108枚目の鏡の中で、俺が震えていた
震えている俺を、俺は見た。
「誰っすか」
鏡の中の俺は口だけ動かした。 声は出ない。
「……っすか」
形だけの口だ。 「誰っすか」と同じ形をしている。 唇が開いて、閉じる。 開いて、閉じる。
俺は首を傾げた。 鏡の中の俺は首を傾げない。 肩だけが揺れている。
「ねえねえ」
声がした。 右側の鏡。 ウツシだ。
鏡の中を走ってくる。 銀色の目が見開かれている。 黒髪が揺れている。 鏡から鏡へ、跳ぶように移る。
ウツシが108枚目の鏡の内側に張りつく。 両手をガラスに当てる。 指が白い。 眉が寄っている。
「それ」
ウツシが言った。 声が低い。
「キミじゃないよぉ」 「そうっすか」 「うん」
ウツシは鏡の中の俺を見ている。
「キミの形に」 「はい」 「あの人たちの怖いのが」 「はい」 「溜まってるの」
ウツシの手がガラスをぎり、と引っかく。
「ぜんぶ、キミの形に入りたがってる」
「キミ、怖くないの?」 「特には」 「そっかぁ」
俺は鏡の中の俺を見た。 肩が揺れている。 唇がまだ動いている。
「俺じゃないなら」
俺は言った。
「いいっす」
ウツシが一瞬、止まった。
「え」 「俺じゃないんすよね」 「うん」 「なら、いいっす」 「えぇ……」
ウツシが鏡の中で、がっくりと肩を落とした。
「キミ、もうちょっとさぁ」 「はい」 「怖がるとか、ないのぉ」 「ないっすね」 「つまんないの」
俺は108枚目の鏡に手を入れた。 水の冷たさ。 白いパーカーの肩を掴んだ。
鏡の中の手応え。 軽い。 服の上から骨に触る。
若い男。 配信者の1人だ。 肩を引いた。 動かない。 振り返らない。
「おーい」
返事はない。
隣の若い男。 肩を掴んで引く。 動かない。
作業着の男。 甥だ。 肩が固い。 力が入っている。 それでも振り返らない。
3人とも、奥を向いている。 鏡の中の人間は奥しか見られない。
ウツシが隣の鏡からこっちを見ていた。 銀色の目が細い。 唇が少しだけ上がっている。
「ねえねえ」
甘い声が鏡を滑ってくる。
「振り向かせるの、ボクできるよぉ」 「できるんすか」 「うん」
ウツシが鏡の内側から手を出す。 白い指がガラスを押して、にゅっと伸びる。 俺の頬に触れようとする。 すり抜ける。
「そのかわり」 「そのかわり」 「ご褒美ね」 「中身は、あとで言うねぇ」 「はい」
◇
ウツシが108枚目の鏡の中で両手を広げた。 指先だけ動かす。 鏡の表面が、水のように揺れた。
「キミの顔、貸してねぇ」 「どうぞ」
ウツシの指が、俺の頬のあたりをすうっとなぞる。
鏡の中に、俺の顔が浮かんだ。 3人の前。 奥を向いていた3人の顔の前に。 俺の顔が、ぼうっと浮かぶ。
白いパーカーの男が最初に動いた。 肩がぴくりと跳ねる。 首が少しだけ回る。 止まる。 また回る。
「あ」
かすれた声だ。
「あ、あれ」
隣の若い男も首を回し始めた。 作業着の男は、まだ動かない。 剃刀を持ったままだ。 刃が、かたかたと震えている。
「そっち向いてください」
俺は言った。
「帰るんで」
白いパーカーの男がこっちを向いた。 顔色がない。
「ここ、どこ」 「鏡の中っす」 「鏡」 「はい。108枚目」 「108」 「はい。数えますんで、ついてきてください」 「数える」 「はい。数えないと戻れないんで」
俺は108枚目をくぐって、3人の前に立った。
「並んでください。縦に。前の人の肩に手を置いて」 「肩」 「はい。離さないでください」
清掃の現場と同じだ。 狭い通路は縦1列。 前の人の肩に手。
白いパーカーの男が前の男の肩に手を置いた。 手が震えている。 指が、肩の布を握っている。
作業着の男は、まだ奥を向いていた。
「そこの人」
俺は肩を叩いた。
「並んでください」
肩がびくりと跳ねた。
「あ、ああ」
低い。 掠れている。
「俺、は」 「はい」 「店を、片づけに」 「はい。帰りましょう」
作業着の男がゆっくり振り返った。 目が、赤い。 泣いている。
「帰れるのか」 「帰れます」 「ほんとか」 「数えれば」
男は、前の男の肩に手を置いた。 ぎゅっと。 指が白い。
俺は先頭に立った。
「行きます」
「108」
俺は言った。 声に出して。
「108」
後ろで、白いパーカーの男が繰り返した。 声が震えている。
「107」
俺は1歩、進んだ。
「107」
3人ぶんの声が重なる。
俺は振り返らない。 振り返ったら数が揺れる。
「106」 「106」
4人ぶんの足音が、だんだん揃う。
「91」 「91」
「90」 「90」
「89」
俺は1歩、進む。
「89」
3人ぶんの声。 その声の中に1つ、遅れた声があった。 白いパーカーの男だ。
「……89?」
続けて、こう言った。
「88?」
声が裏返っていた。 数を飛ばした。
その瞬間。 足の裏の感触が変わった。
床のタイルじゃない。 硬い。 つるりとしている。 冷たい。
俺は下を見た。 床が鏡になっていた。 足元から1メートル先まで。 黒い。 艶がある。
そこに4人の足が映っている。 俺の靴。 白いスニーカー2足。 作業靴1足。
「足元」
俺は言った。
「見ないでください」 「え」 「鏡なんで」
白いパーカーの男がそれでも下を見た。 映った自分の顔を見た。
鏡の中の男が、笑っていた。 男の顔じゃない。 口だけが、横に裂けている。
「ひ」
男が息を吸った。 吸って、止まった。
床の鏡が、1センチ盛り上がった。 俺の足の下。 靴の裏が、沈む。
「89」
声がした。 右側の鏡。 ウツシだ。 鏡の中を走ってくる。 黒髪が揺れている。
「89だよぉ!!」
ウツシが叫んだ。 声が甘くない。
「揃えて!!」
俺は言った。
「89」
「89!!」
白いパーカーの男が叫んだ。
「89!!」
隣の男。
「89」
作業着の男。 低い声だった。
4人ぶんの声が、1つに重なった。
床が揺れた。 それから、戻った。
鏡が引いていく。 タイルの色が戻る。 目地の汚れが戻る。 靴の裏の沈みが、ふっと軽くなる。
「88」 「88」
87、86。 声を揃えて戻る。 足音が4人ぶん重なる。
「おおい!!」
また声がした。 遠い。 でもさっきより近い。
「白洲!!生きてるか!!」
真壁さんの声だ。 何枚かぶん遅れて届く。
俺は返事をしない。 声を出すと数が揺れる。 そのかわり胸元のテープを一度だけ引いた。 張りが返る。
79、78、77。
右側の鏡の奥で、ウツシが並走している。 銀色の目がこちらを見ている。
「そのままぁ」
甘い声だけが聞こえる。 俺は頷かない。 数える。
52、51、50。
ウツシが右側の鏡から、左側の鏡へ跳んだ。
「あと半分ぅ」
声が跳ねている。
32、31、30。
後ろの3人も声を合わせる。
「20」 「20」 「10」 「10」 「2」 「2」
1枚目。 胸元のテープが、ぴんと張った。 外から引かれている。 真壁さんの手が、テープを握っている。
「1」
最後の数を言って、鏡に手を入れた。 指先が沈む。 水だ。 冷たい。 顔が鏡の表面を抜ける。 ガラスの膜が頬を滑る。
靴の先が理容室の床についた。
後ろで音がした。 白いスニーカーが、床に降りる音。 もう1足。 それから作業靴。 3人とも、続いて出てきた。
俺は振り返らない。 振り返ったら、数が揺れる。 もう終わったはずなのに。 まだ、振り返らない。
◇
0時20分。 バーバー鏡町。
3人は、理容室の床に座りこんだ。
作業着の男は、床に両手をついたまま動かない。 肩が上下している。
剃刀が、足元に落ちていた。 刃が開いたままだ。
男がそれを見た。 剃刀を拾った。 今度は刃を閉じてから。 ぱちん、と音がした。
真壁さんが3人の前にしゃがんだ。 懐中電灯を1人ずつ照らす。
「怪我は」 「ない、です」 「……ない」
真壁さんが俺の顔を見た。
「10年前は、職員ごと誰も戻ってねえ」 「はい」 「お前、数えながら帰ってきたのか」 「はい」 「108枚」 「行きも帰りも」
真壁さんが息を吐いた。 長い。
「数えないと戻れないんで」 「1人で歩いたってことだ」 「1人じゃないっす」 「あ?」 「ウツシさんが、途中から数えてくれたんで」
真壁さんが俺のスマホを見た。 画面の隅で、銀色の点が小さく光っている。
「……そうかよ」
俺は鞄を開けた。 養生シートを出す。 白い。 2枚。
「貼ります」 「貼る」 「向かい合わせだと、また繋がるんで」
1枚目の鏡。 飴色の木枠。 五弁の花。
養生シートを広げる。 端を上から当てる。 テープで留める。 ぴん、と張った。
鏡の中の店が消えた。 俺の姿も消えた。
向かいの鏡には、まだ俺が映っている。 シートを持った俺。
真壁さんがそっちを見て止まった。
「……今、ずれなかったか」 「何がっすか」 「いや」
真壁さんが目をこすった。
「疲れてんな、俺」
もう1枚。 同じように広げる。 留める。 ぴん、と張った。
2枚とも白い。
「向かい合わせなければ、ただの鏡なんで」 「ただの鏡か」 「はい」
真壁さんが鏡の枠の下の床を懐中電灯で照らした。
輪の中に、四角があった。 四角がいくつも。 埃の上に、薄く。
俺はしゃがんだ。 指で縁をなぞる。
「黒い両面テープっす」 「剥がした跡が、何枚も」 「はい」 「鏡を貼ってたのか」 「たぶん」
大きいものは顔ほど。 小さいものは切手ほど。
俺は指を上げた。 爪の先に、黒い糊が少しついた。 古い糊だ。 乾いて、粉になっている。
「公衆トイレの破片と同じテープっす」
真壁さんの手が止まった。 懐中電灯の光が、少しだけ揺れる。
スマホの画面が明るくなった。
「ねえ」
ウツシの声だ。 甘くない。
「街の鏡に、みんなで貼ってたの」 「みんな」 「映り込みたち」 「はい」 「ボクら、鏡から出られないから」 「はい」 「貼ると、そこから外が見えるの」
ウツシが少し間を置いた。
「ちょっとだけ」 「はい」 「でも、ボクは」
ウツシが黙った。 1秒。 2秒。
「ボクは、割ったの」 「公衆トイレのやつ」 「内側から」 「うん」 「なんで」 「キミが見えたから」
声が、少しだけ跳ねた。
「外、見たかったの」
真壁さんが懐中電灯を下ろした。
「お前が割ったのかよ」 「ボクだよぉ」
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0424】 分類:乙 呼称:合わせ鏡 発生場所:閉店理容室『バーバー鏡町』(商店街の外れ) 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 向かい合わせの大鏡2枚の内部に鏡の回廊。数を誤った者は映り込みと入れ替わる。 担当アルバイトが枚数を計数しつつ108枚目まで進行し、3名を発見。 帰路、同行者1名が計数を誤り床面が鏡化。声を揃えて再計数し、全員帰還。 大鏡2枚は養生シートで被覆。 危険手当:300,000円(乙) 備考1:第0420号(映し忘れ)の破片の出所と判明。 備考2:担当アルバイトの映り込みの数に不一致の報告(真壁)。確認中。
乙の手当が30万。 借金は1,588万から、1,558万。
◇
0時41分。 夜見坂駅のホーム。
ベンチの隣に、マチさんが座っている。 紺のロングコート。 白い手袋。
スマホの画面がついた。 待ち受けの隅の銀色の点が、ゆっくり膨らむ。
「ねえねえ」
ウツシの声だ。
「ご褒美の話、まだだったねぇ」 「そうっすね」 「覚えてる?」 「覚えてます」 「じゃあ言うね」
画面の中で、銀色の目が細くなる。
「ボクの名前、呼んで」 「はい」 「ちゃんと」 「はい」 「ゆっくり」
「ウツシさん」
俺は言った。
画面がぱっと明るくなった。 ウツシがその場で転がった。 ごろごろ。 ごろごろ。 黒髪が画面の端まで流れる。
「もっかい」 「ウツシさん」 「んぅ」
もう1回転がった。
「しあわせぇ」
隣で、かちりと音がした。 マチさんが懐中時計を開いている。 白い手袋の上で、蓋が跳ねた。
「本日」
マチさんの声だ。 静かだ。
「ウツシ様と回廊で」 「はい」 「1時間4分38秒」 「お仕事っす」 「存じております」
マチさんは時計を閉じた。 ぱちん。 音が、ホームに落ちる。
「存じておりますとも」 「そうっすか」 「ええ」
マチさんが俺の袖を見た。 手袋の指が、袖の端をつまむ。 布が、きゅっと寄る。 離さない。
「律さん」 「はい」 「わたくしの名も」 「はい」 「お呼びくださいませ」
少し間があった。
「……ゆっくり」
俺は息を吸った。
「マチさん」
マチさんが目を細めた。 懐中時計の蓋を、もう一度開く。
「……2秒。ウツシ様より、0.4秒長うございました」
張り合いは、まだ始まったばかりだった。




