宵帳に、「白洲さんでお願いします」という電話が2本かかってきた
「いってらっしゃい」
7月14日、7時30分ちょうど。台所から「いってらっしゃい」が来た。俺は玄関で「行ってきます」と返す。ここは俺の家だから、白洲家の「よその家では言わない」の決まりは関係ない。
玄関のドアはもう閉まらない。開いたままの廊下に朝の光が細く差している。閉まらないドアというのは、思っていたより落ち着くものだった。家が、俺を出しても戸締まりを諦めたみたいな顔をしている。
その前の洗面所。鏡に布巾はかかっていない。3分間、鏡はウツシのものだ。歯ブラシを動かしている間、銀色の目がこっちを見ていた。
「今日の歯磨き、2分58秒ぉ。2秒、ボクに借りねぇ」
「借りません」
「ケチぃ」
3分は3分だ。帳契に書いてある。ウツシは唇を尖らせたが、鏡の中から手を振った。「いってらっしゃい、キミ」。それはおかえりさんの真似だった。真似だと分かるのが、少し可笑しかった。
◇
昼。学食は混んでいた。盆を端に寄せて、ノートを広げる。近代文学演習のレポート課題。出席は足りている。足りているからこそ、試験前に詰める必要があった。
スマホの画面が明るくなった。待ち受けの隅の銀色の点が、ふっと広がる。
「ねえねえ、キミ。ボクの時間だよぉ」
「分かってます」
「ほんとに分かってるぅ? 今、何秒経ったと思う?」
「数えてないっす」
「もう12秒。ボク、数えてるんだよぉ」
画面の隅で銀色の目が細くなる。俺はペンを動かした。ウツシは文句を言いながら、それ以上は邪魔をしなかった。時々、ノートの文字を覗き込むように、画面の点がゆっくり動く。近代文学の講義ノートを、鏡の中の怪異が読んでいる。妙な光景だ。けれど、静かだった。静かな昼休みというのは、悪くない。
◇
0時41分。終電の去ったホームに、マチさんは立っていた。白い手袋が契約帳を開く。古い紙の匂いが夜気に混じる。
「こちらでございます」
縦長の数字が罫線の上に並んでいた。
『マチ 週8時間30分0秒』
『ウツシ様 週5時間0分0秒』
『おかえり様 週6時間30分0秒』
『計 週20時間0分0秒』
その下に、もっと小さく。
『今週の別途 マチ(延長)41分12秒 ウツシ様(歯磨き超過)14秒 おかえり様(玄関の見送り)3分2秒』
「見送りまで数えてるんすか」
「玄関は、駅の改札と同じでございますので」
マチさんは顔を上げない。頁を閉じる指先が、いつもより丁寧だった。
あの晩のことは言わない。「行ってきます」のことも。けれど、俺の袖をつまむ白い手袋がいつもより少しだけ長く、そこにあった。冷たい指の力が、布越しにゆっくりと伝わる。
スマホが震えた。真壁さんからのLINEだ。
『明日、事務所来い。お前宛てに電話が2本』
俺は画面を閉じた。ホームの先で、信号が青から赤へ変わる。マチさんが、懐中時計を開いた。
◇
7月15日、22時。第三事務所。蛍光灯が今夜も2本、切れかけている。
真壁さんが机の上のメモを指で押さえた。端が折れている。何度も読み返したらしい。
「1本目。東亜電鉄、運輸部。夜見坂の人身事故がこの2か月ゼロだ。お前が入ってからだ。向こうさん、宵帳への委託報告書を毎月読んでる。同じアルバイトの名前が何度も出てくるって。で、次回の現場立ち会いを『白洲さんでお願いします』だと」
俺は黙って聞いていた。マチさんの駅だ。事故が減ったのは、たぶん、マチさんが俺と過ごす時間のぶんだけ人を待合に連れて行かなくなったからだ。口には出さない。
「2本目。コーポ柊の管理会社。同社が抱える事故物件14件の調査を、白洲さん指名で。至急見積もり出せだそうだ」
真壁さんが天井を仰いだ。
「バイトに指名ってなんだよ。キャバクラか」
烏丸室長が湯呑みを置いた。笑顔だ。
「指名料が出ます。1社4万円。2社で8万円。全額、白洲くんに」
「出るんすか」
「出ます。前例がないので、私が決めました」
烏丸室長は湯呑みを置いたまま、手元のメモを滑らせた。
「不動産の14件は夏のあとで結構です。今夜は東亜電鉄さんを。依頼は乙です」
真壁さんが身を乗り出す。「乙。東亜線か。どこだ」
「夜見坂から4つ先、桐生台ですね」と烏丸室長。「マチさんの区間の外です。始発前の4時44分、自動改札が1台、誰もいないのに『ピンポン』と鳴ってフラップを閉じる。その時刻に改札の前に立った駅員が2人、翌日から毎朝4時44分に改札の前に立ちつくすようになりました。自分では止められない。家族が起きると、寝間着のまま駅にいるそうです」
「寝間着で……」真壁さんの顔が引きつった。「決まりごとは」
「始発前の改札で、止められた人の後ろに並んではいけない、です」
真壁さんが椅子の背もたれを掴んだ。「無理無理無理。4時44分って、お前、深夜どころか朝じゃねえか」
俺は頭の中で時間割を置いた。マチさんの時間は1時53分51秒で終わる。そこから桐生台まで、4時44分には十分間に合う。
「4時44分なら、マチさんの後で間に合いますね」
烏丸室長の笑顔が、少しだけ深くなった。
◇
7月16日、4時30分。桐生台駅の改札はまだ閉じていた。シャッターの向こうの構内に、始発前の青白い蛍光灯がついている。若い女性の助役が改札の外に立っていた。制服の袖をまっすぐに伸ばし、宵帳の身分証を見ると小さく頭を下げた。
「こちらです。毎朝、この3番だけが」
声が少し乾いていた。寝不足なのだろう。目の下が薄く青い。
真壁さんは改札の床を見たとたん、一歩下がった。
「おい白洲。なんかもう床がやばいぞ」
4時44分。3番の自動改札が「ピンポン」と鳴って、フラップが閉じた。誰もいない。
俺はしゃがんだ。3番の自動改札の前。タイルの継ぎ目をまたぐ位置に、靴底の形のすり減りがあった。左右、揃っている。右足の外側が深い。革靴の底だ。毎朝、同じ人が同じ位置で、同じ体重のかけ方で立った跡だ。40年分のすり減りが、タイルの釉薬を薄く食っている。
「ここに、ずっと誰か立ってますね」
助役が喉を押さえた。「記録では40年前から、朝の点検の前に3番だけエラーが出ます。職員は誰も見ていません」
俺は改札の横へ回った。ICの読み取り面ではなく、古い磁気券の投入口。プラスチックの縁が、そこだけ黒く光っている。手の脂だ。何度も何度も、誰かが指先を差し入れた跡が、こびりついている。
投入口の奥に、紙の端が見えた。
鞄から家業の細いピンセットを出す。先端を消毒して、投入口の縁に手を添えた。古い券売機や自販機の隙間から、詰まったレシートを抜くときと同じ手つきだ。息を詰める。指先に伝わる紙の抵抗をごく弱く、引く。
ず、と紙が動いた。そのまま、抜き出す。
茶色く褪せた、磁気の定期券だった。
『桐生台⇔丸の内 通勤 昭和58年4月1日〜昭和58年9月30日』
期限は、とうに切れている。
俺はピンセットで抜いた定期券を、そのまま3番の投入口に戻した。磁気の面を下に、昭和の頃の向きで。
「通っていいっすよ」
「ピンポン」。フラップが閉じた。期限切れだ。改札は通さない。
真壁さんが俺の肩を掴んで引いた。
「おい、後ろ。後ろに並ぶなよ。決まりごとだぞ」
振り返る。改札の外、俺の真後ろに誰もいない。並んでいるのは俺だけだ。
助役が青い顔で言った。「この改札、昭和の頃からここにある機械の位置なんです。動かした記録も、入れ替えた記録もなくて」
俺は定期券の日付を見た。昭和58年4月から9月。期限切れのまま、40年ここに詰まっていた。
家業の手順を思い出す。遺品整理で出てくる定期券は、まず駅に持っていく。未精算の区間が残っていれば、精算すれば通れる。払い戻しより先に、通れる形にしてやる。それが父さんのやり方だった。
財布を出した。140円。桐生台から1駅分だ。
「精算機、どこっすか」
助役が自動精算機を指した。俺は140円を入れて、桐生台から1駅分の精算券を買った。薄い紙が1枚、出てくる。
それを3番の投入口に入れる。
「精算済みです。お疲れさまでした」
機械の声がした。3番のフラップが開く。
誰もいない改札を、革靴の足音が1つ通っていく。かち、かち、と規則正しく。右足の外側が少し重い音だった。40年分、同じ位置に立っていた人の歩き方だ。
足音はホームへ上がる階段を上っていった。
始発の到着がアナウンスされた。
始発がホームに入った。扉が開いて、数人が降りてくる。誰も3番を見ない。助役の携帯が震えた。駅員2人の家族からだった。2人とも今朝は布団で寝ている、と。昨夜から一度も起きていない、と。
助役が携帯を耳に当てたまま、こっちを見た。青い顔のまま、ゆっくりと息を吐く。
「……寝てるんですか」
通話を切って、助役が改札の横の事務室からファイルを出してきた。指が震えていた。
「この改札の苦情、40年で11件あります。うちの会社が宵帳さんに出したのは3回目です。前の2回は、改札機ごと取り替えました。新しい機械で、同じことが起きました」
俺は3番を見た。新しい機械でも同じことが起きる。機械じゃない。場所だ。
「140円って……」
助役が小さく言った。俺は財布を仕舞った。
「1駅分っす。丸の内まで行く途中だったんだと思います」
真壁さんが手帳を開いた。ページを捲る音が、朝の改札にやけに大きく響く。
「改札の手は3年前に緑台で2人消えてる。始発の改札は、精算で通したのが初めてだな」
真壁さんはそう言って、手帳を閉じた。
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0441】
分類:乙
呼称:4時44分の通勤客
発生場所:東亜線 桐生台駅 3番自動改札
担当:白洲律
危険手当:300,000円(乙)
依頼:指名依頼(東亜電鉄)
備考1:担当アルバイトは床の靴底の摩耗と、磁気券投入口の手脂から旧定期券を発見。精算券(140円、担当アルバイト自費)で通過させ鎮静。
備考2:アルバイトへの指名依頼は当機関で初。指名料(1社4万円)は室長判断で担当者に支給。
俺は精算機の領収書を財布にしまった。
「経費、出ます?」
「出ねえよ」
◇
7月16日9時。東亜電鉄運輸部の事務所。課長は宵帳の報告書の写しを読んでいた。No.0441。桐生台駅3番改札。備考欄の「精算券(140円、担当アルバイト自費)」で若手が吹き出した。
「自費。140円っすか」
課長は笑わなかった。報告書を裏返し、床の靴底のすり減りの写真を見た。夜見坂の人身事故は2か月ゼロ。桐生台の改札は40年動かなかった。そして3年前、緑台で消えた駅員が2人いる。同じアルバイトに頼めないか、と課長は言った。
「バイトですよ? 時給1万円の」
「時給1万円で、うちの40年が片づくなら安い」
若手はまだ笑っていた。課長はその笑いを止めなかった。報告書の備考2には、アルバイトへの指名依頼は当機関で初、とあった。課長は窓の外を見た。電車が静かに動き出すところだった。課長は来期の委託額の欄を開き、数字を書き直した。
◇
7月16日、午前11時。コーポ柊を管理する不動産管理会社の事務所。
担当者が社長に報告した。203号室に囚われていた7人——昭和60年から今年までに行方不明になっていた7人——が全員、自分の足で部屋から出てきたと。
社長は黙って聞いていた。それから机の奥から古いファイルを出した。平成の初め、先代の社長が宵帳に宛てて出した委託書が1枚。『コーポ柊203号室の行方不明者を発見した場合、成功報酬300万円』。30年、誰も満たさなかった。
「払ったよ」と社長は言った。「気持ちよく払った」
担当者が頷く。「残りの14件、全部、白洲さんで」
社長が顔を上げた。「全部か」
「あの人、内見のとき、床の継ぎ目しか見てないんです」
社長はしばらく黙って、それからファイルを閉じた。事務所の掲示板に、宵帳の連絡先と付箋が1枚貼られた。『担当:白洲様(指名)』。
◇
7月16日、22時。蛍光灯が2本、まだ切れかけたままだ。烏丸は室長席で給与明細を作っていた。危険手当30万、指名料8万。合わせて38万が今月の白洲律に乗る。印字の済んだ紙を揃え、その下に律が毎月自分で置いていくメモを重ねた。妹の小春が家業の帳簿から写したものだ。角の丸い、子供の字のような数字が並んでいる。一番下に『938万』。
烏丸は鉛筆を取った。その下に細く『900万』と書き足す。芯の先で、938の8をそっとなぞるように。
隣の机で真壁が椅子を鳴らした。
「室長。あいつ、春は1,800万背負ってたんすよね」
「ええ」
「半分、切りましたね」
烏丸は答えなかった。鉛筆を元の場所へ戻し、引き出しの奥の鍵付きの段に手をかけた。がちゃりと小さく鳴って、古いファイルが出てくる。背表紙に褪せた墨で『夜尾村』。いつもは指先で1センチだけ開く。今日は違った。頁を全部、開いた。最初のページの端に色褪せた付箋が1枚、貼ってある。
烏丸の字だった。インクが古い。付箋の日付は、14年前の8月。
『この子が来たら』
それだけだった。烏丸はその付箋を、指で1回なぞった。真壁に聞こえないくらいの声だった。
「……待ちました」
烏丸はファイルを閉じ、いつもの笑顔に戻った。何も知らぬ真壁が「室長、茶ぁ淹れます?」と腰を浮かせる。
烏丸は湯呑みを静かに置いた。
「白洲くんを呼んでください。お話があります」
◇
22時30分。室長席の前に立つと、烏丸室長はいつもの笑顔で湯呑みを置いた。
「白洲くん。夏休みはいつからですか」
「試験が終わるの、月末っす」
「おじいさまのお家、まだありますか」
「夜尾村の。誰も住んでないっすけど、近所の人が鍵を預かってくれてるらしいっす。小さいとき、そこの裏山で3日迷子になったって聞いてます。覚えてないっすけど」
真壁さんが湯呑みを持ったまま止まった。
「……3日?」
「怖くなかったのかよ。ガキで3日って」
「特には。覚えてないんで」
スマホの画面が暗いまま黙っている。待ち受けの隅の銀色の点も、沈んだままだ。ウツシにしては珍しい。烏丸室長は1秒だけ、笑顔のまま何も言わなかった。湯呑みの縁に指を添えたまま、こちらの目をまっすぐ見ている。それから、口を開いた。
「夏に出張です。行き先は夜尾村」
ポケットの中で、預かっているマチさんの腕時計の秒針が、1回だけ止まった。
——第1部 完




