ。腕の長さ足りないんで」 「測るな!!」


真壁さんは柱の陰でスマホを出した。 2回押し間違えて、スピーカーにした。


「はい、烏丸です」


後ろでキーボードの音がする。 この時間でも、事務所にいるらしい。


「室長、夜見坂です。線路に手が。大量に」 「夜見坂の2番線ですね」


紙をめくる音がした。


「記録がありますね。夜見坂から隣の駅までの区間は、人身事故が多いんです」 「事故の、何がっすか」


「残り、ですね」


烏丸さんは天気の話みたいに言った。


「亡くなった方が、線路に置いていったものです。それがひとつに集まって、最近こちらへ流れ込んでいるようですね」 「ランクは」


真壁さんがスマホに顔を寄せた。


「うちでは『線路の手』と呼んでいます。乙です。甲に上がるおそれはありますね」 「甲になったら」 「正職員2名以上の扱いですから、応援を出しましょうか。それまで真壁さん、無理はなさらずに」


笑っている声だった。 真壁さんの顔は笑っていない。


キーボードの音が止まった。


「それと。その手、マチさんの駅を食べていますね」


電話が切れた。


掲示板を見上げた。 『待合』の『待』が、また少し欠けた。


「マチさんのとこ、行きます」 「今の聞いてそれ言うのか」 「マチさんの時間なんで」


◇


ホームの先まで歩いた。 コンクリートが途切れて、木の板に変わる。 マチさんがいなくても、掲示板に『待合』が点いている間は入れるらしい。


真壁さんが足元を見た。


「……おい。ここ、駅か」 「待合っす」 「お前、毎晩ここ来てんのか」 「時給出るんで」 「時給の問題か」


待合の駅舎は半分なかった。


木の駅舎。 屋根は右半分だけ残っている。 左半分は床ごと下に落ちた。 ホームの板も同じだ。 端から順に、なくなっている。


俺はしゃがんで、崩れた縁を見た。


腐った跡じゃない。 腐った床は柔らかくなってから抜ける。 縁が黒く湿って、指で押すと沈む。 これは乾いている。 縁が半月の形に、いくつも抉れている。


齧った跡だ。


板の隙間から、指先が覗いている。 1本じゃない。 下から板を押し上げる音がする。


ミシ。 ミシ。


「おい待て」


真壁さんが入り口で足を止めた。


「ここ、床抜けるだろ」 「左は抜けてますね」 「右は」 「今のとこ大丈夫っす。右だけ踏んでください」 「今のとこって何だよ」


駅長室は右側にあった。


ドアは開いている。 壁に丸い時計。 秒針の音だけがやけに大きい。


コチ。 コチ。


その時計の下に、マチさんがいた。


床に座りこんでいる。 背中を壁につけて。 紺のコートの裾が床に広がる。 黒い髪が肩から落ちて、顔の半分を隠している。


輪郭が薄い。 コートの紺の向こうに、壁の木目が透ける。 白い手袋が、手袋の白なのか床板の白っぽさなのか、境目が分からない。 日に焼けた古いポスターの、色の抜けた人みたいだった。


マチさんが顔を上げた。 俺を見た。 それから、頭の上の時計を見た。


「……0時41分を、過ぎております」


声が細い。


「すみません。ホームにいなかったんで、探しました」 「存じております」


マチさんは小さく首を振った。


「今夜は」


息を継いだ。


「今夜は、お帰りくださいませ」


いつもと逆だ。 来いと言う人だ。 1秒の遅れも取り立てる人が、帰れと言っている。


後ろで、真壁さんが息を止めた。 初めて、間近でマチさんを見たらしい。


「……これが、マチか」


小さい声だった。 叫ばなかった。 声の出ない種類の怖がり方だ。 現場でもたまに見る。


「帰らないっす」 「律さん」 「1時間の契約なんで」


マチさんの唇が動いた。


「1時間、12分」


小さく息を吸った。


「51秒、でございます」 「そうでした」 「12分51秒、足りません」


こんな夜でも、秒まで言う。


マチさんの手袋が口元へ上がりかけた。 笑うときの手だ。 途中で落ちた。 膝の上に、音もなく。 口の端が上がりきらなかった。


ミシ。


駅長室の床板の隙間から、指が1本増えた。


「おい。増えてねえか、あれ」


真壁さんが入り口から首だけ伸ばした。


「手が増えるほど、待合は削れてまいります」


マチさんは時計を見たまま言った。


「待合が消えれば、わたくしも消えます」 「そういう仕組みなんすか」 「わたくしの駅でございますので」


「ゆうべの話を、聞きに来たんだがな」


真壁さんは透けた肩を見て、そこで飲み込んだ。


「……あんたが消えたら、こいつの時給どうなんだ」


マチさんは答えなかった。 手袋の指が、膝の上で一度だけ動いた。


俺は床を見た。 齧られた縁。 板の下から押し上げる指。


手は下から来ている。 元は下だ。 上で何本どかしても、元が残る。 床下に原因がある部屋で、壁紙だけ替えても匂いは戻ってくる。


俺は立った。


「真壁さん」 「何だ」 「現場、見てきます」 「現場ってどこだよ」 「線路っす」 「お前マジか」


俺はもう駅長室を出かけていた。


背中で、マチさんが何か言った。


「律さん、線路は」


続きは、床の鳴る音で聞こえなかった。


◇


1時30分。


木の板を戻ると、夜見坂のホームだった。 ホームの端に、保線用の小さな階段がある。 鎖が1本渡してあるだけだ。 跨いで下りた。


線路の脇に、人ひとり分の通路が続く。 隣の駅の方角へ。 カーブの手前で、砂利が木の板の下に潜っている。 その上が待合だ。 ここで使う時間も、マチさんの時間のうちに入る。


懐中電灯で足元を照らした。


手が光を嫌がらない。 指を開いたまま、光の中で揺れている。


カリ、カリ。


ホームの上で聞いたときより、音が近い。


「無理無理無理無理」


後ろで真壁さんが言っている。 それでもついてくる。 正職員だから、らしい。


俺は砂利を照らした。


色が違う場所がある。 灰色の砂利の中に、白っぽい砂利がまだらに入っている。 新しい砂利だ。 入れ替えた跡。


うちでも、床材を一部だけ張り替える現場がある。 張り替えた床をめくると、だいたい下が黒い。


枕木を照らした。


古い枕木に、黒い染みがある。 表面じゃない。 木目の奥まで入っている。 雨で何年も洗われて、まだ残っている。


「これ、拭いて落ちるタイプじゃないですね」 「何の話だよ!!」 「枕木の話っす」


鼻から息を吸った。


錆の匂い。 油の匂い。 その下に、もう1つ。 甘くて、少し重い。 古い現場で床板を剥がしたとき、下から上がってくる匂いに近い。


手は、その染みの周りに一番多かった。


真壁さんは通路にいる。 俺はレールを背にして、その手前にしゃがんだ。


右の足首に、手が来た。


砂利の中から伸びて、指を回した。 掴む形になった。


指が、足首を通り抜けた。


冷たくもない。 重さもない。 何もなかったみたいに、手は砂利の上で空を握った。


もう1本来た。 通り抜けた。 もう1本。 同じだった。


3本目で数えるのをやめた。


「白洲、お前の足」 「触れないみたいっす」 「お前、ほんとに」


真壁さんの言葉がそこで切れた。


「ひっ」


手が真壁さんの左の足首を掴んでいた。


俺の足を通り抜けたのと同じ形の手。 真壁さんの靴下の上で、指が食い込んでいる。 すり抜けない。


「ぎゃああああああ!!」


真壁さんの体が固まった。 叫んだまま、足が1歩も出ない。 もう1本が、右の足首にも来た。


砂利が鳴った。 手が真壁さんを線路の方へ引いている。


俺は立って、真壁さんの腕を掴んだ。 引っぱり上げた。 真壁さんの体がこっちへ傾いた。


傾きすぎた。


手を振りほどこうとした真壁さんの足が砂利で滑った。 真壁さんの体がまるごと俺にぶつかった。


成人男性1人分。


踵がレールに当たった。 そのまま後ろに倒れた。 背中を、硬い金属が受け止めた。


頭は打っていない。 俺は線路の上で仰向けになっている。


起き上がろうとした。 右足が来ない。


照らした。


枕木と枕木の間だ。 そこだけ砂利が沈んで、穴みたいになっている。 倒れたとき、右足がそこに落ちた。 安全靴のつま先が枕木の下に潜り、かかとがレールを留める金具に噛んでいる。


足首を返すと、金具に当たる。 引くと、つま先が枕木に当たる。 角度が合わない。


手が集まってきた。


俺の足首の周りに、何本も。 穴の縁から、砂利の中から。 指が足首を包む形になる。


通り抜ける。 また包む。 また通り抜ける。


触れていない。 押さえてもいない。 足が抜けないのは枕木と金具のせいで、手のせいじゃない。


「白洲!!足!!」


真壁さんが通路の砂利の上で、這っている。 足首の手は、まだ離れていない。


「影縫い!!」


真壁さんの足元の影が起き上がった。 犬の形になった。 黒い背中が俺の方へ跳んだ。


レールの手前で、消えた。


影縫いは影から影へ渡る。 線路の上は、手の影で埋まっている。 懐中電灯の光が、何十本もの指の影を砂利に落としている。 犬が通れる暗がりが、1つもない。


「くそっ、通らねえ!!」


レールが鳴った。


背中から響いた。 低い音。 何かが金属の中を近づいてくる音。


首を回した。


隣の駅の方角。 カーブの向こうが白くなった。 光が線路を舐めて、こっちへ伸びてくる。


ライトの上に、行き先の表示が読めた。


『回送』


ポケットからスマホを出した。 1時47分。 マチさんの時間は、1時53分51秒まで。 あと6分51秒。


手は俺に触れない。 電車は触れる。 電車は線路の上にいる人間を普通に轢く。 怪異じゃないから、怖がっているかどうかは関係ない。


あ、これ死ぬな。


靴紐に手を伸ばした。 靴を脱げば、足は抜ける。 結び目が固い。 出る前に、ダブルで結んだのは俺だ。


警笛が鳴った。 長く。


「抜け!!早く抜けって!!」


真壁さんの声が裏返って割れた。


爪の先で結び目をほどく。 1つ目がほどけた。 ライトが砂利を白くした。 手の影が一斉に短くなる。


遠くで、声がした。


レールの音に半分削られた声。


「――!!」


震えている。 さっきの真壁さんと同じ震え方だ。 怖がっている人の声を、マチさんが出している。


警笛が、もう一度鳴った。


ライトの手前。 レールの上に、紺色が落ちてきた。 待合の、崩れたホームの端から。


黒い髪が光の中でほどける。 砂利の手は、俺の足首を通り抜けた。 白い手袋が俺の方へ伸びてくる。


「律さん!!」

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