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毎晩2時22分に鳴るインターホンに、出てみることにした

https://kakuyomu.jp/users/Penmote/news/11054822664672178932

https://kakuyomu.jp/users/Penmote/news/11054822664672204813


Grokで生成したマチとウツシのイメージ画像をカクヨムの近況ノートにて公開中です。




0時41分。


夜見坂のホーム。


「律さん。その板を、お見せくださいませ」


マチさんの白い手袋が、すっと伸びた。 手のひらを上に向けている。


俺はポケットからスマホを出した。 画面をつける。 カメラロールを開く。


いちばん新しい1枚。 昨夜の夜見坂のホーム。 ベンチに俺。 隣にマチさん。 マチさんの顔だけ、ピントが合っていない。


マチさんは画面を覗き込んだ。 黒い瞳が、1ミリ動いた。


「……わたくし」 「はい」 「これ、わたくしでございますか」 「たぶん」 「なぜ」 「ウツシさんが撮りました」


マチさんの指が、画面の上で止まった。 白い手袋の指先が、ガラスに触れるか触れないか。


「ウツシさん」


声が、いつもより1トーン低い。


「はい。俺のスマホの中にいるんで」


そのとき。


画面の隅から、銀色の点がふわっと浮かんだ。 点が線になる。 線が輪郭になる。 黒い長髪。 銀色の目。 少女が、画面の下のほうからにゅっと顔を出した。


「あ、それボクが撮ったのぉ」 「ピント、こっちに合わせたかったからぁ」


甘い声。 間延びした声。


マチさんの手袋が、ぴくりと止まった。


「……今、この板から声が」 「ウツシです。勝手に撮ったらしいです」 「勝手ではありませーん」


画面の中のウツシが、むくれた。 頬を膨らませて、銀色の目を細める。


「ボク、キミとお出かけしてただけだもん。撮っちゃいけないなんて言われてないしぃ」 「撮ってないで普通に寝ててほしいんですけど」 「えー。だって夜見坂の女と2人でしょ。ボク、見てなきゃ不安だもん」


マチさんの指が、ゆっくり引っ込んだ。 背筋が伸びる。 コートの襟元で、黒い髪がふわりと揺れた。 風がないのに。


「……夜見坂の女、と」


マチさんの声が、低い。 それから、ふっと息を吐いた。


「まあ。そのような呼び方もございますが」 「ねえ、キミ」


画面の奥でウツシが笑った。


「この人、昨日もキミと1時間12分51秒も一緒にいたんだよぉ。長くない?」 「数えてたんですか」 「数えてるよぉ。ボクも」 「いや、数えなくていいです」 「やだぁ」


マチさんが、ゆっくりと俺のほうを向いた。 顔は笑っている。 口元が、うっすら弧を描いている。 でも目が笑っていない。 黒い瞳が、ホームの蛍光灯を吸って光らない。


「律さん」 「はい」 「わたくしは」 「はい」 「昨夜、あなたと1時間12分51秒ご一緒いたしました」 「そうっすね」 「それは、わたくしの時間でございます」 「はい」 「この板の中の、小さい方に差し上げる時間はございません」


マチさんの唇が、動いた。


〈まもなく、1番線を……通過いたします〉


アナウンスが最後まで言い終わる前に、ホームの蛍光灯が消えた。


1本。 2本。 3本。


端から順番に。 音もなく。 白い管が、黒い管になる。


線路の向こうの蛍光灯も消える。 駅の灯りが、頭の上から順番に落ちていく。


最後に残ったのは、1本だけだった。 俺の真上。 マチさんの顔の上。 その1本も、ちかちかと2回点滅して消えた。


暗くなる。 線路だけが、うっすらと月の色をしている。 レールの上が、青い。


俺はスマホを見た。 画面がついている。 時計の表示。


0時41分。


動かない。


秒の数字が、止まっている。


41。 41。 41。 41。


「止まってるっすね」


誰に言うでもなく言った。


画面の真ん中に、線が走った。 細い。 白い。 ひび、に見える。 でも、割れていない。 ガラスはつるつるのまま。 線だけが、画面の内側にある。


俺の指で、線をなぞってみる。 指はつるんと滑る。 線は消えない。 画面の内側で線が1本、また1本増える。 葉脈みたいな形になる。 銀色の葉脈。


その線の交点に、点が1つ浮かんだ。 銀色。 点が開く。 目だ。


「ねえねえ」


声がした。 スピーカーからじゃない。 画面の内側から直接、耳の奥に届く。 甘い。 さっきより、ずっと近い。


「キミの時間、ボクにもちょうだいよぉ」


マチさんが動いた。 俺の左肩から40センチ。 その位置が、20センチになった。 靴音はしない。 コートの裾が、俺の膝をかすめる。


「律さんのお時間は」


マチさんの声。 静かだ。 でも、低い。 1音、低い。 アナウンスの残響が、まだ喉の奥に残っているような低さ。


「契約にございます」


マチさんの白い手袋が、俺の左袖に触れた。 布を、指2本で挟んでいる。 離さない。


画面の中の銀色の目が、細くなる。


「契約?」


ウツシの声が、少し跳ねた。 甘さは残っている。 でも、語尾が、とがっている。


「ボク、契約してないもん」


葉脈のような線が、画面いっぱいに広がる。 線が光る。 銀色だ。 画面の端まで届いて、端で折り返す。 画面の内側を、銀色がぐるぐる回っている。


「してないもん。だから、取り放題」


マチさんの手袋が、きしんだ。 布が鳴る。 小さい。 1センチ、俺の袖を引いた。


「取り放題、とは」 「そうだよぉ」


ウツシが笑う。 画面いっぱいに笑う。 銀色が2本の線になる。 目だ。 口角が上がる。


「キミ、契約してるんでしょ。契約って、決まりごとでしょ。決まりごとの外は、ボクのものだよぉ」


マチさんの手が、止まった。


俺の袖を挟んだまま。 動かない。 風がない。 なのに、マチさんの黒い髪が1本宙に浮いて、ゆっくり下りる。 静電気みたいに。


「決まりごとの外は」


マチさんが繰り返した。 声が、少しだけ震えている。 震えているというより、低い。 低すぎて、震えて聞こえる。


「夜見坂の外は、わたくしのものでもございません」 「そうだねぇ」


ウツシがうなずく。 画面の中で。 首を傾げて、戻して。


「だからさぁ」


銀色の目が、俺を見た。


「キミの時間、ボクにもちょうだいよぉ」


マチさんが俺を見た。 ウツシが俺を見た。


線路の向こうで、信号が1つ、赤から青に変わる。 無音で。


俺は右の手で、スマホを持った。 左の袖は、まだマチさんが挟んでいる。 離れない。


俺は、画面を見た。 銀色の目。 それから、マチさんを見た。 黒い瞳。


「じゃあ」


俺は言った。 いつもの声で。 たぶん、いつもの声だった。


「会議しましょう」


マチさんの手袋が、ぴくりと動いた。


画面の銀色が、止まった。


線路の上を、風が1本、通っていった。 砂利が3つ、鳴った。


俺のスマホの時計は、まだ0時41分で止まっている。


0時41分。 0時41分。


秒針は、ない。


俺は鞄を開けた。 中を探る。 ボールペンがある。 曲がっている。 先はまだ出る。 紙を1枚、膝の上に置いた。


黄色い紙だ。 『白洲クリーンサービス 作業日報』 上の端に印刷してある。 実家の事務所に500枚単位であるやつだ。 父が腰をやってから、出番が減った。 裏は白い。


「なにそれ」


画面の奥から声がした。 ウツシだ。 銀色の目が、紙を覗いている。


「日報っす」 「日報」 「はい」 「なんの」 「清掃の」


マチさんは黙っている。 俺の左に立ったまま。 白い手袋を揃えている。


ホームの電気は消えたままだ。 線路だけが青い。


俺はボールペンを紙の裏に置いた。 線を1本引く。 横に7つ、区切る。 月火水木金土日。 縦に線を1本引く。 時間の欄だ。


「会議の資料っす」 「会議」


マチさんが言った。 静かな声だ。


「はい」 「わたくしと」 「ウツシさんと」 「……この板の中の方と」 「はい」


画面の中で、ウツシが首を傾げた。 四角い枠の角が1センチはみ出す。 戻る。


「ボク会議とかやったことないよぉ」 「初めてでいいっす」 「そうなの?」 「はい」


俺はボールペンの先を紙に当てた。 まず、月曜の欄。 0時41分と書く。 次に、1時53分と書く。 51秒まで書く。 指で数字を押さえる。 インクが少しにじんだ。


「マチさん」 「はい」 「0時41分から1時53分51秒まで」 「はい」 「これは動かしません」


マチさんが懐中時計を開いた。


カチ。


秒針を見る。 それから蓋を閉じる。


カチ。


「さようでございます」 「契約どおりっす」 「はい」 「毎晩」 「毎晩」


俺はその行を四角で囲んだ。 二重に囲んだ。 線が少し太くなった。 紙が1か所、ペン先でへこんだ。


「次」 「はい」


俺は紙の下のほうに線を引いた。 帰り道、と書く。 緑台駅から家まで。 徒歩12分。 ウツシの欄だ。


「ウツシさん」 「はーい」 「緑台から家まで、12分」 「うん」 「それと歯磨き」 「はみがき?」 「朝と夜、3分ずつ」 「3分」 「はい」


画面の中のウツシが、口をへの字にした。 銀色の目が細くなる。


「3分って」 「3分っす」 「カップ麺じゃん」 「カップ麺っすね」 「キミ、ボクにカップ麺あげるの?」 「時間っすけど」 「カップ麺でしょそれ」 「まあ」 「ひどい」


ウツシが頬を膨らませた。 画面いっぱいに広がる。 銀色が2本の線になる。 怒っている。


マチさんの白い手袋が、紙の端に伸びた。


「律さん」 「はい」 「朝の電車の中は、どなたのお時間でございますか」


俺は紙から顔を上げた。 マチさんを見る。 黒い瞳が、俺をまっすぐ見ている。


「電車の中は寝てるんで」 「はい」 「誰のでもないっす」


マチさんの指が止まった。


1秒。 2秒。


紙の上で、白い手袋がゆっくり動く。 帰り道の文字をなぞる。 なぞって、線路のほうへ指を向けた。


「線路の上は」


マチさんの声が、静かに響く。


「わたくしの持ち場でございます」


ホームの空気がぴり、と冷えた。 砂利が1つ、音を立てる。


カタン。


レールの上で、何かが通った気配がした。


「ずるい」


画面の奥から声がした。 ウツシだ。 銀色の目が、画面いっぱいに開いている。


「それずるいよぉ。線路ぜんぶ自分のものって、夜見坂から緑台までじゃん」 「線路は夜見坂の延長でございます」


マチさんが言う。 顔は笑っている。 目は笑っていない。


「わたくしは改札の外に出られませんが、線路は別でございます」 「えー」


ウツシの声が跳ねる。


「ボクの12分より長いじゃん」 「さようでございますか」 「さようでございますか、じゃないよぉ」


画面の中で、銀色の葉脈が走る。 ぴりぴりと、ガラスの内側に光が散る。


俺はボールペンを持ち直した。 紙の端に、電車、と書く。 小さく。 下に線を引く。 横に寝てる、と書いた。


「寝てるんで、時間に入れないっす」 「線路の上でも」 「はい」 「眠っていても」 「起きません」 「それでも」 「誰のでもないっす」


マチさんが懐中時計を開いた。


カチ。


秒針を見る。 それから紙を見る。 紙の上の数字を、上から下まで。 月曜から日曜まで。 1秒ずつ。 視線が動くのが分かる。


「ウツシ様の取り分」


マチさんが言った。


「帰り道12分」 「うん」 「歯磨き6分」 「うん」 「1日18分」 「そうだよぉ」 「週に2時間6分でございます」 「へへ」


ウツシが笑った。


「けっこうあるでしょ」


マチさんは、ゆっくり顔を上げた。 口元が、弧を描く。


「わたくしは」 「はい」 「8時間30分でございます」


秒針が、カチ、と鳴った。


画面の中のウツシが、止まった。 銀色の目が、ぱちりと開く。 口が半開きになる。


1秒。 2秒。 3秒。


「なんで」


声が、ひっくり返った。


「なんで秒まで数えてんのぉ」 「数えておりますので」


マチさんが静かに言う。


「1秒でも多く、律さんのお時間をいただくために」 「いや、ボクも数えてるけど」 「存じております」 「キミの秒、ぜんぶ数えてるよぉ」 「わたくしも、あなたの秒を数えております」 「え」 「帰り道、12分。歯磨き6分。それ以外は、わたくしのものでございます」


ウツシが、画面の中でぐっと詰まった。 銀色の目が、細くなる。 葉脈の光が、ちかちか明滅する。


「ねえ、キミ」


ウツシが俺を見た。


「この人、こわいよぉ」 「怪異ですから」 「そうじゃなくて」 「数え方に怖さはないっす」 「あるよぉ」 「ないっす」 「あるってば」


俺は紙を見た。 ボールペンの先を、ウツシの欄に戻す。 帰り道12分。 歯磨き6分。 その下に、小さく書く。


お試し。


画面の中で、ウツシが首を傾げた。 四角い枠の角が1センチはみ出す。 戻る。


「お試し?」 「はい」 「なにそれ」 「帳契してないんで」 「帳契?」 「契約っす」 「ボク契約してないもん」 「してないっすね」 「じゃあなんで書くのぉ」 「暫定っす」 「暫定」 「はい。お試し期間っす」 「お試し期間」


ウツシが繰り返した。 銀色の目が、細くなる。 それから、ぱっと開く。


「ボク、お試しなの?」 「今は」 「今は」 「はい」


ウツシが画面の中で頬を膨らませた。


「やだぁ」 「やだと言われても」 「やだよぉ」 「契約は対価が要るんすよ」 「対価」 「はい」 「なにそれ」 「恐怖っす」 「恐怖」 「普通は」 「キミ、怖くないじゃん」 「そうっすね」 「じゃあ対価いらないじゃん」 「俺のは時間払いっす」 「なんでぇ」 「決まりっすから」


マチさんが、紙の端に指を置いた。 白い手袋。 人差し指。 ウツシの欄の「お試し」の文字の上。 触れるか触れないか。


「律さん」 「はい」 「延長のお話がございます」


俺はボールペンを止めた。


「延長」 「お時間の延長でございます」


画面の奥でウツシが首を出した。 銀色の目が細い。


「延長ってなにぃ」 「前にもあったっす」 「あったの?」 「1時間」 「1時間!!」


ウツシの声が跳ねた。 画面の端が1センチ光る。 戻る。


「ボク聞いてない」 「言ってないんで」 「ひどい」 「そうっすか」 「ひどいよぉ」


マチさんはウツシを見ない。 紙を見ている。 俺の手元を見ている。


ホームの電気は戻っていた。 白い管が3本。 ベンチの背もたれが冷たい。 腿の裏が冷える。


マチさんは立っている。 いつもの位置。 左肩から40センチ。


「律さん」 「はい」 「延長の分は」 「はい」 「どのように数えましょうか」


俺は日報を見た。 月曜の欄。 0時41分から1時53分51秒。 二重の四角。 その下が空いている。 白い。


「延長は延長で」 「はい」 「別に付けといてください」


マチさんの手袋が止まった。


1秒。 2秒。 3秒。


指先が紙の上で動かない。


「別に」 「はい」 「別の欄に」 「はい」


マチさんは何か言いかけた。 口元が1ミリ開いた。 閉じた。 開かなかった。


喉の奥で、言葉が止まった音がした。 息の音だ。 小さい。 1つだけ。


「さようでございますか」 「はい」


マチさんの手袋が、俺の左袖に伸びた。 指2本。 折り目を挟む。 直す。 戻す。


1回。 2回。 3回。


今夜は4回目があった。


布を引く力は、いつもより少し弱い。 折り目は、もう直っている。 それでも指は離れない。


「マチさん」 「はい」 「もう直ってます」 「存じております」 「じゃあ」 「存じております」


それだけ言って、指を離した。


画面の中でウツシが静かになった。 銀色の目が細い線になる。 笑っていない。 口角が下がっている。


「キミ」 「なんすか」 「この人、いま」 「はい」 「なんか、へんだよぉ」 「そうっすか」 「そうだよぉ」 「いつもどおりっすけど」 「ちがうよぉ。秒、数えてない」 「数えてますよ」 「数えてない。さっき、3秒止まった」 「止まってないっす」 「止まったよぉ。ボク見てたもん」


1時53分。


マチさんは懐中時計を開いた。


カチ。


51秒。


蓋を閉じる。


カチ。


「お時間でございます」


俺は立ち上がった。 ベンチが軋む。 日報を畳む。 二つに。 四つに。 ポケットに入れる。


マチさんが紙を見た。 俺のポケットの中の黄色い紙。 見ている。


それから、手袋の指を1本出した。 人差し指。 俺のポケットの上を1回なぞった。 上から下へ。 布の上を。 紙の上の、自分の欄をなぞるみたいに。


字は消えない。 紙はポケットの中だ。 それでも、なぞった。 ゆっくり。 1回だけ。


「お気をつけて」


それだけ言って、マチさんは消えた。


コートの裾が1度だけ揺れる。 空気が薄くなる。


ホームの電気が1本消える。 2本。 3本。 白い管が、端から順番に落ちる。


俺はポケットから日報を出した。 開く。 月曜の欄。 二重の四角。 0時41分から1時53分51秒。


字は消えていない。 消えていないが、紙が少しだけ冷たい。 触ったところだけ。 指1本の幅で。


「消えてないねぇ」


画面の奥から声がした。 ウツシだ。 銀色の目が、紙を覗いている。


「でも、なんか」 「なんか」 「キミの紙、ちょっとだけ」 「ちょっとだけ」 「夜見坂の匂いするよぉ」 「そうっすか」 「うん。あの女の匂い」


俺は日報を畳んだ。 ポケットに入れる。


線路沿いを歩く。 電車はない。 レールの上に月の色。 砂利が3つ鳴る。


後ろから、カチ、と音がした。 懐中時計の蓋の音。


振り返らない。 振り返ると、また40センチが20センチになる。


◇


2時15分。


都営住宅『桐ヶ丘第二団地』4号棟。


車が止まったのは、団地の入り口から少し離れた駐車場だった。


エンジンが切れる。 真壁さんが息を吐く。 白い。


助手席の窓から団地が見える。 5階建て。 横に長い。 灯りはまばら。 4号棟の4階、端から2番目だけが暗い。 407号室だ。


「いいか」


真壁さんが前を向いたまま言った。 声が少し低い。


「2か月前に入居した女だ」 「はい」 「今は実家に避難してる」 「はい」 「毎晩、2時22分」 「インターホンが鳴る」 「鳴る。モニターには誰も映らねえ」 「映らないんすね」 「ただ、毎晩」


真壁さんが一瞬、言葉を切った。 窓の外の暗さを見た。


「モニターの映りが、少しずつ低くなってる」 「低く」 「そう。廊下の映り方が。毎晩、ほんの少しずつ」 「視点が下がってるってことっすか」 「そう見える。カメラの位置は変わってねえ」 「カメラは同じなのに映りが下がる」 「そうだ」


真壁さんがハンドルから手を離した。 指を組む。


「決まりごとは、2時22分のインターホンに出て、ドアを開けるな」 「出て、開けなければいい」 「ああ。前例だと」


真壁さんが、ひどく低い声で言った。


「別の団地で、ドアを開けた住人がいる」 「いるっすね」 「翌朝から、部屋から出られなくなった」 「出られない」 「ドアが開かねえ。窓も。外からも開かねえ」 「閉じ込められる」 「ああ。中から音がして、だんだん小さくなった」


真壁さんはそこまで言うと、シートに背を預けた。 シートが軋む。


「で、今日はお前が来るって言うから」 「はい」 「俺は無理」 「無理っすね」 「お前マジか。やるのか」 「時給出るんで」 「……だろうな」


真壁さんが苦笑いをした。 唇の端だけ。 目は笑っていない。


俺はドアを開けた。 団地の空気は冷たい。 鉄の匂いがする。 駐車場の白線が月で浮いている。 4号棟の壁が、青く見える。 4階の407号室だけが、壁の色より濃い。


「ウツシさん」


ポケットに手を入れる。 スマホの画面が、ぽっとつく。 銀色の点が、右上の隅でまたたいた。


「なにぃ」


声が小さい。 眠そうでもない。


「ついてきてください」 「うん。もういるよぉ」 「映らないでくださいね」 「えー」 「怪異が増えるとややこしいんで」 「ボク、怪異じゃないもん」 「怪異っすよ」 「キミにだけは言われたくないなぁ」 「音も出さないでください」 「はーい」


画面が暗くなる。 銀色の点だけ残った。


4号棟のエントランス。 オートロックは壊れている。 扉は手で開く。 金属の取っ手が冷たい。


階段。 コンクリート。 非常灯の緑が1か所、ちらついている。 音が響く。 俺の靴音だけ。


2階。 3階。 4階。


廊下は長い。 蛍光灯が2本。 1本は切れかけで、ちかちかしている。


407号室は奥から2番目。 ドアは薄い茶色。 郵便受けに何も入っていない。 新聞受けのシールに「407」。 数字が斜めに貼ってある。 剥がれかけ。


インターホンは白い。 モニター付き。 カバーに細かい傷。 指紋が3つ。 縦に。 高さは、俺の目より少し下。


真壁さんが後ろから来る。 足音がしないように歩いている。 失敗している。 革靴の音が廊下に響く。


「……静かに」 「無理」 「怪異に聞こえますよ」 「もう聞こえてるわ」 「出て、開けなければいいんすから」 「そういう問題じゃねえ」


真壁さんが、背中を壁につけた。 壁が冷たいのか、肩をすくめた。


「白洲」 「はい」 「お前、鍵」 「持ってます」 「開けろ」 「はい」


鍵を差す。 シリンダーが重い。 回すと、かち、と鳴った。 音が廊下に響く。


ドアを押す。 ギィ、と鳴いた。 ヒンジが渇いている。


中は暗い。 空気が、わずかに澱んでいる。 埃っぽい。 それと、ワックス。 最近、床を塗った。 リフォーム済みの匂いだ。


でも、その下に、ほんの少しだけ甘い匂いが残っている。 線香じゃない。 もっとずっと薄い。


腐敗臭。 時間が経った後のあれだ。 特殊清掃で何度も嗅いだ。


靴を脱ぐ。 玄関は板張り。 明るい色のフローリング。


でも、3歩目の床だけ色がほんの少し違う。 1枚分。 張り替えてある。 継ぎ目が新しい。 ワックスの乗り方が違う。 光の反射が、周りより1トーンだけ明るい。 角が1ミリ浮いている。


床下に何かがあった。 染みだ。 広がる前に、板ごと替えた。


孤独死の後、床を張り替える。 でも、3歩目の1枚だけ業者と別の人間が替えた。 管理会社か。 家主か。 たぶん、素人だ。 ワックスの塗り方が甘い。 筆の跡が、光の下でうっすら見える。


真壁さんが後ろで靴を脱いでいる。 手間取っている。


「お前、平気か」 「はい」 「だよな」 「床、見てただけです」 「何かあんのか」 「あります」 「言うな」 「言いません」 「絶対に言うなよ」 「はい」


リビングに入る。 家具はない。 カーテンが閉まっている。 ワックスが月の光を薄く反射している。 壁は白い。 クロスも新しい。


でも、窓枠の内側に拭き残しがある。 薄茶色の輪。 弧を描いている。 高さは、膝より上。 腰より下。 拭いた後だ。 でも、枠の溝に残っている。 色は、薄い。 でも、分かる。


発見まで、時間がかかった現場の跡だ。


「白洲」


真壁さんが、リビングの入り口で止まっている。


「お前、なんで窓見てんだ」 「月がきれいなんで」 「やめろ」 「何がっすか」 「そういうの。やめろ」 「はい」


◇


2時22分。


インターホンが鳴った。


電子音が、空っぽの部屋に響く。


ピンポン。


たった1回。 でも、やけに長い。 音が壁に当たって床に落ちて、消えるまでが長い。


真壁さんが、俺の二の腕を掴んだ。 指が食い込んでいる。 痛い。


「出るなよ」


声が裏返っている。


「絶対に出るなよ」 「出ます」 「出るなっつってんだろ!!」 「出ないと話にならないんで」 「話ってなんだよ!!お前マジか!!」 「マジっす」


真壁さんが、掴んでいた手を離した。 いや、離したというより、弾かれたみたいに引っ込めた。


後ろに2歩下がる。 3歩目で窓際の壁に背中が当たった。 ドン、と小さい音。 カーテンが揺れる。


「無理無理無理」


真壁さんが首を振っている。 両手を顔の前で組んでいる。


「俺は無理。あれは無理。音がもう無理」 「音だけっすけど」 「音がもう無理なんだよ!!」 「分かりました」


俺は玄関へ向かった。 床が冷たい。 靴下越しに、ワックスの冷たさが足の裏へ上がってくる。


3歩目の板。 張り替えた1枚。 そこだけ、温度が違う。 ほんの少しだけ、温い。 踏むと、かすかに沈む。 1ミリ。


俺は足を止めなかった。


玄関の壁に、白いインターホン。 モニターがついている。 小さな液晶。 画質は荒い。 白黒に近い。


映っているのは廊下。 蛍光灯の光。 コンクリートの床。 向かいの部屋のドア。 406号室。


何もいない。 誰もいない。 影もない。


ただ、カメラの位置がほんの少しだけ低い。 モニター越しでも分かる。 視点が下がっている。


胸の高さ。 腹の高さ。 膝の高さ。 いや、もっと低い。


地面すれすれから、廊下が見えている。 まるで、誰かが座り込んだまま撮っているみたいに。


ポケットの中で、スマホが1回振動した。 小さい。 ウツシだ。


「ねえ、キミ」


声が、ポケットの布越しに聞こえた。


「いるよぉ」 「どこに」 「カメラの真下」 「真下」 「うん。ドアにもたれて、座ってる」


俺はモニターを見た。 映っているのは、誰もいない廊下だけ。


でも、カメラの真下。 モニターの枠の、いちばん下。 画面の外。 そこに何かがいる。 映らない位置にいる。


「どんな格好っすか」 「パジャマ」 「パジャマ」 「うん。縞々の」 「色は」 「グレーと白」 「何歳くらいすか」 「おじいさん」


ウツシの声が、少しだけ低くなる。


「すごく、しわしわ」 「髪は」 「白い。少ない」 「目は」 「こっち見てる」 「カメラを」 「ううん」


1秒、間があった。


「キミを見てる」 「見えるんすか」 「ボクには見えるよぉ。ボク、この板の中から見えるもん」 「そうっすか」 「うん。あ、今、首を傾げた」 「老人が」 「うん。右に、こてん、って」 「それ、俺の声が聞こえてるんすかね」 「たぶん」


真壁さんが、窓際で小さく悲鳴を上げた。


「おい、誰と喋ってんだ!!」 「ウツシです」 「あのスマホの中のやつか!!」 「はい」 「やめろ!!2人に見える!!」 「1人と1匹っす」 「怪異は匹で数えるな!!」 「すみません」


俺はもう一度モニターを見た。


廊下は何も映っていない。 でも、画面の下の端で、白い砂がざわざわしている。 ノイズだ。 映っていないものの気配だけが、ノイズになって出ている。


ポケットからスマホを出す。 画面をつける。 ウツシが、隅っこにいる。 銀色の目が、こっちを見ている。


「通話ボタン、押します」 「うん」 「あとで何かあったら教えてください」 「はーい」


ウツシが、画面の隅で小さく手を振った。 指が5本。 銀色の爪が、1本ずつ光った。


俺は、モニターの下の通話ボタンを押した。


ボタンは、ひどく冷たかった。 指先が、ぴり、と痺れた。


モニターの向こう。 廊下の空気が1度だけ、ぶれた。 ノイズが走る。 白い砂が、画面の下から上へさあっと流れていく。


受話口から、音がした。 風の音。 違う。 息の音だ。 喉の奥で空気が震えている。 電話の向こうで、老人が呼吸をしている。


「はい」


俺は言った。 自分の声が、やけに平らに聞こえた。


スピーカーから、しわがれた声がした。


「……誰か、いますか」 「いますよ」


短い沈黙があった。


受話口の向こうで息が1つ、吸われた。 長い。 肺が膨らむ音がする。 それから、吐かれた。 ゆっくり。


「よかった」


老人の声だった。 丁寧だ。 語尾が少し、上がる。


「よかった。よかった」


3回言った。 1回ごとに、息が混ざる。 喉の奥で、痰が鳴っている。


「どちら様ですか」 「宵帳の者っす」 「宵帳」 「はい。怪異事案の調査に来ました」 「怪異」


老人が繰り返した。 声が少し、とがった。


「わしは怪異ではないのですが」 「そうっすか」 「ええ。ただの老人です」 「ただの老人っすか」 「ええ。3週間ほど、誰も来ないので」 「3週間」 「ええ。倒れてから、毎晩これを押しておりました」 「自分の部屋のを」 「ええ。どなたか来ないかと」


受話口の向こうで、また息が吸われた。


「見つけました」


俺は言った。 特殊清掃の言葉だ。 現場に入ったら、まず言う。


見つけました。 遅くなってすいません。


父が教えた。 現場の人間は、まず謝るんだ。 謝ってから、作業に入る。 そういうもんだ。


「見つけました。遅くなってすいません」


受話口の向こうで、息が止まった。


1秒。 2秒。 3秒。


「……まだ、来てない」


老人の声だった。 さっきより、近い。 さっきより、低い。


「まだ、来てない」 「来てますよ」 「まだ、来てない」 「俺が来ました」 「まだ、来てない」 「いますよ」 「まだ、来てない」 「見つけました」 「まだ、来てない」


4回言った。 1回ごとに、近くなる。 遠かった声が、だんだん手前に来る。 だんだん、低い。 だんだん、丁寧じゃなくなる。 語尾が、少しずつ、崩れる。


「まだ、来てない」 「まだ、来てない」 「まだ、来てない」


ドアの方から、音がした。


かち。 かち。 かち。


小さい。 金属の音。


玄関のドア。 ノブが、動いている。 銀色のノブ。 ゆっくり、右に。 回っている。


誰もいない。 ドアの内側に、誰もいない。 でも、ノブが回る。


かち。 かち。 かち。


ラッチが、外れそうになる。 ドアが、1ミリ、内側に押される。


ガタ。


小さい。 でも、確かに。 外から、押されている。


「白洲!!」


真壁さんの声がした。 窓際から。


「ドア!!」 「はい」 「ドアが!!」 「開きそうっすね」 「開きそうっすねじゃねえ!!」 「回ってますね」 「回ってる!!」 「誰もいねえだろ!!」 「いないっすね」 「いないのに!!」


俺は通話ボタンから指を離した。


玄関の3歩目。


張り替えた1枚の前に、膝をついた。


床板の継ぎ目に手のひらを置く。 ワックスが冷たい。 指先まで冷える。


張り替えた1枚。 色が違う。 温度が違う。


ここだ。


俺は背を丸めて、額を床に近づけた。 一礼する。 現場に入ったらまずやる。 そこにいた人に、遅くなってすいません。


頭を下げる。 板の上。 冷たさが額に伝わる。


「ここっすね」


声が、床に落ちた。


「見つけました」


真壁さんが黙った。 窓際で、息を止めている。 空気が止まった。


その瞬間。


インターホンが、もう一度だけ鳴った。


ピンポン。


今度は短い。 途中で切れた。


ドアノブが止まった。 かち、と音がして、銀色のノブが元に戻る。 ゆっくり。


静かだ。


モニターが、ついた。 廊下。 蛍光灯の光。 コンクリートの床。


画面の下のほうから、何かが立ち上がる。 背中だ。 グレーと白の縞々。 腰が曲がっている。 白い髪が少しだけ光っている。


老人が、ゆっくり立った。 ドアに寄りかかっていた。


老人はこっちを向かない。 背中だけ。


それから、歩き出す。 廊下を。 エレベーターのほうへ。 足音はしない。 パジャマの裾が、床すれすれで揺れる。


ゆっくり。 ゆっくり。


エレベーターの前で止まった。 ボタンを押す。 扉が開いた。 中は明るい。 老人が中へ入る。 扉が閉まる。


ちん、と鳴って、ランプが消えた。


モニターに映るのは、空っぽの廊下だけ。 カメラの位置が、元に戻っている。 胸の高さだ。


真壁さんが、壁からずり落ちるように座り込んだ。


「……終わったか」 「終わったっすね」 「お前」 「はい」 「今、床に」 「挨拶してました」 「そうか」 「はい」


真壁さんが天井を見た。 首をのけぞらせている。


「……帰るぞ」 「はい」


俺は立ち上がった。 膝にフローリングの跡がついている。


ポケットのスマホが、1回だけ振動した。 小さい。 ウツシだ。


「ねえ」


声が、布越しに聞こえた。


「いなくなったよぉ」 「そうっすね」 「ありがとう、って言ってた」 「老人がですか」 「うん。ボクにだけ聞こえた」 「そうっすか」 「キミにも聞こえると思った?」 「思わないっす」 「うん。キミには言わないんだねぇ」


ウツシの声が、少しだけ甘くなる。


「寂しいねぇ」


俺は答えなかった。


靴を履く。 ドアを開ける。 廊下の空気が、ひやりと足首に触る。 エレベーターのランプは、消えたままだった。


ポケットの中で、ウツシがもう一言だけ言った。


「あの人のほうが、キミより中身あるねぇ」


◇


2時51分。


宵帳の車。


エンジンはまだ切ってある。 真壁さんがキーを回さない。 手がハンドルの上にある。 指が白い。


「白洲」 「はい」 「さっきの床」 「はい」 「お前、なんで分かった」 「仕事なんで」


真壁さんがこっちを見た。 目がまだ赤い。


「仕事」 「はい」 「特殊清掃の」 「はい」 「家業の」 「はい」


真壁さんが、ハンドルから手を離した。 膝の上に置く。 指を組む。 組んで、ほどく。


「3歩目だよな」 「はい」 「色が違った」 「はい」 「ワックスの乗り方も」 「はい」 「1枚だけ」 「はい」 「継ぎ目が新しい」 「はい」 「よく見えるな」 「見てるんで」


真壁さんが、シートに背を預けた。 シートが軋む。


「俺は分かんなかった」 「普通っすよ」 「普通」 「素人には分かんないっす」


真壁さんが、一瞬止まった。


「素人」 「はい」 「お前は」 「素人じゃないっす」 「そうか」 「はい」


真壁さんが、天井を見た。 喉が動いた。 唾を飲んだ音がした。


「前例の団地」 「はい」 「言ったよな」 「言いました」 「ドアを開けた住人」 「はい」 「3日後に」 「はい」 「同じ場所で見つかってる」 「はい」


真壁さんが、目を閉じた。


「ベッドの上だ」 「はい」 「仰向けで」 「はい」 「手足が伸びてた」 「はい」


真壁さんが目を開けた。 フロントガラスの向こう。 団地の壁が青い。


「お前は」 「はい」 「開けなかった」 「開けてないっす」 「開けさせなかった」 「開きませんでした」 「そうだ」


真壁さんが、シートベルトを引いた。 金属がカチ、と鳴る。


「3日後が」 「はい」 「来なかった」 「はい」


真壁さんは、それ以上言わなかった。


エンジンをかけた。 セルが回る。 1回でかかった。


ヘッドライトが、団地の壁を照らす。 白い。


4階の窓が、一瞬光った。


気のせいだ。


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0423】 分類:丙 呼称:呼び鈴 発生場所:都営住宅『桐ヶ丘第二団地』4号棟 407号室 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト) 経過: 同室で毎晩2時22分にインターホンが鳴る。モニターに人影なし。映る廊下の高さが夜ごとに低下。 担当アルバイトが室内で応答。対象は前住人と推定される高齢男性。発見まで約3週間を要した死亡事案の当事者。 「発見」の宣言は1回目で通らず、ドアノブが回転。 担当アルバイトが死亡位置の床板に手を置き、再度宣言。対象は鎮静し、廊下からエレベーターへ移動、消失。 ドアは開放していない。 危険手当:100,000円(丙) 備考:担当アルバイトは床材の張り替え跡から前住人の死亡位置を特定。対象は「発見」の宣言で鎮静。


◇


4時。


自宅。


丙の手当が10万。 借金は1,598万から、1,588万。


洗面所の鏡には、タオルが掛かっている。


机の上で、契約帳を開いた。


マチさんの印の下に、行が1つ増えていた。


知らない、細い字だった。


『ウツシ様 本日 41分17秒(別途)』

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