この家で、まだ誰も言っていない言葉がある
「その前に、ガスです」
俺は流しの下の扉を開けた。
3年前、この床の染みを抜いたとき、家業の安全手順でガスの元栓の位置を確かめていた。白洲クリーンサービスでは、現場に入ったらまず元栓と分電盤を見る。染みを抜く前に、火と電気を止めるのが父さんの決まりだ。
元栓は奥の右。配管の継ぎ手の陰に、古い真鍮の栓がある。
湯気の中で手探りした。指先が配管を伝って、継ぎ手の陰で栓に当たる。固い。長いこと動かしていない手応えだ。掌を当てて、右へ回す。
き、と金属の軋む音がして、栓が回った。
シューという音が止まった。
台所の空気から、甘ったるい匂いの芯が抜けていく。まだ薄く残っているが、噴き出していた量じゃない。これ以上は増えない。
窓は壁だった。花柄の薔薇が一面に咲いていて、開ける隙間がない。換気はできない。
俺は換気扇のスイッチに手を伸ばした。流しの上の壁、油で色の変わった古いスイッチだ。
押す。
ぶうん、と低い音がして換気扇が回った。
3年前、この換気扇を拭いたのは俺だ。油を落として、羽根を外して真鍮の軸に差し込んだ。そのときの音と同じ音がした。
湯気が、ゆっくりと吸われていく。
俺は振り返った。
おかえりさんが包丁を握ったまま、俺を見ていた。
俺は壁になった玄関の前に立った。花柄の薔薇が、ドアのあったはずの場所を塞いでいる。
白洲家の決まりどおりに、一礼する。
「失礼しました」
今夜は、何も起きない。
壁は壁のまま、黙っている。
俺は考える。
食卓の8つ目の茶碗。弁当の包みに刺繍された『白洲』の文字。あれは、この家が俺を「よその人」として扱っていない証拠だ。「失礼しました」は、よその家を出る言葉だ。この家はもう、俺を家族の席に座らせようとしている。
なら、この言葉は効かない。
空気が動いた。
湯気の奥で、おかえりさんの顔がゆっくりとこちらを向く。
そのとき、洗面所のほうでばさり、と布が落ちる音がした。
洗面所へ行くと白い布巾が鏡の下の床に落ちていた。湯気を吸って重くなった布が、ずるりと剥がれた形のまま動かない。鏡面は白く曇っている。その曇りの中央に、指で描いたような丸い跡がひとつ。拭いたんじゃない。内側から、そっと触れた跡だ。
銀色の目が、その丸の向こうでのぞいた。
「律ぅ。……やっと見えた」
間延びした声が、スマホのスピーカーからではなく、鏡の奥から直接聞こえる。水滴を伝って、こっちの鏡まで来たらしい。曇りガラスの向こうで、黒い長髪がゆらりと揺れた。
「鏡にはね、ほんとの形が映るの」
ウツシの指が、鏡の内側から曇りをなぞる。その跡が、するすると花柄の壁を透かしていく。鏡の中だけ、薔薇の壁の向こうに玄関ドアの輪郭が浮かんでいた。真鍮のドアノブが、はっきりと光っている。
「玄関ちゃんとあるよ。壁の向こうにドアノブ映ってる」
俺は鏡の中のドアを見た。壁はまだ、こちら側では塞がったままだ。
「……あの人の気持ち、ちょっと写っちゃった」
ウツシの声が、ふっと小さくなる。
「すごく怖がってる。誰かがいなくなるのが」
銀色の目が、鏡の中でまっすぐ俺を見ていた。
「そっすか」
俺は玄関に戻った。
花柄の壁の前に7足の靴が並んでいる。きれいに揃えてある。泥が落としてある。紐が結んである。毎日、誰かが履く人の形に直している。
7足とも、つま先が、部屋の内側を向いている。
俺はしゃがんだ。
家業の手つきだ。遺品整理で靴を揃えるときと同じ手の動きになる。まず踵をそろえる。指先でつま先を持ち上げて、静かに、玄関のほうへ向け直す。
白洲家の現場で、父さんはいつもこう言っていた。
「次に履く人が、出かけられるように」
古い順にやる。
1985年の革靴。爪先がすり減って、でも磨いてある。つま先を外へ。1991年のパンプス。ヒールの裏に、乾いた泥。つま先を外へ。1995年のローファー。1999年の作業靴。2003年のスニーカー。2010年のパンプス。
1足ずつ、年を数えながらつま先を外へ向けていく。
最後に、今年の大学生のスニーカー。
白い紐が、まだ新しい。かかとが少しだけ内側に潰れている。この人だけ、俺を見た。
つま先を持ち上げて、玄関のほうへ向ける。
それから、自分の靴を履いた。
かかとを合わせる。
つま先を、外に向けた。
俺は台所のおかえりさんのほうを向いた。
白洲家の決まりは、よその家を出るときは「失礼しました」。「行ってきます」も「ただいま」も言わない。父さんが現場で何度も言っていた。よその家の家族の言葉を、こっちが勝手に使うもんじゃない、と。
俺はその決まりを1つだけ破る。
「ただいま」は言わない。この家の家族になる言葉だ。言ったら、俺は8人目の席に座ることになる。
代わりに言う。
「行ってきます」
長い沈黙があった。
鍋の湯気が、ふっと止まった。湯気が止まるということがあるのを、俺は初めて見た。空気の流れそのものが、息を潜めたみたいだった。
おかえりさんの手から、包丁が落ちた。
まな板の上に、からん、と乾いた音で転がる。柄がまな板の縁に当たって、それきり動かない。
40年前の雨の朝から、誰もこの家で言わなかった言葉だ。
言ってくれた人は、帰ってこなかった。だから言わせなかった。誰にも。40年かけて、7人ぶん言わせないようにしてきた。
でも「行ってきます」と言えるのは、帰る家がある人だけだ。
おかえりさんの肩が震え始めた。エプロンの背中が、小さく、何度も揺れる。口が開いて閉じる。開いて、また閉じる。声が出ないみたいだった。喉のところが、ひくりと動く。
俺は、待った。
やがて、湯気の底から声がした。震えて、途切れて、それでも家の人が出す声の形をしていた。
「……いってらっしゃい」
その声を聞いて、俺は自分が何をしたのかを理解した。
40年ぶりにこの家で、誰かが「行ってきます」と言い、誰かが「いってらっしゃい」と返した。それだけのことだ。それだけのことが、この部屋の空気を変えた。
花柄の壁紙の継ぎ目が、1本、縦に裂けた。
音もなく、薔薇の花が剥がれていく。内側から押されるように、ぱき、ぱき、と乾いた音を立てて。その下から白い壁紙が出てきた。継ぎ目のない、まっさらな白だ。
俺が3年前に張り替えた壁紙だった。
壁紙が剥がれた先に、ドアがある。
真鍮のドアノブが、ゆっくりと回る。
かちり、と音を立ててドアが開いた。
外の空気が入ってくる。梅雨の湿った、夜の空気だ。鉄の手すりの錆びた匂いと、湿ったコンクリートの匂い。外階段の街灯の、白くて薄い光が廊下に差し込んだ。
ドアの外に、真壁さんがいた。
腰を抜かして外階段の床にべたっと座り込んでいる。手には、切れたはずの命綱の端が握られていた。繊維がつぶれた切り口が、まだ手の中にある。
「お前、お前、マジか」
真壁さんの声が、震えていた。顔が青い。唇が開いたり閉じたりしている。
「マジか、お前。それ、言っちゃったのか。それ」
俺は答えなかった。答えられなかった。
背後で、エプロンの布が擦れる音がした。
おかえりさんが、玄関まで出てきていた。
俺の背中に、声が当たる。
「律くん。……帰ってくる?」
俺は振り返らない。
「ただいま」の約束はしない。
代わりに、口が勝手に動いた。
「また汚れたら、来ます」
自分でも、なぜその言葉が出たのか分からなかった。家業の口癖だ。清掃の仕事の締めの言葉。現場を出るとき、父さんが施主に必ず言う台詞。染みを抜いた後に、また汚れたら呼んでくださいと。俺はそれを、この家に、この人に、言った。
おかえりさんの影が、少しだけ笑った。
顔の影が、ふわりと柔らかく崩れる。
「……3年前も、そう言ったのよ。この台所に。誰もいないと思って」
おかえりさんの声が続く。
「怖がらないで、また来るって言ってくれたの、律くんだけだった。……迷子みたいな子だと思った」
おかえりさんが、俺の背中から離れた。
エプロンの布が、廊下を擦って台所へ戻っていく。
食卓のほうへ、向き直った。
エプロンの紐が、歩くたびに小さく揺れている。7つの椅子の前で止まった。一番古い席の背広の男の横に立って、湯気の残る台所から静かに言った。
「いってらっしゃい」
背広の男が立ち上がった。紺の背広の肩に、40年分の皺が刻まれている。まっすぐに玄関へ歩いて、揃えてあった革靴を履いた。かかとを合わせ、爪先を外へ向け、ドアをくぐった。外階段に靴音が響いて、やがて消えた。
おかえりさんが次の席へ移る。
「いってらっしゃい」
肩パッドのワンピースの女が立った。パンプスのヒールが、床のへこみからすっと抜ける。玄関へ歩いて、靴を履いて出ていった。
「いってらっしゃい」
ルーズソックスの女子高生。編んだ髪が、歩くたびに揺れた。ローファーの紐を結んで、出ていった。
「いってらっしゃい」
作業着の男。靴紐を結ぶ手つきが、どこか誇らしげだった。
「いってらっしゃい」
スーツの女。パンプスの音が、軽かった。
「いってらっしゃい」
ジャージの男。スニーカーの踵を踏まずに履いて、出ていった。
7人とも、いなくなった日の年齢のままだった。
外階段の下で、真壁さんが1人ずつ受け止めていた。腰を抜かした格好のまま、両腕を広げて上から下りてくる人を1人ずつ抱きとめる。
「重えよ……7人は重えよ……」
泣いていた。鼻水を袖で拭いながら、それでも7人とも受け止めた。烏丸室長が無言で毛布をかけていく。白い毛布が、外階段の下に7枚並んだ。
最後に大学生が下りた。スウェットのまま、ゆっくりと一段ずつ。外階段の下で、ひとりの女性が立っていた。街灯の白い光の下で、その人は両手を口に当てていた。
「……おかえり」
大学生が、小さく笑った。
「ただいま」
俺は見なかった。目を逸らした。背中のほうで、母親が崩れるようにして大学生に縋りつく気配がした。
俺はポケットのマチさんの腕時計を取り出した。秒針は、23時18分で止まったままだった。それが、かち、と小さく鳴った。──針が一気に回る。今の時刻の0時24分で止まって、また動き出した。
おかえりさんは玄関の内側に立っていた。エプロンの裾が敷居の手前で止まっている。一歩も、外へ出ない。出られないのだ。敷居の向こうは外で、ここはこの家の内側だ。おかえりさんの爪先は、敷居の板の手前できちんと揃っていた。
真壁さんが腰を抜かした格好のまま、俺の後ろで息を詰まらせている。烏丸室長は、白い手袋のまま階段の途中に立っていた。笑顔はまだ戻っていない。
「前例と並べますね」
烏丸室長の声はいつもの職員口調のままだった。けれど、口元が動いていない。
「家に囚われた行方不明者を戻した例は、全国の記録で1件だけ。1人で、その人は1か月後にまた同じ家に帰っていきました。7人全員を、自分の足で出したのは初めてです」
「記録、更新っすね」
「そうですね」
俺は鞄から契約帳を出した。
「時間しか払えないっす」
おかえりさんの影が、ゆっくりと首を傾げた。
「家族はずっと、って言ったでしょう」
「家族は無理っす。週20時間しか出せないんで」
俺は契約帳の時間割の欄を開いて、敷居の向こうへ向けた。マチさんの字だ。几帳面な縦長の数字で、罫線の上にまっすぐ書いてある。
『おかえり様 週6時間30分0秒(お試し・帳契外)』
「その中の6時間半です。朝7時から7時半までと、日曜の夕ごはん。玄関は7時半と0時20分に開けます」
おかえりさんはしばらくその欄を見ていた。影の顔が、すっと動く。
「じゃあ、1つだけ」
「はい」
「毎朝、いってらっしゃいって、言わせて」
俺は時間割の欄をもう一度見た。朝7時から7時半。そこに朝ごはんの時間が入っている。
「朝ごはんの時間に入ってるんで、大丈夫っす」
おかえりさんが台所のほうへ振り返った。しばらくして戻ってきた。指先に、白いものがついている。小麦粉だ。ハンバーグのつなぎをこねた手だ。
その親指が、契約帳の署名欄にそっと押された。
白い、指の跡だった。
出汁の匂いがした。かつお節と醤油を煮含めた、台所の匂いだ。
帳契の欄に、印が3つ並んだ。白い小麦粉の親指の跡が、一番新しい行に、まっすぐ押してあった。
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0440】
分類:甲
呼称:おかえりさん(コーポ柊203)
発生場所:コーポ柊203号室
担当:白洲律
救出対象:行方不明者7名(昭和60年〜本年)
経過:
同室に囚われていた行方不明者7名を、担当アルバイトが室内から1名ずつ送り出す。7名とも自力で退室。
危険手当:500,000円(甲)
備考1:担当アルバイトはガス元栓の閉止、靴の向きの是正、および「行ってきます」の発声により、怪異の「見送り」を回復。行方不明者7名を全員救出(昭和60年〜本年)。
備考2:怪異(呼称:おかえりさん)と担当アルバイトが帳契。対価は時間(週6時間30分)。帳契3件目。担当アルバイトは3年前、同室を清掃した際に怪異と接触していた。
烏丸室長の笑顔が戻った。湯呑みを両手で包む、いつもの形だ。
「それと、白洲くん。コーポ柊のオーナーさんが、平成の初めから宵帳に出していた委託がありまして。『203の行方不明者を発見した場合、成功報酬300万円』。30年以上、誰も満たせなかったので、金額が据え置きのままです。室の判断で、全額、担当者に回します。甲の手当と合わせて、350万円」
「350万!?」真壁さんが腰を抜かした格好のまま叫んだ。「おい、そんな金——」
俺は頭の中で計算した。1,288万 − 350万 = 938万。1,000万を、切った。桁が1つ減った。
「どうも」と俺は言った。
鞄を肩にかけ直す。契約帳を仕舞う。道具箱の留め金を確かめる。マチさんの腕時計はポケットの中で0時26分を指していた。
俺は外階段を下りた。振り返らない。
一段、二段。鉄の踏板が靴の裏で小さく鳴る。濡れた手すりの向こうに、街灯の白い光がにじんでいた。玄関の敷居の内側から、エプロンの布が擦れる気配だけがした。
「いってらっしゃい」
俺は足を止めずに、階段を下りきった。
◇
1時5分。夜見坂駅のホームは、終電の去ったあとの熱がまだ抜けきらず、線路の上に薄く揺れていた。マチさんは時計の下に立っていた。懐中時計を開かないまま、白い手袋の両手を前で重ねている。
0時41分から24分遅れた。
「遅れました。すいません」
「いいえ」
マチさんは首をわずかに傾けた。黒い長髪が、ホームの灯りを滑る。
「……出汁の匂いが、いたします」
マチさんが半歩近づいて俺の首元に顔を寄せた。冷たい匂いがした。線路の錆と、夜気の匂いだ。しばらく動かなかった。
俺が鞄から契約帳を出そうとすると、白い手袋が伸びてきた。
「印が、3つになりましたね」
言いながら、手袋が俺の袖をつまんだ。いつもより強い。布越しに指の力が伝わってくる。
スマホの画面が暗いまま黙っている。ウツシだ。珍しく、何も言わない。待ち受けの隅の銀色の点も、沈んだままだ。
「律さん。あの方の家で、行ってきます、と仰いましたね」
「はい」
マチさんは袖をつまんだまま、ホームの先の暗い線路を見た。線路は夜の底へ、まっすぐに消えている。
「わたくしの駅では、まだ一度も」
手袋が、少しだけ震えていた。
「……行ってきます、と、仰っていただいておりません」




