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客が消えるタクシーに乗ったら、運転手に行き先を聞かれた




「お客さん、どちらまで」


5月10日、2時30分。 環状線沿いのタクシー乗り場に、古いセダンが滑り込んできた。


黒に近い紺。 角ばった型。 屋根の表示灯が、黄ばんでぼんやり光っている。 『あけぼの交通』。


後部ドアが、がちゃりと開いた。 勝手に。


俺は乗り込んだ。 座面が沈む。 ビニールの張りがぎゅ、と鳴った。


「おい白洲」 真壁さんの声が、無線越しに耳の奥で震えている。 「答えるなよ。絶対に答えるなよ」


消えた客は3人。 全員、翌朝、自分の家の玄関で寝ていた。 乗ってからの記憶と、自分の住所だけがない。 前例じゃ、2回乗ったやつは帰ってこなかった。


俺は返事をしない。 無線の向こうで、真壁さんが唾を飲む音だけが聞こえた。


ドアが閉まる。 音が妙に軽い。 外の空気が、ふつりと途切れた。


車内の匂い。 古いビニール。 それから、昔のレモンの芳香剤。 その下に、日に焼けたタバコのヤニ。


フロントガラスの向こう、乗り場の街灯がにじんでいる。 輪郭だけがぼやけて、中身がない。


運転席のヘッドレストの裏に、乗務員証がぶら下がっていた。 プラスチックの枠が黄ばんでいる。 名前の欄は掠れている。 顔写真の部分だけ、白く褪せている。 顔の形だけ残って、目も鼻もない。 白い四角が、こちらを向いていた。


「お客さん」


運転手が言った。 60代くらいの男。 制帽をかぶっている。 白い手袋でハンドルを握っている。 声は柔らかい。 下町の、昔のタクシー運転手の声だ。


「どちらまで」


ルームミラーが揺れた。 鏡の中に、運転手の顔が映っている。 制帽のつばの下、目の位置に、影しかない。 ぽっかりと黒い。


俺は答えない。


スマホの画面が、ポケットの中で一度だけ明るくなった。 ウツシだ。 画面の隅で、銀色の点が小さく光っている。 声は出していない。 ただ、光っている。


「どちらまで」


2度目。


俺はシートの背から体を起こした。


「運転手さんは、どちらまで行きたいんすか」


ルームミラーの中で、運転手の顔が動いた。 影の目の奥で、何かがすうっと引く。 制帽のつばが、かすかに傾いた。


「……わたしは」


声は柔らかいままだった。 ハンドルを握る白い手袋の指が、順番に、ゆっくりと丸まる。 革がきゅ、と鳴る。


「お客さんを送るのが仕事ですよ」


メーターが鳴った。 ちん、という軽い音。 赤い数字がひとつ、跳ねた。 まだ停まっている。 外の景色も動いていない。 なのにメーターだけが、730円から760円に変わっていた。


「お客さん」


運転手が言った。


「どちらまで」


3度目。 声が、さっきより少しだけ低い。 柔らかいのに、低い。 シートの背に、冷えた空気が貼りつく。


ポケットの中でスマホが震えた。 一度だけ。 俺は画面を親指で少しだけ押し上げた。 光が漏れる。


画面の隅で、銀色の点が小さく膨らんだ。 ウツシの声が、耳の奥に小さく落ちてくる。


「……この人ねぇ」


甘い声が、尖っていた。


「お客さんの行き先、自分の帰り道に使ってるの」


自分の帰り道に。


俺は声に出さない。 唇も動かさない。 心の中だけで繰り返す。


「そう。お客さんが答えた場所まで走って、そこから自分の家に帰るんだよぉ」 「家がどこかも分からなくなってるのに」 「走らないと帰れないの」


ウツシが、それきり黙った。 画面の光が、ふっと小さくなる。 拗ねている。 たぶん。 マチさんに最後を持っていかれた件、まだ根に持ってる。


「お客さん」


運転手がまた言った。


「行き先を」


メーターが、また跳ねた。 820円。 停まっている。 後ろの車のヘッドライトが、フロントガラスに映るだけ。 真壁さんの車だ。 無線が、耳の奥でぱちぱちと鳴っている。


「白洲、まだか」 真壁さんの声が掠れている。 「降りろ。今ならドア、開くか」


俺は無線のボタンを親指で2回、押した。 短く。 「待って」の合図。 声は出さない。


運転手の白い手袋が、だらりと膝の上に落ちた。


「わたしは」


声が、かすかに震えている。


「お客さんを送るのが仕事で」


「知ってます」


俺は言った。


「でも、俺は送ってもらわなくていいっす」


運転手が、ゆっくりと前を向き直った。 背中が、シートに沈む。 それから、白い手袋が、ハンドルに戻った。


指が、そっと握る。


車が、動き出した。


外の景色が、ゆっくりと流れ始める。 音もなく。 振動もなく。 景色だけが後ろへ滑っていく。


メーターが、また跳ねた。 1260円。


ごとん。


高架の継ぎ目を、タイヤが踏んだ。


ごとん。


また同じ継ぎ目。


窓の外の高架下のガードレールが、同じ角度で流れていく。 黄色い反射板。 消えかけた白線。 街灯が等間隔に後ろへ飛んでいく。


メーターは1430円。


「白洲!」


無線が耳の奥で叫んだ。 真壁さんだ。


「お前、まだ乗ってるのか! さっきから同じとこ回ってるぞ!」 「高架下、もう2周目だ! いい加減にしろ!」


俺は無線のボタンを1回だけ押した。 短く。 了解の合図。


車内に、運転手の声だけが落ちてくる。


「お客さん」


声は相変わらず柔らかい。


「どちらまで」


俺は答えない。


「運転手さん」 「はい」 「燃料、どれくらい残ってるんすか」


運転手が少しだけ首を傾げた。 白い手袋がハンドルを軽く握り直す。


「燃料ですか」 「はい。ずっと走ってるんで」 「燃料は、減ってませんよ」


「お客さんが行き先を決めない限り、減りません」 「そうっすか」 「ええ」


メーターが跳ねた。 1560円。


ごとん。


3度目の継ぎ目。


「同じとこ回ってるの、分かってます?」 「分かってますよ」


運転手の声が、すうっと静かになる。


「わたしは、走らせていただくだけで」 「行き先がないなら、ずっと?」 「ええ。お客さんが決めるまで」 「決めないと、このまま朝まで?」 「朝が来るかどうかも、お客さん次第ですよ」


ルームミラーの中で、影がゆっくりと細くなる。 笑っているのか怒っているのか、分からない。 黒い穴の輪郭が、かすかに震えている。


「わたしは、送るのが仕事ですから」


俺は、運転席のヘッドレストの裏に目をやった。


乗務員証。 白く褪せた顔写真の下に、手書きの字がある。 営業所の住所だ。


プラスチックの枠が、少し浮いていた。 指で押すと、くるりと裏返る。


裏に、もっと小さな字。 鉛筆で、ひらがな。


『ゆみこ 7さい』


「運転手さん」


俺は言った。


「この子のとこ、まだ帰ってないっすよね」


運転手が、ミラーの中で長く黙った。 制帽のつばの下の黒い穴が、こちらを向いている。 白い手袋がハンドルの上で止まっている。 指の1本も動かない。 革の皺だけが、かすかに深い。


「ゆみこ」


運転手が言った。 声が、さっきより柔らかい。 柔らかいのに、掠れている。 下町の声の奥に、別の声が重なっている。 子どもの声が、遠くで一緒に唱えている。 「ゆみこ」と。


白い手袋の指が、1本だけ浮いた。 人差し指だ。 ハンドルの上で、ゆっくりと宙に上がる。 それから、戻る。 革がきゅ、と鳴った。


「お客さん」


声が、少しだけ低い。


「この子を、知ってるんですか」


俺は答えない。


「わたしは」


声が、途切れた。


「わたしは、走ってるんです」


白い手袋が、ハンドルを握り直す。 指が、順番に、ゆっくりと丸まる。 親指から、人差し指、中指、薬指、小指。 全部が、ハンドルに沈む。 革が、みし、と鳴った。


「走ってないと」


声が、もっと掠れる。


「帰れないんです」


「どこに」


俺は言った。 声は、平熱のままだった。


「帰る場所が、分からないんです」


運転手が、初めてミラーから目をそらした。 黒い穴が、動いた。 前を向いた。 フロントガラスの向こうを見ている。 にじんだ街灯の、輪郭のない光を見ている。


白い手袋の親指がハンドルの端で、かちりと音を立てた。 ウインカーのレバーだ。


かち。 かち。 かち。


乾いた音が、車内に3度落ちる。 左のウインカーが、点滅を始めた。


◇


3時15分。


古い住宅街の一軒家の前で、タクシーが止まった。


木造の2階家。 瓦は黒ずんでいる。 雨戸が閉まっている。


表札には、別の名前が彫ってあった。 四角い石の表札だ。 縁が欠けている。


「着きました」


運転手が言った。


メーターが、かちりと音を立てた。 積み上がっていた数字が、全部まとめてゼロに戻る。


ルームミラーを見た。


運転席に、誰もいない。


制帽も、白い手袋も、ない。 シートが、まだ沈んでいる。 背もたれの形だけが、人の形にへこんだまま。 乗務員証が、かたん、と小さく揺れた。


外から、足音がした。


「おい!」


真壁さんの声だ。 息が切れている。


「白洲! 無事か!」


後ろの車から走ってきた。 車の外に出ると、真壁さんが俺の肩を掴んだ。 指が硬い。


「無事だな」 「はい」 「顔色、普通だな」 「そうすか」 「ちくしょう」


真壁さんが俺の肩を2度叩いてから、手を離した。


「運転手は」 「いません」


俺は車のボンネットに手を当てた。 冷たい。 金属の冷たさだけじゃない。 水に濡れたみたいに、しっとりと冷えている。


「エンジン、止まってます」 「は?」 「音がしないんで」


さっきまで走っていたのに、もう冷えている。


真壁さんがボンネットに触った。 すぐに手を引いた。


「冷たすぎるだろ」 「はい」 「まるで一晩ここに置いてあったみたいだ」


真壁さんのスマホが鳴った。


画面を見た真壁さんの眉が、ゆっくりと上がる。


「ああ」


低い声。


「分かった。ああ、全員か」


しばらく聞いていた。 それから電話を切った。 真壁さんが俺を見た。 口が半開きになっている。


「白洲」 「はい」 「消えた客3人」 「はい」 「全員、自分の家の住所を思い出したそうだ」


真壁さんはスマホをポケットに押し込んだ。


「お前、何した」 「運転手さんに、行き先を言わなかっただけっす」 「それだけか」 「それだけっす」 「ふざけんな。それで解決する事案じゃねえだろ」 「でも帰ったんで」 「だからだよ」


真壁さんが息を吐いた。 長い。


「前例は2回乗った人間が帰ってこねえんだぞ」 「はい」 「お前1回目で運転手のほうを降ろしてんじゃねえか」 「降ろしたんすかね」 「知るか」


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0426】 分類:丙 呼称:答えてはいけない運転手 発生場所:環状線沿いのタクシー乗り場〜住宅街(個人タクシー『あけぼの交通』の車内) 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト) 経過: 行き先を答えた乗客が車内から消える事案(被害3名。いずれも翌朝に自宅で発見、住所の記憶を喪失)。 担当アルバイトが乗車し、行き先を答えず、運転手の行き先を聴取。 車両は住宅街の一軒家の前で停車し、運転手は消失。被害3名の記憶の回復を確認。 危険手当:100,000円(丙) 備考:前例(同型、2回乗車で未帰還)と異なり、1回目の乗車で対象が退出。担当アルバイトに恐怖反応なし。


丙の手当が10万。 借金は1,548万から、1,538万。


◇


3時20分。


俺はタクシーの後部ドアを開けた。


閉める前に、座席を見る。 忘れ物がないか。 清掃の癖だ。


シートの溝。 足元のマット。 何もない。


ドアを閉めかけたとき、車の無線がザッと鳴った。


「お兄さん、ありがとね」


運転手の声だった。 冷えた車内のスピーカーから。


「……この前は、悪かったね。怖がらせて」 「この前?」 「先週も乗ったでしょう」


無線の声が続いた。


「同じ顔の」


俺はドアの取っ手を握ったまま止まった。


「ずっと震えて」


声が、少しだけ間を置く。


「降ろしてくれって泣いてたから」


車内のスピーカーが、ざらつく。


「途中で降ろしたんだよ」 「鏡の前で」


無線が切れた。 ざっとノイズが走って、それきり沈黙した。


ドアは開いたままだ。 外の空気が、足元にだけ流れ込んでくる。 5月の夜なのに、冷たい。


「おい」


真壁さんの声だ。 すぐ後ろにいた。


「今の、何だ」 「無線っす」 「聞こえた」


真壁さんが俺の隣に並んだ。 車の屋根の表示灯を見上げている。 黄ばんだ明かりが、まだぼんやり点いている。


「先週って言ったよな」 「言いましたね」 「……お前、先週乗ったか」


俺はドアを閉めた。 がちゃり、と軽い音がした。


「乗ってないっす」 「断言するなよ」 「先週は回廊で数えてました」


真壁さんの顔が、ゆっくりと俺のほうを向いた。


ポケットの中で、スマホが冷たい。 画面を出すと、待ち受けの隅の銀色の点がいつもより小さい。 縮んでいる。


ウツシは、何も言わない。


「……鏡の前で、降りたの」


小さな声だった。


◇


真壁さんがスマホを出した。 親指で画面を弾く。 宵帳の、管轄をまたいだ報告の一覧だ。


指が止まった。


「……今週、2件」 「はい」 「よその調整室から上がってる」


真壁さんが画面をこっちに向けた。


『白洲律に似た若い男。夜、店のガラスや車の窓の前で、ひどく怯えていた』

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