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203号室の食卓に、7人が座っている




今朝の弁当の包みに、紙が挟まっていた。 『今夜、ハンバーグね』 傘の染みのなかで女の人が言った台詞と、同じだった。


7月3日、21時30分。宵帳 第三事務所。 蛍光灯が今夜も2本、切れかけている。 烏丸室長は記録を1ページ開いた。


「甲です。正職員2名はドアの外。中に入るのは白洲くんだけです」


笑ったまま、湯呑みを置いた。


「203に入った職員は過去に2人。2人とも玄関までしか行けずに撤退しています。食卓まで行った人は、記録にいませんよ」


◇


22時。コーポ柊の外階段。 雨は上がっていた。鉄の手すりが夜の湿気を吸って黒く光っている。 真壁さんが俺のベルトに作業用のロープを結んだ。 手が、震えている。


「ほどけねえように3回結んだからな」


「ありがとうございます」


「お前、怖くねえのか」


「特には」


真壁さんはそれ以上何も言わなかった。ロープのもう片方を手すりに巻いて、固結びにした。 烏丸室長はいつもの笑顔で、白い手袋をしていた。 俺の鞄には家業の道具箱。スクレーパー、霧吹き、ゴム手袋。それと、203の鍵。柊の葉のキーホルダーの真鍮の鍵。裏に『203』。


スマホの画面が明るくなった。


「ボク、鏡に布かけられたら、何も見えないからね。……すぐ出てきてよぉ」


「分かってます」


外階段の下に、管理会社の担当者と、ひとりの女性が立っていた。 7人目の、大学生の母親だ。 街灯が1本しかない。顔はよく見えなかった。 真壁さんが俺の背中を1回だけ叩いた。


俺は203のドアの前に立った。 鍵を差す。回す。 かち、と小さく開いた。


「失礼します」


ドアを開ける。 台所の灯りが橙色に廊下を染めている。エプロンの背中が、流しの前でこちらを向いた。


「おかえりなさい」


部屋が、違った。


壁紙が古い花柄だった。昭和の203だ。3年前に俺が張り替えたはずの壁紙じゃない。張り替える前の、煙けた薔薇の花柄が廊下の壁を覆っている。俺が継ぎ目を直した廊下の板も、継ぎ目がない。元の板だ。3年前の俺が直す前の、板と板の隙間が黒い。


鏡は全部、布巾がかけてあった。洗面所の鏡。玄関の姿見。白い布が1枚ずつ、ぴんと張ってある。ウツシの目は、1枚も見えない。


台所から、油の音がしていた。


じゅわ、と肉が焼ける音。焦げた醤油の匂い。ハンバーグだ。


俺は靴を脱いだ。白洲家の決まり通り、よそのおうちの上がり框に立って、廊下を見た。


食卓に、椅子が8つあった。


7つに、人が座っている。


一番手前の椅子に、背広の男がいた。紺の背広。昭和の肩のラインだ。隣に、肩パッドのワンピースの女。その隣に、ルーズソックスの女子高生。1990年代の制服だ。次に、作業着の男。その隣に、スーツの女。その隣に、ジャージの男。最後に、スウェットの大学生。


7人だ。


全員が茶碗を持っていた。箸を持っている。口が動いている。咀嚼している。


目が、俺を見ない。


7人とも、俺のいる廊下のほうを見ていない。食卓の上の、誰もいないあたりを見ている。


玄関を見る。靴が7足。男物4足、女物3足。きれいに揃えて並んでいる。泥が落としてある。紐が結んである。誰かが毎日、履く人の形に直している。


家業の目が出る。


7つの椅子の脚の下に、床のへこみがあった。


古い順に、深い。


一番古いへこみは、フローリングが割れかけたほど深い。40年分の重みだ。7人ぶんのへこみが、椅子の脚の形に刻まれている。


7人の爪が、切り揃えてある。7人の髭が剃ってある。女子高生の髪が、編まれていた。スーツの女の髪が、整えられていた。誰かが毎日、7人の世話をしている。


スマホが震えた。真壁さんだ。


「どうだ。何がいる」


俺は見たままを言った。7人。年代の違う服。行方不明になった日の年齢のまま。目が合わない。茶碗を持って、口が動いている。椅子の脚の下に、7つのへこみ。爪が切ってある。髭が剃ってある。誰かが毎日、世話をしている。


言い終わると、ドアの向こうで悲鳴が上がった。


真壁さんの声だ。


「うわあああああああ!」


電話に、烏丸室長の声が割り込んだ。


「真壁さん、声」


台所で、おかえりさんがハンバーグを裏返した。じゅわり、と油が跳ねる音がした。


俺は大学生の椅子の横に立った。


スウェットの肩のあたりに、手を置いた。


若い肩だ。俺と同じくらいの、柔らかい肩。


「帰りましょう」


俺は言った。


「お母さん、外にいますよ」


大学生の目が、1回だけ、俺を見た。


初めて見る目だった。7人のなかで、俺を見たのはこの人だけだ。


唇が動いた。


「……ただいまって、言っちゃった」


声は小さかった。かすれた、喉の奥の声だ。


大学生が、立ち上がろうとした。


膝が動かない。


椅子に縫いつけられたみたいに、膝が曲がらない。脚が床のへこみに、根が張ったみたいに動かない。爪先だけが、床の板を薄く引っ掻いた。


7つのへこみは、足跡じゃない。


根だ。


座った人の根が、床を割るほど深く張っている。


おかえりさんが、ハンバーグの皿を盆に乗せていた。


8つ目の皿だ。盆の上に、湯気が立っている。


8つ目の席は、俺が座るはずの席だ。


「律くん、座って。今夜はね、ハンバーグ」


俺は座らない。


大学生の椅子の横に立ったまま、スウェットの肩に置いた手を脇の下へ滑らせた。腕を入れて、抱えて、持ち上げる。


持ち上がらない。


人ひとり分の重さじゃない。椅子ごと、床ごと持ち上げようとしているような重さだ。腕の筋が軋んで、びくともしない。大学生の体は椅子の脚ごと床のへこみに根を張っている。俺の腕では足りない。


手を離した。


台所のほうを向く。


「おかえりさん」


声を出した。


「この人たち、外に家族がいます。帰してあげてください」


包丁の音が止まった。


とんとんとんと刻んでいた音が、ぴたりとやむ。油の音だけが残っている。おかえりさんが流しの前でゆっくりこちらを向いた。顔は影だ。


「みんな、ただいまって言ってくれたの」


声は湯気と同じ温度だった。


「あたしの家族なの」


7つの椅子の下で、床がきしんだ。へこみがもう少し深くなった音だった。俺は台所を見ていた。悪気はない。事実を言う。


「旦那さんの傘、ドアの外に返しました。バス停の」


おかえりさんの背中が震えた。


エプロンの背中が小さく揺れて、止まらない。流しの縁を握る手が、白い布ごと震えている。


「……律くんも、行っちゃうんでしょう。あの人みたいに。行ってきますって言って、帰ってこないんでしょう」


部屋の電気が、1段暗くなった。


蛍光灯が消えたのではない。明るさそのものが薄く引いた。橙色がさっと褪せた。そのとき、ベルトの命綱がすっと軽くなった。振り返る。ロープは玄関のドアのところで切れていた。切り口は刃物じゃない。紙みたいに押しつぶされている。繊維がつぶれて平たい。


玄関のドアが、ない。


花柄の壁紙の壁になっている。薔薇の花が、出口を塞ぐように一面に咲いている。


スマホが震えた。真壁さんの声だ。


「白洲、ロープが——」


途切れた。電波ではない。声が途中で消えた。


ポケットのマチさんの腕時計を取り出す。秒針が、23時18分で止まっていた。


「……あ、閉まりましたね」


23時20分。


天井が、低くなっていた。


じわじわと、ゆっくりと。 蛍光灯のカサが、俺の頭の高さまで下りてきている。見上げると、冷たい金属の笠が髪に触れた。


「律くん」


おかえりさんの声が、湯気の向こうから聞こえる。


湯気と同じ温度だ。やわらかい、低い声。


「みんな、座ってって。ね」


食卓の椅子が、きしんだ。


7つの椅子が動いている。俺のほうへ。少しずつ。椅子の脚が床のへこみに根を張ったまま、へこみごと動いている。床を引きずる音が、木材の裂ける音が、7重に聞こえる。


窓を見た。 窓がない。 内側から見ても、花柄の壁紙だ。薔薇の花が、窓のあったはずの場所にも咲いている。壁の薔薇と窓の薔薇が、つながっている。


台所の鍋から、湯気が噴き出した。


ふくれあがった湯気が、一気に部屋を満たす。 白い。何も見えなくなる。


湯気の中で、俺は洗面所のほうを見た。鏡にかかった白い布巾が、湯気を吸って湿り、ずるりと重く垂れる。端が鏡の縁から、ほんの少しだけずり落ちた。鏡は、まだ見えない。


それから、音がした。


シュー。


コンロの火が、ふっと消えた。


匂いが来る。


玉ねぎが腐ったような、甘ったるい匂い。


都市ガスの付臭剤だ。


家業の現場で何度も嗅いだ。


湯沸かし器を閉め損ねた独居者の現場。風呂焚きを消し忘れた深夜の現場。この匂いがしたとき、たいていはもう遅かった。


怪異の手は俺に届かない。


俺は怖くないから、おかえりさんの手は、すり抜ける。


でも、家は届く。ガスは届く。


天井は物理だ。椅子は物理だ。壁は物理だ。


匂いが濃くなる。喉の奥が、甘ったるい匂いでいっぱいになる。


7人の輪郭が、揺らいでいる。


湯気の中で、背広の男の肩が、壁紙の花柄と同じ模様になっていく。薔薇の花が、肩のラインに咲く。次に、ワンピースの女の襟元に、花が咲く。ルーズソックスの上に、花が這う。作業着の肘に、スーツの手首に、ジャージの膝に、薔薇が咲いていく。


7人が、壁紙に溶けていく。花柄の壁の一部になっていく。


おかえりさんが、振り返った。


湯気の中で、顔が見えた。


影じゃない。


傘の染みの景色で見た、丸い顔の女の人だ。頬にそばかすがある。目が細い。笑うと細くなる目が、いまは歪んでいる。


泣いている。


「律くんも、ただいまって言って」


声が震えている。


「そしたら、もう、誰もいなくならない」


俺は答えない。


玄関を見る。


壁になった扉の前に、靴が7足並んでいる。革靴4足、パンプスとスニーカー3足。きれいに揃えてある。泥が落としてある。紐が結んである。毎日、誰かが、履く人の形に直している。


7足とも、つま先が、部屋の内側を向いている。


白洲家の現場で、遺品の靴を揃えるとき、父さんはいつもつま先を玄関のほうへ向けた。


「次に履く人が、出かけられるように」


この家の靴は、全部、出かけない向きに揃えてある。


この家では、40年、誰も『行ってきます』を言ってないんだ。


ガスの匂いが、もうもうと立ち込める。


天井の蛍光灯のカサが、俺の頭を掠める。


おかえりさんの声が、湯気の底から聞こえる。


「ただいまって、言って」


俺がこの家で、まだ一度も言っていない言葉が、1つだけある。

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