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洗面所の鏡に引っ越しの段ボールが積まれていて、排水口から指が出た




5月13日の朝、洗面所の鏡に段ボール箱が映っていた。


3つ。 鏡の中にだけ、積んである。


7時10分。


「ウツシさん」 「なぁにぃ」


鏡の中から返事がした。 銀色の目が鏡の端で、ゆらりと動く。


「これ、どうしたんすか」 「んー?」


ウツシが段ボールの影から、ひょこりと顔を出す。 黒髪が肩から滑って、箱の上に落ちる。


「お引っ越しぃ」 「前から住んでるじゃないっすか」 「今までは、お泊まりぃ。今日から本宅」


洗面所の鏡の奥に、部屋が続いている。 壁に、古い照明が1つ。 その下に段ボール3つ。 布団袋が1つ。 赤いビニール紐で、口が結んである。


「元のおうちは」 「んーとねぇ」


ウツシが段ボールの角をつん、とつつく。


「おうち、テープで閉じられちゃったからぁ」 「養生シートっすか」 「そう。あれ、ぜんぶ塞がれちゃったの」 「回廊の件で」 「うん。だからこっちに引っ越してきたのぉ」 「はい」 「ねえねえ。文句、ない?」 「別にないっす」 「そっかぁ」


ウツシが鏡の中で、くるりと回る。


「キミの家、ボクの家」 「ああ、そういう」 「そういうの」


俺は鞄から、真鍮の枠を出した。 手鏡の枠だ。 ガラスはない。 戸川さんの件で、割れて抜けた。


「それ」


ウツシが鏡の奥から手を伸ばした。 指がガラスに触れる。


「くれるの?」 「貸すだけっす」 「えー」 「どこに置きます」 「おねえちゃん、そこね」


ウツシが鏡の内側から、横の壁を指で示す。 タオル掛けの横の、小さなフックだ。


「もうちょっと左ぃ」 「ここすか」 「もっとぉ」 「ここ」 「そう。そこ、いい」


枠がかちりと壁に触れて、少し傾いた。 洗面所の鏡の中に、枠がもうひとつ映り込む。 花の彫り物が、鏡の向こうで並んだ。


「これで、おねえちゃんもいっしょ」 「はい」


俺は寝癖を押さえた。 鏡の中で、ウツシも押さえた。 同じ角度。 同じ形の寝癖が、ウツシの頭で跳ねている。


「……」 「えへへ」


ウツシが目を細めた。 銀色の目が、いたずらっぽく光る。


「キミのパーカー」 「古いっすよ」 「色、おなじ」


ウツシの袖が、黒に変わる。 首元のヨレまで同じだ。


「すごいっすね」 「でしょぉ」


ウツシが鏡の中で、胸を張った。 それから、急に姿勢を正した。 肩をちょっとだけ落とす。 顎を引く。


「1限、だるいっすね」


俺の声だった。 低くて、平たい。


「俺の声で俺の台詞言わないでください」 「えー。そっくりだったでしょぉ」 「そっくりすぎるんすよ」 「ほめことばぁ」 「ちがいます」


蛇口をひねった。 水が、じゃっと出る。 顔を洗う。 鏡の中のウツシも、顔を洗っている。 こっちの雫は顎で止まる。 あっちの雫は、鏡の表面を伝って落ちる。


「ねえねえ」


ウツシが濡れた顔のまま言った。


「キミになりたいなぁ」


タオルで顔を拭く。 ウツシも拭く。


「毎朝これ、やるんすか」 「うん。だってキミだもん」 「俺は俺っすよ」 「ボクはキミ」 「意味が分かんないっす」


「……キミの中、入っていい?」


声が、小さかった。 甘くない。


「満員なんで」 「空っぽなのにぃ?」


ウツシが、けらけらと笑う。


「失礼っすね」 「ごめんねぇ」


笑いながら謝っている。


俺は鞄を掴んだ。 スマホをポケットに入れる。


「行ってきます」 「いってらっしゃぁい」


ウツシが鏡の中で手を振る。 洗面所のドアに手をかけた。


コン。


1回だけ。 排水口の奥で。 硬いものが、管の内側に当たる音。


鏡の中で、ウツシの手が止まっていた。 振っていた形のまま。 銀色の目が、排水口を見下ろしている。


「……聞こえた?」 「聞こえました」 「ふぅん」


振っていた手が、ゆっくり下りた。


◇


22時。


スマホが鳴った。 大家さんからだった。


「もしもし。白洲です」 「あの、夜分にごめんなさいね」


声が震えている。 60代の女性の声が、喉の奥でかすれている。


「1階と3階の人から」 「はい」 「洗面所の排水口から、夜になると白い指が出るって」


俺は洗面所のほうを見た。 ドアは閉まっている。 鏡の中のウツシが、こっちを見ている気配がする。


「3階の人、手首を掴まれたって。痣になってるの」 「2人とも引っ越すって言ってるの」 「引っ越し」 「ええ。今日、急に」


大家さんの声が細くなる。


「白洲さんとこは、何か見なかった?」


俺は洗面所のドアをもう一度見た。 今朝の音。 排水口の奥で、硬いものが管に当たる音。 コン。


「特には」 「そう。良かった」


良かった、と言いながら声はぜんぜん良くなさそうだった。


電話を切った。 スマホをテーブルに置く。


洗面所のドアが、3センチほど開いていた。 閉めたはずだった。 閉めたはず、と自分で思う。


鏡の中から、ウツシが言った。


「ねえねえ」 「はい」 「キミんち、人気者だねぇ」 「迷惑っす」 「えへへ」


洗面所のドアの向こうで、鏡がかすかに明るい。 銀色の光が、廊下に細く伸びている。


真壁さんに電話をかけた。


「もしもし」 「真壁さん。俺です」 「おう。どうした」 「うちのアパート、事案っぽいっす」 「は?」 「排水口から指が出るそうです」 「お前の家かよ……」 「1階と3階です。俺んとこはまだ」 「まだって言うな」


真壁さんの声が裏返った。


「ちょっと待て」


保留の音楽が鳴った。 30秒。


「……室長に聞いた」 「はい」 「ご自宅なので」


真壁さんが一度、咳をした。


「手当は出ませんね、だとよ」


俺は天井を見た。 染みひとつない。


「……笑顔でしたか」 「声が楽しそうだった」 「そっすか」


洗面所の奥で、排水口から、水がひとりでに流れる音がした。 じゃ、と短く。 それから、ぷつりと止まる。


「今の音、なんだ」 「排水口っす」 「帰れ」 「家っすよ」 「知るか。ホテル行け」 「金ないっす」 「ちくしょう」


電話を切った。


押し入れから、実家の道具箱を出した。


洗面台の前に、道具を並べた。 左から順に。 ワイヤー式のパイプクリーナー。 ゴム手袋。 バケツ。 懐中電灯。 柄の部分に、白い塗装で『白洲』。 親父の字だ。 掠れている。


鏡の中で、ウツシが同じものを並べていた。 ワイヤーが、にょろりと鏡の内側に伸びる。 バケツが、かぽんと音を立てて置かれる。 こっちのバケツは、音を立てていない。


「おそろいぃ」 「写してるだけっすよね」 「おそろいはおそろいだよぉ」 「まあいいっす」


ゴム手袋をはめた。 手首のところで、ぱんと鳴る。 ウツシもはめた。 ぱん、と鏡の中から音が返る。


洗面台の下に潜った。 膝が床につく。 配管が冷たい。 トラップのナットに手をかけた。 錆びている。


「がんばれぇ」 「応援はいらないっす」 「えー」


息を止めて、回した。 きり、と小さく動く。 もう一度。 最後の1回転で、手応えがすっと抜けた。


トラップを引き抜く。 U字の管に、水が溜まっている。 濁っている。 匂いが上がってくる。 鉄。 湿った埃。 その奥に、もっと古い水。


「くさい」


ウツシが鼻をつまんだ。 鏡の中で。


「慣れます」 「慣れたくないの」


ウツシが、ふいに鼻から手を離した。


「ねえ。その匂い」 「はい」 「ボクの鏡の、ふちと同じ」


俺は顔を上げた。 洗面所の鏡の縁。 シーリングが、ところどころ黒ずんでいる。 右端の、拭いても曇りが戻ってくるあたりだ。


同じ匂いがした。


「……ほんとっすね」 「ね」


◇


22時30分。


壁の排水管の口から、指が出た。 床の高さだ。


4本。 白くて、細い。 指先がふやけている。 長く水に浸かった指だ。 爪が白く濁っている。


指が、俺の手首を探った。


すり抜けた。


もう一度来る。 手首の形をなぞって、すり抜ける。 空を握って、指先が震えた。


「キミ、ほんとに触られないんだねぇ」


ウツシが鏡の中から言った。


「便利っすよ」 「さみしくないの?」 「慣れました」


ワイヤーを管の口に入れた。 指の間を縫って、奥へ。


奥で、何かに当たった。 柔らかい。 髪の毛だ。 束になっている。 ワイヤーを回すと、きりきりと巻きつく。 その奥に、もっと硬いもの。


ウツシも鏡の中で、同じ管の口にワイヤーを入れた。 にょろりと銀色が沈む。


「なんか、いる」 「いますね」


先端が、こつん、と当たった。


その瞬間。


ワイヤーが、止まった。


奥で、誰かが掴んでいる。 引いても動かない。 回しても動かない。


「ボクのも」


鏡の中のワイヤーも、ぴんと張っている。


下の階から、悲鳴が聞こえた。


「ひぃっ!!」


女の声だ。 1階。 短く。 途切れる。


俺はワイヤーを握り直した。 右に回していたのを、止める。


左へ。


逆回し。 絡んだ髪は、巻いた向きと逆に回すとほどける。 親父に最初に教わった手順だ。


「ウツシさん。真似しないでください」 「えー」 「同じ向きで。こっちと」 「……キミと逆、やだなぁ」 「詰まり、抜けないんで」


少しの間。


鏡の中のワイヤーが、初めて俺と逆に回った。 鏡に写ると、同じ向きになる。 管の外と、鏡の中。 同じ詰まりを、両側から挟む。


手応えが、ずるりと緩んだ。


「せーの」


ウツシの声で、引いた。


ワイヤーが、ずるりと抜けた。


先端に、髪の毛が絡まっている。 黒い束が水に濡れて、蛇の腹みたいに光っている。 その先に、白い指が食い込んでいた。


4本。 力が抜けている。 指先から、ぽたりと雫が落ちた。


指の奥に、鏡の破片。 手のひら大。 丸い。 縁が欠けている。


髪をほどく。 逆回しで、きりきりと黒い束が解けていく。


最後の1本が外れたとき。 白い指が、ぱたりと開いた。 空気を掴んで、ゆっくりと縮む。 爪の先から順に、透けていく。


消えた。


バケツの縁に、水の輪だけが残った。 下の階は、静かになっていた。


スマホが震えた。 大家さんからのLINEだ。 『止まったって。1階の人、泣いてるけど無事』


無事なら、いいっす。


破片を裏返す。 黒い両面テープの残り。 バーバー鏡町の大鏡の下で、真壁さんが照らした剥がし跡と同じテープだ。 誰かが、この建物の配管に貼っていた。


「これ、洗います」


蛇口に手をかけた。


「まって」


ウツシの声が、低かった。 鏡の中のウツシが、両手をガラスに当てている。 銀色の目が、破片から離れない。


「中、見て」


破片を顔の前に持ってくる。


暗い場所。 しゃがみこんでいる人がいる。 黒いパーカー。 黒髪。 寝癖。


俺だ。


俺が、こっちを向いていない。 俺のいないほうを向いて、肩を震わせている。 両手で耳を塞いでいる。 唇が、「やめて」の形に動いて、止まった。


「やっぱり」


ウツシが言った。


「……あの子、キミの形で、外に出ちゃった」


鏡の中の照明が、ちか、と一度だけ瞬いた。


「108枚目の」 「うん」


ウツシの銀色の目が、破片の中の俺を見ている。 しゃがみこんで、震えている俺を。


「どうやって外に」 「街の鏡。みんなで、破片を貼ってたの。あれは、道」


「鏡から鏡へ、貼られた破片を伝って動くの」 「トイレのも、その道だったんすか」 「うん。あれはボクが割ったけど」


ウツシの声が、そこで一度だけ途切れた。


「あの子は、破片を伝って外に出た。キミの形のまま」 「タクシーの運転手さんが乗せたのも」 「うん。お店のガラスのも」


ウツシの指が、鏡の内側から破片の縁をなぞる。 触れない。 ガラス1枚ぶんの距離で、止まっている。


「あの子、怖がりなの」 「はい」 「怖いの、いっぱい持ってるから」


破片の中の俺が、耳を塞いだまま小さく首を振る。 左右に、何度も。


「キミと逆」


◇


破片を乾いたクロスで包んだ。 鞄の中の箱に入れる。 公衆トイレの破片と、同じ扱い。


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0427】 分類:丙 呼称:洗面所の手 発生場所:緑台の集合住宅(担当アルバイトの住居)の洗面台の排水管 担当:白洲律(アルバイト) 経過: 1階・3階の住人より、夜間に洗面台の排水口から白い指が出るとの苦情。 担当アルバイトが自室の排水トラップを外し、排水管を清掃。 髪の毛の塊と、配管内に貼り付けられた鏡の破片(手のひら大)を回収。回収後、手の出現は止んだ。 危険手当:0円(担当者の自宅のため対象外) 備考:回収した破片に担当アルバイトの映り込みあり。第0424号の備考2と関連の可能性。


手当は0円。 借金は1,538万のまま。 事案番号だけは、ちゃんと振られた。


◇


23時55分。


靴を履いた。


洗面所から、声がした。


「……キミの形、取られるの、やだなぁ」


返事をする前に、鏡は静かになった。


アパートの階段を下りる。 夜の空気が、首筋に冷たい。


ポケットのスマホが震えた。 ウツシじゃない。 LINEだ。


小春から。


『お兄ちゃん、今日うち来た?』


もう1件。


『台所の電気つけっぱなしで帰ったでしょ』


もう1件。


『てか今も2階で足音するんだけど』


俺は画面を見たまま、足を止めた。


今日、実家には行っていない。

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