展望デッキの自撮りに、知らない女がだんだん近づいてくる
「ただいま、って返せばいいんすか」
歯ブラシをコップに戻す。
「ここ俺の家なんで。言うなら俺です」
鏡の中の俺の顔が、ほどけた。
右の頬が下に流れる。 輪郭が揺れる。 銀色の目だけ、動かない。
その周りに黒い髪がにじむ。 長い。 額が狭くなる。 頬が細くなる。 顎が丸くなる。
少女の顔が、鏡の中で固まった。
近い。 洗面台の前で、鏡と俺の距離は30センチ。 ゆうべのPC画面よりずっと近い。
銀色の目が細くなる。 笑っている。
「来ちゃった」
声がした。 鏡の裏から。 甘くて、間延びしている。
「来てるっすね」 「だってボク、キミの家の鏡にずっといたんだもん」 「洗面所っすけど」 「うん。キミの匂いするもん」
俺の匂い。 特殊清掃の現場でも言われない。
蛇口を閉める。 水が止まる。
洗面台の端で、マチさんの腕時計の秒針が止まっている。
1限は9時。 今は4時。 寝られて3時間。
「……名前、あるっすか」
少女が首を傾げた。 黒い髪が鏡の枠を1センチ出て、引っこむ。
「ないよぉ」 「ない」 「うん。みんな、写し身って呼ぶんだ」
少女の銀色の目が、俺を見ている。
「写し身さんは長いんで」
「じゃあ、ウツシさんで」
少女が口の中で言った。
「ウツシ」
1回。
「ウツシ」
2回。
「ウツシ」
3回。
銀色の目が、ぱっと開いた。 口角が上がる。 頬が持ち上がる。 目が細くなる。
笑っている。
鏡いっぱいに笑った。 鏡の端が、4か所同時に曇る。 白い。
曇りが、ゆっくり広がる。 枠から1センチずつ内側へ。
「いい名前」
声が割れている。 喜んでいる。 ガラスが1ミリだけ振動した。
鏡の端の曇りが止まる。 4か所とも。 顔の形をしたまま固まっている。
洗面所の電気は1つ。 蛍光灯の音がしている。
1限。 寝る時間が減る。
「洗面所はいいっす」
少女の笑顔が止まった。 銀色の目が開く。
「え?」 「歯磨きのときは、普通に俺を映してください」
少女の唇が、前に出た。 膨れている。
「えー」 「夜はここにいていいんで。歯磨きのときは顔確認しますから」 「えー」
2回。
「鏡に俺がいないと歯磨きできません」 「えー。だって」
少女の下唇が、ゆっくり戻った。
「ちぇ」
小さい舌打ちが1回。
「わかったよぉ」
しぶしぶだった。
「歯磨きのときだけは、映してあげる」 「お願いっす」
少女が鏡の中で頬杖をついた。 銀色の目が俺を見る。
「でもねぇ」 「なんすか」 「キミの顔」 「はい」 「どこから写しても同じなんだよぉ」
意味が分からない。 怖くないから写らない、とは聞いた。 どこから写しても同じ、とは別の話だ。
「で、あとね」
少女が鏡の縁に指を置いた。 素の手だ。 小さい。
「教えてあげるねぇ」 「いらないっす」 「夜の2時にね」 「聞いてないっす」 「鏡見て」 「見ますけど」 「自分の名前を呼んじゃだめだよぉ」 「呼ぶ用事ないっす」
鏡の端の曇りが、ゆっくり薄くなる。 枠から内側へ、1センチずつ。 ウツシの輪郭が、奥へ引いていく。 銀色の目だけが、最後まで残った。
「ばいばい」
声が小さくなる。 目が消えた。
洗面台の端で、マチさんの腕時計の秒針が動き出した。
カチ、カチ、カチ。
静かだ。 蛇口の水滴が1つ落ちた。
ぽた。
鏡の奥から、声がした。
「その時計、うるさい」 「マチさんのです」 「知ってる。夜見坂の女でしょ」 「知ってるんすか」 「ボク、鏡の中ぜんぶ見えるもん」
鏡は普通の鏡に戻っている。 俺の顔がある。 寝癖。 首にマスク。
「あの女、キミのこと見すぎ」 「そっすか」 「キミの時間、ぜんぶ数えてるよ。いやらしい」 「いやらしい」 「うん。ボクも数えてるけど」
鏡の奥で、笑う気配がした。 声だけだ。 顔は映っていない。
「寝ます」 「えー」 「1限あるんで」 「えー」
2回。
「おやすみって言って」 「おやすみっす」 「ちがう。名前で」 「ウツシさん、おやすみっす」 「んー。まあいいや」
鏡の奥で、何かが動く音がした。 布ずれの音に似ている。
俺は洗面所のタオルを取った。 白いタオル。 乾いている。
「なにそれ」 「タオルっす」 「なにするの」 「掛けます」
鏡にタオルを掛けた。 上から下へ。 鏡の上半分が隠れる。 俺の顔が半分消える。
「えー!!」 「眩しいんで」 「うそ!!キミ、眩しくないでしょ!!」 「眩しいっす」 「うそつき!!」
タオルの端を、鏡の内側から押す音がした。
トン。 トン。
タオルが少し膨らむ。 指の形だ。 小さい。
「取ってよぉ」 「寝ます」 「キミの顔見えなくなるもん」 「うー」
唸っている。 タオルの膨らみが、ゆっくり引っこんだ。
「じゃあ、おやすみぃ」
声がタオルの裏から聞こえた。 甘い。 間延びしている。
「はい」 「また明日ねぇ」
電気を消した。 暗くなる。
タオルの裏で、小さく笑う音がした。
「おやすみぃ律」
名前を呼ばれた。 返事はしなかった。
◇
22時30分。
宵帳 第三事務所。
真壁さんが書類を投げた。 机の上で滑って止まる。 丙の依頼だ。
「湾岸の展望デッキだ。汐見デッキって場所」 「知ってます」 「そこで撮った自撮りに女が写る」 「誰っすか」 「知らない女。20代後半。白いブラウス。首にカメラのストラップの跡だけある」 「カメラ持ってないんすか」 「跡だけ。顔は全部ピンぼけ」
烏丸室長が笑顔で書類を取った。 端を揃える。
「1枚撮るごとに近づくんですって」 「近づく」 「はい。2枚目で背後に。3枚目で腕の後ろ。7枚目で肩のすぐ後ろ」 「7枚」 「13枚撮った大学生がいます」 「13枚」 「今は自分の写真にしか写らないそうです」 「自分の」 「鏡にも窓にも映らない。写真だけ」
写真だけに存在している。
真壁さんが椅子に座った。 足が貧乏ゆすりしている。
「2年前の前例がある」 「前例」 「別の展望台。同じ型の事案。2年前に起きてる」 「2年前」 「2人いた。1人は14枚。もう1人は16枚」 「戻ってこなかったんすか」 「写真の中に入ったまま。戻ってねえ」 「だから止める。13枚はまだセーフだろ。たぶん」 「たぶん」 「たぶんしか言えねえんだよ!!」
真壁さんが机を叩いた。 ペン立てが揺れる。
「なんでお前は平然としてんだ」 「怖くないんで」 「分かってるよ!!」 「あと報告っす」
俺はスマホを机に置いた。 画面は明るい。
「家の鏡に、昨日の少女が住むことになりました」
真壁さんの手が止まった。 コーヒーカップが机に戻る。 音が大きい。
「……お前マジか」 「マジっす」 「住むってなんだよ住むって」 「朝、歯磨きのときにいました」 「追い出せよ!!」 「追い出せませんでした」 「なんでだよ!!」 「名前つけたんで」
真壁さんが口を開けて閉じた。 閉じたまま3秒。
「名前」 「ウツシさんっす」 「お前それ、飼ってんのか」 「住まされてます」
烏丸室長が書類のページをめくった。 ペンを回す音が1回。
「家賃は取ってくださいね」
書類から目を上げない。 笑顔のまま。
「鏡に家賃取るんですか」 「住居提供です。利用対価の発生を忘れてはいけません」
利用対価。 鏡の中に住む少女から家賃を取る方法が分からない。
真壁さんが深く息を吐いた。 肩の力が抜ける。
「……行くぞ。汐見デッキ」 「はい」
俺はスマホを拾った。 画面がつく。 壁紙は普通だ。
待ち受けの右上。 隅に、小さな点がある。 銀色。
さっきまでなかった。
画面をタップする。 点は消えない。
「白洲?何してんだ」 「待ち受けに何かついてます」 「何が」 「点っす。銀色の」
真壁さんが覗き込んだ。
「見えねえけど」 「隅にあります」 「気のせいだろ。行くぞ」
真壁さんは鞄を持った。 烏丸室長は新しい書類を開いている。
画面を見る。 銀色の点が、瞬きをした。
1回。
「行きます」
スマホをポケットにしまった。
◇
23時40分。
汐見デッキ。
海風が強い。
夜の湾岸は人がいない。 照明はLEDの間接。 白くて冷たい。
手すりはステンレス。 潮風で少し曇っている。 俺は手すりの上を見た。
写真を撮る人が寄りかかる位置。 端から10センチ。 人が立ってスマホを構える高さ。
そこに擦れ跡があった。
ファンデーションの跡だ。 1層じゃない。
2層。 3層。 4層。
擦れ跡が重なっている。 角度が全部同じ。 右肩の高さ。 顔を寄せる位置。
何年も、同じ人が同じ角度で寄りかかった跡。
特殊清掃の現場でも見たことがある。 同じ姿勢で長くいた人の染み。 肘の跡。 膝の跡。
ここでは肩と頬の跡が何層も重なっている。 何年分か分からない。 潮風で削れない厚み。
「白洲。撮らなきゃいいんだろ撮らなきゃ」
真壁さんが手すりから背を向けた。 海を見ている。 見ていない。 目を閉じている。
「確かめるっす」 「確かめなくていい!!確かめたら終わりだろ!!」 「13枚はセーフらしいんで」 「たぶんだろ!!たぶん!!」
スマホを取り出した。 画面がつく。 待ち受けの右上。 銀色の点がある。
瞬きをした。 1回。
「ウツシさん。ここ見てます?」
画面の中で、小さな笑い声がした。 スピーカーから。 風の音にかき消されそう。
「見てるよぉ。海きれいだねぇ」 「きれいっすか」
俺はスマホを構えた。 自撮りモード。 インカメラ。
画面の中に俺が映る。 夜。 LEDの白い光。 手すりのステンレス。 その奥に、海。
右上の隅に、銀色の点がある。 ウツシだ。
「撮ります」 「うん。撮って」
シャッター音。
1枚目。
保存される。 アルバムを開く。
夜景の写真。 俺の顔。 手すり。 海。
奥に何かいる。
白い。 ブラウス。 20代後半くらいの体つき。 首に、細い跡がある。 カメラのストラップの跡。 カメラはない。 跡だけ。
顔はピンぼけ。 輪郭がぼやけて、目も口も分からない。 ただ、女が立っている。
「写ってるっす」 「見せて」
スマホを構え直した。 ウツシが画面の隅から覗く。 アルバムの写真を見ている。
「あー。あれだねぇ」 「知ってるんすか」 「知ってるよぉ。よく写る子」 「よく」 「うん。前もいたもん。別のところで」
2年前の展望台。 真壁さんが言った前例。
「何枚まで大丈夫っすか」 「さあねぇ。ボクと違って、決まりが変わるもん」
変わる。
俺はもう1枚撮った。
シャッター音。
2枚目。
アルバムを開く。
女が、近い。 1枚目は奥。 手すりの向こう側。 2枚目は手すりの前。 俺の背後。
ピンぼけは変わらない。 顔は読めない。 でも、女の体が、1枚目より手前にいる。
「近くなった」
真壁さんが振り返った。 顔が青い。
「やめろ!!」 「あと1枚」 「1枚でいい!!これ以上撮ったら」 「確かめます」
シャッター音。
3枚目。
アルバムを開く。
女が近い。
2枚目は背後の空間。 3枚目は肩と肩の間。
距離にして20センチ。
ピンぼけは変わらない。 顔は読めない。 でも首のストラップの跡が、くっきり見えた。
焼きついた跡だ。 消えない日焼けみたいに。
「……白洲」
真壁さんの声が裏返る。
「見せろ」 「見ないほうがいいっすよ」 「だから見せろって!!」
俺はスマホを横に向けた。 画面を見せる。
真壁さんの目が、止まった。
2秒。
3秒。
「……うわああああああ!!」
海に向かって叫んだ。
「無理無理無理無理無理!!近い近い近い!!」
手すりにしがみつく。
「近くないっす。まだ20センチあります」 「人間の問題じゃねえ!!人間の距離感の話じゃねえんだよ!!」
真壁さんの指が手すりを削る。
「なんで写ってんだよ!!お前の隣だろ!!」 「写真の中だけっす」 「写真の中だけが怖いんだよ!!」
海風が吹いた。 髪が揺れる。 真壁さんの悲鳴だけが風に流れる。
4枚目。
シャッター音。
アルバムを開く。
女が、さらに近い。
3枚目より半歩。 10センチ。
白いブラウスの袖が、俺のパーカーの端にかかっている。
重なっている。 布と布が。
でも触れていない。 写真の中だけだ。
「袖、重なってるっす」 「言うな!!確認するな!!」 「確認しないと分かんないんで」 「分からんでいい!!」
ウツシが画面の隅で笑った。 小さい声。 スピーカーから。
「ふふ。近いねぇ」 「近いっすね」 「キミ、振り返らないねぇ」 「振り返りません」 「なんで」 「怖くないからっす」 「へぇ」
ウツシの銀色の目が、アルバムの中の女を見ている。
「あの子、キミのこと好きなんだねぇ」 「好き」 「うん。たくさん撮らせてるもん」
たくさん。
手すりの擦れ跡を思い出す。 何層も重なったファンデーション。
何年も。
5枚目。
シャッター音。
アルバムを開く。
女が、耳の横にいる。
白いブラウスの肩。 俺の肩より2センチ高い。
首が曲がっている。 俺の顔をのぞき込む角度。
ピンぼけ。 顔は読めない。 でも、のぞき込んでいるのは分かる。
「……真壁さん、見ます?」 「見ねえよ!!」 「近いっすよ」 「だから見ねえって言ってんだろ!!」
真壁さんは海に背を向けている。 目は閉じている。
「帰ろう。な?帰ろう。もう分かった。写るって分かった。それでいいだろ」 「7枚まで行きます」 「なんで!!」 「7枚目で肩の後ろに来るらしいんで」 「知らねえよ!!7枚目なんて撮ったら終わりだろ!!」 「13枚が限界らしいんで」 「たぶんだろ!!たぶん!!」
6枚目。
シャッター音。
アルバムを開く。
ウツシが言った。
「あと1枚で肩だねぇ」 「肩っすね」 「振り返らないの?」 「振り返りません」 「ふーん」
ウツシの声が、少し甘くなる。
「キミ、冷たいねぇ」 「特には」 「特にはだねぇ。ふーん」
7枚目。
シャッター音。
アルバムを開く。
女が、肩の後ろにいる。
すぐ後ろ。
距離にして5センチ。
俺の右肩のすぐ後ろに、女の顔がある。
ピンぼけ。
顔は読めない。
でも、息をしている。
写真の中で、白い息が1つ。 俺の肩にかかる高さで、白い。
冬じゃない。 息は白くならない。
白くなっている。
「……来ました」 「来たのか」 「肩の後ろっす」
真壁さんが目を開けた。 こっちを見る。 俺の肩の後ろを見る。
何もいない。
「見えねえ……」 「写真の中だけっす」 「写真を見せろ」 「見ませんでしたか」 「現実を見せろって言ってんだよ!!」 「現実にはいません」 「じゃあなんで怖いんだよ!!」 「分かんないっす」
スマホを構えたまま、俺は言った。
「ピント、合わないっすね」
風が止んだ。
海の音が遠くなる。
耳元で、声がした。
小さい。 女の声。 語尾が消える。
「……いつも、ぼける」
「カメラ使ったこと、あるっすか」
耳元の声が止まった。 風が海を吹く。
「……ある」
小さかった。
「ポートレート、切ってください」
画面を開く。 設定アイコンを探す。
「いちばん上。ライブフォトの隣」 「……これ」 「それ。もう1回押す。ふちが黒くなったらオフ」
3秒。
「……切れた」 「じゃあ顔、タップしてください」 「顔が、ぼけてる」 「ぼけててもいいんで。顔のあたりを長押し」
画面の中の女の顔はピンぼけだ。 輪郭がにじんでいる。 首のストラップの跡だけくっきりしている。
「……押した」 「黄色い四角、出ましたか」 「……出た」 「離してください。AEロックです」 「……ロック」 「ロック外さないでくださいね。撮るまで」 「……外さない」
俺はスマホを構え直した。 インカメラ。 画面の中に俺がいる。 右肩の後ろに白いブラウスがいる。
「次、灯りなんすけど」 「……灯り」 「海側の灯り、背にしないでください」 「……海側」 「いま海が画面の奥です。その灯りを後ろにする」 「……後ろに、する」 「逆光になりますけど、顔より灯りのほうが明るいんで」 「……わかった」 「もう1回撮ります」
8枚目。
シャッター音。
アルバムを開く。
ピンぼけ。 変わらない。 顔は読めない。 首のストラップの跡だけ、くっきり。
「……まだ、ぼけてる」 「もう1回。少し下から撮ります」 「……下から」 「俺が少ししゃがみます。顔の角度、そのままで」
膝を曲げた。 5センチ下がる。 スマホを上向きにする。
「灯りが顔の右に来てます。左に回してください」 「……左」 「あと3センチ」 「……3センチ」 「止まってください」 「……止まる」
シャッター音。
9枚目。
アルバムを開く。
ピンぼけ。 変わらない。
「……ぼける」 「もう1回」 「……まだやるの」 「やります」
10枚目。
シャッター音。
アルバムを開く。
ピンぼけ。
「……いつも、ぼける」 「わかりました」
スマホを下ろしかけた。
「……もう、いい」
女の声が小さくなった。
「……近いだけで、見えない」 「そっすね」 「……見せて、くれないの」 「写真なら撮ってます」 「……見せて」
アルバムを開く。 10枚目。 肩のすぐ後ろ。 ピンぼけ。 でも白いブラウスの輪郭はある。
「……私、写ってる」 「写ってます」 「……でも、ぼけてる」 「ぼけてます」 「……顔が、見えない」 「カメラじゃ映せないみたいっすね」 「……カメラじゃ、無理」 「無理っすね」
風が止んだ。 海の音が遠くなる。
「……ほかの、ないの」 「ほか」 「……ほかの、映すもの」 「鏡は映りません」 「……知ってる」 「窓も映りません」 「……知ってる」 「じゃあ写真だけっすね」 「……写真だけに、しか、いない」 「そっすね」 「……ずっと」
女の声がまた小さくなった。 語尾が消える。
風が戻る。 海の音が近くなる。
真壁さんが俺の肩を掴んだ。 指が震えている。
「……白洲」 「はい」 「……今の、会話」 「写真の中の女と話してました」 「話してたのかお前……」 「撮り方教えてました」 「教えるなよ!!写真の撮り方教えるなよ!!」 「ピントが合わないんで」 「合わなくていいんだよ!!」 「合わないっすね」 「合わないって何なんだよ……」 「カメラは人に合わせる機能なんで」 「人じゃないってことだろ!!」 「そっすね」
真壁さんが手すりに額を押しつけた。 ステンレスの音がした。 冷たい音だ。
俺はスマホの画面を見た。 待ち受け。 右上の隅。 銀色の点。 ウツシ。
瞬きをした。 1回。
ウツシは何も言わなかった。 でも銀色の目が、アルバムの中の女を見ていた。 ずっと見ていた。 俺の肩の後ろ。 5センチのところにいる女を。
「ボクがやるぅ」
スピーカーから、間延びした声がした。
スマホの画面。 右上の隅。 銀色の点が、動いた。
点が、線になる。 線が、手になる。 白い。 小さい。
画面の枠から、指が3本出た。 人差し指。 中指。 薬指。
アルバムの写真の上に伸びる。 写真の中の女。 肩の後ろ。 5センチの距離。
その女の顔に、指が触れた。 画面の中で。
「動かないでねぇ」
ウツシの声。 甘い。 間延びしている。
写真の中の女が、止まった。 ピンぼけのまま。 でも、止まった。
息が、止まった。 白い息が、写真の中に浮いたまま。 動かない。
「はい。撮って」 「撮るっすか」 「うん。今なら合うよぉ」
俺はスマホを構え直した。 インカメラ。 画面の中に俺がいる。 右肩の後ろに白いブラウス。 その顔に、白い指が3本。 触れている。
「撮ります」
シャッター音。
11枚目。
アルバムを開く。
女がいる。 肩の後ろ。 5センチ。
ピンぼけじゃない。
輪郭がある。 顔がある。
20代後半。 少し丸い輪郭。 細い眉。 一重まぶた。 唇は薄い。
少しだけ、口角が上がっている。 照れている。 そういう顔だ。
首に、カメラのストラップの跡。 細い線。 焼きついた日焼け。
でも、顔は普通だ。 どこにでもいる。 駅でもすれ違う。 大学にもいる。 そういう顔。
「……きれいに、撮れてる」
声がした。 写真の中から。 小さく。 でも、語尾は消えない。
真壁さんが俺の肩を掴んだ。 指が震えている。
「……白洲」 「はい」 「今の、誰の声だ」 「写真の中の女っす」 「写真の中の女が、喋ったのか」 「はい」
真壁さんが手すりを掴んだ。 ステンレスが鳴る。 カチ、と小さい音。
「……きれい」
女の声が、もう1回。 写真の中。 自分の顔を見ている。
「こんなに、きれいに」 「撮れましたね」 「……うん」
写真の中の女が、笑った。 照れた笑い方。 口を隠さない。 そのまま。
「ずっと、ぼけてた」 「そっすね」 「誰も、気づかなかった」 「写真だけっすから」 「……そう」
女の声が、少しだけ震えた。
「私、写真だけにいたから」 「知ってます」 「鏡にも、窓にも」 「映らないっすね」 「うん」
女の白いブラウスが、少しだけ透けた。 手すりの向こう。 海の灯りが、透ける。
「……ありがとう」 「どうも」 「あの子に、お礼を言って」 「ウツシさんにっすか」 「うん」
画面の隅で、ウツシが首を傾げた。 黒い髪が、1センチだけ枠を出る。 引っこむ。
「いいよぉ。ボク、写すの得意だもん」 「……うん」
女が、もう1回笑った。 今度は、目も笑っている。
「きれいに、撮れてる」
それから、消えた。
ふ、と。 手すりの擦れ跡の前から。
白いブラウスが、薄くなる。 輪郭が、薄くなる。 顔が、薄くなる。
跡だけが残った。 手すりの、ファンデーションの擦れ跡。 何層も重なった。 角度が同じ。 右肩の高さ。
それも、ゆっくり薄くなる。
1層。 2層。 3層。
消えた。
手すりは、ステンレスのまま。 曇っている。 潮風で。 何もない。
真壁さんが、手すりから手を離した。 指の跡が、ステンレスについている。 汗だ。
「……消えた」 「消えました」 「写真からも」 「アルバム開きます」
スマホを操作する。 アルバム。 11枚目。
夜景。 俺の顔。 手すり。 海。 肩の後ろ。
誰もいない。 白いブラウスはない。 ピンぼけもない。 ただの夜景。 ただの自撮り。
「……いない」 「いないっすね」 「お前の肩の後ろ、何もいない」 「そっすね」
真壁さんが、大きく息を吐いた。 肩が落ちる。
「……終わったのか」 「たぶん」 「たぶんしか言えねえのか」 「たぶんしか言えないっす」 「……そうかよ」
真壁さんが海を見た。 風が吹く。 髪が揺れる。 海の音が戻る。 さっきより近い。
「白洲」 「はい」 「お前、あの女と何話した」 「撮り方っす」 「撮り方」 「はい。ポートレートの切り方と、AEロック」 「……カメラの話かよ」 「カメラの話っす」
真壁さんが頭を抱えた。
「カメラの話で、成仏するか普通」 「人によるんじゃないっすか」 「人じゃねえだろ」 「そっすね」
海風が吹く。 手すりは、何もない。 擦れ跡も、ない。 ただのステンレス。 冷たい。
真壁さんが歩き出す。 3歩。 止まる。
「白洲」 「はい」 「あの女、写真に写ってたとき」 「はい」 「顔、どうだった」 「普通っす」 「普通」 「はい。少し、照れてました」
真壁さんが、しばらく黙った。 それから、小さく言った。
「……そっか」
また歩き出す。 靴音が2つ。
夜の湾岸。 LEDの白い光。 海の音。
◇
0時15分。
宵帳の車。 汐見デッキの駐車場。 海風がまだ窓を叩いている。
真壁さんが運転席。 俺は助手席。
真壁さんがスマホを耳に当てている。 保護対象の大学生だ。 13枚撮った本人。 真壁さんの顔が、だんだん渋くなる。
「ああ。うん。消えた?」 「……そっか」 「全部?」 「13枚全部?」 「……分かった。写真は消すなよ。データも残しとけ」 「うん。明日、また連絡する」
通話を切った。 スマホを膝に落とす。
3秒。
息を吐いた。
「鏡に映ったって」 「鏡」 「自分の部屋の鏡。洗面所じゃねえ、姿見のほう」 「本人が」 「本人が。13枚の写真からは、女が消えてるってよ」
真壁さんがハンドルを握った。 握ったまま、動かない。 エンジンはかかっていない。 寒い。
「前例だと」 「はい」 「2年前。別の展望台」 「2人いましたね」 「2人とも戻ってねえ」 「戻ってないっすね」 「写真の中に入ったまま」 「はい」
真壁さんがこっちを見た。 目が赤い。
「お前、なんで7枚目で振り返らなかった」 「振り返るとピントがずれるんで」 「……は?」 「顔を正面から撮るには、被写体とカメラの軸を合わせる必要があるっす」 「軸」 「振り返ると肩が入る。肩が入ると距離が変わる。距離が変わると合焦位置がずれる」 「ずれる」 「はい。あの女、ずっとぼけてたんで」 「ずっと」 「たぶん、ちゃんと撮ってほしかったんすよ」
真壁さんがハンドルに額をぶつけた。 クラクションは鳴らない。 エンジンが切ってあるから。
「……撮ってほしかったのか」 「たぶん」
真壁さんが顔を上げた。 前を向いた。 フロントガラスの向こうに海がある。 暗い。 灯りが3つ。 遠くで揺れている。
真壁さんが黙った。 黙って、シートに背を預けた。 シートが軋む。
俺はスマホを見た。 画面はついている。 待ち受け。 右上の隅。 銀色の点。 さっきより、少し大きい。
「ウツシさん」
点が動いた。 線になる。 手になる。 白い。 小さい。
画面の隅から、指が5本出た。 出て、引っこむ。
「なに?」
声がした。 スピーカーから。 少し眠そうだ。
「さっきは、どうも」 「んー?」 「助かりました」
画面の隅で、銀色の目が開いた。 丸い。 2つ。 まばたきをした。 1回。
「……え」
声が小さく揺れた。
「え、なに、いま」 「助かりましたって」 「もう1回言って」 「助かりました」
画面の隅が、白く光った。
点が、円になる。 円が、広がる。 画面の端から端まで。 銀色だ。
真ん中に、黒い髪がある。 長い。 顔がある。 少女だ。
画面いっぱいに広がっている。 輪郭が、画面の枠にぴったり合っている。 四角い画面の中に、丸い顔が1つ。
「ボク」
声が震えている。
「ボク、役に立った?」 「立ちました」 「本当?」 「本当っす」 「うれしい」
銀色の目が、ゆっくり細くなる。 口角が上がる。 頬が持ち上がる。 画面いっぱいに、笑っている。
「うれしいうれしいうれしい」
3回言った。 1回ごとに、画面の明るさが上がる。 車の中が白くなる。
真壁さんが目を細めた。
「……白洲。画面、明るくねえか」 「明るいっす」 「眩しいんだけど」 「眩しいっすね」 「眩しいっすね、じゃねえよ。なんだこれ」 「ウツシさんが喜んでます」 「喜ぶと光んのか!!」 「光ってるっすね」 「眩しい!!」
真壁さんが手のひらで目を覆った。 指の隙間から、画面を見ている。
「……丸くなってる」 「丸くなってます」 「画面いっぱいに」 「はい」 「お前のスマホ、どうなってんだ」 「分かんないっす」 「分かんないで済むか!!」 「済まないっす」
画面の中のウツシが、少しだけ首を傾げた。 傾げると、四角い枠の角が1センチはみ出す。 はみ出た角が、丸くなる。 戻る。
「ねぇねぇ」
声が甘い。 さっきより、ずっと甘い。
「ボク、役に立ったんだよね?」 「立ちました」 「また呼んでねぇ」 「呼びます」 「約束だよぉ」 「約束っす」
ウツシが、画面の中で頬を膨らませた。 それから、ゆっくり笑った。 目が細くなる。 銀色が、2本の線になる。
「うれしいなぁ」
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0422】 分類:丙 呼称:自撮りに写る女 発生場所:湾岸 展望デッキ『汐見デッキ』 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 同デッキで撮影した自撮りに、未確認の女の像が写る。像は撮影1枚ごとに接近し、7枚目で撮影者の肩の後方に達する。 13枚を撮影した大学生1名が、写真以外に映らない状態となっていた。 担当アルバイトが現地で撮影を継続。7枚目以降も振り返らず、撮影設定を対象に説明。 11枚目で像の焦点が合う。像は鮮明に写った後に消失。手すりの擦れ跡も消失。 大学生1名の鏡像の回復、および13枚の写真からの像の消失を確認。 危険手当:100,000円(丙) 備考:対象の焦点を合わせたのは、担当アルバイトのスマートフォンに居住する未登録の怪異。
◇
0時41分。
夜見坂のホーム。
丙の手当が10万。 借金は1,608万から、1,598万。
俺はホームに下りた。
マチさんがいる。 いつもの場所にいる。
紺のロングコート。 白い手袋。 懐中時計を見ている。
俺の足音に、マチさんは時計から目を上げなかった。
1歩。 2歩。 3歩。
いつもの距離で止まる。
靴音が止まると、懐中時計の蓋を閉じる音がした。
カチ。
小さい。 金属の音。
「律さん」 「はい」 「お待ちしておりました」
いつもの声だった。 静かで、低い。
1秒、沈黙があった。
マチさんの目が、俺の顔を見た。 それから、下に向いた。
俺の首。 胸。 腰。
止まった。
パーカーのポケットのあたり。
中にスマホが入っている。 画面は消えている。 通知はない。 音もない。
でも、ポケットの中が少しだけ温かい。 熱くない。 体温よりほんの少し高いだけ。
マチさんの白い手袋が、伸びた。 人差し指と中指。 ポケットの布に触れるか触れないか。 1センチ手前で止まった。
「律さん」 「はい」 「その板の中に、どなたかいらっしゃいますね」
いつもの静かな敬語だった。 でも、1音だけ低かった。
「ウツシさんっす。昨日の」
マチさんの指が止まった。
1秒。 2秒。
布に触れない。
「お名前を、おつけになったのですか」 「はい」
俺は頷いた。
ポケットの中で、スマホが1度だけ振動した。
通知じゃない。 中で、何かが動いた。 小さい。 ウツシだ。
マチさんの目が、1ミリだけ細くなった。
「名前」
言い直した。
「名前をおつけになったのですね」 「はい」 「いつ」 「朝っす」
沈黙が1秒落ちた。
風が線路をなでる。 砂利が小さく鳴る。
マチさんは懐中時計を開いた。
カチ。
0時41分32秒。
「板の中の方は」 「はい」 「どのような方でございますか」 「銀色の目の少女っす」 「少女」 「はい」 「おいくつでございますか」 「分かんないっす」 「身の丈は」 「小さいっす」 「小さい」
マチさんが時計から目を上げた。 俺の顔を見る。 それから、またポケットを見る。
「女の子でございますか」 「女の子っす」
3秒。
マチさんが手袋を握った。 布がきしむ。 小さい音。 強くはない。
「わたくしより」 「はい」 「小さい」 「はい」
それ以上、何も聞かなかった。
懐中時計の蓋を閉じる。
カチ。
腕を下ろす。 コートの袖が揺れた。
「では」 「はい」 「お隣、よろしいですか」 「どうぞ」
マチさんが俺の隣に立った。
いつもの距離。 左肩から40センチ。 靴音はしない。
風が2人の間を通る。 髪が揺れる。 マチさんの黒い髪と、俺の黒い髪が同じ方向に流れる。
コートの袖が動いた。
俺の左袖。 指2本で、折り目を直す。 いつもの動き。
1回。 戻る。
もう1回。 直す。 戻る。
3回目。
いつもは2回で終わる。 今夜は3回目があった。
布を引く力が、いつもより少し強い。 折り目は、さっきと同じ位置。
戻る。
マチさんの手が離れた。
1時53分。
マチさんが懐中時計を開いた。
カチ。
秒針を見る。
1秒。 2秒。 3秒。
蓋を閉じる。
カチ。
「お気をつけて」
それだけ言って、マチさんは消えた。
コートの裾が1度だけ揺れて、空気が薄くなる。
残ったのは、ホームの冷たい空気と、ポケットの中の温もりだけだった。
◇
帰り道、スマホを開いた。
カメラロールのいちばん新しい1枚。 撮った覚えがない。
今夜の夜見坂のホーム。 ベンチに、俺。 隣に、マチさん。
マチさんの顔だけ、ピントが合っていない。




