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鏡に映らない人を直したら、うちの鏡に知らない目がいた




烏丸静は本部からの電話を3回無視した。


4回目の着信で、机の上の固定電話が小さく跳ねた。 烏丸は受話器の上にそっと書類を1枚載せた。 音がくぐもって、やがて止まった。


宵帳 第三調整室、室長室。 昼の光がブラインドの隙間から縞になって落ちる。 窓の外で、どこかの工事の音が鈍く続く。


机の真ん中に報告書No.0419が置いてある。 烏丸の指が最後の2行の上で止まった。


備考2。 怪異が人間のために恐怖を示した事例は、当機関の記録に存在しない。


「書かなければよかったですかね」


誰にともなく言って、烏丸は笑顔のまま首を傾げた。 書いたのは真壁で、通したのは烏丸だ。 今さらである。


5回目の着信は書類をどけて取った。


『烏丸くん。No.0419だが、甲を正職員1名とアルバイト1名で?記録の誤りではないのか』 「誤りではありません」 『では、そのアルバイトは何なんだ』


受話器の向こうで、別の声が割り込んだ。


『だから保護すべきだと言っている』 『保護?恐怖反応のない人間など、危険物として管理――』 「お2人とも」


烏丸の声は笑顔の形のままだった。


「彼は時給で働いている大学生です。経歴は書面でお送りしますね」


返事を待たずに受話器を置いた。


引き出しから律の採用書類を出す。 白洲律、19歳、私立大学2年。家業は特殊清掃。担当事案、8件。 写真の律は寝癖を直さずに撮ったらしい。 後頭部の一房が横に跳ねている。


「経歴、ですか」


烏丸は書類を机の右に置いた。


それから、引き出しのいちばん奥に手を入れた。 奥の金具に爪が当たる硬い音。


出てきたのは古い紙のファイルだった。 角が丸くなって、表紙が黄ばんでいる。 手書きの文字が1行だけ。


『夜尾村』


律の書類のすぐ左に並べる。


烏丸の指が表紙の端に掛かった。 1センチ持ち上がる。 中の紙の端が黄ばんで波打っているのが見えた。


そこで、指が下りた。


「……まだですね」


ファイルは引き出しの奥へ戻った。 鍵の回る音が小さく1回。


ノックもなしにドアが開いた。


「室長、本部からまた電話きてますよ。俺のほうに」 「出ないでくださいね、真壁さん」 「もう出ちゃいました」 「あらら」 「室長は会議中ですって言っときました。何の会議か聞かれたんで、困りました」 「何と答えたんですか」 「……昼飯会議」


烏丸は笑顔を崩さなかった。 真壁が目を逸らした。


「で、それとは別に、新しいのです」


真壁が依頼書を机に置いた。 分類は丙。


「公園の公衆トイレの鏡。そこで鏡見たやつが、どの鏡にも映らなくなる。3人やられてます」 「丙ですね。白洲くんと行っていただけますか」 「あいつ、昨日の今日ですけど」 「明日は1限があるそうですね」 「……何で知ってんすか」


烏丸は答えずに、依頼書に判子を押した。


◇


23時。


「無理無理無理」


現場の匂いは芳香剤が勝っている。 公衆トイレの入り口で、真壁さんが壁を向いている。 コンクリートの壁に額がつきそうだ。


「真壁さん、まだ何も見てないっす」 「見たら映らなくなんだろ!!」 「鏡を見たら、っすね」 「だから見ねえんだよ!!」


それで壁を見ているらしい。 理屈は合っている。


蛍光灯が1本切れかけて、ジジ、と鳴る。 床のタイルは乾いている。 芳香剤の下に、古い水の匂いが混じる。


公衆トイレとしては、きれいなほうだ。 掃除の人がちゃんと入っている。


「被害者の3人、今どうなってるんすか」 「生きてる。普通に生活してる。ただ鏡にも窓にも、スマホのインカメにも映らねえ」 「不便っすね」 「不便で済むか。1人は美容師だぞ」


それは不便だ。


手洗い場の鏡は横に長い1枚もの。 幅は1メートル半くらい。 ステンレスの枠で、壁にねじ留めしてある。


俺は鏡の前に立った。


「おい待て」


背中で真壁さんの声が裏返る。


鏡の中に、俺がいる。 寝癖が跳ねている。 マスクを首に下げている。


普通に映った。


「……映ってるか」 「映ってます。寝癖まで」 「寝癖はどうでもいい」


鏡の右端に、曇りがある。


手のひらくらいの大きさ。 よく見ると、丸い。 上のほうに、くぼみが2つ。 下に、横長の薄いところが1つ。


人の顔の形だ。


湯気で曇ったガラスに、誰かが顔を押しつけたあと。 そういう曇り方をしている。


「真壁さん、端っこに顔っぽいのがあります」 「言うな!!実況すんな!!」 「染みっすね。たぶん」 「染みって言い方やめろ」


鞄からマイクロファイバーのクロスと、アルコールのスプレーを出した。 鏡に2回吹く。 円を描かずに、上から下へ一方向に拭く。 円で拭くと汚れを広げるだけだから。


曇りが消えた。


ガラスがきれいになる。 俺の顔の横、右端に何もない。


3秒。


拭いたところが内側からうっすら白くなった。 同じ形。 くぼみが2つ。


「戻りました」 「戻んな!!」 「俺に言われても」


もう一度拭く。 消える。 5秒で戻る。


もう一度。 今度は4秒。


拭いても拭いても、きりがない。


◇


拭くのをやめて、戻るところを見た。


水垢なら、表面に残る。 拭けば、クロスに白い粉がつく。 クロスはきれいなままだ。


表面の汚れじゃない。


曇りは端から戻らない。 真ん中の1点から、じわっと広がる。 くぼみの位置から先に白くなる。


フローリングの下に染みた体液と、同じ戻り方だ。 上をいくら拭いても、板の裏から滲んでくる。 そういうときは床を剥がす。


「真壁さん、ドライバーあります?」 「……何に使う」 「鏡、外します」 「お前マジか」


真壁さんは壁を向いたまま、腰の工具入れからプラスのドライバーを出した。 手だけ後ろに伸ばしてくる。 俺はそれを受け取った。


「見んなよ。俺、ほんとに見ねえからな」 「鏡は外すと、ただの板っす」 「板でも見ねえ!!」


ねじは4本。 1本目が固い。 水回りのねじは錆びる。 2本目からは軽かった。


最後のねじを抜いて、鏡を両手で持つ。 両手でも少し重い。ガラスが厚い。 壁から離すと、裏から乾いた紙の匂いがした。


鏡の裏に、別の鏡があった。


正確には、破片だ。 古い鏡の、割れたかけら。 大きいので手のひらくらい。 それが3枚、黒いテープで裏板に貼りつけてある。


かけらの中に、顔があった。


1枚に1人ずつ。 若い男。 中年の女。 エプロンをつけた、髪の明るい女。


3人ともこっちを見ている。 口が少しだけ開いている。 何かを言いかけた形のまま、止まっている。


「白洲……何か、あったのか」 「破片が3枚っす。被害者の3人っすね、たぶん。美容師さんもいます」 「何で分かんだよ」 「エプロンに、ハサミのホルダーついてるんで」 「顔の話してんだよ!!」


破片を指で叩く。 コツ、と固い音。


テープの貼り方が雑だ。 重ねて、何周も巻いてある。 誰かが割れた鏡を拾って、ここに貼り直した。


いつ。 誰が。


それは俺の仕事じゃない。


クロスをもう1枚出して、床に広げた。 いちばん小さい破片から剥がす。 テープの端を爪で起こして、ゆっくり引く。


破片が裏板から離れた。


中の若い男が、まばたきをした。


「おわっ」


真壁さんの声がした。 見てないはずなのに。


「真壁さん、見ました?」 「見てねえ!!音で分かった!!」 「音しました?」 「お前の『あ』で分かった!!」


言ってない気がする。


破片をクロスの真ん中に置く。 4つの角を折る。 1枚ずつ、別のクロスで包む。


かけら同士がぶつかると、また割れるから。


2枚目。 3枚目。 エプロンの女の人が、包む前に一瞬、俺を見た。 その破片の縁に、銀色の点が1つ映って、消えた。


3つの包みを鞄の箱に並べた。


「見ます?」 「見ねえよ!!」


少し間があった。


「……縁だけだぞ!!割れ方だけは確かめねえと気持ち悪いんだよ。昔の癖だ」


真壁さんは顔をそむけたまま、包みの端をめくって横目で覗いた。 3秒で壁に戻った。


鏡を壁に戻す。 ねじを4本。


右端の曇りは、もう戻らなかった。


真壁さんのスマホが震えた。 真壁さんは片手で目を覆ったまま、耳に当てた。


「……はい。……はい。3人とも?……映った?」


電話を切って、真壁さんがやっと振り返った。 鏡に背を向けたまま、横歩きで俺の隣まで来る。


「戻ったってよ。3人とも。美容師、家の鏡の前で泣いてるらしい」 「よかったっす」 「よかったじゃねえよ。……0時5分。早えな」 「そっすか」 「前に鏡の事案で、鏡ごと割ったことあんだよ。被害者ごと戻らなかった。外して裏見るやつなんて、聞いたことねえ」 「床と同じっす」


時計を見ると、本当に0時5分だった。 今夜の分には間に合う。


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0420】 分類:丙 呼称:映し忘れ 発生場所:緑地公園 北側公衆トイレ 手洗い場 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト) 経過: 鏡の裏板に、旧い鏡の破片3枚が貼付されているのを発見。破片に被害者3名の像あり。 担当アルバイトが破片を剥離・個別に梱包。直後に被害者3名の映り込みが回復。 破片の貼付者は不明。 危険手当:100,000円(丙) 備考:担当アルバイトに恐怖反応なし(担当事案 累計9件)。担当正職員は終始壁を向いて対応。


◇


公園の出口で、真壁さんが車のキーを回しながら言った。


「なあ、白洲」 「はい」 「その破片の割れ方。内側からじゃないか」 「そっすか」 「外から叩いたら、真ん中にヒビが集まんだよ。あれ、全部外に向かって割れてた」


鞄の中の箱を思い出す。 かけらの縁。 言われてみれば、そうかもしれない。


「今日、1限なんで」 「答えになってねえ!!」


なってないと思う。


◇


0時41分、マチさんの駅。


腕時計を返そうとしたら、マチさんは両手を後ろに回した。


「お預けいたしましたので」 「じゃあ、預かっときます」 「……はい」


白い手袋が、俺の手首に伸びた。 腕時計の竜頭をつまんで、自分の懐中時計に秒を合わせ直す。


「2秒、遅れておりました」 「そっすか」 「本日は、線路にはお下りになっていませんね」 「なってないっす」


手袋が、手首の上で止まった。


「……鏡の匂いがいたします」 「公衆トイレっす。仕事で」


マチさんは何も言わずに、懐中時計の蓋を閉じた。


「延長、今週はいいって言いましたけど。今日はどうします」 「1時間を、頂戴いたします」 「契約帳だと、延長は別途っすよね」 「別途にございます。……わたくしが付けておきますので」


付けられるのは、たぶん俺のほうだ。


いつもの時間は1時53分51秒に終わった。 延長の1時間が終わったのは、2時53分51秒。 帰りは線路沿いを緑台まで歩いた。


◇


4時30分。


アパートの洗面所の電気をつける。 蛇口をひねると、水がまだ冷たい。


顔を洗う。


丙の手当が10万。 借金は1,648万から、1,638万。 桁はまだ、1つも減らない。


鏡の中の俺は寝癖が直っていない。手を濡らして押さえる。 跳ねる。 もう一度押さえる。 跳ねる。


あきらめた。


歯を磨く。 ミントの味が、徹夜明けの口にしみる。 1限は9時から。 寝られて3時間ちょっと。


マチさんの腕時計は、洗面台の端に置いた。 秒針の音が、水の音のあいだに小さく聞こえる。


うがいをして、タオルで顔を拭いた。


タオルを掛ける。


洗面所の電気を消した。 秒針の音が、1回だけ止まった。


顔を上げる。


暗い鏡の中で、俺じゃない銀色の目が、ゆっくり瞬きをした。

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