引き出しを開けたら、偽物の同僚に「キミ、空っぽだね」と言われた
23時27分。
閉めたドアの前で、俺はドアノブを見ていた。
真壁さんが廊下の壁から半歩だけ離れた。
「あとでって言ったろ!!」 「言いました」 「じゃあなんで手ぇ伸ばしてんだ!!」 「開けます」 「開けんな!!」
俺はもう一度ノックした。 2回。
返事はなかった。
3秒待つ。 ドアの向こうで、椅子が軋む音が1回。
「どうぞ」
さっきと同じ声だ。
俺はドアを開けた。
蛍光灯が4本。 全部ついている。 席は半分以上空いたままだ。
いちばん奥の窓際。 戸川さんが座っている。 PCの黒い画面を見たまま。 こっちを振り返らない。
「お疲れさまっす」 「はい」
画面を見たままだ。
俺は机の横まで歩いた。 3歩。
匂いが濃くなる。 芳香剤。 古い水。 乾いた紙。 さっきと同じ順番だ。 濃さも同じ。
「戸川さん」 「はい」 「引き出し、開けていいっすか」
戸川さんの肩が、1センチだけ持ち上がった。 笑顔のまま、ゆっくり振り返る。 口元が先。 目が後。
「どうぞ」
1拍遅れて、戸川さんが言った。
「失礼します」
俺は机の前に立った。 いちばん上の引き出しに手をかける。 右手だ。
「白洲、おい」
背中で真壁さんの声がした。
「見つかったら終わりだぞ」 「何が終わるんすか」 「色々だ!!」
引き出しを引いた。 軽い。 途中で一度引っかかる。 もう一度引くと、奥まで開いた。
中は暗い。 奥のほうに何かある。 平たいものが1枚。 上から布がかぶせてある。
俺が右手を引き出しの中に入れると、視界の端で戸川さんが動いた。
左手を机の上に上げる。 引き出しを開ける形。 でも、戸川さんの左手の先には何もない。 引き出しはもう開いている。
空中で、開ける真似をしている。 指が取っ手を掴む形のまま、ぎこちなく止まる。
「戸川さん」 「はい」 「今、何を」 「開けておりません」
笑顔のまま言う。 左手はまだ空中にある。
俺は引き出しの中の布をどけた。
手鏡だった。
伏せてある。 丸い、古い手鏡だ。 縁は真鍮で、緑青が浮いている。 直径は20センチくらい。 柄はない。
裏側が見えている。 真鍮の裏板に、花の彫り物。 その真ん中に、小さな傷が1つ。 円くえぐれている。 指で叩かれたような形だ。
コン。
さっき聞いた音だ。
机の上を見る。 戸川さんの手。 ペン立て。 マグカップ。 ほかに叩けるものはない。
音の出どころは1か所しかない。 引き出しの奥。 この鏡の裏だ。
誰かが、この鏡の裏を叩いた。
内側から。
「戸川さん」 「はい」 「この鏡、いつからここに」
戸川さんは答えなかった。
笑顔のまま、空中に上げた左手をゆっくり下ろす。 引き出しの上で止まる。 閉める形だ。
戸川さんの左手は、取っ手を握っていない。 何もないところを握っている。
握る形だけが、そこにある。
俺は手鏡の縁をつまんだ。
真鍮は冷たい。
ひっくり返す。
ガラスは曇っている。 古い曇りだ。 拭いても取れない種類の。
その中に顔があった。
やつれている。 頬がこけて、目の下に隈が2本。 髪が乱れている。
戸川さんだ。
本物のほうだ。 偽物は俺の前にいる。
鏡の中の戸川さんは、こっちを見ている。 口を開けている。 何か言っている。 聞こえない。
手が動いた。 鏡の内側から、ガラスを叩いている。
コン。 コン。
さっきの音だ。 1回だけじゃなかった。 ずっと鳴っていた。 俺が気づかなかっただけだ。
「白洲……それ……」
真壁さんの声が裏返った。
「映ってるっす」 「映ってるって何が!!」 「戸川さんです。本物のほう」 「本物って何だよ!!目の前にいるだろ!!」
目の前にいる。 笑顔のほうが。
鏡の中の戸川さんは俺を見て、また叩いた。
口が動く。 「たすけて」の形だ。 「出して」の形だ。
声はない。 ガラスは厚い。
「白洲さん」
声がした。 近い。
偽物の戸川さんが椅子から立ち上がっていた。 左手でデスクの端を押さえて、ゆっくり。 でもデスクの端には手が届いていない。 押さえる形だけをしている。
1歩。 2歩。 3歩。
俺の鼻の先、40センチのところで止まった。
笑顔だ。 口元が先。 目が後。
「白洲さん」 「はい」 「こっちを、見てくれますか」
背中で、真壁さんが息を止めた音がした。
俺は見た。
戸川さんの笑顔が、溶けた。
先に動いていた口が、横に伸びる。 目が後から追いつく。 追いつく先が、もうそこにない。
頬が下がる。 鼻が低くなる。 顎の線が、ゆっくり別の形になる。
1秒。 2秒。 3秒。
戸川さんの顔が、なくなった。
そこに俺の顔があった。
寝癖が一房、横に跳ねている。 首にマスクを下げている。
鏡じゃない。 目の前に立っている。
「……ひっ」
背中で真壁さんの喉が鳴った。 ズ、ズ、と靴底が壁際を滑る。
俺は自分の顔を見ている。 自分の顔を間近で見る機会はない。
目が違う。
俺の目は黒い。 目の前の目は銀色だ。 暗い鏡の中で見たのと同じ色。
顔の輪郭が定まらない。 頬の線が水面のように揺れる。 額の幅が1秒ごとに変わる。 溶けて、固まって、また溶ける。
俺の顔の形を探している。 まだ完成していない。
「白洲!!離れろ!!」
俺は動かなかった。 手鏡を持ったまま。
鏡の中の本物の戸川さんは、まだガラスを叩いている。
コン。 コン。
「顔が、変わりました」 「見て分かってる!!」 「俺の顔っすね」 「お前の顔だ!!知ってるよ!!」
俺は首のマスクを直した。 耳のひもを引いて、鼻の上まで上げる。 指2本で、ひもを耳の後ろに掛ける。
目の前の顔が動いた。
1拍遅れて。
耳のひもを引く形。 鼻の上まで上げる形。 でも指は、マスクに触れていない。 手は空気を掴んでいる。
指の形が、俺の指と同じだ。 爪の形まで同じ。 指先だけが、少しだけ遅れて動く。
「真壁さん」 「何だよ!!」 「マスク、持ってないっすね」 「マスクの話してんじゃねえよ!!」
俺は瞬きをした。
1拍遅れて、銀色の目が瞬きをした。
まぶたが下りるたびに、輪郭が1センチずつずれる。 右に寄って、戻る。 左に寄って、戻る。 水面に石を落としたときの戻り方だ。
「戸川さん」 「はい」
返事だけは、戸川さんの声のままだ。 俺の顔の形で、声だけが戸川さん。
「どっちが、本物っすか」
目の前の顔が、少しだけ傾いだ。 傾ぐと、輪郭が首から外れる。 顔だけが、少し右上に浮く。 戻る。
俺は手鏡を、胸の位置から少しだけ上げた。
目の前の顔が、1拍遅れて上げる形をする。 手は空だ。 何もない手を、胸の位置に上げている。
「戸川さん」 「はい」 「鏡、持ってないっすね」
銀色の目が、ゆっくり瞬きをした。
1拍遅れずに。
その1回だけ、遅れなかった。
目の前の口が、俺の声で言った。
「……あれ」
俺の寝癖の形の頭が、少しだけ傾く。
「なんで、写らないの」
声が震えている。 俺の声で震えている。 俺は震えていない。
目の前の顔が、俺の顔のまま崩れた。
右の頬が、下に流れた。 溶けたわけじゃない。 形を保てなくなった。
輪郭が右に寄って、戻らない。 左に寄って、戻らない。 目の間隔が広がる。 銀色の目だけが動かない。
「なんで」
俺の声だ。
「なんで、写らないの」
俺の手の形の手が、俺の頬に伸びる。 指先が届く手前で止まる。 指がほどける。 手の形がなくなる。
戸川さんのシャツが、中身を失って平たくなる。
「写して」
俺の声だ。
「怖がって」
俺は怖くない。 だから写らない。
「写してよ」
声が高くなった。 俺の声の高さじゃない。 ガラスが割れる音に似ている。
顔がほどけた。
首が消える。 肩が消える。 シャツが空になる。 服だけが床に落ちる。
人がいた形のまま、服だけが残った。 銀色の目だけが、空中に浮いている。
1秒。
目が消えた。
いちばん奥の窓際。 戸川さんの机。 PCの黒い画面。
画面の中に、目があった。
銀色の目が2つ。 目の周りに、輪郭がにじむ。 髪がある。 黒い。 長い。
顔の形が、画面の中で固まった。
少女だ。
銀色の目の少女が、PCの黒い画面の中にいる。 輪郭が揺れていない。 画面の中で、形が決まっている。
「……あ」
背中で真壁さんの音がした。 声じゃない。 声にならなかった音だ。
「真壁さん」 「……見てる」
小さく言った。
「見てるけど、声が、出ねえ」 「出さなくていいっす」
画面の中の少女が、まばたきをした。 ゆっくり。 まぶたが下りて、銀色が消えて、開いて、銀色が戻る。
それから、笑った。
口角が上がる。 目が細くなる。 声は聞こえない。 唇だけが動いた。
読んだ。
「キミ」
「空っぽだねぇ」
目が細くなったまま、もう一度開く。 銀色が揺れる。 今度は揺れているんじゃない。 光っている。
「……きれい」
少女の唇が、そう動いた。
鏡の中の本物の戸川さんは、もうガラスを叩いていない。 少女が笑ってから、止まった。
「……白洲」
真壁さんの声が、やっと出た。
「あれ、何だ」 「分かんないっす」 「分かんないで見てんのか」 「見てるだけっす」
画面の中の少女が、少しだけ首を傾げた。 黒い髪が、画面の枠の外に1センチだけ出て、引っこんだ。
「……白洲。あれ、出てきてるぞ」 「そっすね」
俺は画面に向かって言った。
「戸川さん、返してもらえます?」
「えー」
声がした。 PCのスピーカーから。 少し割れている。 間延びしていて、甘い。
「えー、だめ。もうちょっと置いといていい? まだ新しいもん」 「新しい」 「うん。空っぽは、初めて見たもん」
画面の枠から、指の先が1センチだけ出る。 引っこむ。
「怖がんないんだねぇ」 「特には」 「特には、だねぇ。ふーん」
ふーん、が長い。 3秒くらい続いた。
「ねぇ。キミの恐怖、食べたいんだけど」 「ないっす」 「ない、だねぇ。困るねぇ」
困っていない声だった。
銀色の目が、俺の手の中の手鏡を見る。
「あれ、返す?」 「返してください」 「えー。だって、せっかく拾ったのに」
拾った。 戸川さんを、拾ったと言った。
「ねぇ。キミのほうが面白いもん」 「面白い」 「うん。だって、空っぽで生きてるんでしょ。珍しいもん」
珍しい。 特殊清掃の現場でも言われたことがない。
「返してくれたら、また来ます」 「……あとで?」 「あとで」
少女が下唇を前に出した。 膨れた顔。
「ちぇ」
小さい舌打ちが、スピーカーから漏れた。
「わかった。かえす」
少女が画面の中で、右の手を斜め上に振った。 何かを放る動作。
手の中の手鏡が、重くなった。
2秒。
ガラスが、内側から膨らんだ。 手のひら1枚分。 指先で押されている形だ。
パキ。
割れた音じゃない。 弾ける音だ。
隙間から、指が出た。 右手の、人差し指と中指と薬指。 関節が白い。 ガラスの縁を掴んでいる。
引く。 手首が出る。 シャツの袖が出る。 右肘まで出る。
血は出ていない。 欠けていくのは鏡の縁のほうだ。
「白洲!!それ!!」
真壁さんが壁から離れた。
右肩。 左肩。 胸。
手鏡から、戸川さんの上半分が垂れ下がっている。 俺の手の上に。
重い。 大人1人分の重さが、手のひら2枚に乗っている。
バリ、と穴が横に裂けた。 膝。 脛。 靴の先がガラスの縁を蹴った。
戸川さんが床に落ちた。
ドサ。
ガラスは全部割れた。 俺の手には、真鍮の丸い枠だけが残った。
戸川さんは床に座りこんでいる。 両手をついて、上半身を支えている。
頬がこけている。 目の下の隈が濃い。 数日洗っていない髪が、平たく頭に張りついている。 シャツが1回り大きく見える。 4日で、ここまで痩せている。
焦点が合っていない。 蛍光灯を、まぶしそうに見ている。
3秒。 4秒。
それから、自分の右手を見た。
開く。 閉じる。 開く。 閉じる。
判を押す動きだ。 何もない空気に、右手でスタンプを押す。 押して、離す。 押して、離す。
右利きの手だ。
「戸川さん」
戸川さんの目が、ゆっくり俺を見た。
「……ここは」
かすれた声だった。
「第一調整室っす」 「……第一」
右手はまだ動いている。 止まらない。 鏡の中で、ずっと押し続けていたのだと思う。
「おい!!」
真壁さんが3歩で来て、戸川さんの横に膝をついた。
「大丈夫か!!分かるか、俺だ」 「……真壁、さん」 「よし。いいか、動くなよ」
真壁さんが戸川さんの肩を掴んだ。 握る指が震えている。
スピーカーから、また声がした。
「ねえねえ」
黒い画面の中で、少女がまだ笑っている。
「朝、おはようって言ってくれたよねぇ」 「言いました」 「うん。言ったねぇ。うれしかったなぁ」
スピーカーの奥で、水滴が落ちる音がした。
「あのね。洗面所の、あれ」
銀色の目が俺を見ている。
「ボクなの」 「……そっすか」 「そっすか、だねぇ」
画面の明かりが1段落ちた。 蛍光灯は4本ついている。 暗くなったのは画面の中だけだ。
「ずっと見てたの。キミのこと」 「いつから」 「ずーっと」
答えになっていない。
少女の指が、画面の内側からガラスに触れる。
「鏡の裏でも、洗面所でも。キミ、ちっとも怖がらないんだもん」 「別に」 「別に、だぁ」
それから、声が1段低くなった。
「キミになりたいなぁ」
真壁さんの喉が鳴った。
少女の銀色の目が潤んでいる。 うっとりしている。 そういう顔だ。
「空っぽで、生きてて、時給で働いて」
指を折る。 1本。 2本。 3本。
「いいなぁ」
4本。
「いいなぁ」
5本。
開いた手のひらを、画面に押しつける。 白い。 小さい。
「キミの形、ちょうだい」 「あげません」 「けち」
即答だった。
「じゃあ、もらうね。そのうち」
ギ、と画面がたわむ音がした。
俺は半歩、机に近づいた。
画面の表面に、指紋がある。 5本。 少女の手のひらの形。 外側についている。
「あ」
少女が気づいた。
「見ちゃった?」 「ついてますね」 「ついちゃった」
少女が手を後ろに隠す。 指紋は残っている。
「真壁さん、クロスあります?」 「か、鞄だ。お前の」
鞄からマイクロファイバーのクロスを出した。
「何すんだ」 「拭きます」 「それ、画面だぞ!!中にいるんだぞ!!」 「外に指紋がついてるんで」
真壁さんが口を開けて、閉じた。
「……お前マジか」
クロスを画面に当てる。 上から下へ。 一方向に。 円で拭くと広げるだけだから。
1回。 2回。 3回目で、画面がきれいになった。
黒い。 少女がいない。
「……消えた」 「拭いただけっす」 「拭いただけで消えんだよ!!」
クロスを畳んで、ポケットにしまう。
それから、気づいた。
拭いたところが、内側から白くなっている。 真ん中から。 鏡の曇りと同じ戻り方だ。
文字になった。
小さく。
「またね」
細い、ひらがなだった。 それ以上は広がらない。
「……白洲」
真壁さんの声が低い。 震えていない。 珍しい。
「今の、何級だ」 「分かんないっす」 「分かんないで済むか」 「済まないっす」
真壁さんが戸川さんの肩に腕を回して、抱え起こした。 膝が笑っている。 右手は、まだ判を押す形のままだ。
「止まりません」 「癖だ。そのうち止まる」
俺の横を通るとき、戸川さんが俺を見た。
「白洲さん」 「はい」 「鏡の中、寒かったです」 「そっすか」 「ええ。ずっと」
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0421】 分類:乙 呼称:すり替わり(写し身) 発生場所:宵帳本部3階 第一調整室 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 第一調整室職員1名が4日前より行動異常(利き手の反転、食事の停止)。 職員本人は机の引き出しの手鏡の内部に拘束されていた。 職員の姿の対象は担当アルバイトへの成り代わりを試み、形態を維持できず崩壊。 PC画面に銀色の目の個体を確認。個体が手鏡から職員を解放。職員1名救出。 担当アルバイトが画面を清拭。個体は消失。清拭面に曇り(「またね」)が残留。 危険手当:300,000円(乙) 備考:対象は担当アルバイトへの成り代わりに失敗。原因:写すべき恐怖が存在しなかったため。
◇
0時41分。
夜見坂のホーム。
マチさんがいた。
紺のロングコート。 白い手袋。 懐中時計を見ている。 いつもの場所に、いつもの姿。
俺がホームに下りると、マチさんは時計から目を上げた。
歩いてくる。 靴音はしない。
マチさんの右手の手袋が、俺の首元に伸びた。 マスクのひもの下。 布に触れずに止まる。
匂いを嗅いでいる。 息を吸う音が小さい。
3秒。
手を下ろした。
「律さん」 「はい」 「鏡の匂いが、昨夜より濃うございます」 「同僚の件で」
言ってから、同僚の件ではないと思った。 画面の少女の件だ。 でも同僚の件でもある。
マチさんは懐中時計の蓋を開いた。
「同僚の方は」 「はい」 「律さんを見つめましたか」 「見つめられました」
カチ。
懐中時計が鳴った。
「……12分」
数字だけ。
俺が画面の少女と話していた時間。
俺は計っていない。 マチさんが計っていた。 夜見坂に来る前の時間を。 改札の外の時間を。
計れないはずだ。 でも、たぶん合っている。
マチさんは蓋を閉じた。
手袋が、俺の袖に伸びた。 指2本で、袖口の折り目を直す。 寝癖と同じで、直しても戻る。 マチさんはもう1回直した。
「お帰りの際は」 「はい」 「鏡をご覧になりませぬよう」 「歯磨きのとき見ますけど」
マチさんの目が細くなった。
笑っていない。
口は閉じたまま。 目だけが細い。
◇
4時8分。
アパートの洗面所の電気をつけた。
蛇口をひねる。 水は冷たい。
乙の手当が30万。 借金は1,638万から、1,608万。 桁はまだ、1つも減らない。
歯ブラシに歯磨き粉を乗せる。 磨く。 右から左。 上から下。
鏡を見る。 俺がいる。 鏡の中の俺も磨いている。
1拍遅れて。
口をゆすいで、顔を上げる。
洗面台の端で、マチさんの腕時計の秒針が止まった。
鏡の中の俺は、口をゆすいでいない。 白い泡が口の端についたまま。 手の甲で、泡を拭う。
銀色の目が細くなった。
俺の声で言った。
「おかえりぃ、律」




