実家の台所で、俺が泣いている
「小春」
俺は、電話の向こうの俺の声には答えなかった。
「そいつに、肉の残り出しといて」
電話の向こうで、小春が「……分かった」とだけ言った。 息を吐く音がして、通話はつながったままになった。 小春はまだ、階段の上にいる。
速度計の針は落ちない。 高速を降りて、下道に出る。 真壁さんが信号を数えている。 青で踏む。 黄色でも踏む。 赤の手前で、ようやくブレーキ。
「真壁さん」 「なんだ」 「免許、何点残ってるんすか」 「聞くな」 「はい」
スマホの画面の隅で、銀色の点が大きくなった。 ウツシの顔が横を向いている。 画面の外をずっと見ている。
23時50分。 実家の前に着いた。 2階の明かりは消えている。 1階の台所だけが、黄色くついている。
台所の窓。 すりガラスの向こうに、椅子の影が1つ。 座っている。 揺れている。 肩を小さく前後に。
勝手口に回る。 鍵は開いていた。
そのとき。 台所の窓ガラスに、銀色の目が映った。 窓の外から、ではない。 ガラスの内側から、こっちを見ている。 ウツシだ。 いつの間にか、スマホの中から実家の窓へ先回りしている。
「あの子、いるよ」
ポケットのスマホからも、声がした。 小さく。
「キミの席に、座ってる」
俺は勝手口のドアを開けた。 油の切れた蝶番が、かすかに鳴く。 台所の光が土の上に細く伸びた。
「どうも」
台所のテーブルに、俺が座っていた。
俺は流しのほうを見た。
「小春」
流しの前で、小春が菜箸を握ったまま固まっていた。 箸の先がかすかに震えている。
「肉、出したんだな」
俺はテーブルを見た。 皿が1枚。 端に寄せて、肉が並べてある。 焼き色がついて、白い脂が固まりかけている。 手をつけていない。 あれは腹が減らない。 戸川さんの偽物も、昼の弁当を食べなかった。
俺と同じ黒いパーカーが、椅子に座っていた。 同じ寝癖。 同じ首元のマスク。 目だけが赤い。 充血して、まぶたが腫れている。 両手が自分の膝の上で震えている。 爪の先が白い。
「……来てくれた」
声が俺の声で震えた。
「来てくれた、来てくれた」
椅子が、がたんと鳴る。 偽物が立ち上がった。 膝がぶつかって、皿が動いた。 肉が1枚、テーブルに落ちた。
「小春」
偽物が小春のほうへ半歩寄る。 小春が菜箸を胸の前に上げた。
「小春、聞いて」
偽物の指が小春のほうへ伸びる。 指先が空気を掻く。
「そっちが偽物だ!」
声が裏返った。 俺の声で、俺の顔で、泣きながら叫ぶ。
小春は1歩、流しの縁まで下がった。 背中がシンクに当たって、蛇口がかすかに揺れる。
俺は台所に1歩入った。
「俺が本物。昨日は行ってない」
偽物が、すぐにかぶせた。
「小春。俺だよ」
偽物が1歩、小春に近づいた。 声が濡れている。
「俺が本物だ。昨日は……」
そこで声が震えて、途切れた。
小春が流しの前から、俺と偽物を交互に見た。
「どっちも同じこと言ってる」
菜箸の先が俺と偽物の間で止まる。 小春の眉がすっと上がった。
「……無理」 「なにが」 「顔も声も同じ。無理。選べない」
勝手口で真壁さんが拳を握った。
「どっちだ、どっちだよ」
台所の窓ガラスの中で、銀色の目が大きくなった。
窓ガラスが白くなった。 ガラスいっぱいに、顔がある。 ウツシの顔だ。 銀色の目が2つ。 台所の明かりを反射して、ぎらりと光る。 黒髪がガラスの縁まで広がっている。
真壁さんが悲鳴を飲み込んだ。 喉の奥で、ぐ、と鳴った。 勝手口の鴨居に手をついている。 指が白い。
偽物が悲鳴を上げた。
「いやっ」
短く。 甲高い。 俺の声なのに、俺の声じゃない。
偽物が小春の背中に回り込んだ。 小春の袖を掴んでいる。 指が震えている。
「あれ、あれ、なに」 「知らない」
小春が言った。 声は平らだ。 菜箸を握り直している。
「やめて」
偽物が言った。
「やめて、やめて」
袖から手を離して、両手で耳を塞いでいる。 俺が破片の中で見たのと同じ形だ。
窓のウツシがじっとそれを見ている。 銀色の目が細くなった。 笑っているわけじゃない。 観察している目だ。 俺が現場で染みを見る目に、少し似ている。
「ウツシさん」
俺は窓のほうを見た。
「窓、指紋つけないでください」
台所が静かになった。
真壁さんが俺を見た。
「お前」 「はい」 「今、それ言うか」 「言います」 「指紋の話かよ」 「掃除するの、俺なんで」
小春が菜箸を下ろした。
「……お兄ちゃん。今の、怖かった?」 「特には」
小春は背中の偽物から1歩離れた。
「うちのお兄ちゃん、こういうとき絶対それ言うの」
偽物の輪郭が、窓ガラスの映り込みのように揺れた。
首のあたりから。 肩のあたりへ。 輪郭が波打って、また戻る。
「……ただいまって」
偽物が言った。 声が、俺の声で、湿っていた。
「言いたかった」
◇
窓の中から、ウツシが手を伸ばした。 声がいつもの甘い声に戻っていた。
「おいで。キミの怖いの、ボクがもらってあげる」
白い指が内側からガラスに触れる。 触れた場所から、すうっと曇りが引いていく。
偽物が顔を上げた。 まぶたが腫れている。 目の縁が赤い。
「だいじょうぶ」
ウツシが笑った。 ガラスの向こうで、銀色の目が細くなる。
「こわくないよぉ」
偽物が、1歩、窓のほうへ寄った。 足がもつれて、膝が笑っている。
「こわいの、ぜんぶ」
偽物がこくりと頷いた。
「ぜんぶ、ちょうだい」
偽物の胸のあたりが、ふっと薄くなった。 黒いパーカーの生地の下で、何かが抜けていく。 恐怖が抜ける音は、しなかった。 ただ、台所の空気が少しだけ軽くなった。
偽物の肩が下りた。 震えが止まる。 握りしめていた手が、ゆるむ。
顔がほどけた。 腫れたまぶたが薄くなる。 泣きはらした跡が、順に消えていく。
窓ガラスに、ただの映り込みが残った。 黒いパーカーの男が、台所に立っている。 俺だ。
映り込みの俺が瞬きをした。 俺が瞬きをした、その瞬間に。 1拍も遅れない。
真壁さんの息が鴨居の下で漏れた。
「消えた……のか」 「映り込みっすね」
ウツシが少しだけ笑った。 笑い方がいつもと違った。 口の端だけ上げて、目は細めない。
「キミの形」
息が浅い。
「返したよぉ」
「ウツシさん」 「んー」 「苦しいっすか」 「ちょっとねぇ」 「3人分は、ちょっとねぇ」
真壁さんが勝手口で長く息を吐いた。
「写し身が家族に入りこんだ事案は、うちの記録じゃ2件。2件とも、本人のほうが家から出された」
台所の時計が秒を刻んでいる。 0時15分。 換気扇の低い音。 冷蔵庫のモーター。
「……うち」
小春が口を開いた。 少し間があった。
「出さないよ」
窓のほうを見ないで言った。
「帳簿つける人、いなくなるし」
窓ガラスの銀色が、動いた。 ウツシの顔が真ん中に戻ってくる。 さっきより、少し小さい。
ウツシの手がガラスの内側に当てられた。 白い指。
「ねえねえ」 「はい」 「キミ」
額をガラスにつける。
「ボクと、契約して」
冷蔵庫のモーターが、止まった。
「そしたら」
ウツシの声が少しだけ震えた。
「キミの形、もう誰にも取らせない」
◇
俺は鞄から契約帳を出した。
「時間しか払えないっす」 「時間ってなぁに。じゃあ、鏡の前にいる時間、ぜんぶ」 「多いっす」
俺は契約帳を開いた。 ページの真ん中に、ウツシの名前はまだない。 枠だけがある。
「今、週2時間6分っす」 「うん」 「帰り道12分と、歯磨き朝晩3分ずつ」 「そうだねぇ」 「そのまま更新で」 「少なぁい」 「そうっすか」 「ぜんっぜん足りないの」
ウツシが頬を膨らませた。 ガラス越しだと、膨らみ方が少し歪んで見える。
小春が流しの前で、小さく鼻を鳴らした。 笑った音だ。
「大学の昼休みもつけます」 「ほんとぉ?」 「スマホ見てるんで」
画面の隅にはいつも銀色の点がある。
「キミ、ボクのこと見てるの?」 「見てるっつーか、視界に入ってるっつーか」 「うれしぃ」 「足して、週5時間」 「5時間!」
ウツシの声が少し跳ねた。 ガラスの向こうで、両手を上げる。 黒髪が跳ねて、また落ちる。
俺は枠に、週5時間、と書いた。
契約帳を窓ガラスに近づける。 ページを開いたまま、ガラスに押し当てた。
窓ガラスの内側で、ウツシが手を伸ばした。 白い指。 銀色の爪。
「いくよぉ」 「どうぞ」
指先がガラスの内側から紙に触れる。 じわり、と紙が沈んだ。 紙の表面が熱を持った。
ウツシが指を離した。 紙の上に、跡が残っている。 指の跡だ。 インクの色は銀色だった。
「……鏡文字っすね」
跡が左右反転している。
「これで、帳契成立でぇす」
契約帳の印が、3つになった。
「お兄ちゃん」 「ん」 「そのバイト」
エプロンの紐が腰の後ろで解けかけている。
「時給いくら?」
台所が静かになった。 真壁さんが勝手口で咳をひとつした。 途中で止まった。
「……普通」 「ふぅん」
小春はエプロンの紐を結び直した。 きゅ、と締まる。
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0428】 分類:乙 呼称:写し身の派生体(担当アルバイトの映り込み) 発生場所:本部1階ロビー/担当アルバイトの実家(台所) 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 第0424号の鏡の回廊で担当アルバイトを写した映り込みが、回廊内で発見された3名の恐怖を吸って外部へ出たもの。 本部ロビー、担当アルバイトの実家に出現し、家族への成り代わりを試みる。家族は迎え入れず。 写し身(呼称:ウツシ)が窓ガラス越しに恐怖を引き取り、派生体は担当アルバイトの映り込みに戻った。 危険手当:300,000円(乙) 備考1:派生体の判別は担当アルバイトの家族による。決め手は「恐怖反応の有無」。 備考2:写し身(呼称:ウツシ)と担当アルバイトが帳契。対価は時間(週5時間)。帳契2件目。
乙の手当が30万。 借金は1,538万から、1,508万。
◇
1時12分。 夜見坂駅のホーム。
マチさんは時計の下に立っていた。 懐中時計を開いたまま。
「31分。……お待ちしておりました」
マチさんの手袋が、俺の袖をつまんでいた。 布越しに、指の形がわかる。
「契約帳が、昨夜より重うございます」
声はホームの柱に吸われて、すぐ消えた。
「そうっすか」
鞄の中の契約帳は確かに、昨日より少しだけ重い。 紙の重さじゃない。 印の重さだ。
マチさんの指が袖から離れない。 白い手袋に、いつもより力が入っている。 縫い目がぴんと張っている。
「週に、5時間でございますね」
まだ、何も言っていない。
◇
1時53分51秒。
帰り際、マチさんは振り返らずに言った。
「律さん。わたくしは、あなたの帰る場所でございます」
ポケットの中で、スマホの画面が勝手に明るくなった。 待ち受けの隅で、銀色の点がこっちを見ていた。




