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人を連れ去る女に「対価は時間でいいですか」と聞いたら契約になった




「…………。」


女は答えなかった。


止まった腕時計を見て、俺を見て、また腕時計を見た。


秒針は動かない。


「あの」

「…………」

「何駅まで」


「お、おい白洲」


真壁さんが俺の腕を揺する。

揺するというか、もう振動している。


女の唇が少しだけ開いて、閉じて、また開いた。


駅のアナウンスが言葉に詰まるところ、初めて見た。


「……行き先」


女が小さく繰り返す。

自分の口から出た言葉を、確かめるみたいに。


「行き先を、聞かれたのは」


そこで止まった。


続きはなかった。


長い沈黙のあと。


「……行き先は、待合でございます」


「じゃあ乗ります」


「乗るなバカ!!」


真壁さんが俺の腕を引っぱった。

指がさらに食い込む。

そろそろ痣になると思う。


「お前、昨夜ここで人が消えてんだぞ!?乗ったら帰ってこれねえんだぞ!?」

「でも消えた人、たぶんそこにいますよね」

「いるかもしれねえけど!!」

「じゃあ行かないと」


女がこっちに手を伸ばした。


白い手袋。

細い指。

俺の手首を掴もうとしている。


指先が手首に触れる。


触れなかった。


すり抜けた。


手袋の指が俺の手首の中をすっと通り抜けていく。

冷たくもない。

何も感じない。


「……え」


女の声だった。

初めて平らじゃない声。


女はもう一度手を伸ばした。

すり抜ける。

もう一度。

すり抜ける。


前髪の隙間から片目が見えた。

大きく見開かれていた。


なんか、すみません。


「ひっ」


真壁さんの声がした。


見ると、女のもう片方の手が真壁さんの肩に乗っていた。

こっちはちゃんと乗っている。

コートの肩に、白い指が沈んでいる。


「白洲、白洲、白洲」

「はい」

「肩、肩、肩」

「乗ってますね」

「見りゃ分かる!!」


真壁さんは膝から下がほぼ痙攣していた。


俺には触れない。

真壁さんには触れる。


何が違うんだろ。


考えている間に、風が来た。


音はしなかった。

ホームに電車が入ってくる。

ブレーキの音も、レールの軋みもない。


行き先表示には『待合』。


扉が開いた。


俺は真壁さんの肩に手を伸ばして、女の指をそっと外した。

普通に掴めた。

こっちからは触れるのか。

手袋越しでも分かるくらい、指が細い。


女がびくっとした。


「すみません。この人、先輩なんで」


手を離して、俺は電車に乗った。


「お前マジかぁぁぁ……!!」


真壁さんも乗ってきた。

半泣きで。


来るんだ。



◇



車内は古かった。


緑色のシート。

網棚。

天井で回っている扇風機。

吊り革の広告は知らない銀行の知らない金利だった。


祖父の家にあった写真で、こういう電車を見た気がする。


扉が閉まる。


俺の左腕を挟んで。


ガン、と鈍い音がした。


「いった」


普通に痛い。

ゴムのパッキンなんて付いてない。

鉄の縁が二の腕に食い込んでいる。


腕を引っこ抜くと、扉はそのまま閉まった。


袖をめくる。

赤い線が1本。

明日には紫になるやつだ。


「お前、痛覚はあるのかよ」

「ありますよ。普通に痛いです」

「じゃあ怖がれよ!!」

「痛いのと怖いのって別じゃないですか?」

「別じゃねえよ!!普通は地続きなんだよ!!」


そうなのか。


手はすり抜けて、掴むのはできて、扉は挟まる。

覚えておこう。


女は扉の前に立っていた。

こっちを見ずに、止まった腕時計だけを見ている。


窓の外は真っ暗だった。


「……おい。これ、どこ走ってんだ」

「さあ」

「さあじゃねえよ!!」

「線路の上だとは思います」

「そういうことじゃねえんだよ!!」


ガタン、ゴトン。

揺れだけは本物の電車だった。



◇



待合は木造の駅舎だった。


ホームの屋根は傾いていて、改札には切符を入れる口がない。

柱に打ちつけた駅名板の文字は、半分かすれていた。


『まちあい』


待合室の長いベンチに、人が3人座っていた。


全員眠っている。

首を前に倒して。

電車を待っているみたいな姿勢のまま。


いちばん手前はスーツの男の人だった。

右足だけ靴下。


「いた」

「真壁さん、この人ですよね。昨夜の」


真壁さんは答えなかった。

俺の背中に額をつけて、目をつぶっていた。


真ん中は学ランの男の子。

いちばん奥は着物の上に割烹着を着たおばあさん。


俺はベンチの足元にしゃがんだ。


床の埃の積もり方が、3人とも違う。


会社員の足元はほぼ何もない。

学ランの子の足元は薄く白い。

おばあさんの足元は、埃が層になって固まっていた。

指でなぞっても崩れない。


こういう層は現場で見たことがある。

何十年も誰も入らなかった部屋の、押し入れの奥。


「この人、40年……もっとかな。それくらいここにいます」

「なんで分かんだよ」

「埃っす」

「埃で分かるな!!」


息はしている。

3人ともちゃんと胸が動いている。


待合室の奥に、扉が1つあった。


『駅長室』


女はその前に立っていた。


扉を開ける。

中は6畳くらい。

机が1つ。

椅子が1つ。

壁に大きな丸い時計。


時計の針は0時41分で止まっていた。


「ここは、わたくしの家でございます」


女が言った。

時計を見上げたまま。


机の上に湯呑みが1つ。

茶渋が輪っかになって、何本も重なっている。

同じ場所に置いて、同じ場所から持ち上げて。

何年も何年も。


椅子の座面は、片側だけ擦り減っていた。


俺は女に向き直った。


「この人たち、返してもらえますか」



◇



「なりません」


即答だった。


「決まりごとは、対価がなければ解けません」

「頼んでもダメですか」

「なりません」


まあそうか。

タダで返してくれるなら、最初から連れてこない。


「帳契だ」


後ろから、ほとんど息だけの声がした。


真壁さんが駅長室の入り口に張りついている。

中には入ってこない。

顔だけ出している。


「こっちが対価を払う。その代わりに決まりごとを緩めてもらう。それが宵帳のやり方だ」

「対価って何払うんですか」

「恐怖だよ。契約者の」


ああ。

怪異は恐怖を食べる、だっけ。


「じゃあ真壁さん、お願いします」

「無理!!俺もう影縫いと契約してんの!!あいつで手一杯なの!!」

「量的には余ってそうですけど」

「余ってねえよ!!全部使ってんだよ毎晩!!」


じゃあ、俺か。


「俺でいいですか」


女がこちらを見た。


白い手袋の手を、俺の胸の前にかざす。

触れないぎりぎりの距離で。


何かを探るみたいに、手のひらがゆっくり動く。


右。

左。

上。


何も起きない。


女は手を引っこめて、自分の手袋を見た。

それから、もう一度かざした。


やっぱり何も起きない。


「……空っぽ、でございますね」


「すみません。昔からなんです」


女は黙った。


入り口のほうに手を向ける。

真壁さんのほうに。


「ひぃっ」


「あちらは、溢れております」

「ですよね」

「見んな!!量るな!!」


食うとこない。

面接のときに自分で言ったやつだ。


さて、どうしよう。


恐怖はない。

金も、まあない。

1,800万の借金ならある。


駅長室を見回す。


机が1つ。

椅子が1つ。

湯呑みが1つ。


「この部屋、椅子1個しかないっすね」


女の肩が動いた。


「お客さん、来ないんですか」

「……お客さまは、皆さまお休みになられます」


ベンチの3人のことだ。


「起きてる人と話したこと、ないんじゃないですか」

「…………」


返事はない。

まあ、そういうことなんだろう。


「じゃあ、時間でどうですか」

「……時間」

「毎晩、終電の後。1時間ここに来ます。話し相手になります」


真壁さんが入り口で固まった。


「俺の恐怖はないんで。代わりに時間を払います。週7時間」


女は動かなかった。


止まった腕時計を、ぎゅっと握っていた。


「……来る、のでございますか」

「はい」

「あなたが。ご自分で」

「はい。来ます」


「わたくしのところへ、来ると言った方は」


声が少しだけ揺れた。


「初めて、でございます」


白い手袋の指が震えていた。

さっきまで真壁さんの肩に指を沈めていた手が。


「だから、その3人は返してください。代わりに俺が来るんで」

「…………」

「あ、椅子は持ってきます。折りたたみのやつ」


長い沈黙。


「……いつまで、でございますか」

「借金返すまでなんで。結構長いです」

「長い」

「1,800万あるんで」


女は止まった腕時計をそっと撫でた。


前髪の奥で、口元がちょっと緩んだ気がした。

気のせいかもしれない。


「……成立、いたします」


入り口で、ドサッと音がした。

真壁さんが座り込んだ音だった。


「お、お前……時間って……そんなの聞いたことねえぞ……」

「ダメなんですか」

「ダメっていうか前例がねえんだよ!!」


真壁さんは鞄を開けた。

手が震えすぎて、留め金を3回外し損ねた。


出てきたのは、和綴じの古い帳面だった。

表紙に『契約帳』。


「名前。名前がいる。帳契には呼び名が」


「お名前、なんていうんですか」


女は少し考えてから言った。


「待ち人、とだけ」

「長いっすね」

「……長い、でしょうか」

「じゃあマチさんで」


女が固まった。


前髪の隙間の片目が、まばたきを忘れていた。


「……マチ」

「嫌なら変えます」

「いえ」


すごく小さい声だった。


「いえ。マチで、ございます」


女は――マチさんは、右手の手袋を外した。


指先から、ゆっくり。

手袋の下の指は真っ白だった。


契約帳の上に、人差し指を置く。


ジュッ、と紙が鳴った。


指を離すと、そこに黒い印が残っていた。

駅の改札の、入鋏の痕みたいな形。


カチ。


音がした。


マチさんの腕時計の秒針が、動き出していた。



◇



帰りの電車の記憶はない。



4時58分。


夜見坂駅、2番線ホーム。


気づいたら、俺はベンチに座っていた。

隣で真壁さんが座ったまま寝ている。

口が開いている。


その向こうのベンチに、3人。


会社員が先に目を覚ました。

きょろきょろして、自分の右足を見た。


「……あれ。靴」


ベンチの下に、靴があった。

丸1日転がっていたほうだ。


「それですか?」

「あ、はい。……え、ここどこですか。え、今何時」


学ランの子も、おばあさんも、ぼんやり顔を上げていた。

おばあさんはホームの自販機を見て、首をかしげていた。

そりゃそうだ。


真壁さんが跳ね起きた。


3人を見て、俺を見た。


「お前マジか」


スマホを出して救急に電話をかける。

住所を言いながら、俺を見る。


「お前マジか」


切って、今度は本部に電話をかける。

「はい……はい、3名。全員生存。……対応したのは……バイトです。今日入った」


電話口の向こうが静かになったのが、ここまで聞こえた。


「……お前マジか」


日付が変わってから4回目。


ホームの端に、マチさんが立っていた。


始発前の薄暗い中で。

紺のコートの裾だけ、やっぱり少し濡れていた。


マチさんは深く頭を下げた。


「明日の0時41分、お待ちしております」


駅のアナウンスみたいな、平らな声だった。


それから。


すっと、耳元で声がした。

ホームの端にいるはずなのに。

俺にだけ聞こえる距離で。


「1秒でも遅れましたら、迎えに参ります」


顔を上げると、もう誰もいなかった。


迎えに来るんだ。



始発を待つ。


袖をめくる。

二の腕の線はもう紫になりかけていた。


22時の面接から、今が5時前。

7時間。

時給1万円で7万円。


真壁さんいわく、乙の事案なら危険手当がつく。

30万くらい。


一晩で37万。


1,800万まで、あと何晩だろう。

……計算するのはやめておく。


割のいいバイトだ。



真壁さんの鞄から、契約帳がはみ出していた。


開いたままのページ。

マチさんの黒い印の隣に、俺の名前の欄がある。


その下に、さっきまでなかった数字が書き込まれていく。


インクが滲むみたいに。

誰も触っていないのに。


『残り 6時間59分』


……今、減った。

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