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夜尾村行きの最終バスに、その人は乗らなかった




7月31日、17時40分。


試験が終わった翌日の空は、山に近づくほど薄く濁っていた。


ローカル線の終点の、夜尾村行きのバスが出る駅前ロータリーに、俺と真壁さんは並んで立っていた。


バス停はロータリーの端にあった。


錆びた丸い標識が傾き、屋根つきのベンチの緑のペンキは剥げ、時刻表の板は透明カバーの内側で黄ばんでいた。


「山だな」


真壁さんがスーツの襟元を引っ張り、湿った空気を嗅いで顔をしかめた。


「この匂い、ダメなんだよ。木と土とあと何か甘いやつ」


「杉っすね」


「そう、それ。鼻の奥に貼りつく」


俺は左手首の腕時計を見た。


マチさんの秒針は、この山の空気の中でも規則正しく動いている。


ただ、腕時計のガラスがほんの少し冷えていた。


朝、家を出るとき台所から声がした。


「いってらっしゃい」


俺は玄関で「行ってきます」と返して、振り返らなかった。


それから電車を乗り継いで、山の路線の終点まで来た。


「ボク、山の電波弱いの嫌いぃ」


スマホの画面の隅で、銀色の点がふるふると震える。


ウツシの声が、スピーカー越しに途切れがちだ。


「映りは問題ないっすよ」


「そういうことじゃないの。空気が薄いの。鏡が少ないの」


「山ん中ですから」


「だから嫌いなんだよぉ」


「帰りの電車まで我慢してください」


「んんん」


画面の銀色の点が、むくれたように小さくなった。


真壁さんが、ポケットから折り畳んだ地図を出して開く。


「夜尾村まで、このバスで40分だ。最終が18時40分。乗り遅れたら次の便はねえぞ」


「最終で間に合います」


俺は時刻表を見た。


1日3本。


朝と昼と、夕方の最終。


次の便が最後だ。


「腹減ったな。なんか買ってくるか」


真壁さんが、ロータリーの隅の自販機へ歩いていく。


俺はバス停のベンチに目を戻した。


さっきまで誰もいなかった。


屋根つきのベンチに、女が座っている。


夏なのに、冬の厚い外套を着ている。帽子のつばで顔は見えない。膝の上に手提げ鞄。


この山の湿った空気の中で、その人だけがひどく乾いて見えた。


俺は動かなかった。


マチさんの腕時計の秒針だけが、かち、かち、と音を立てて進んでいた。


女は顔を上げない。


バス停の錆びた標識の下で、ただ静かに、最終バスを待っている。


「おい待て」


戻ってきた真壁さんが、ベンチの女を見て足を止めた。


俺の耳元に顔を寄せ、声を殺す。


「乙だ」


「決まりごとは『最終のあとのバスを尋ねるな』。尋ねると来ない便に乗せられる」


「去年、別の線でよ。最終のあと『次は何時ですか』って聞いた客が、来ないバスに乗って帰ってこなかった。時刻表にねえ時間に来るんだ」


「聞かなきゃいいんすね」


「平気な顔すんな」


俺は女を見た。


女は顔を上げない。


帽子のつばが深く、口元だけが白い。


膝の上の手提げ鞄を両手で押さえたまま、静かに聞いてきた。


「このバス、夜尾村まで行きますか」


その瞬間、左手首の腕時計が止まった。


かち、という音が消える。


秒針が、ぴたりと動かなくなっていた。


「マチちゃん、いま止めたでしょぉ」


スマホの画面の隅で銀色の点がふるふる震える。


ウツシの声がスピーカーから小さく漏れた。


俺は女にだけ答えた。


「最終は、18時40分です」


それだけ言って、時刻表の板を見た。


黄ばんだ透明カバーの下で、今の時刻表が貼られている。


その下に、もう1枚、古い時刻表が重ねて貼られたままだった。


端が剥がれかけている。


古いほうの日付は、20年前の7月。


最終便の欄に、19時50分とある。


今の時刻表には、そんな便はない。


1日3本。


最終は18時40分。


それだけだ。


女は「そう」とだけ言った。


声は乾いていて、感情がなかった。


真壁さんが俺の腕を引いた。


「見るな。読むな。乗せるな」


「読んでません」


俺は言って、ベンチから一歩離れた。


マチさんの腕時計はまだ止まっている。


秒針が動かないと、腕の重さが変わる。


ウツシが黙った。


真壁さんも黙った。


バス停の屋根の下だけ空気が冷えて、湿っていた。


18時40分、最終バスが来た。


白いバスだった。山道を登ってきたせいか、車体の側面に泥が跳ねていた。


扉が開く。


運転手が俺と女を交互に見た。


「乗らないんですか」


女は動かない。膝の上の鞄を、両手で押さえたままだ。


俺は鞄を見た。口金が古い。革が乾いてひび割れている。持ち手の内側だけ、手の脂で黒く光っていた。


それから時刻表の板を見た。黄ばんだ透明カバーの下、剥がれかけの古い紙。20年前の19時50分。


女はそれを待っている。このバスじゃない。


真壁さんが身を寄せてきた。


「最終逃したら、今夜は村に着かねえぞ」


「乙なら30万っす。あと、そこの時刻表、気になるんで」


「すみません。次で」


運転手が俺を見た。少しの間、口を開かなかった。


「次、ないよ」


それだけ言って、扉が閉まった。


バスは山道へ入っていく。白い車体が杉の暗がりに溶けて、やがてエンジンの音も消えた。


「おい」


真壁さんの声が後ろで裏返った。


「お前マジか。次ないって言われただろ」


俺は答えなかった。


女はまだ顔を上げない。帽子のつばの下で、口元だけが白い。


左手首の腕時計は止まったままだ。秒針は、女に聞かれたときのまま動かない。


◇


「マチちゃん、あの人に妬いてるでしょぉ」


「待つ係、取られちゃうもんねぇ」


スマホの隅で銀色の点が跳ねた。


左手首の秒針が、止まったまま一度だけ震える。


「ほらぁ」


「マチさん、仕事中なんで」


秒針は止まったまま動かない。


真壁さんが声をひそめた。


「お前、何してんだ」


俺は鞄を開けた。


家業の道具箱からスクレーパーと霧吹きと、折り畳んだ雑巾を出す。


「掃除っす」


時刻表の板の前に立つ。


透明カバーの端に指をかけた。


黄ばんだプラスチックがぱき、と小さく鳴る。


カバーを開けると、古い紙の匂いがした。


霧吹きで、重なった紙の継ぎ目を湿らせる。


水が染みて、古い糊が白く浮いた。


スクレーパーの刃を、剥がれかけた端にそっと差し込む。


家業の手つきだ。


壁紙を剥がすときと同じ。


急がない。


紙を傷めない。


端から、1センチずつ丁寧に。


「おい、白洲」


「静かに」


古い時刻表が、するすると剥がれていく。


20年前の7月。


最終便、19時50分。


夜尾村行き。


その文字が、黄ばんだ紙の上でゆっくりと現れては消えていく。


糊の跡が、下の新しい時刻表に白く残った。


それも霧吹きで拭いて、雑巾で乾拭きする。


板の上に残ったのは、今の時刻表だけだ。


1日3本。


最終は18時40分。


それだけになった。


俺は剥がした古い時刻表を半分に折って、女の膝の上の手提げ鞄に置いた。


女は動かなかった。


帽子のつばの下で、口元だけが白い。


「この便、もうないです」


女の指が、鞄の口金をぎゅっと握った。


「20年前に、なくなりました」


山の空気が、バス停の屋根の下だけ重く冷えた。


女の肩が、小さく揺れた。


帽子のつばがゆっくりと、ほんの少しだけ上がる。


影になった顔の奥で、白い顎の先が見えた。


19時50分。


山道の上の闇から、ヘッドライトの光だけが下りてきた。


エンジンの音はしなかった。


光は停留所の前で止まり、しばらく俺と女の顔を順に照らしていた。


それから、音もなく消えた。


女がゆっくりと立ち上がった。


冬の外套の前を留めていた指が、ひとつずつ釦を外していく。


外套を脱いだ肩は、思っていたより細かった。


女は外套をベンチの上に丁寧に畳んで置いた。


膝の上の手提げ鞄を持ち、俺が半分に折った古い時刻表も一緒に持って、山のほうへ歩き出した。


靴音はしなかった。


暗がりに溶けるまで、帽子のつばは上がったままだった。


左手首で、かち、と音がした。


マチさんの秒針が、また動き出した。


「最終、行っちまったぞ」


真壁さんの声は、力が抜けて、怒る気力も残っていない響きだった。


俺はスマホを出した。


「もしもし、白洲くん」


「最終、乗り遅れました」


烏丸室長は少しも間を置かなかった。


「タクシー代は経費で落ちます」


「どうも」


通話を切った。


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0442】


分類:乙


呼称:バス停の待ち人


発生場所:夜尾村線 終点駅前バス停留所(最終便の後)


担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律(アルバイト)


経過:


同停留所にて20年前に廃止された最終便を待つ女の怪異を確認。担当アルバイトが時刻表の重ね貼りを剥離し、旧便の存在を明示。19時50分、来訪した光に導かれ怪異は山間へ退去。現場に冬外套が残された。


備考1:担当アルバイトは最終バスに乗車せず。決まりごと「最終のあとのバスを尋ねるな」に該当する質問を怪異から受けたが、回答は現行便の範囲に留めた。


備考2:担当アルバイトは旧時刻表を怪異に手渡し、当該便の廃止を告知。怪異の要求を満たすのではなく、事実を伝えることで鎮静に至った。


備考3:タクシー代は経費にて処理。危険手当(乙)30万円。


◇


タクシーの後部座席で、俺は鞄の中の手帳を指先で確かめた。


祖父の家の鍵は、村の近所の人が預かっていると母から聞いている。


運転手がルームミラー越しにこちらを見た。


「夜尾村? あそこ、もう宿もないよ」


「祖父の家があるんで」


運転手はそれ以上聞かなかった。


山道はカーブのたびにヘッドライトが杉の幹を白く切り取った。


真壁さんは助手席で黙って窓の外を見ている。


21時、村の入口でタクシーを降りた。


古い木の看板があった。


『夜尾村』の文字は墨が薄れ、木目に沿ってひびが入っている。


タクシーが下りていくと、山の暗がりだけが残った。


停留所の小さなベンチが、看板の陰にあった。


そのベンチのほうから、声がした。


「……大きくなったねえ、りっちゃん」


真壁さんが「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。


「おい、今の……さっきのバス停の女の声だろ」


俺は空のベンチに向かって「どちらさまっすか」と聞いた。


返事はない。


誰もいないベンチの上に、畳んだ冬の外套だけが置いてある。

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