名乗ったのに連れて行かれなかったら、終電の女に12分を数えられていた
…………。
真っ暗だった。
自分の手も見えない。
空調の音も消えている。
聞こえるのは真壁さんの歯が鳴る音だけだった。
カチカチカチ。
「白洲様」
耳のすぐ横で声がした。
「白洲様。お部屋のご用意ができております」
肩に何かが来た。
来た、と思った。
でも何も触らなかった。
冷たい空気が1回、肩の上を通っただけ。
「……失礼いたしました」
もう1回。
今度は首の後ろ。
やっぱり空気だけが通る。
もう1回。
もう1回。
「どうして」
声が少しだけ揺れた。
「どうして。お名前を、頂戴したのに」
予約の入ってないお客さんが来たときの、フロントの人の声だった。
困ってるけど、困ってるとは言えない声。
明かりが戻った。
廊下の端から端まで、いっぺんに。
目の前が白かった。
管理人さんの顔だ。
顔のない顔。
俺の鼻先から指1本ぶんのところにある。
「近いっす」
管理人さんは動かなかった。
横を見ると、真壁さんはまだ1305のドアに額をつけていた。
目をぎゅっと閉じている。
唇だけが「前、前、前」と動いている。
前っていうか、ドアなんだけど。
「皆様」
管理人さんの声が、さっきより低くなった。
「皆様、お名前を頂戴すれば、お部屋へご案内できました。どなたも。これまで、どなたも」
白い顔が少しだけ横に傾いた。
「お客様は、怖くないのですか」
「特には」
…………。
白紙の名札がかすかに震えていた。
「……左様で、ございますか」
管理人さんが1歩下がった。
もう1歩。
ヒールが絨毯の毛に引っかかって、よろけた。
ホテルの人がよろけるの、初めて見た。
管理人さんは壁際に寄って、道を空けた。
お辞儀の角度だけは最後まで崩れなかった。
カチャリ。
1305のドアが内側に開いた。
支えをなくした真壁さんの頭が、そのまま前に倒れかけた。
襟首をつかんで止める。
「おい。今、何が起きた」
「ドアが開きました」
「その前!!」
「名乗ったけど、連れてかれなかったっす」
「お前マジか……」
それは俺も思った。
◇
部屋は狭かった。
シングルベッドが1つ。
カーテンは閉まっている。
窓の外に何かあるのかは分からない。
匂いが濃い。
シャンプーと汗と、3日分の閉め切った空気。
ベッドと壁の隙間に、毛布の山があった。
震えている。
「宵帳の者です。迎えに来ました」
近づいた。
「いやっ……!!」
悲鳴が上がった。
毛布の端から、女の人の顔が半分だけ出た。
目の下が真っ黒だ。
3日寝てない顔。
肩に掛かっているのはスーツのジャケットだった。
「来ないで、来ないで、来ないで……」
「来ないと連れて帰れないんすよね」
「白洲、言い方」
ドアのところで真壁さんが言った。
こっちは見ていない。
廊下のほうも見ていない。
天井を見ている。
器用だな。
足元がひやりとした。
ドアの外に、管理人さんが立っていた。
入ってはこない。
お客様のお部屋には勝手に入らない決まりなのかもしれない。
その足元から影が伸びていた。
細い影だった。
指の形をしている。
絨毯を這って、敷居を越えて、ベッドの脇まで来ている。
毛布からはみ出した女の人の足首に向かって。
女の人が悲鳴を上げるたびに、影は少し伸びた。
しゃくり上げると、また伸びた。
……あ、そういうことか。
怖がってる人には届くんだ。
マチさんの手も、真壁さんの肩にはちゃんと届いてた。
じゃあ、この人が怖がってる限り連れて出られない。
背負っても、たぶん途中で足首を取られる。
困ったな、これ。
清掃の現場にはたまに遺族さんがいる。
部屋の隅から動けなくなってる人。
そういう人に、片づけの話はしない。
亡くなった人の話もしない。
父さんはいつも、関係ない話をしていた。
俺はしゃがんで、毛布と同じ高さになった。
「晩ごはん、何食べたいですか」
「……え?」
震えが少し止まった。
「晩ごはん。ここ出たら何食べます?」
「な、何って……」
「3日食べてないっすよね。たぶん」
「…………」
「俺は焼肉っすね。妹と約束してて」
女の人が毛布の中でまばたきした。
「……ラーメン」
「いいっすね。どこの」
「会社の近くの……味噌の」
「味噌か」
影の指は足首の手前で止まっていた。
止まって、少しだけ引いた。
「その店、何がおすすめっすか」
「……バターコーン。追加で、100円」
「安いっすね」
「安いの」
口の端がほんの少しだけ動いた。
「えっと、お名前は――あ、いいです。ここ、名乗っちゃ駄目なとこなんで」
「……あなた、さっき名乗ってなかった?」
聞こえてたのか。
「名乗りました」
「…………」
「なので、真似しないでください」
女の人が変な顔をした。
怖がってる顔ではなかった。
ドアの外で、管理人さんは黙って立っていた。
◇
女の人を背負って、廊下に出た。
軽かった。
3日分、軽い。
「話、続けてください。味噌ラーメンの」
「え、今……?」
「今です。ずっと」
管理人さんは道の脇に立っていた。
俺たちが前を通っても動かなかった。
動いたのは影のほうだった。
黒い指が何本も、絨毯の上を追ってくる。
女の人の声が途切れるたびに、近くなる。
「真壁さん」
「分かってる」
先頭の真壁さんが、前を向いたまま言った。
「影縫い」
足元から黒い犬が這い出した。
犬は俺の横に回り込むと、絨毯の上の指に鼻先を突っ込んだ。
噛んで、振って、ちぎる。
ちぎれた影は絨毯の染みみたいに薄くなって消えた。
通った。
昨日の影には全部すり抜けられてたのに。
「お、通る……通るぞこれ……!」
「その影、怖がってる人に寄ってくるやつなんで。たぶん手が出てる分、つかめるんすよ」
「……昨日のは、こっちを見てもいなかったもんな」
「はい。忙しそうでしたし」
真壁さんの犬がまた1本ちぎった。
「すごいっすね」
「すごいんだよ俺は!!普段はな!!」
真壁さんの声は震えていた。
でも足は止まらなかった。
1回も振り返らなかった。
犬が影を払う。
俺が歩く。
背中で女の人がラーメンの話をする。
「スープが濃くて」
「はい」
「最後にごはん入れると……」
「それ反則っすね」
「お客様」
後ろから声がした。
背中の体が固まった。
「お客様。お忘れ物でございます」
肩の上で、首が動く気配がした。
後ろのほうへ。
「前の人の背中、見ててください」
俺は言った。
「あの人、広いんで」
「俺を盾にするな!!」
真壁さんが叫んだ。
叫びながら、半歩だけ左に寄った。
背中で女の人の視界を塞ぐ位置に。
女の人の首が前に戻った。
「お客様。お部屋の鍵を」
「お客様。ご精算がまだでございます」
「お客様」
声は何度も来た。
ずっと同じ距離から。
ついてくるけど、近づいてはこない。
1区画。
2区画。
ドアの番号が1312から1301に戻る。
途中で、あの古いドアの前を通った。
ノブに3年分くらい埃のある、ノックのあったドア。
コン。
1回だけ鳴った。
背中で女の人がびくっとした。
影の指がすっと寄ってくる。
「すいません。今度来ます」
ドアに向かって言った。
ノックはそれきり鳴らなかった。
「今、誰と話した」
「ドアっす」
「お前マジで……」
廊下の突き当たりに、エレベーターがあった。
来たときはなかった場所だ。
扉が開いて待っていた。
真壁さんが先に乗った。
俺も乗って、女の人を背負ったまま奥の壁に背中をつける。
扉が閉まり始めた。
隙間の向こうに、管理人さんが立っていた。
顔のない顔が俺のほうを向いている。
「白洲様」
小さな声だった。
フロントの人が常連さんにだけ言うときの声。
「またのお越しを」
扉が閉まった。
◇
1階で扉が開いた。
芳香剤の匂い。
フロントで支配人さんが、受話器を持ったまま固まっていた。
女の人と、俺と、真壁さんを順番に見る。
「13階……ございました?」
「ありました」
「12階建てなんです」
4回目だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
1回じゃない。
何回も。
通知がまとめて落ちてくるときの震え方。
画面を見た。
『1:52』
あ。
23時51分から、いきなり2時間。
「真壁さん」
「なんだよ。もう何も言うな。俺は今、生きてることを噛みしめてる」
「0時41分、過ぎてます」
真壁さんの顔から、生きてる色が抜けた。
女の人はロビーのソファに寝かせて、支配人さんに任せた。
救急車を待ってる時間はなかった。
出ていこうとしたら、ソファの上から呼び止められた。
「……味噌ラーメン」
「はい」
「食べに行く。絶対」
「バターコーン、つけてください」
真壁さんの車は黄色信号を全部行った。
「なんで俺が急いでんだよ!!」
「すいません」
「お前が急げよ!!顔が!!急いでねえんだよ!!」
顔は急げない。
赤信号で、真壁さんがハンドルに額をつけた。
「……名乗って帰ってきた奴なんて、記録に1人もいねえんだよ」
「そっすか」
「そっすか、じゃねえんだよ……」
信号が青になった。
「次も、お前が前な」
「はい」
◇
2時13分。
夜見坂駅はシャッターが下りていた。
その脇の通用口が、少しだけ開いていた。
前に来たときはなかったドアだ。
ホームに出ると、マチさんがいた。
ベンチの前に立って、腕時計を見ている。
こっちは見なかった。
「お待ちしておりました」
声だけが来た。
「すいません。遅れました」
「存じております」
腕時計から目を上げない。
「1秒でも遅れましたら、お迎えに参ると申しました」
「はい」
「参ろうといたしました」
前髪の隙間で、何かが光った。
「あの階には、線路が通っておりませんので」
来ようとしたんだ、この人。
「あそこ、時計止まってたんすけど」
「律さんの時計は、止まっておりましたね」
マチさんがやっと顔を上げた。
「わたくしの時計は、止まりませんので」
微笑んでいた。
いつもの、駅員さんみたいな微笑みだった。
「今夜は、他の女と12分お話しになっていましたね」
……他の女。
「ホテルの管理人の方と、7分2秒。宿泊のお客様と、5分32秒」
数えてる。
止まってたはずの時間を。
「合わせて、12分34秒でございます」
「仕事っす」
「存じております」
笑顔は1ミリも動かなかった。
その笑顔のまま、マチさんはコートの内側から契約帳を出した。
白い手袋でページをめくる。
万年筆のキャップを外す。
さらさらと書き足した。
『今週の残り時間 +12分34秒』
手袋の指がその数字を1回だけなぞった。
ゆっくり。
端から端まで。
「そっすか」
何も聞かれてないのに言ってしまった。
「あの。遅刻のぶんは」
「そちらは別途」
別途なんだ。
「本日の1時間も、これからでございます」
マチさんがベンチの端に座った。
空いた隣を手袋でとんとんと叩く。
2時13分。
これから1時間。
明日、1限なんだけど。
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0414】
分類:乙
呼称:13階の管理人
発生場所:新宿区△△ ビジネスホテル(存在しない13階)
担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律
経過:
所定の順序でエレベーターを操作し、13階に到達。
担当アルバイトが廊下を清掃手順に準じて区画分けし、1305号室を特定。
行方不明の宿泊客1名を保護。衰弱あり、命に別状なし。
帰路、追跡する影を正職員の契約怪異が排除。
13階滞在中、両名の端末時刻が停止(約2時間)。
備考:担当アルバイトが対象に氏名を開示。連れ去り不成立。
備考2:同階に未確認の在室者あり。担当アルバイトは「今度来ます」と応答。
室長所見:(空欄)
3時20分。
帰り道。
乙の手当で30万。
残り1,733万。
遅刻のぶん、92分。
そっちはまだ別途のままだ。
時給1万円。
今週の残業、12分34秒。
「この12分、時給出るのかな」




