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線路の手を掃除したら、終電の女が離してくれなくなった




キィィィ――。


ブレーキの音じゃなかった。 もっと高い。 錆びた蝶番を最後までゆっくり回したような音。


音が終わると、何も動かなくなった。


回送電車が目の前にある。 ライトの縁から俺の顔まで、50cm。 車輪の下で、火花が1粒、宙に浮いている。


砂利を鳴らす手も、指を開いた形のまま固まった。


手の中のスマホが1時47分のまま光っている。


通路の砂利の上で、真壁さんが這う形のまま止まっている。 口が大きく開いている。 「抜け」の「ぬ」の形だ。


音がしない。 レールも、警笛も、カリ、も。


聞こえるのは1つだけ。 息の音だ。 俺のじゃない。


マチさんがレールの上に膝をついている。


右の手袋で、左の手首を押さえている。 腕時計の秒針が動いていない。


「……止め、ました」


声が割れている。


「待合の、時刻を。わたくしの、全部で」 「電車もっすか」 「待合の、真下でございますので」


それで電車まで止まるらしい。 実際、止まっている。


「俺は動けるんすね」 「律さんの時間は、わたくしがお預かりしておりますので」


そっすか。


マチさんの輪郭がライトの中で薄い。 コートの紺越しに、電車の前面の汚れが見える。


「律さん、足を」


マチさんが俺の足に手を伸ばした。 白い手袋がすねに触れる手前で通り抜けた。


もう一度。 指が足首を包む形になって、何もないところを握った。


「どうして」


マチさんの声が上ずった。


すり抜けるんだった。 俺が怖がっていないから。


「マチさんでも駄目みたいっす」 「わたくしは、律さんの」 「契約しててもっすね」


マチさんの手袋が、今度は靴を掴んだ。 安全靴の甲。 こっちは通り抜けない。 革は物だから。


引いた。 靴は動かない。 かかとが金具に噛んだままだ。


「靴紐、ほどけます?」 「……っ」


マチさんの指が結び目に掛かって、外れた。 指先が震えて、紐をつまめない。


「俺がやります」


懐中電灯を枕木の間に置いた。 固い結び目に爪を立てる。


2つ目がほどけた。 紐を穴から引き抜く。


足首を返して、かかとを靴から抜いた。 安全靴だけが、枕木の下と金具のあいだに残った。


「マチさん、出ます」 「律さん、早く。お早く」 「マチさんもっすよ」


俺はマチさんの手首を取った。


冷たい。 こっちからは触れる。


「律、さん」


そのまま引いた。 レールを跨いで、通路の砂利へ。 靴下の裏に、砂利の角が刺さる。


マチさんのブーツの先がレールを越えた。


音が戻った。


「――けええええ!!」


真壁さんの叫びが途中から続きを始めた。 警笛が背中を叩いた。 回送電車がさっきまで俺の寝ていた場所を走り抜けていく。


車輪の下で、何かが割れた。 パキ、と軽い音。


静かになった。 暗い。 割れたのは懐中電灯だった。


安全靴は金具に噛んだまま無傷だった。 靴の方が俺より頑丈らしい。


横で、紺色が崩れた。


マチさんが膝から落ちた。 輪郭がほとんどない。


「マチさん」 「……ございます」


何がございますのか、分からない。


◇


回送が消えて、まだ1分も経っていない。


「白洲……生きてる……?」


真壁さんが砂利の上で顔を上げた。


「生きてます。片方、靴下っすけど」 「靴下の話はしてねえ!!」


ツッコむ元気はあるらしい。


真壁さんの足首には、まだ白い手がついている。 左右に1本ずつ。


俺は真壁さんの足元に膝をついた。 左の手の人差し指をつまむ。 冷たくて、少し湿っている。


1本ずつ、指を起こす。 親指が最後まで残って、それも起こした。 手は砂利の中へ引っこんだ。


「お前マジか」


「素手で剥がすやつがあるか」 「こっちからは触れるっす」 「知ってるよ!!知ってても普通やらねえんだよ!!」


右も剥がした。 剥がした端から、別の手が真壁さんのズボンの裾をつまんだ。 布の端を指2本で。


「無理無理無理無理」 「裾っす。足じゃないっす」 「どっちでも無理だ!!」


頭の上で、ザリ、と音がした。


カーブの手前の木の板の裏に、白い指がびっしり張りついている。 齧っている。 板の縁が半月の形に欠けていく。 待合の床だ。


「……律さん。線路には、もう」 「下りないっす。今は横にいます」 「横も、線路でございます」


それは、そう。


「真壁さん、影縫い」 「さっき通らなかっただろ!!」 「今は、通ると思います」


暗い。 さっきまで砂利に落ちていた何十本もの指の影が、1本もない。 線路じゅうが、ひと続きの暗がりになっている。


影縫いは影から影へ渡る。 渡る道が、今は足元から線路の向こうまで続いている。


「……そういうことかよ」


真壁さんが砂利を叩いた。


「影縫い!!」


足元の暗がりが起き上がった。 犬の形。 黒い背中が今度は消えなかった。 レールを越えて、手の群れに飛びこむ。


噛んだ。 1本、砂利に縫いとめた。 2本目。3本目。


でも、4本目を噛むあいだに、10本生える。 縫いとめたはずの1本が、地面から抜けて、板の裏へ戻っていった。


「追いつかねえ!!」 「多いっすね」 「多いっすねじゃねえよ!!何本いんだよこれ!!」


俺は数えないで、並び方を見た。


枕木の黒い染み。 入れ替えた白い砂利。 甘くて、重い匂い。 手はその周りに一番多い。


どの手も、手首の根元が同じところへ寄っている。 指は外へ開いて、元は1か所。


孤独死の現場で、染みが一番濃いところには、必ず「最初の場所」がある。 全部、そこから広がる。 周りをいくら拭いても、最初の場所が残っていれば、また出てくる。


「真壁さん」 「何だよ!!」 「元、あそこっす」


黒い染みの枕木を指さした。 俺の安全靴が、まだ金具に噛んでいる穴の、すぐ隣。


「……お前、倒れながらそれ見てたのか」 「仰向けだと、ちょうど目の高さっす」 「轢かれかけながら見るもんじゃねえだろ!!」


◇


真壁さんがスマホのライトを点けた。 手のひらで覆って、光を細くする。


「影作んなよ。犬が通れねえ」 「了解っす」


ライトを持つ真壁さんの腕が肘まで震えている。 それでも光は、俺の手元から外れない。


「何分かかる」 「分かんないっす」 「分かんないで線路に膝つくな!!」


俺は黒い枕木の脇に膝をついて、白い砂利を掻き分けた。


手が俺の腕に何本も来た。 手首を掴む形になって、すり抜ける。


邪魔にはならない。 ただ、視界がうるさい。


匂いが濃くなった。


枕木の底に指が当たって、その下に隙間があった。


柔らかいものに触れた。 引き出した。


手袋が1つ。 白かったもの、と言った方が早い。 全体が黄ばんで、指の先が擦り切れている。 男物の大きさだ。 手首の折り返しに、色の抜けたスタンプがある。 『東亜』の字が半分だけ読める。


駅員の手袋だ。


砂利の上の何十本もの手が、一斉に動きを止めた。


「白洲……それ」 「前の住人のっすね」


周りの手は、みんな手のひらを上にしている。 引き上げてほしい手の形だ。


1本だけ違う。 いちばん染みに近い手。 手のひらが下を向いている。 上から、誰かを引き上げる形。


たぶん、誰かを助けに線路へ下りた人の手だ。 間に合わなかったんだと思う。 ほかの手は、後からその手に寄ってきた。


「それ、どうすんだ」 「片づけます」


ポケットからウエスを出した。


手袋の埃を指で払う。 擦り切れた指先には触らない。 崩れるから。


ウエスを広げる。 手袋を真ん中に置く。 4つの角を1つずつ折る。


遺品が出たときの手順だ。


包んだものを両手で持った。


頭を下げた。


「お疲れさまでした」


風が吹いた。 電車の風じゃない。


手が引いた。


何十本の手が、一斉に。 指を閉じて、染みの1点へ吸いこまれていく。 真壁さんの裾をつまんでいた手も。


最後に、手のひらを下に向けた1本が残った。


その手が少しだけ持ち上がった。 包みの方へ。 届く手前で、ゆっくり下りた。 砂利の中に消えた。


カリ、という音は、もうしなかった。


「……はあ」


真壁さんが通路に尻もちをついた。 犬が足元の影に戻っていった。


安全靴を金具から外した。


真壁さんがスマホの画面を見た。


「……分類、甲に上がってる」 「乙じゃなかったんすか」 「途中で上がった。甲は正職員が2人で入る格だ」 「1人と1バイトっすね」 「それをバイトが片づけてんだよ」


「普通はな、回送の前で足挟まったら、それで終わりなんだ」 「終わりかけました」 「……怖くなかったのか」 「特には」 「お前マジか」


真壁さんは笑わなかった。


「……倒したの、俺だからな」 「知ってます」 「知ってんなら怒れよ」 「時給出るんで」


真壁さんがスマホの画面をもう一度見た。


「甲の手当、50万出るぞ」 「借金、1,648万っすね」 「引き算早えな」


「それ、俺が持ってく。室長に出す」 「お願いします」 「両手で持てばいいのか」 「はい。両手で」


真壁さんは包みを両手で受け取った。


◇


4時。


砂利を均し直すのに2時間かかった。 真壁さんは途中で「室長に電話してくる」と言って、夜見坂のホームへ戻った。


待合の駅舎は元に戻っている。 掲示板の『待合』が欠けずに点いている。


俺は駅舎のベンチに座っている。


マチさんの輪郭も戻った。


ただ、俺の袖を掴んで離さない。


白い手袋の指が、布だけをまとめて握っている。 中の手首には届かないから。


「マチさん。袖、伸びます」 「存じております」


離さない。


「律さん」 「はい」


マチさんは腕時計を見なかった。 俺を見ている。


「二度と、わたくしの前で落ちないでくださいませ」


声が震えている。 電車の前で聞いたのと、同じ震え方だ。 自分の声を、不思議そうに聞いている顔だ。


「気をつけます」 「気をつけるでは、足りません」 「じゃあ、すごく気をつけます」 「……すごく、でございますか」


袖を握る指に、力が入った。


「律さん。線路は」


駅長室で、途中になった言葉だ。


「線路には、下りてはならないと。申し上げるつもりで、ございました」 「聞こえなかったっす」 「存じております。ですから、今、申し上げております」 「今からだと、遅くないっすか」 「遅うございます」


何分遅いかは言わなかった。 珍しい。


マチさんは袖を握ったまま、片手で契約帳をめくった。 今夜の分を数える顔だ。


先に言った。


「今週は延長でいいっす」


頁をめくる指が、半分めくったところで固まった。


「……今、何と」 「延長っす」 「……延長は、何分でございますか」 「決めてないっす」 「決めて、いない」


3秒。 5秒。


時刻を止めたときより、長い気がする。


それから、袖を握っていない方の手が、左の手首の腕時計に掛かった。


カチ。


外した。 秒針はちゃんと動いている。


それを、俺の手のひらに載せる。


「マチさん、それ」 「わたくしの時間を、全部」


声はもう震えていない。


「律さんに、お預けいたします。秒まで、全部でございます」


時計は軽い。 革のベルトに、まだ手首の形の癖がついている。


「それは重いっす」


マチさんがまばたきを1回した。


「……重さは、ほとんどございませんが」 「そっちの重さじゃないっす」


マチさんは返事をしなかった。 腕時計を俺の手に載せたまま、まだ袖を離さなかった。


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0419】 分類:甲(暫定) 呼称:線路の手 発生場所:東亜線 夜見坂〜隣駅間 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト) 経過: 対応中に乙から甲相当へ上昇。応援到着前に対応終了。 担当アルバイト、回送列車の進路上で足部を拘束。列車は約50cm手前で停止(「待ち人」の時刻停止による)。 担当アルバイトが線路内で遺品(白手袋)を発見・回収。対象は核の除去により消失。 遺品は当該区間で殉職した駅員のものと推定(記録照合中)。 危険手当:500,000円(甲) 備考:担当アルバイトに恐怖反応なし。 備考2:契約怪異「待ち人」に恐怖反応あり。対象は担当アルバイトの生命。     怪異が人間のために恐怖を示した事例は、当機関の記録に存在しない。

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