存在しない13階に呼ばれたので、掃除の手順で回ることにした
「12階建てなんです、このビル」
支配人さんが同じことを言うのは、これで3回目だった。
新宿の裏通りにある、古いビジネスホテル。
23時のロビーには、俺と真壁さんと支配人さんしかいない。
「12階建てなんです。13階はございません。建てたときから、ずっと」
「はい」
「ですから、その……噂というほどのものでは」
その噂でお客さんが1人いなくなっている。
匂いがした。
古い絨毯。
その上から花の芳香剤をかなり強めに。
うちの現場でもやる。
隠したい匂いがあるときに。
「3日前の夜です」
真壁さんがファイルを開いた。
声がもう小さい。
消えたのは30代の女性客。
出張で、1人で泊まっていた。
夜中にエレベーターに乗った。
防犯カメラには乗るところが映っている。
降りるところはどの階にも映っていない。
「ボタンを決まった順番に押すと、13階に行ける。……そういう噂が、ネットに」
「当館としましては、お客様にご不安を与えるような話は」
「映像、見せてもらっていいですか」
「……警察の方にもお見せしましたので」
見せたくないらしい。
真壁さんが名刺を出した。
『宵帳生活環境調整機構』。
支配人さんはそれを3秒見て、黙って事務所のドアを開けた。
モニターの中で、女の人がボタンを押していた。
4。
2。
6。
2。
10。
迷いのない押し方だった。
左手にスマホ。
画面を見ながら押している。
かごが上がって、下がって、また上がる。
途中の階で扉が開いて、誰も乗らずに閉まる。
5階で扉が開いた。
誰も乗ってこなかった。
なのに女の人は壁際へ1歩下がった。
誰かに場所を空けるみたいに。
そこで映像が砂嵐になる。
戻ったとき、かごの中は空っぽだった。
「乗ってきてんな、これ」
真壁さんの声がかすれていた。
「見えねえのが、乗ってきてる」
「乗ってきてますね」
「同意すんな」
真壁さんはロビーの隅で、スマホを耳に当てた。
「室長。これ乙ですよ。乙。新人の2本目に乙は早いでしょ。昨日の丙だって、あれ丙じゃなかったですからね」
受話器から、細く声が漏れてきた。
『大丈夫ですよ。白洲くん、怖くないでしょう?』
笑顔の声だった。
顔が見えなくても分かる。
「いや白洲が怖くなくても俺が怖いんですよ。……はい。……はい。いや、俺がいるからって。俺がいるから駄目なんですよ」
自分で言うんだ、それ。
『真壁くんは、ちゃんと怖がれるでしょう。だから2人1組なんです』
「褒めてます?それ褒めてます?」
「……はい。伝えます」
真壁さんが戻ってきた。
顔色がロビーの照明より白い。
「行けってさ」
「はい」
「あと、お前に伝言。『0時31分には夜見坂にいられるように』だと」
0時31分。
0時41分の、10分前。
昨日の帰り道に決めたやつだ。
誰にも言ってない。
「……室長って、俺の予定知ってるんすか」
「知らねえよ。あの人は何でも知ってんだよ。だから怖えんだよ」
真壁さんは怖いものが多い。
◇
23時38分。
エレベーターは1基だけだった。
扉の内側に、誰かが蹴ったような凹みがある。
「白洲。今ならまだ引き返せる」
「何をですか」
「人生をだよ」
モニターで見たとおりに押す。
4、2、6、2、10。
止まるたびに扉が開いて、誰もいない廊下が見えて、閉まる。
上がって、下がって、また上がる。
真壁さんの膝はかごより先に揺れていた。
「なあ白洲。これ、押し間違えたらどうなんの」
「普通に10階に着くんじゃないですか」
「じゃあ間違えろよ!!」
間違えなかった。
最後に、5。
5階で扉が開いた。
噂だと、ここで女が乗ってくる。
誰も乗ってこなかった。
廊下の明かり。
空調の音。
真壁さんが息を止めている音。
「……来ない、な?」
「来ないっすね」
「来ないなら来ないでいいんだよ。帰ろう。な?」
扉が閉まった。
俺は1階を押そうとした。
その前に、上の表示が変わった。
『13』
パネルのボタンは12までしかない。
「…………押してない。俺は押してないからな」
「俺も押してないっす」
かごが上がり始めた。
◇
扉が開くと、赤い絨毯だった。
廊下がまっすぐ延びている。
奥が見えない。
両側に同じドアが同じ間隔で並んで、どれも同じ色をしていた。
ホテルの廊下だ。
長すぎること以外は。
正面の壁に、真鍮のプレートが2枚。
『振り返らないでください』
『ご自分のお名前を、名乗らないでください』
「……白洲」
「はい」
「読んだな」
「読みました」
「守れよ。絶対守れよ。俺は前しか見ない。今日から前しか見ない男になる」
真壁さんは本当に前しか見なくなった。
首がまったく動いていない。
背中で、扉の閉まる音がした。
振り返らなかった。
見なくても、たぶんもうない。
俺は手前のドアから見ることにした。
清掃の現場に入ったら、まず区画を切る。
入口から奥へ。
1区画ずつ、見終わってから次へ。
いきなり一番ひどいところに行かない。
見落とすから。
父さんに最初に教わったのが、それだった。
「おい。何やってんだ」
「区画切ってます。ドア4枚で1区画」
「区画……?」
ドアの番号を見ていく。
1301。
1302。
1303。
1312まで行ったら、次がまた1301だった。
「繰り返してんな」
「12部屋ごとっすね。12階建てだからかな」
「理屈つけんな!!」
しゃがんで絨毯を見る。
毛並みには向きがある。
人が歩いたところだけ、毛が倒れて色が変わる。
掃除機をかけてない絨毯なら、なおさら残る。
ここの絨毯はほとんど全部が同じ向きに寝ていた。
何十年も誰も踏んでいない寝方だ。
ドアノブも見る。
真鍮が曇っている。
軍手の指でなぞると、埃が線になって取れた。
真壁さんが俺のパーカーの裾を握った。
何も言わなかった。
1区画目。
全部同じ。
古い。
開いてない。
次。
真壁さんは俺の半歩後ろを、前だけ見てついてきた。
「……白洲。今、何区画目だ」
「6」
「何部屋見た」
「24っすね」
「数えんなよ……」
聞いたの、そっちなんだけど。
スマホを見た。
『23:51』
夜見坂まで、電車で20分ちょっと。
0時にはここを出たい。
あと9分。
たまに、埃の薄いドアがあった。
何年か前に開いたやつ。
絨毯にうっすら、靴の形の跡がある。
中に入る向きの跡だけ。
出てきた跡はない。
「……白洲」
「はい」
「今なんで黙った」
「前のお客さんの跡があって」
「言わなくていい!!」
じゃあ黙っとこう。
その跡のあるドアの前を通り過ぎたときだった。
コン。
ドアの内側から、1回だけ。
真壁さんが止まった。
俺も止まった。
コン。
もう1回。
さっきより低い位置から。
「…………開けんなよ」
「開けないっすよ」
「ほんとだな」
「この部屋、ノブの埃が3年分くらいあるんで。ここは今日の区画じゃないです」
「区画の問題なのかよ……!」
区画の問題だと思う。
全部いっぺんに見ようとすると、全部見落とすし。
それに――ノックしてる人を、今日は連れて帰れない。
たぶん。
ドアの前を離れると、ノックは追いかけてこなかった。
真壁さんが鼻をすする音だけ、しばらくついてきた。
8区画目で、匂いが変わった。
古い絨毯の匂いに、新しい匂いが混じっている。
シャンプー。
それと汗。
3日くらい風呂に入れてない人の。
生きてる人の匂いだ。
もう1回スマホを見る。
『23:51』
さっきと同じだった。
止まってる。
「真壁さん。今、何時ですか」
「は?知るかよ。スマホ見ろよ」
「見たら23時51分なんすよ。さっきも」
「…………」
「腕時計とか」
「見ない。俺は今、前と床しか見ない」
じゃあいいです。
0時に出るって、どうやって数えればいいんだ、これ。
1305の前で、俺は足を止めた。
この区画の1305だけ、ドアノブに埃がない。
絨毯の毛がドアに向かって小さく倒れている。
細いヒールの跡。
入る向きだけ。
ノブの真下に、黒い髪ゴムが1つ落ちていた。
どこにでも売ってるやつ。
「真壁さん。ここです」
「……ほんとか」
「はい。新しいっす。3日くらい」
「その言い方やめろ」
◇
ノブに手をかけた。
そのとき、後ろで音がした。
コツ。
絨毯の上なのに、硬い足音だった。
コツ。
コツ。
近づいてくる。
「…………っ」
真壁さんの首が動いた。
後ろのほうに。
俺は真壁さんの後頭部を押さえた。
手のひらで、ぐっと前に戻す。
「前、見ててください」
「……っ、ぁ……」
「前です。ドアでいいんで」
ごつ、と真壁さんの額が1305のドアに当たった。
そのまま動かなくなった。
押さえた手に、震えだけが伝わってくる。
足音が止まった。
すぐ後ろで。
それから、ゆっくり横を回ってきた。
制服だった。
ホテルの、紺色のベストとスカーフとタイトスカート。
胸に名札。
名札には何も書いてない。
顔もなかった。
目と鼻と口があるはずのところが、ただ平らで白い。
洗いたてのシーツみたいに。
その人は俺たちの正面で、丁寧に頭を下げた。
角度はちゃんと、ホテルの人のお辞儀だった。
「夜分に失礼いたします」
声は顔のないところから出ていた。
「ご宿泊のお客様でしょうか」
真壁さんが俺の袖を引いた。
2回。
3回。
俺は名札を見ていた。
白い名札。
文字を書いて消した跡もない。
新品なのか、最初から誰でもないのか。
「お名前を、頂戴できますか」
聞かれたら名乗る。
現場で遺族さんに会ったら、まずそれだ。
父さんに2番目に教わった。
「白洲です」
……あ。
真壁さんの口が開いた。
声は出なかった。
出なかったけど、悲鳴の形をしていた。
廊下の明かりが端から端まで一斉に消えた。




