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閉店した床屋の合わせ鏡を、枚数を数えながら奥へ歩いた




5月2日。 連休の真ん中に、乙が来た。


22時。 宵帳 第三事務所。


俺が契約帳を開いて置くと、真壁さんが覗きこんだ。


『ウツシ様 本日 41分17秒(別途)』


「お前の契約帳、家計簿みたいになってんぞ」 「俺が書いたんじゃないっす」


ドアが開いた。 烏丸室長だ。 手にファイルを1冊。 薄い。 青い。


「お疲れさまです」 「どうも」


烏丸さんは笑っている。 いつもの笑顔だ。 目が細い。 口元が上がっている。


「連休中にすみませんね」 「時給出るんで」 「ええ。出ますよ」


烏丸さんは俺の前にファイルを置いた。 表紙に1行。 『バーバー鏡町』


「乙です」 「乙」


真壁さんが椅子を回した。 ギィ、と鳴る。 コーヒーのカップを持ったまま。 手が止まっている。


「商店街の外れの、閉店した理容室です。2年前に閉めています」


烏丸さんはファイルを開いた。 1枚目のページ。


写真が2枚。 店の外観。 シャッターが閉まっている。 看板の文字が読めない。


2枚目は店内。 向かい合う壁に、鏡が2枚。 大きな鏡だ。 床から天井近くまである。 片方の鏡に、もう片方の鏡が映っている。


鏡の中に鏡。 鏡の中に鏡の中の鏡。


奥へ奥へと続いている。 烏丸さんが指を置いた。


「向かい合わせの大鏡です」 「はい」 「2枚で1組」 「はい」 「この1週間で、3人消えています」


真壁さんがカップを置いた。 カップの底と机。 コト、と鳴った。


「3人」 「はい」 「配信者の男2人」 「はい」 「肝試しの配信です」 「はい」 「それと、店を片づけに来た40代の男性」 「はい」 「甥の方です」 「はい」


烏丸さんはページをめくった。 写真が3枚。 すべて同じ構図だ。


鏡の中の光景。 奥へ続く廊下。 廊下の両側に、また鏡。 無限に続いている。


写真のそれぞれに、人が写っている。 1枚目は若い男。


2枚目も若い男。 3枚目は40代の男。 3人とも、こちらに背を向けている。 歩いている。


鏡の中の廊下を。 奥へ。


奥へ。


「これが、消えた3人です。すべて、鏡の中を奥へ歩く姿で映っています」 「前例は」


真壁さんが言った。 声が細い。


「10年前。別の街で、同じ構造の店です」 「同じ構造」 「向かい合わせの鏡」 「はい」 「職員1人と被害者2人が、戻っていません」 「戻ってない」 「はい。今も」


烏丸さんは、ファイルを閉じた。 ペタ、と鳴った。


真壁さんが、椅子の背にもたれた。 もたれて、天井を見た。 喉が動いた。 唾を飲んだ音がした。


「甲以上なら2名以上の決まりですが、今回は乙なので」


机の上で、俺のスマホの画面がついていた。 待ち受けの隅の銀色の点が、いつもより小さい。


「ウツシさん。どうしました」 「……そこ、ボクんち」


真壁さんが、俺のスマホを見た。 烏丸室長の目が、少し細くなった。


「ボク、生まれたの、そこの鏡だよぉ」


◇


23時。


商店街の外れ。 『バーバー鏡町』のシャッターを、真壁さんが半分まで上げた。


店の中。 真壁さんが足を止めた。 鏡の前までは来ない。


俺は先に進む。 空気が澱んでいる。 埃っぽい。 湿気が服に張りつく。 古い整髪料の匂い。


油っぽい。 その下に、乾いた石鹸の匂い。 閉店して2年。 誰も窓を開けていない。


理容椅子が2脚。 黒い革。 座面に埃が積もっている。 背もたれの継ぎ目が割れている。


正面に大鏡が2枚。 向かい合っている。


奥へ奥へ。 夜の店が、暗い店が、そのまま続いている。 奥のほうほど暗い。 一番奥は、もう色がない。


俺は壁際に寄った。 鏡の枠を見る。 木枠だ。 飴色に変色している。 角に彫り物がある。


五弁の花。 彫りが深い。 花弁の先が、内側に巻いている。 この彫りを見たことがある。 鞄を開ける。


真鍮の手鏡の枠を出す。 戸川さんが閉じ込められていたやつだ。 ガラスはもうない。 枠に彫りがある。 五弁の花。


花弁の先が、内側に巻いている。 手鏡を大鏡の枠に近づける。 彫りが重なる。 角度が同じ。 深さが同じ。


花弁の巻き方まで同じ。 同じ職人の手だ。


ポケットでスマホがついた。 画面の隅に銀色の点。


ウツシだ。


「ねえ、キミ」 「はい」 「それ」 「この手鏡っすか」 「うん」 「どうしました」 「ボクの、おねえちゃんみたいなもん」


「ウツシさん。ここの鏡、決まりごとあるっすか」 「決まりごと」


ウツシの声が、少し低い。 甘さはない。


「合わせ鏡はね」 「はい」 「何枚目か、数えながら歩くの」 「数える」 「うん。1枚、2枚、3枚って」 「はい」 「数がずれたら」 「ずれたら」 「キミが、鏡のほうになっちゃう」 「鏡のほうに」 「うん。体がこっち側になるの。あっちが本物になるの」 「どっちが」 「こっちが」


ウツシは言わなかった。 こっち、がどっちか。


「帰りも同じ数だけ戻るの」 「同じ数」 「うん。行きと帰りが同じじゃないと、出口が合わないの」 「分かりました」 「本当?」 「たぶん」 「たぶんじゃだめだよぉ」 「分かりました」


真壁さんが後ろで小さく息を吸った。


「おい」 「はい」 「数え間違えたら」 「鏡のほうになるっす」 「なんだよそれ!!」 「決まりっすから」


真壁さんが、自分の影を見た。 足元に、犬の形の黒い影。


「影縫い、入れんのか」 「入れないっすよ」 「なんで」 「映らないからっす。影縫いは影なんで」 「影が鏡に映らないって」 「鏡は光を映すんすよ。影は光じゃないんで」 「理屈で済むか!!」


影縫いが、足元で小さく唸った。 鏡のほうは見ない。 犬の形のまま、真壁さんの後ろに回る。 尻尾が下がっている。


「入らないんで、ここで待っててください」 「1人で行くのか」 「1人っす」 「無理だろ」 「時給出るんで」 「そういう問題じゃねえよ!!」


俺は鞄を開けた。 清掃用の養生テープを出す。 青い。 端を引き出して、パーカーの紐に固結びする。 反対の端を、真壁さんの手に押しつけた。


「持っててください」 「なんで俺がテープ係なんだよ!!」


真壁さんが、自分の手のひらを見た。 テープの端を握っている。 指が白い。 震えている。


「お前が行くんだろ!!」 「はい」 「だったら俺が引く!!」 「はい」 「文句あんのか!!」 「ないっす」 「じゃあ行け!!」 「はい」


俺は鏡の前に立った。 鏡の中に、俺が映っている。 奥に、もう1枚の鏡。 その奥に、また俺。 その奥に、また。


一番奥は、もう黒い。 俺は右手を鏡に近づけた。 指先が、ガラスに触れる。 指が沈んだ。 ガラスじゃない。


水だ。 指先が、手のひらが、手首が沈む。 冷たい。 体温より、少しだけ低い。


◇


鏡と鏡のあいだに、細い床屋の通路が続いていた。 両側に鏡。 1枚ごとに、少しずつ色の褪せた同じ店。


1枚目。 左手の親指を折る。 特殊清掃で、団地の部屋を回るときと同じ数え方だ。


鏡の中の俺も、同じだけ進む。 1拍遅れていない。 まだ。


2枚目。 3枚目。


4枚目。 右手で、胸元のテープを触る。 張りはある。


5枚目。 空気が冷たい。


鏡の中の店も、同じだけ古びている。 6枚目。


7枚目。 ここで、鏡の中の俺が1拍遅れた。


俺の左手は7。 鏡の中の俺の左手は、まだ6だ。 ずれましたね。


声は出さない。 出したら数が揺れる。


8枚目。 9枚目。


10枚目。 遅れは戻らない。


鏡の中の俺が、ずっと1拍後ろを歩いている。 20枚目。 飴色の木枠だけが浮いている。


店の灯りはない。 なのに、鏡の中だけが薄明るい。 奥から光が来ている。


鏡の奥の奥から。 25枚目。


テープが重い。 後ろで真壁さんが握っている。


27枚目。 右側の鏡の奥に、男がいた。 若い男。 白いパーカー。 背を向けている。


歩いている。 奥へ。


奥へ。 配信者の1人だ。


「おーい」


声を出した。 出してしまった。 数が、1つ、揺れた。


27。 26。


27。 指を折り直す。


「おーい、そこの」


男は振り返らない。 足音もしない。 白いパーカーが、どんどん小さくなる。 やがて点になって消えた。


28。 29。


30。 ポケットの中で、スマホが熱を持った。


「ねえねえ」


ウツシの声がした。 正面の、ずっと先の鏡。 白い手が、鏡の内側から出ている。 小さい手。


「こっちが近道ぃ」


鏡の中のウツシが笑っている。 銀色の目が細い。


俺は足を止めた。 テープを握り直す。


「行きません」 「えー」 「数がずれるんで」


ウツシが、鏡の中で頬を膨らませた。


「キミ、ボクの言うこと聞かないのぉ」 「聞かないっす」 「ひどい」 「仕事なんで」


ウツシの手が、鏡の表面からにゅっと出た。 指が、俺の袖を掴もうとする。 すり抜ける。 怪異の手は、俺には届かない。


「むぅ」


ウツシが唇を尖らせた。


「……数、ボクも数える」


ウツシが隣の鏡に移った。 1枚ぶん、ずれる。 前を向いて歩き出す。


「31、32、33」


俺と同じ速さだ。 2人ぶんの声が重なる。


ウツシがちらっとこっちを見た。 すぐ戻す。 甘い声だ。 数え方は正確だ。


鏡の店がだんだん古びる。 壁の色が褪せる。 床のタイルが欠ける。 40、41、42。


50。 51。


52。 53。


54。 足が止まった。


ウツシも止まった。 右側の鏡。 その中の理容室。


理容椅子に、作業着の男が座っている。 背を向けている。 右手に剃刀。 刃は開いている。 動かない。


甥だ。 剃刀の刃が光っている。


「……54」


ウツシが小声で言った。


「キミ」 「はい」 「あれ、動いてないねぇ」 「動いてないっすね」 「剃るの、待ってるのかなぁ」 「たぶん」 「誰を」 「客っすかね」 「客、いないよぉ」


椅子の前に、もう1脚。 空だ。 座面が少しだけ沈んでいる。 見えない何かが座っている。


「おおい!!」


声がした。 遠い。 後ろ。


「白洲!!生きてるか!!」


真壁さんだ。 54枚ぶん遅れて届いた。


「生きてます」


声が遠くなる。 55。


56。 57。


ウツシが黙った。 数えるだけになる。


70。 80。


90。 100。


101。 102。


103。 104。


105。 106。


107。 108。


回廊が終わった。 最後の鏡。 枠は飴色。 五弁の花。


鏡の中に店がある。 奥行きがない。 平らだ。


そこに3人いた。 並んでいる。 奥を向いて。 左から若い男。 若い男。


作業着の男。 背中だけ。 動かない。


その横に、もう1人。 俺だ。 1番右。 黒いパーカー。 寝癖。


首にマスク。 左手で親指を折っている。


俺は左手を見た。 親指は開いていた。


鏡の中の俺は、折ったままだ。


鏡の中の俺だけが、こっちを見ていた。


肩が、小刻みに揺れていた。


鏡の中の俺が、震えていた。

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