誰もいないオフィスで残業し続ける影に、退勤を押してあげた
4月18日。2時14分。
俺は知らない人のタイムカードを持っていた。
3年前の日付で、止まったままのやつを。
奥の席ではその人がまだキーボードを叩いている。
カタカタカタ。
カタカタカタカタ。
「白洲……白洲、早く……」
後ろで真壁さんが半泣きになっている。
早くって言われても。
退勤は、本人に見せてから押すもんだと思う。
◇
時間は少し戻る。
「はい、白洲くん。初めてのお給料ですね」
夕方の事務所。
烏丸さんが笑顔で封筒を差し出した。
中には明細が1枚。
基本給(7時間) 70,000円
危険手当(乙) 300,000円
合計 370,000円
「振込は今朝のうちに済ませてあります」
「早いっすね」
「宵帳は日払いですから。いつ帰ってこなくなっても、困らないように」
笑顔のまま言うことじゃない。
俺はスマホを出して、そのまま家の返済口座に振り込んだ。
1,800万から、37万。
残り1,763万。
……うん。
残り1,763万。
それ以上は考えないことにした。
「お前、全額入れたのか」
ソファで真壁さんが顔を上げた。
目の下のクマが昨日より濃い。
「はい」
「自分の分は」
「飯は家で食えるんで」
「そういう問題か……?」
そういう問題だと思う。
「さて」
烏丸さんがファイルを1冊、机に置いた。
「今夜のお仕事です。丙級。近所ですよ」
真壁さんの肩が跳ねた。
「丙。丙ですね室長。丙なんですね」
「丙ですね」
「よし」
真壁さんが小さくガッツポーズをした。
「丙って、手当いくらですか」
「お前それ今聞く!?」
ファイルの中身は短かった。
近くのオフィスビル、7階。
3年前にテナントが撤退して、フロアはずっと空いている。
なのに夜になると、パソコンが1台だけ点く。
誰もいない席から、キーボードの音がする。
警備員が2人辞めた。
「丙って、どのくらいなんですか」
「人を連れてかないやつ」
真壁さんが即答した。
「昨日のは連れてくやつ。今日のは連れてかないやつ。全然違う。天と地」
「なるほど」
「だから俺はついていくだけな」
俺の目を見て、念を押してくる。
「丙だから。俺はついていくだけ。絶対ついていくだけだからな」
3回言った。
「白洲くんは、0時41分に夜見坂でしたね」
烏丸さんが手帳をめくった。
「そちらを先に済ませて、2時前に現地で落ち合いましょうか」
「はい」
「遅れないようにね」
笑顔だった。
マチさんとの約束、この人に話したっけ。
◇
0時半。
駅に向かう途中で、スマホが鳴った。
小春だった。
「お兄ちゃん。うちの口座、さっきなんか入ってこなかった?」
「入った?」
「入った、じゃなくて。37万。お兄ちゃんの名前で」
「ああ。俺」
「何したの」
「バイト」
「何のバイト」
何のバイトだろう。
「……清掃系?」
「なんで疑問形なの」
小春は高1で、うちの帳簿をつけている。
父さんの腰が駄目になってから、通帳を一番見ているのはこいつだ。
「一晩で37万の清掃なんてないでしょ。変なとこじゃないよね」
「変なとこではある」
「は?」
「でも給料はちゃんと出る」
「そこじゃないんだけど!?」
階段を上りながら説明した。
説明になったかは分からない。
ピンポーン。
耳のすぐ横で鳴った。
駅はまだ階段の上なのに。
「……今の何の音?」
「……駅」
「駅ってそんな近くで鳴る?」
「……焼肉の約束、覚えてるからね」
「覚えてる」
「お兄ちゃんのおごりね」
「はい」
電話を切って、改札を抜けた。
時計を見る。
0時43分。
あ。
◇
待合の駅長室で、マチさんは腕時計を見ていた。
それから俺を見た。
何も言わなかった。
折りたたみ椅子を広げると、マチさんはしばらくそれを見ていた。
それから自分の椅子を、少しだけこっちに寄せた。
お茶が出た。
湯呑みは2つになっていた。
遅れたことについては、最後まで一言もなかった。
1時41分。
マチさんが湯呑みを下げた。
俺が座ってから、58分。
延長はなかった。
駅長室を出ると、夜見坂のホームだった。
改札の外で真壁さんの車に拾われて、現地へ向かった。
◇
1時56分。
古いオフィスビルの7階。
エレベーターを降りると、真っ暗だった。
匂いがした。
古いコーヒー。
埃。
その下に、少しだけ甘い匂い。
知ってる匂いだ。
「白洲。白洲、前。前歩いて」
真壁さんが俺の背中に張りついている。
「真壁さん。それ、ついていくっていうか、くっついてます」
「同じだろ!!」
フロアの奥に、明かりが1つだけあった。
モニターの青白い光。
カタカタカタ。
光の前に、人の形が座っていた。
輪郭だけ。
中身は真っ黒で、向こう側が少し透けている。
背中を丸めて、画面に顔を近づけて。
指だけが動いている。
「ひっ……」
真壁さんの声が裏返った。
「丙……丙だよな……?連れてかないやつだよな……?」
「たぶん」
「たぶんて言うな!!」
俺は影の席まで歩いた。
机の上を見る。
モニターの横に、栄養ドリンクの空き瓶が並んでいた。
12本。
全部に同じ厚さの埃。
付箋が3枚。
『〆 4/17』
『至急』
『至急!!』
デスクの下を覗く。
椅子の脚のあたりだけ、カーペットの色が違った。
丸く、少し黒ずんでいる。
そこだけ毛足が寝ている。
これは清掃の手伝いで何回か見た。
一人暮らしの部屋の、こたつの横。
ベッドの片側。
トイレの前。
拭けば薄くはなる。
でも匂いは残るんだよな――こういうのは。
「真壁さん。この人、ここで亡くなってますね」
「言うなよぉ!!」
「たぶん、座ったまま」
「詳しく言うなよぉ!!」
画面を見る。
表計算のソフトだった。
行が下へ下へ続いている。
影は同じセルに数字を打って、消して、また打っていた。
これ、終わんないやつだ。
「……白洲。下がってろ」
真壁さんが俺の前に出た。
膝が笑っている。
「影縫い」
真壁さんの足元から、黒い犬が這い出した。
影でできた犬だ。
床の影から首を出して、するりと全身を引き抜く。
初めて見た。
「縛れ!!」
犬が跳んだ。
影の背中に食らいつく。
すり抜けた。
犬は向こう側に着地して、きょとんとこっちを振り返った。
影は振り返らない。
カタカタカタ。
「……え、無視?」
真壁さんが固まった。
「おい。縛れ。縛れって」
犬がもう一度跳ぶ。
すり抜ける。
影は打ち続ける。
「なんで通らねえんだよ……!」
「忙しいんじゃないですか」
「怪異に忙しいとかあるか!!」
あるんじゃないかな。
画面、空いてるセルばっかりだし。
俺は隣の席の椅子を引いた。
キャスターが鳴る。
座る。
「おい白洲!?何座ってんだ!?」
影の手が一瞬だけ止まった。
◇
隣に座ると、影は思ったより小さかった。
肩幅が狭い。
シャツの襟だけ、輪郭がはっきりしている。
「お疲れさまです」
カタ。
「今日、何時までっすか」
手が止まった。
影がゆっくりこっちを向いた。
顔はない。
それでも――困っているのは分かった。
影の指が机の上のカレンダーを指した。
卓上の、めくるタイプのやつ。
4月のページ。
17日に赤丸。
年は3年前だった。
日付だけなら、今日だ。
「……ああ」
締め切り、終わってないのか。
俺は立ち上がってフロアを見回した。
入り口の横の壁。
四角い機械。
その隣に、カードを差すラック。
タイムカードだ。
「白洲!?どこ行く!?置いてくな!!」
「すぐそこです」
ラックはほとんど空だった。
撤退のときに抜いたんだろう。
1枚だけ残っていた。
『佐伯』
抜いて見る。
4月17日。出勤、8時52分。
その下は空欄だった。
退勤の欄だけ、ずっと空いている。
3年間。
「……そりゃ帰れないっすね」
戻ると、影はまた打ち始めていた。
カタカタカタ。
カタカタカタカタ。
「白洲……白洲、早く……」
真壁さんは机の陰で丸まっていた。
影縫いの犬がその頭に顎を乗せている。
慰めているように見えなくもない。
2時14分。
俺は影にカードを見せた。
「佐伯さん。これ、押しときますね」
影の手が止まる。
「もう帰っていいと思います。3年分、残業しましたし」
入り口まで戻る。
機械にカードを差し込む。
ガチャン。
コンセントは抜けていた。
それでも、ちゃんと印字されていた。
『4/18 退勤 2:14』
奥で、キャスターの音がした。
影が立ち上がっていた。
フロアの端と端。
影はこっちを向いて、背中を丸めたまま、小さく頭を下げた。
会社員のお辞儀だった。
何千回もやった人の角度。
「お疲れさまでした」
モニターが消えた。
フロアは真っ暗になって、それだけだった。
◇
「……お前マジか」
帰りのエレベーターで、真壁さんがやっと声を出した。
「影縫いが通らねえ相手に、タイムカードって」
「清掃でもあるんですよ。前の人の物をちゃんと片づけると、落ち着く現場」
「落ち着くって何がだよ」
「部屋が?」
真壁さんは壁に額をつけた。
「あと、匂いがしたんですよね。あそこ」
「聞きたくねえ」
「高校のとき家の手伝いで、柊ってアパートの203を掃除したんですけど。あそこも同じ匂いが残ってました」
「聞きたくねえって」
「なんか、ずっと台所に誰かいるみたいな部屋で」
「白洲」
「はい」
「今な、俺、膝が笑ってんの。分かる?」
分かった。
エレベーターの床が微妙に揺れていた。
柊の203。
なんで今思い出したんだろ。
まあいいか。
◇
3時。
夜見坂駅の前を通った。
家までの近道だからだ。
終電はとっくに終わって、シャッターも下りている。
その奥から、ホームの放送が聞こえた。
ピンポーン。
〈律さん〉
足が止まった。
〈本日、2分のご遅刻でございます〉
平らな声だった。
いつもの、駅のアナウンスの声。
〈なお、不足分の2分は、明日の便にて調整いたします〉
ピンポーン。
それきり静かになった。
……数えてたんだ。
1時間、何も言わなかったのに。
明日は5分前に行こう。
いや、10分前かな。
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0413】
分類:丙
呼称:残業する影
発生場所:港区△△ビル7階
担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律
経過:
対象は3年前に当該席で死亡した社員の残留と推定。
正職員の契約怪異による拘束を試みるも、対象は反応せず。
担当アルバイトが対象の隣に着席し、退勤処理を代行。
対象は自発的に消失。所要時間18分。
備考:担当アルバイトに恐怖反応なし。
備考2:正職員より、本件の分類見直し(丙→乙)の申請あり。
室長所見:(空欄。記入しかけて消した跡あり)




