洗面所の目に挨拶したら、同僚から鏡の匂いがした
俺は鏡に向かって言った。
「おはようございます」
銀色の目は、瞬きをした。
こっちを見ている。
俺は洗面台の端に置いたマチさんの腕時計に触れた。 秒針の音が、まだ止まっている。
返事はない。 目だけが、暗い鏡の中に浮いている。
俺は洗面所の電気をつけた。
パチ。
秒針の音が、戻った。
鏡に俺が映った。 寝癖。 首に下げたマスク。 銀色の目は、もうどこにもない。
鏡の右端に、小さな曇りがある。 手のひらより小さい。 丸くて、下に薄い線が1本。
また顔の形だ。 今度は小さい。 鏡の縁から、古い水の匂いがした。
クロスは鞄の中だ。 鞄は玄関。 取りに行くのは面倒だった。
手を濡らして、指で拭く。
消えた。
3秒。 内側から白くなる。 同じ形。 小さく戻った。
「戻りますね」 返事はない。 当然だ。
もう1回指で拭く。 5秒で戻る。
鏡の曇りが、少し大きくなった。 さっきより指1本ぶん広い。
拭く。 戻る。 拭く。 戻る。
「無限っすね」
1限は9時から。 寝られて3時間。 もう3時間ない。
曇りを見る。 曇りも俺を見ている。 気がする。 気がするだけだ。
「寝ます」
電気を消した。
ぽた、と。 排水の奥で、水が1滴だけ落ちた。
◇
22時50分。
宵帳 第三事務所。
烏丸室長が、笑顔で書類を1枚持っていた。
「白洲さん。今夜、第一調整室に挨拶に行ってください」 「はい」 「戸川さんという事務の方がいるんですが」
室長は書類を机に置いた。 コピー用紙1枚。 第一調整室の職員名簿だ。
「4日前から、様子が違うと同僚が言っていまして」 「様子」 「はい。右利きなのに、左で判を押すそうです」 「左で」 「ええ。あと、昼の弁当を食べない」 「食べない」 「はい。理由は、誰も説明できないそうです」 「手当、出ます?」 「内部なので、乙で調整しますね」
真壁さんがソファから身を起こした。
「室長。それ、内部っすよね」 「内部ですね」
室長は笑顔のまま、書類の端を揃えた。
真壁さんが立ち上がった。
室長が書類をもう1枚出した。 戸川さんの座席表だ。 席は、窓際のいちばん奥。
真壁さんが俺の肩を掴んだ。
「内部案件は、逃げていいんだぞ。俺がなんとかするから」 「なんとか、できるんすか」 「できねえけど!!お前が行くよりましだ!!」 「真壁さん、怖いんすか」 「怖いに決まってんだろ!!昨日まで普通だった同じ職場のやつが、今日から違うんだぞ!!」 「違う」 「匂いが違うんだよ!!お前の言い方で言えば、染みが違う!!」
それは、なんとなく分かる。
「いいか、白洲」 「はい」 「お前は顔で判断すんなよ」 「匂いで見ます」
◇
23時20分。
宵帳本部の3階。 第一調整室の前で、真壁さんは廊下の壁に貼りついた。
ドアを2回ノックした。
返事はなかった。
3秒待って、もう1回ノックした。
「どうぞ」
中から声がした。
俺はドアを開けた。
蛍光灯が4本。 全部ついている。 第三事務所より明るい。 匂いは薄い。紙とインクと、あと何か。
席は半分以上が空だった。
いちばん奥。 窓際の席に、人が1人座っている。
戸川さんだ。
背中をまっすぐにして、PCの画面を見ている。 画面は電源が落ちている。 黒いままだ。
「お疲れさまっす」
俺は声をかけた。
戸川さんが振り返った。
笑顔だった。 口元だけが先に動いて、目が後からついてくる。 そういう笑い方だ。
「ああ、どうも。第三の方ですか」 「はい。烏丸室長に言われて」 「そうでしたか。わざわざすみません」
戸川さんは椅子から立ち上がった。 立ち上がり方は普通だ。 左手でデスクの端を押さえて、ゆっくり。
「戸川さん、夜遅くまで」 「ええ。片付けが残っていまして」 「片付け」 「はい。ずっと」
机の上を見た。 書類は1枚もない。 ペン立てにペンが3本。 右側に揃えてある。 右利きの揃え方だ。
マグカップが1つ。 中は空だ。 底に茶渋の輪が1つ。
弁当箱も、包みもない。 マグカップだけは使っている。
「何かお困りのこと、ありますか」 「いいえ。何も」
戸川さんは笑顔のまま首を振った。
俺は半歩近づいた。
「同僚の方が、様子が違うと」 「私が?」 「はい」 「そうでしょうか」
戸川さんは自分の手を見下ろした。 両手を開いて、裏返して、また開く。 その動きを、俺も見ていた。
俺が右手を上げると、戸川さんは左手を上げた。 1拍遅れて。 俺が手を下ろすと、戸川さんも下ろした。 1拍遅れて。
「癖でして」
戸川さんが言った。
「癖」 「ええ。相手に合わせる癖が昔からありまして」
それにしては1拍遅い。
俺はもう半歩近づいた。
近づいて、分かった。
匂いだ。
戸川さんから、匂いがする。
芳香剤の匂いが最初に来る。 その下に、古い水の匂い。 さらに下に、乾いた紙の匂い。
公衆トイレの鏡の裏と同じだ。
鏡を壁から外したとき、裏板からした匂い。 あれと、同じ順番で、同じ濃さで重なっている。
俺は鼻で息を吸った。
間違いない。
「戸川さん」 「はい」 「今日、鏡を見ました?」
戸川さんの笑顔が止まった。
1秒。 2秒。 3秒。
目だけが動いた。 笑顔はそのまま。 目の奥だけが、ゆっくり俺を見た。
「鏡は」
戸川さんが言いかけて、止まった。
口が開いたまま、動かない。 何かを言おうとして、喉の奥で止まっている。
俺は見ていた。
背中で、真壁さんが壁に当たった音がした。 ドサ、という鈍い音。 それから、息を飲む音。 悲鳴は出なかった。 出せなかったらしい。
「鏡は、見ておりません」
戸川さんが言った。
「そうっすか」 「ええ」
笑顔に戻った。 さっきと同じ笑い方。 口が先で、目が後。
「失礼しました。お疲れさまでした」
俺は頭を下げた。
戸川さんも頭を下げた。 1拍遅れて。
頭を上げながら、戸川さんが小さく言った。
「はじめまして、白洲さん」
俺は名乗っていない。 「はじめ」の高さだけが、俺の声と同じだった。
俺がドアに向かって歩き出すと、背後で椅子の音がした。 座り直したらしい。
ドアを閉める直前、振り返った。
戸川さんはPCの黒い画面を見ていた。
黒い画面に、戸川さんの顔が映っている。 笑顔のままだ。 ただ、画面の中の戸川さんは、こっちを見ていた。
コン。
戸川さんの机の、引き出しの奥から。 1回だけ。
戸川さんは動かなかった。 笑顔のまま、黒い画面を見ている。
「……あとで開けます」
背中で、真壁さんが小さく言った。
「……お前マジか」
ドアを閉めた。




