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忘れ物の棚に、毎晩「誰かの一部」が届く




左の手袋が棚の上で指を曲げた。


5月7日、22時40分。 夜見坂駅のホームの端に、古い駅務室がある。 今は忘れ物の保管室になっている。


助役はドアの外から中を指さした。 指が震えている。


「あれです」 「はい」 「左の手袋」 「はい」


棚は鉄製だ。 白い塗装が剥げている。 蛍光灯が棚の上を照らしている。 4段。 1段ずつ、間を空けて置いてある。


「最初は、4日前の朝です」


助役の声が細い。 50代の男性だ。 制帽を両手で握っている。 つばが歪むほど握っている。


「届けられた、と」 「いえ。違うんです」 「違う」 「置いてあったんです」 「誰が」 「分かりません」


助役が喉を鳴らした。 唾を飲む音が静かな部屋に響いた。


「毎晩です」 「毎晩」 「はい。今朝で4つ目」


「捨ててもいいんすか」 「だめです。前に、捨てた駅があったそうで」 「はい」 「捨てた駅員が、次の朝、棚に並んでたと」


真壁さんが後ろで小さく「うわ」と言った。 足音が半歩、下がる。


俺は棚の前で止まった。 4段を順に見る。


左の手袋。 黒い革。 指先が少しだけ持ち上がっている。


片方のパンプス。 濃い赤。 中が黒く見える。 空気が靴の上だけ沈んでいる。


マフラー。 白い。 端がほんの少しだけ湿っている。 息を吹きかけられたみたいに。


紺の傘。 留め具が外れかけている。 開いたら、内側に何かいる。 そういう気配がする。


「これ、全部」


俺は言った。


「触った職員がいるんすか」


助役の顔がさらに青くなった。


「私です」 「はい」 「手袋を」 「はい」 「拾い上げようとしました」


助役は自分の左手を見た。 それから、ゆっくり指を曲げようとした。 薬指と小指が曲がらない。


「戻らないんです」 「感覚が」 「ええ。握った感触が、まだ手の中にあります」 「手袋の」 「はい。誰かの手を、握った感触です」


真壁さんが息を吐いた。 長い。


「おい白洲」 「はい」 「帰るか」 「何言ってるんすか」 「俺の本能が帰れと言ってる」 「仕事っすよ」 「命あっての時給だろ」 「死んでないっす」 「まだな」


俺が棚に手を伸ばした。 その時。


左の手袋が指を曲げた。


人差し指から、小指まで。 順番に。 ゆっくり。


親指だけが立ったまま。 それから、握った。


ぎゅっ。


何もない空気を。 誰かの手の形を。


「ぎゃっ!!」


真壁さんの声が裏返った。 2歩下がる。 背中がドアに当たって、ガタン、と鳴った。


「動いた動いた動いた!!」 「動きましたね」 「動きましたねじゃねえ!!」 「握りましたね」 「だから!!」


俺は鞄を下ろした。 軍手を出す。 白い。 特殊清掃用の厚手のやつだ。


「仕分けます」 「は? あんなもん触るのか」 「触らないと分かんないんで」 「分かんなくていいだろ」 「片づけるのが仕事っす」


俺は軍手をはめた。 ゴムが手首にぴったり張りつく。


◇


23時。


棚の前に、ブルーシートを1枚広げた。 青いビニールが蛍光灯を反射してぬるく光る。


まず、手袋。


軍手の上から持ち上げた。 軽い。 革が硬い。 指先に、細かい擦れ跡。 定期入れの角で擦れた痕だ。


ポケットから出して改札に当てて、しまう。 毎日、同じ動き。 その繰り返しでつく傷。


内側を見る。 縫い目が手縫いで補強してある。 30年近く前の型。 女物だ。 指が細い。


次に、パンプス。


左足だけ。 かかとの外側が斜めに減っている。 内側はほとんど減っていない。 柱に寄りかかって電車を待つ人に多い。 サイズは23.5。 革に油が染みている。 誰かがこの靴を長く大事にしていた。


次に、マフラー。


手編みだ。 編み目が揃っていない。 慣れない手つき。 それでも、ほどけていない。 湿りは端の1か所だけ。 口元を当てたみたいな湿り方だ。


最後に、紺の傘。


柄は木製。 握りの部分が黒光りしている。 長年の手脂だ。 そこに、古いシールが1枚。


『夜見坂』。


売店の値札シールが、剥がれかけている。


俺は立ち上がった。 軍手の指先を合わせて、ぱん、と払う。


「同じ人っすね」 「は?」 「全部、同じ持ち主のものです」


真壁さんが壁際で固まっている。


「なんで分かるんだよ」 「癖っすよ」


ポケットの中で、スマホが震えた。 短く、2回。


「ねえ」


ウツシだ。


「この人、映してあげようかぁ」 「映す」 「うん。ボクの鏡に」


俺はスマホを取り出した。 隅の銀色の点がゆっくり膨らむ。


「どうぞ」 「いいの?」 「はい」


銀色の点が画面いっぱいに広がる。 それから、すうっと引く。


壁際のガラス戸の保管棚が、鏡に変わっていた。


中に、女が立っている。 30代くらい。 紺のコート。 手袋をしていない。 靴は片方だけ。 首元が寒そうだ。


女は下を向いている。 手をコートのポケットに突っ込んでいる。 右。 左。 内側。


「ない」


声がした。 低い。 かすれている。


「ない」


女がポケットを裏返す。 何も出てこない。


「定期、ない」


前髪が顔にかかっている。 口元だけが見える。 唇が乾いて、白い。


「ないないない」


指が鞄の底を引っかく。 ぎちぎちと音がする。


「おい白洲」 「はい」 「俺にも見えてんのか、あれ」 「たぶん」 「たぶんかよ!!」


ウツシが画面の端で、小さく笑った。


「この人ねぇ」


声が甘く低くなる。


「終電の後の人だよぉ」


ウツシの白い指がガラスの内側から女の肩に触れそうで触れない。


「キミの、駅の人の」


俺は女の足元を見た。 白い線があった。 ホームの白線。 女はその線の、外側に立っている。


ホームの端。 電車が来る側。


0時30分。 俺は4つの品をブルーシートに並べたまま、軍手を外した。


「どこ行くんだよ」 「0時41分なんで」


◇


0時41分。 夜見坂駅のホーム。


保管室の開いたドアの前に、マチさんが立っていた。


白い手袋が止まった。 懐中時計を握ったまま。 目がブルーシートの上を滑る。


黒い手袋。 赤いパンプス。 白いマフラー。 紺の傘。


目が止まった。


「……律さん」 「はい」 「これは、どなたのもので」 「分かんないっす」 「……そうですか」


マチさんがブルーシートの前に膝を折った。 白い手袋が赤いパンプスの上で止まる。 触れずに、かざす。


「かかとの外側が」 「はい」 「柱に寄りかかる癖の」 「よく分かりますね」 「わたくしも」


マチさんがそこで言葉を切った。 蓋を開ける。 かちり。


「わたくしも、待つ癖がございまして」


蓋を閉じる。 ぱちん。


「柱に、寄りかかって」


スマホの画面が明るくなった。


「ねえねえ」


ウツシの声だ。 甘いのに、棘がある。


「その人」 「はい」 「キミが連れてったんでしょぉ」


画面の中の銀色の目が、マチさんを見ている。


「終電の後のホームから。人さらい」


マチさんの手袋が止まった。 指が蓋に触れたまま。


「……あなた様も」


低い声だった。


「人のお顔を、お盗りになります」


その時。 ホームの蛍光灯が1本、消えた。


ちん、と音がした。 ガラス管の中で、白い光が縮む。 縮んで、消える。


マチさんの顔の半分が、影に入った。 白い手袋だけが暗がりで浮いている。


「……こわ」


ウツシの声が少しだけ小さくなった。


「2人とも」


俺は言った。


「そういうのは後で」


マチさんが時計を閉じた。 ぱちん。 ウツシが画面の隅で膨れた。


「むぅ」 「今は、この人の探し物が先っす」


俺はマチさんの前にしゃがんだ。


「マチさん。定期入れ、持ってたりします?」


マチさんがコートの内ポケットに手を入れた。


白い手袋が古い切符の袋を取り出す。 端が擦り切れている。


「……待合に、落ちておりました」


袋を持つ指が少しだけ深く沈んでいる。


「ずっと」


袋の口を開く。 中から、ビニールの定期入れが出てきた。 表面は黄ばんで曇っている。


夜見坂。 緑台。 古い書体。 30年は前のものだ。


その横に、写真が1枚。 角が丸い。 女の子が写っている。 笑っている。


マチさんは定期入れを両手に乗せた。 ビニールがかさりと鳴る。


「お返ししたら」


マチさんは顔を上げない。


「この方は、わたくしの駅から出ていかれます」


「出ていっていいと思います」


俺は言った。


「もう待ってないんで。探してるだけっす」


マチさんの指がぴくりと止まった。 懐中時計の鎖がかすかに揺れる。 ホームに風はない。 なのに、鎖だけが動いている。


「……そうでございますね」


白い息が一瞬だけ浮かんで消えた。 5月の夜に、白い息。


マチさんが手を差し出した。 両手で。


「もう、お待ちではない」


定期入れを俺の前に。


「……お返しいたします」


俺は素手で受け取った。 ビニールは冷たい。 冷たいのに、手のひらにじんわりと馴染む。


定期入れをブルーシートの手袋の隣に置いた。


◇


女がブルーシートの前に立っていた。


足音はしなかった。 俺は動かなかった。


女が手を伸ばした。 黒い革の手袋へ。 触れた瞬間、手袋が持ち上がった。 女の左手にはまっていく。 擦り切れたところが、ぴったりと重なる。


「あ」


かすれている。 でも、さっきの「ない」とは違う。


女は左足を上げた。 赤いパンプスに、足が入る。 かかとが外に倒れる。 履き慣れた倒れ方だ。


白いマフラーを首に巻く。 端が口元に当たった。


紺の傘を取る。 留め具を留め直す。 手脂で黒光りした部分に、指が重なる。


最後に、定期入れ。 黄ばんだ表面を親指で一度だけ拭った。 それから、コートの胸のポケットにそっと入れた。


女が顔を上げた。


普通の顔だった。 30代の。 疲れた。 目の下に、薄いくまがある。 口元に、笑い皺が少し。


写真の女の子の、母親の顔だ。


女はホームの白線の外に出た。 線路のほうを見る。 誰もいない。 終電はもう来ない。


そこに、女は一礼した。


腰を折る。 深く。 止まる。 戻す。


「ありがとうございました」


俺に向けてじゃない。 暗がりに向けて。


真壁さんが保管室のドアの陰で息を飲んだ。 足元で、影縫いが尻尾を1回だけ振った。


女は階段のほうへ歩き出した。 白線をまたぐ。 かかとがもう外に倒れていない。 まっすぐ、立っている。


階段を上っていく。 コートの裾が段の角でひらりと揺れた。 白いマフラーの端が、最後に一度だけ見えて。


消えた。


ホームに、風が吹いた。 生温かい。 5月の風だ。


ブルーシートの上は、空だった。


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0425】 分類:丙 呼称:忘れ物の主 発生場所:夜見坂駅 ホーム端 旧駅務室(忘れ物保管室) 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト) 経過: 保管室の棚に、届け出のない忘れ物が1点ずつ出現(計4点)。接触した職員に感覚の喪失。 担当アルバイトが品物を仕分け、同一人物の所持品と特定。 対象は所持品を身につけ、ホームの階段から退出。 危険手当:100,000円(丙) 備考:契約怪異(待ち人)が対象の所持品を返還。待ち人の領域から人格を持つ対象が退出した初の記録。


丙の手当が10万。 借金は1,558万から、1,548万。


◇


1時20分。 ホームのベンチ。


スマホの画面の隅で、ウツシが小さく言った。


「……ずるい。最後、いいとこ取った」


マチさんが階段のほうを向いたまま言った。


「お仕事でございます」


いつもの敬語より、少しだけ柔らかい。


ウツシが口を開きかけた。


「だって、ボクは」


そこで止まった。 銀色の目が階段の上のほうを見ている。


ウツシは言い返さなかった。


マチさんも、ウツシも、同じ方向を見ていた。 女が上っていった階段。 もう誰もいない、明るいだけの踊り場。


◇


1時53分51秒。


マチさんが立ち上がった。 白い手袋が古い切符の袋を俺の手に乗せる。 軽い。


「お預かりものは、もうございません」


袋の底に、小さな丸い穴が1つ。 紙魚のかじった跡だった。

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