妹が「昨日もお兄ちゃん来たよね」と言うけど、俺は行っていない
「お兄ちゃん、またその服?」
5月14日、18時。 実家の台所で、小春が言った。
緑台から電車で40分の下町。 1階が事務所で、2階が住まい。
「悪いか」 「悪くはないけど、せめて洗って」 「洗ってる」 「首んとこ、ほつれてる」 「デザインだ」 「嘘つけ」
小春は制服の上にエプロンをつけていた。 黒髪のショートボブ。 耳に鉛筆。 左手で電卓を叩いている。 右手で帳簿の端をめくる。 その速度が速い。
「先週の請求書、まだ来てないとこ2件」 「はい」 「あと燃料代、先月より8パーセント上がってる」 「はい」
小春がホットプレートを台に置いた。 コンセントに手を伸ばす。 コードが足りない。 俺がテーブルを少し動かした。 小春は何も言わずに刺した。
「肉」 「買ってきた」 「うそ。安いやつでしょ」 「安くていい肉だ」 「どう見ても特売の切り落とし」 「うまいからいい」 「まあ食べるけど」
小春が袋を開けた。 トレーごと傾けて、肉を並べる。 端から順に、きっちり。 隙間を嫌うように。
「お兄ちゃん」 「なに」 「昨日の夜も来たよね」 「台所で、ゴキブリ見て悲鳴上げてた」 「行ってない」
小春の箸が止まった。
「……やっぱり?」 「やっぱり?」 「お兄ちゃん、ゴキブリ素手でつかんで外に逃がす人じゃん」
肉が焼ける。 煙が細く立って、換気扇に吸われていく。 小春が箸の先で、肉をひっくり返した。 じゅ、と油が跳ねる。
「昨日」
小春は焼けた肉を俺の皿に置いた。 端の焦げたやつ。
「夜の9時くらい」 「お母さん、まだ現場でしょ」 「お父さん、腰やって2階で寝てるし」 「私、台所で帳簿つけてたの」
俺は肉を口に入れた。 熱い。 小春の箸が、また止まる。
「そしたら玄関の鍵、開く音がして」 「鍵」 「うん。お兄ちゃんの足音だった」 「いや、俺は」 「靴の脱ぎ方、お兄ちゃんのだった」
小春は言った。
「かかと踏んで、ぱたぱたって」
俺は黙った。 小春の箸が、空気をつついた。
「台所の入り口に、立ってた」 「お兄ちゃんの格好だった」 「黒いパーカーに、ボロいジーパン」 「寝癖も同じ」 「でも、顔だけが変だった」
小春は肉を1枚、自分の皿に置いた。 箸でつまむ。 食べない。
「笑ってるの」 「口、ちょっと開けて」 「目が、すごく細くて」 「ずっと、こっち見てるの」 「で、台所の窓の前に行ったの」 「窓ガラスに映るでしょ。夜は」 「あれ、ずっと見てた」 「自分の顔を」
小春はそこで、水を一口飲んだ。
「それから」 「ガラスの前で、震え出した」 「肩、揺らして」 「手、ぎゅって握って」 「何か言ってるの」 「声は出てないの」 「口だけ動いてる」 「やめて、って」
俺は箸を置いた。 小春が、俺を見た。
「お兄ちゃん」 「うん」 「あの人、お兄ちゃんじゃないよね」 「俺は行ってない」 「知ってる」 「昨日の人、シンクの前で」 「ゴキブリ見て、叫んだ」 「キャーって」 「それ、お兄ちゃんじゃない」 「……それはそう」
俺は肉をひっくり返した。 焦げた面が上を向く。 小春は箸を置いた。
「帰り際」 「玄関で、靴を履きながら」 「『ただいまって、言っていい?』って」 「振り返らないで、言うの」 「私、なんて答えたと思う」
小春が俺の目をまっすぐ見た。
「『なんで聞くの』って言った」 「そしたら」 「あの人は、うつむいて」 「また、肩を震わせて」 「『そうだよね』って」 「それから出てった」 「靴音が、ぱたぱたって」 「鍵、かけずに」 「玄関、開けっぱなしだった」 「なのに夜中、2階で足音がした」 「朝見たら、誰もいなかった」
小春は箸を手に取った。 冷めた肉を、口に入れる。 もぐもぐと噛む。 飲み込んでから、言った。
「あれ、何?」 「バイト先の関係だと思う」 「……変なバイト」
◇
22時。 第三事務所の蛍光灯が1本、まだ点いている。 あとの2本は切れている。 真壁さんが替えようとして脚立を出す。 烏丸さんがそれを見て、手を軽く振った。
「あとでいいですよ」
真壁さんが脚立を畳む。 金属が、かたんと鳴った。
俺はパイプ椅子に座った。 鞄を膝の上に置く。 中に、クロスで包んだ破片。 それと、まだ書いていない報告書の下書き。 実家の件は、来る途中で真壁さんに電話で話してある。
烏丸さんが、机の端に湯呑みを置いた。 自分の前に、もう1つ。 湯気が細く立っている。
「白洲くん」 「はい」 「お茶、どうぞ」 「いただきます」
湯呑みを取る。 指先が熱い。 烏丸さんは自分の湯呑みを持たない。 両手を机の上で組んでいる。 爪が短い。 その上に、薄い紙が1枚。 本部のレターヘッドが入っている。
「昨日のお昼のことなんですが」
烏丸さんが言った。 声は、いつもどおり。
「本部のロビーで」 「はい」 「ガラス扉の前で」 「はい」 「白洲くんが泣いていた、という報告が来ています」
真壁さんが脚立を置いた。 音が、少し大きい。
「は?」 「泣き叫んでいた、と」
烏丸さんが紙を1枚、机の上で滑らせる。 俺の前に来る。 文字が小さい。 監察課の印が、右上に押してある。
「昨日の昼、12時40分ごろ」
烏丸さんが読み上げる。
「本部1階ロビー」 「出入り口のガラス扉の前に、若い男が座り込んで」 「両手で顔を覆って」 「泣いていた、と」 「警備員が声をかけたら」 「『いやだ』と繰り返したそうです」 「『いやだ、いやだ』と」 「警備員が肩に触れたら」 「悲鳴を上げた」 「ガラス扉の外へ出て行った」
真壁さんが紙を覗き込んだ。
「白洲って書いてあんのか」 「服装からの推定です」
烏丸さんが言った。
「黒いパーカー」 「古いジーンズ」 「黒髪」 「寝癖」 「背格好が一致する、と」
真壁さんが俺のほうを見た。 それから、また紙に目を戻す。
「……お前」 「はい」 「昨日の昼、どこにいた」 「大学っす」
烏丸さんが湯呑みを持った。 一口、飲む。
「白洲くん」 「はい」 「本部では、少し困った声が出ています」 「困った声」 「恐怖を感じない人間を、うちが雇っている」 「その存在自体が」 「本当なのか、と」 「嘘をついているんじゃないか、と」 「あるいは」
烏丸さんが湯呑みを置いた。
「何かを隠しているんじゃないか、と」 「監察課が動くかもしれない、と」 「そういう話が出ています」
真壁さんが紙を机に戻した。
「監察課って」 「ええ」 「あそこ、話通じねえじゃねえか」 「通じませんね」 「で、数字だけ見て帰る」 「だいたいそうです」 「ちくしょう」
真壁さんが頭を掻いた。
「お前が泣くわけねえだろ」 「はい」 「お前、悲鳴上げたことあんのか」 「ありません」 「だよな」 「ゴキブリは見ましたけど」 「出たな」 「叫ばなかったっす」 「そこは叫べよ」 「迷惑なんで」
烏丸さんが、俺を見た。 笑顔だ。 目が、少しだけ細い。
「白洲くんは泣きませんよね」 「はい」 「怖くもない」 「特には」 「悲しくもならない」 「悲しいときはあります」 「泣かない」 「泣きませんね」
烏丸さんが少しだけ首を傾げた。
「どうしてでしょうね」
俺は湯呑みを持った。 茶が、少し冷めていた。
「腹減ったときは機嫌悪くなります」 「……そうですか」
真壁さんが、ふっと鼻で笑った。
「それ、監察課に言うのか」 「言われたら言います」 「やめとけ」 「なんで」 「真面目な顔で聞いてくるから」 「真面目に答えます」 「それが怖いんだよ」 「そうすか」 「そうだよ」
ポケットの中で、スマホが震えた。
「ねえねえ」
画面の中から、声がした。
真壁さんが、びくりと肩を跳ねさせた。
「なんだ」 「スマホっす」 「分かってる。今、声がした」 「はい」 「お前のスマホから」 「そうっすね」
俺はスマホを机の上に置いた。 画面を上に向ける。 待ち受けの隅の銀色の点が、ゆっくりと広がる。 黒い髪が画面の縁から溢れるように伸びて、白い顔が浮かび上がる。
「しゃ、喋った」
真壁さんが半歩下がった。
「お前マジか」 「前から喋りますけど」 「聞いてねえよ」 「言ってなかったっす」 「言えよ」 「すんません」
烏丸さんは椅子に座ったまま、画面を覗き込んだ。 背筋が伸びている。 笑顔は崩れていない。
「初めまして」
声が、静かに落ちる。
「白洲くんのお部屋の鏡の方ですね」 「そうでぇす」
ウツシが言った。
烏丸さんが、湯呑みを置いた。 音が、かちりと小さい。
「ウツシさん」 「なぁにぃ」 「お話、伺えますか」 「いいよぉ」
ウツシが画面の中で、こてんと首を傾げた。 黒髪が肩から滑って、画面の下で揺れる。
「あの子のこと」
烏丸さんが言った。
「本部のロビーで泣いていたという、白洲くんの形をしたもの」 「それと、お兄さんの家に現れたもの」 「同じですね」
ウツシの銀色の目が、すっと細くなる。
「うん」 「あの子、ボクらの仲間」 「写し身」 「鏡の回廊で、キミを映した」 「108枚目」 「隣を歩いてた3人の怖いのを、吸っちゃった」
画面の中で、ウツシが指を1本立てた。 銀色の爪が、画面の明かりを弾く。
「あの子、キミの形のまま外に出ちゃった」 「どうやって」
真壁さんが前のめりになる。
「破片の道」
ウツシが言った。
「街の鏡に、破片が貼ってあったの」 「トイレのとか、タクシーの窓とか」 「あれは道。鏡から鏡へ、写し身が歩く道」 「あの子は、それを伝って外に出た」 「キミの形のまま、ね」
真壁さんが息を吐いた。 長い。
「待て。つまり、あの偽物は」 「鏡の回廊に映った白洲の、写し」 「ああ」 「それが破片の道を使って、街に出て」 「夜中に泣いたり震えたりしてるってことか」 「そぉ」 「なんで泣いてる」
ウツシは、少しだけ黙った。 画面の中で、目がちかりと光る。
「怖がってるの」 「あの子、怖がりなの」 「キミの形を取ったけど」 「キミの中身がなかった」 「だから空っぽ」 「空っぽなのに、外に出ちゃった」 「だから、あの子は震えてるの」
「でも」
烏丸さんが言った。
「人を怖がらせているのでしょう」 「ロビーで泣き叫んで、警備員が悲鳴を聞いたと」 「報告にありました」 「うん」
ウツシが、こくりと頷いた。
「怖がってる顔、見せるでしょ」 「それで、人が怖がるの」 「その恐怖が、あの子の中に入っていくの」 「少しずつ、詰まっていく」 「中身が」 「空っぽだから」 「人の恐怖で、自分を満たしてる」 「でも、足りないの」 「もっと怖がってほしいの」 「だから、キミの帰る場所に行くの」 「キミのことを、知ってる人が」 「びっくりして」 「怖がるから」
真壁さんが、ごくりと唾を飲んだ。
「お前の妹さんのとこにも」 「うん。昨日、行った」 「台所の窓の前で震えてた」 「『やめて』って言ってた」 「あれ、助けてって意味じゃないの」 「怖いの、やめてって」 「自分の外の全部に、言ってるの」
俺は画面を見た。 ウツシの銀色の目が、俺を見上げている。
「あの子、キミの形のままだから」 「キミの帰る場所を、自分の帰る場所だと思ってる」 「おうちに帰りたいの」
烏丸さんの顔から、笑みが消えた。
1秒。
「写し身は、家族に迎え入れられると成り代わりが終わります」
真壁さんが、口を開けたまま止まった。
「じゃあ、実家っすね」
◇
23時10分。 宵帳の車は環状線を北上していた。 真壁さんの運転は荒い。 信号が青に変わるたび、アクセルが沈む。
「実家まで、どのくらいっすか」 「この時間なら40分」
スマホが鳴った。 画面に『小春』。 俺は出た。
「もしもし」 「お兄ちゃん」
声が小さい。 いつもの勢いがない。
「どうした」 「いま」
小春が一度、息を吸った。
「台所にいるよね」
俺はフロントガラスを見た。
「車の中」 「……だよね」
小春の声が、さらに小さくなる。
「2階にいるの。私」 「階段の上から」 「台所、見下ろせるでしょ」 「電気ついてる」 「誰もつけてないのに」
小春が唾を飲む音がした。
「椅子に座ってる」 「お兄ちゃんの格好の人が」 「黒いパーカーで」 「下向いて」 「肩、揺れてる」 「泣いてるの」
真壁さんがこっちを見た。 俺は口元に指を当てた。 真壁さんが頷いて、前を向く。
「小春」 「なに」 「そいつに、おかえりって言うなよ」
一瞬、沈黙があった。
「言うわけないでしょ」
小春の声が、少し戻った。
「気持ち悪い」
真壁さんがアクセルを踏んだ。 強く。 速度計の針が、跳ね上がる。 真壁さんがハンドルを握り直した。 指が白い。
「40分」
画面の隅の銀色の点が、動いた。 ウツシの声が、小さく漏れる。
「あの子、ボクが連れて帰る」
語尾が、伸びていなかった。
電話の向こうで、階段がきしむ。 1段。 間。 また1段。 小春は息を殺している。
電話の向こうで、知っている声がした。
俺の声だった。
「小春。……怖いよ。一緒にいて」




