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本部の監察官が、俺の中身を見に来た




本部の監察官は、靴の底まで白かった。


5月20日、22時。 宵帳 第三事務所。


白い革靴が、廊下の音を消して入ってきた。


銀縁の眼鏡。 白いスーツ。 襟元まで、しわひとつない。


「やあ」


白いスーツの男が言った。 声は上品で、温度がなかった。


「本部監察課の氷室だ。以後、お見知りおきを」


烏丸室長は笑顔のまま、湯呑みを差し出した。


「ようこそ。お茶、いかがですか」


「結構。査察に来ただけなのでね」


氷室は、俺の前で足を止めた。


「君が白洲律くんかね」


「はい。どうも」


氷室の視線が、俺のつなぎを上から下へ動いた。


「時給1万円の清掃員だね」


「そっすね」


氷室が、薄い紙を机の上に置く。 俺の履歴書だった。


「特殊清掃の家の子」


氷室が履歴書を指でつまんだ。


「家業の借金があると聞いたよ」


「はい。1,508万です」


「ほう」


「では本題だ」


胸ポケットから、手帳が出てきた。 黒い革表紙。 紐が巻いてある。


「報告書No.0419。線路の手。怪異が人間のために恐怖を示した、だったか」


ページを1枚めくる。


「No.0428。写し身の派生体。それと、アルバイトの2件目の帳契」


もう1枚。


「そして本部ロビーの苦情。君が泣いていた、という話だ」


「あれは偽物でして」


「ほう。偽物かね」


「鏡に映った俺です。今は映り込みに戻りました」


「映り込みが泣くのかね」


「怖がりなんで」


氷室の口元が、1ミリほど動いた。 笑ったのかもしれない。


「では、君は泣かないと」


「泣かないっすね」


氷室が手帳の紐を解いた。 中は白紙だった。


「これは百目という。対象の恐怖を、数値で書き取る」


手帳が、俺のほうを向いた。


白い紙の上で、何かが動いた。 目だ。 紙の表面から、目が開く。 1つ、2つ、4つ。 黒い瞳が、俺の顔を向いた。


真壁さんが椅子ごと後ろに下がった。


「ひっ」


脚立の足に当たって、金属ががたんと鳴った。


「おい待て、それ急に開くのかよ」


紙の上で、目が増える。 8つ。 10を超えた。 紙一面の目が、俺を見ている。


「白洲律くん。君の恐怖を、見せてもらおうか」


ポケットの中で、スマホが小さく震えた。 ウツシだ。 声は出していない。 画面の向こうで、笑いをこらえている気配がする。


目が、俺を見たまま、1つずつ閉じていく。


右端から順に。 ゆっくりと。 眠るように。


最後の1つが閉じた。


紙の上に、目はなくなった。 書き取りの欄も、白いままだった。


氷室が手帳を少し傾けた。


「……不調か」


もう一度、開き直す。 紙の上で、また目が開く。 3つだけ。 俺を映して、すぐに閉じた。


烏丸室長が、湯呑みをもう1つ置いた。


「お茶、いかがですか」


氷室は答えずに、手帳を閉じた。 革の表紙が、ぱさりと音を立てる。


床の下から、紙の音がしていた。


◇


かしゃん、かしゃん、と一定の間隔で。 紙が吐き出される音だ。


3階の共用の事務機室。 ドアは開いていた。 部屋の奥で、古い業務用コピー機が唸っている。


氷室が先に部屋へ入った。 白い靴が、床の紙を踏んだ。 かさり、と乾いた音がした。


蛍光灯が1本、切れかけている。 明滅が、紙の山に影を落とす。


コピー機の電源ケーブルは、抜かれていた。 プラグが、床にだらりと伸びている。 それでも排紙口から、紙が吐き出され続けている。


1枚。 また1枚。 かしゃん。 かしゃん。


床に何百枚もの紙が散らばっている。 どの紙にも、同じ顔が刷られている。


若い女。 目を閉じている。 黒髪が、首の左右に流れている。 唇が、かすかに開いている。


「……なんだこれ」


真壁さんが声を潜めた。


氷室が紙を1枚拾い上げた。 蛍光灯の明かりに透かす。


「これはまた、趣味の悪い」


コピー機の原稿台の蓋が、ひとりでに開いた。 ばこん、と硬い音がして、蓋が垂直に立つ。


ガラスを抜けて、手が出た。


白い手。 細い指。 手首まで。 ガラス面を内側から押し上げるように、2本。


「無理無理無理、おい待て、あれ出てる」


真壁さんが1歩下がった。


氷室が百目を開いた。 紙の上で、目がいくつも開く。


「丙だな。下がっていたまえ」


氷室が前に出た。 もう一歩、踏み込んだ。


2本の手が、同時に氷室の手首を掴んだ。


左。 右。 白い指が、袖口の下に食い込む。


氷室の足が、止まった。


「……む」


手帳を持つ手が、中空で止まっている。 前へ進めない。 後ろへも引けない。


「氷室さん。動けねえのか」


氷室は答えなかった。 白い手が、氷室の手首をゆっくりと引き寄せていく。


コピー機が、また1枚、紙を吐き出した。


かしゃん。


そこに刷られていたのは、氷室の顔だった。


銀縁の眼鏡。 白いスーツの襟元。 目は開いている。


氷室の顔色が、紙と同じ白さになっていく。


「……ほう」


声が、さっきより細い。 手帳を持つ指が、かすかに震えている。


真壁さんが、影縫いを出した。 足元の影が、犬の形になって床を走る。


「行け、影縫い!」


だが、蛍光灯の真下で影が薄い。 輪郭が溶けて、床に染みのように広がるだけだ。 コピー機まで、あと2メートル。 そこで影縫いは止まった。


「届かねえ……!」


かしゃん。 氷室の顔が、もう1枚。


「……白洲くん」


氷室が、俺の名前を呼んだ。 振り返らない。


「君は……怖くないのかね」


「特には」


「そうか」


俺は、前に出た。


「おい、白洲」


「大丈夫っす」


俺はコピー機の横に立った。 原稿台のガラスを覗き込む。


指紋がいくつもついている。 皮脂で、薄く白く濁っている。 ガラスの縁に、古いトナーの粉。 誰かが触って、そのままにした跡だ。


ガラスの左下の隅に、紙が1枚、貼りついたまま残っている。 原稿の置き忘れだ。 湿気で波打った跡がある。


首に掛けたマスクを上げた。 ポケットから、清掃用のクロスと小さいスプレーボトル。 アルコールだ。


「おい、何してんだ」


「清掃っす」


「今かよ」


「今です」


ガラスにスプレーを吹いた。 アルコールの匂いが、トナーと埃の匂いに混ざる。 クロスを二つ折りにして、端から拭く。 一方向に。


ガラスの上で、白い手が動いた。 左の手が、氷室の手首を離した。 俺の手首に伸びる。


すり抜ける。 手が、空を握る。


「掴めないっすね」


隅の紙に、クロスを当てた。 紙は、びくともしなかった。 ガラスに焼きついている。


湿って、乾いて、張りついた。 時間が経っている。 一度では、剥がれない。


クロスを畳み直した。 親父の手順だ。 剥がれない紙は、角から攻める。 無理に引っ張らない。


腰のポーチから、樹脂のヘラを出した。 ラベル剥がし用の、薄いやつだ。


紙の角に、ヘラの先を差し込む。 熱は当てない。 ガラスと紙のあいだを、ゆっくり滑らせる。


ぺり、と音がした。 紙が、ガラスから離れた。


裏返す。


色の褪せた、証明写真の台紙だった。 4枚分の枠。 3枚は切り取られて、ない。 左下の1枚だけが、残っていた。


スーツの襟。 黒髪を後ろでひとつに結んでいる。 床の紙と、同じ顔だった。


白い手が、止まった。


「これ、取りに来たんすよね」


台紙を原稿台に戻した。 表向き。 隅を、ガラスの枠に合わせる。 蓋を閉める。


電源ランプだけが、赤く点っている。 スタートボタンを押した。


かしゃん。


紙が1枚出てきた。 女の顔。 目を開けている。 滲みも、白抜けもない。


その1枚を、手に取った。


床の紙が、白くなった。 端から順に。 さあっと波が引くように。 女の顔が消える。 氷室の顔も消える。


残った右手が、氷室の手首を離した。 指先から、すうっと力を抜くように。 ガラスの下へ引いていく。


氷室が、床に座り込んだ。


「お前マジか」


真壁さんが、声を絞り出した。


ポケットのスマホが震えた。


「ガラスはボクの親戚ぃ」


得意そうだった。


氷室が座り込んだまま、自分の手首を見た。 白い指の跡が残っている。


「……ばかな」


俺は証明写真をクロスで包んで、鞄に入れた。


「コピー機、メーカーの点検も入れたほうがいいっすね」


氷室が、ゆっくりと俺を見上げた。


◇


23時40分。 宵帳 第三事務所。


氷室恭一は、手首の白い指の跡を、シャツの袖口で隠した。


壁際のパイプ椅子に、背筋を伸ばして座る。


「なあ、氷室さん」


真壁鉄平が、壁に背中をつけたまま言った。


「原稿台の怪異は、うちの記録で4件あります」


「2件は、職員が紙になりました」


氷室は答えない。 壁の一点を見ている。


「まだ1人は、戻ってねえ」


氷室の左手の親指が、右手首の内側を押さえた。 スーツの上から。 ゆっくりと、強く。


「君は、記録の読み上げが得意なのかね」


「いえ。ただの忠告です」


氷室は眼鏡を外した。 白いクロスで、端からレンズを拭く。 ゆっくりと。 拭いている間は、誰の顔も見なくていい。


烏丸が、机の向こうから静かに近づいてきた。 手に、紙を1枚持っている。


「本日の分です。事案報告書になります」


氷室は、烏丸の笑顔を正面から見た。 目が、笑っていない。 いや、笑っている。 その奥に、もうひとつ別の目があるように見えた。 疲れのせいだ、と氷室は思った。


「拝見しよう」


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0429】 分類:丙 呼称:原稿台の手 発生場所:雑居ビル3階 共用事務機室(業務用複写機) 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト) 救出対象:本部監察課職員1名 経過: 複写機が電源の供給なく排紙を続け、同一女性の顔を刷った用紙を数百枚出力。 原稿台から出現した手が本部監察課職員の手首を拘束。 担当アルバイトが原稿台の清掃中に、置き忘れの証明写真(台紙)を発見。再複写により沈静化。 危険手当:100,000円(丙) 備考1:女性は数年前、就職活動の帰りに当該ビルで倒れた者と推定。 備考2:本部監察官の救出は担当アルバイトによる。


氷室は、確認欄に署名しかけて、ペンが止まった。


備考2を、もう一度読む。 もう一度。


ペンを置いた。


胸ポケットから百目を出す。 さっき、白洲律を見たページを開く。


白紙だと思っていた書き取りの欄に、1文字だけ、にじむように浮かんでいた。


『空』


百目の目は、そのページでだけ、もう、ひとつも開こうとしなかった。


氷室は、百目を閉じた。


奥から、律が出てきた。 手にバケツ。 中に丸めたクロス。 律は一度だけ氷室を見た。


「お疲れさまです」


それだけ言って、流しへ向かう。


氷室は、その背中を追わなかった。


「室長。あれは、人間として扱っていいものかね」


声は、自分が思うより低く出た。


烏丸は笑顔のまま、首を少しだけ傾けた。


「時給で働いている大学生です」


それから、もう一言だけ付け足した。


「今日も、危険手当の対象です」


◇


0時30分。 本部へ戻る車の後部座席で、氷室は報告を打っていた。


膝の上で、タブレットの画面が青く光っている。 それでも指先が冷えていた。


結論欄に、最初の文を打った。


『第三調整室の運用体制に問題は認められない』


3秒。 消した。


『担当アルバイトの異常性は業務範囲内に収まっている』


消した。 手首の内側が、まだじんとしている。


『当該職員の恐怖反応の欠如は』


そこで止まった。 『空』の一文字が、頭の奥でにじんでいる。


氷室はタブレットを伏せた。 車窓の外を、街灯が一定の間隔で流れていく。 結論欄は、まだ空白のままだった。


◇


0時41分。 夜見坂駅のホーム。


マチさんは、時計の下に立っていた。 懐中時計は開いていない。 鎖が手袋の上で、ただ垂れている。


時計ではなく、俺の顔を見ていた。


「今日は、時計を見ないんすか」


「ええ。律さんのお顔を、見ておりました」


ポケットの中で、スマホが明るくなった。 画面の隅で、銀色の点がふくらむ。


「ねえねえ。今日の人、キミのこと怖がってたねぇ」


「氷室さんっすか」


「そう。白い人。あの人、キミのことわかんないんだよぉ。わかんないから、怖いの」


「ふふ」


マチさんが、小さく笑った。


「律さんは」


画面の中で、ウツシの銀色の目がまっすぐこっちを見ていた。 笑っていない。


「空っぽでいらっしゃいますから」 「空っぽだからねぇ」


2つの声が、揃った。


ホームが、静かになった。 蛍光灯の唸りだけが残る。


ポケットのスマホを見る。 銀色の点が、こっちを見ている。 顔を上げると、マチさんがこっちを見ている。


「褒めてます?」


「はい」


「うん」


迷いがなかった。 2人とも。


丙の手当が10万。 借金は1,508万から、1,498万。


1,500万を、やっと切った。


◇


【本部監察課 査察報告 第三調整室】 結論:当該アルバイト(白洲律)を、保護対象から外し、管理対象として登録することを具申する。 所見:契約怪異『百目』による測定不能。記載『空』。


その報告書の閲覧欄に、見慣れない判子が1つ、押されていた。


『封印記録室』

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