雨の夜のバス停の置き傘を、借りてみた
6月27日、梅雨の夜。 都営バス『柊町二丁目』の停留所には、傘立てがひとつある。 商店会が置いた古い木の傘立てだ。 立て札には油性ペンで「ご自由にお使いください」と書いてある。 その夜、傘立てに残っていたのは黒い紳士用の傘が1本だけだった。
◇
22時、宵帳 第三事務所。 蛍光灯は今夜も2本が切れかけている。 真壁さんは窓の外を見て、顔をしかめていた。
「雨の夜の事案は嫌いなんだよ」
「毎回言ってますね」
「毎回嫌なんだよ」
「乙です。置き傘の事案ですね」
烏丸室長は湯呑みを両手で包みながら言った。
「柊町二丁目のバス停に、商店会が置き傘を置いています。梅雨に入ってから、雨の夜にそこの黒い傘を借りた方が、翌朝、知らない家の玄関に座りこんで見つかるんです」
「座りこんで」
「ええ。3人です。3人とも、『ただいま』と言いかけた口のまま、ぼんやりしていました」
真壁さんが眉を寄せた。
「言いかけた、って」
「その家の住人に『おかえり』と言われる前に、見つかったそうです。だからまだ、帰れている」
烏丸室長は湯呑みを一口飲んだ。
「前例からの決まりごとは、『借りた傘を返さずに、よその家の玄関をくぐってはいけない』。それだけです。3人とも、同じことを言っています。『ここがうちだと思った』」
真壁さんが記録を覗き込んだ。
「柊って、またあそこかよ」
「柊町二丁目は、コーポ柊から歩いて3分です」
烏丸室長は記録をめくった。 指が途中で止まる。
烏丸室長の笑みが、1秒だけ消えた。 窓の雨音が、一瞬だけ大きく聞こえた。
「柊町二丁目のバス停は、昭和59年に雨の朝の事故がありました」
「その傘、借りてきます」
「借りんなって話をしてんだよ!」
◇
23時。 『柊町二丁目』の停留所は、街灯が1本しか点いていなかった。 その1本も、雨の幕の向こうでぼんやり滲んでいる。
傘立ての中身は、ほぼビニール傘だった。 透明の、安いやつ。 その中に1本だけ、黒い紳士用の傘が立っていた。
「近づくなよ。俺のことは置いていっていいからな」
真壁さんは3メートル後ろから声をかけてきた。
俺は傘立ての前にしゃがみこんだ。 家業の目が出る。 染み、匂い、残留物。 そこに人がいた形。
まず、柄。 木の柄の右側だけが、手の脂で黒く光っている。 左側は濡れた木の色のまま。 右手で持つ人だ。 親指の腹の位置に、はっきりと窪みがある。 毎日のように、長いこと持っていた手だ。
次に、骨。 1本だけ折れている。 折れた先を、針金で細かく巻いて直してあった。 1巻きずつ、均等に、ずれないように。 針金の端の始末が、すっと指の腹で押し込んである。 これは、繕い物をする手だ。 しかも、何度もやっている手だ。
止め紐を見る。 布で手縫いしてある。 藍色の布だ。 縫い目の端に、小さな刺繍があった。 雨の雫がついていて読みにくい。 俺は指でそっと拭った。
『柊荘二〇三』
「柊荘、二〇三」
「……おい」
真壁さんの声が、急に低くなった。
「それ、あの包みの字じゃねえか」
「はい」
「藍色の、あの」
「はい」
俺は傘を傘立てから抜いた。 柄を握ると、右手の窪みに自分の親指がすっと収まった。 長いこと握った人の形が、木に残っている。 家業で、遺品の茶碗を持つときと同じ感覚だ。 縁の、口をつけた人の形。
「お前、それ差すのか」
「借ります。置き傘なんで」
「その傘、203のだろ!」
「だから借ります。決まりごとは、借りた傘を返さずによその家の玄関をくぐっちゃいけない。なら、返せばいいんすよ」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
俺は傘を、頭の上に差した。
黒い布が、雨を受けて、ぱたぱたと鳴った。
◇
歩き出すと、左肩が、やけに冷たかった。
傘の内側で、自分の体の右半分だけが生温かい。 誰かが左側にぴったり並んで歩いているみたいに、体温のない冷たさが肩から二の腕へ伝ってくる。
「キミの傘の中、もう1人いるよぉ」
スマホの画面から、ウツシの声がした。 間延びした声が、語尾だけすっと低くなる。
「……男の人」
手元を見た。 柄が、知らないうちに少しだけ左へ傾いでいる。 左の肩が、濡れていない。
「おい白洲! その傘、傾いてんぞ!」
後ろから真壁さんの声が飛んできた。
「入れてもらうな絶対!」
「大丈夫ですって。まだ何もしてこないんで」
「まだって何だ!」
俺は足を止めずに歩いた。 出汁の匂い。 雨の匂いの下にかつお節と醤油を煮含めたような、台所の湯気の匂いが薄く張り付いている。
そのとき足が、止まった。
いや、止められた。 傘が、握った手ごと道の右側へ向けられる。 俺は逆らわず、顔を上げた。
知らない家だった。
古い木造の一軒家。 門柱の表札は、雨でにじんでいる。 知らない名前だ。 玄関の灯りがついていた。 橙色の、あたたかい灯り。 まるで誰かの帰りを待っているみたいに、ぽつんと点っている。
傘が、じわりと重くなる。 左肩の冷たさが、強くなった。 誰かが、俺の隣で、じっと玄関を見ている。
「……ここがうちだと思った」
俺は、3人の被害者が言った言葉を、口の中でなぞった。
玄関の引き戸が、内側からかた、と鳴った。
戸の隙間から、橙色の灯りがこぼれる。
老女だった。
白髪を後ろで小さく結んで、薄い色のカーディガンを肩にかけている。 焦点が、俺の顔ではなく傘のあたりに合っている。
「……おかえり」
言いかけた。 口元が、ほんの少しだけほころんでいる。
傘の中の誰かが、半歩、玄関へ踏み出した気配がした。 柄が、じわりと前へ引かれる。
「すいません」
俺は声を張った。
「家、間違えました」
老女の目が、ぱち、と瞬いた。 焦点が、俺の顔に戻る。 俺は傘を差したまま、深く頭を下げた。
「あんた、どっかで見た人かと思ったわ。ごめんなさいねぇ」
戸が閉まる。 かたん、と軽い音がした。
俺は玄関をくぐっていない。 上がり框にも触れていない。
◇
俺は来た道を戻った。
傘立ての前に立って、黒い傘を閉じる。
巻く。 止め紐を結ぶ。 手縫いの紐が、雨を含んで少し重い。
傘立てに戻す。 黒い傘が、ビニール傘のあいだに立った。
俺は歩き出した。
1分ほど歩いたところで、真壁さんの声が急に固くなった。
「おい待て、白洲。その手」
俺は足を止めた。
右手を見る。
黒い柄が、握られていた。 木の窪みに、親指の腹がすっぽり収まっている。
閉じた黒い傘。 止め紐は藍色の布で結ばれている。 骨の1本が、針金で直してある。
「お前、返したよな」
「返しました」
「傘立てに立てたよな」
「立てました」
「なんで手にあんだよ! 返したら終わりじゃねえのかよ!」
「分かりません」
「分かんねえで済むか!」
◇
俺は傘を、もう一度開いた。
「見るな! 閉じろ! 今すぐ閉じろ!」
俺は傘の柄を右手で持ち直して、内側を見上げた。
黒い布の裏。 骨が8本、均等に開いている。
その布に、染みがあった。 雨の染みじゃない。 何度も乾いては湿ってを繰り返したような、古い輪染みだ。
家の形だった。
染みの濃いところが、玄関のドアになっている。
コーポ柊の、203だ
景色が、うっすらと動いた。
雨の朝だった。 まだ夜が明けきらない藍色の光が、玄関の小窓から差し込んでいる。
エプロンの女の人が立っていた。 若い。 20代の半ばくらい。 顔が見えた。 影じゃない。 普通の、少し丸い顔。 頬にそばかすが少しある。 目は、笑うと細くなる形だ。
ああ、この人が
女の人は、黒い傘を両手で持って、男の人に差し出していた。
「はい。今日、降るって言ってたから」
男の人は、少し眠そうな顔で傘を受け取った。 右手で柄を握る。 親指が、木の窪みにすっと収まる。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。今夜、ハンバーグね」
男の人が傘を開いて、外に出る。
ドアが閉まる。 かたん、と軽い音がした。
染みが、ゆっくりと動いた。
夜になる。 同じ玄関。 ドアの前に、誰も立っていない。 台所では、鍋がとろ火にかかっている。 エプロンの女の人が、流しの前でじっと玄関のほうを見ている。 何度も手を拭いては、時計を見て、また手を拭いている。
夜が明ける。 誰も帰らない。
次の夜も、同じ。 鍋は新しく沸いている。
次の夜も。
次の夜も。
季節が流れるのが、染みの色で分かる。 秋。 冬。 女の人は台所に立ったまま、少しずつ動かなくなっていく。 手を拭く回数だけが、減っていく。
最後の景色。
台所の床に、女の人が倒れている。 横向きに、エプロンの紐が解けたまま。
その形が、俺の知っている形と重なった。
3年前、高校のときに家業で抜いた、あの床の染みと同じ形だ。
そうか。あれは、この人だったのか
染みが、また変わる。
バス停。 雨。 アスファルトに、黒い傘が落ちている。 骨の1本が折れている。 警察官が拾い上げて、ビニール袋に入れる。
203の玄関。 傘立てに、黒い傘が立てかけられる。 女の人の手が、止め紐を結び直している。 藍色の布。 刺繍。 針金。 折れた骨を巻いている。
やがて、その手が動かなくなる。
それから、知らない手が傘を抜いていく。 男の手。 骨張った、年寄りの手だ。 バス停まで歩いていく。 商店会の木の傘立ての、ビニール傘のあいだへ、そっと差し込む。
染みの景色が、ふつりと途切れた。
雨音が戻っていた。
「おい」
真壁さんの声が低い。
「……お前、今、何見てんだ」
俺は傘を閉じた。
「この傘、203に帰りたいんすね」
真壁さんが黙った。
◇
0時10分。 コーポ柊の外階段は、雨に濡れて黒く光っていた。
俺は203のドアの前に立った。 ドアは開けない。 甲の物件だ。 今夜は正職員2名の体制じゃない。
真壁さんは、ドアから一番遠い手すりにしがみついていた。
ドアの外に、傘立てがある。 錆びた鉄の、古いやつだ。 3年前、俺はこれも拭いた。 あのときは空だった。
俺は傘を巻いた。 藍色の止め紐を、折れた骨の上で結ぶ。 結び目の布の端が、親指の腹で何度も押さえられて、つやつやしている。
傘を、錆びた鉄の傘立てに立てた。 音を立てないように、柄をまっすぐに。
一歩下がる。 家業の、遺品整理の言い方で声を出す。
「お返しします。203の方の、お荷物です」
傘の中の体温が、ふっと消えた。
左肩に残っていた冷たさが、すう、と抜けていく。 誰かが俺の隣から、ドアの向こうへ、静かに戻っていく。 そんな気配だった。
雨が、ふっと静かになった。 コーポ柊のまわりだけ、小降りになる。
ドアの向こうで、包丁の音が止まった。
とん、とん、とん、と規則的に刻まれていた音が、ぴたりとやむ。
「……その傘」
おかえりさんの声だった。
雨の音だけが、細く、低く、外階段に降りていた。
「あの人ね」
声は、ドアのすぐ向こうから聞こえた。 木の板1枚ぶんの距離だ。
「『行ってきます』って言ったの。それで、帰ってこなかったの」
俺は黙っていた。
雨が、手すりを叩く。
「だから、あたし、もう誰にも『行ってきます』って言わせないの」
ドアの向こうで、エプロンの布が動く気配がした。 たぶん、手を拭いている。
「『ただいま』って言ってくれた人は、ずっとここにいてくれるから」
俺はドアを見ていた。
行ってきます、は
帰ってくる人の言葉だ
でも、言わなかった。 ここは俺の家じゃない。 白洲家の決まりで、よそのおうちで言っていい言葉じゃない。
しばらくして、真壁さんが手すりにしがみついたまま、声を絞り出した。
「傘の怪異は、記録に4件ある。3件は、傘を燃やした。借りた人間は、全員戻らなかった」
俺はドアの前から動かない。 傘立てに立てた黒い傘を見ていた。 柄の窪みが、ドアのほうを向いている。
「持ち主のとこに『返した』のは、初めてだ」
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0439】 分類:乙 呼称:柊町の置き傘 発生場所:都営バス『柊町二丁目』停留所/コーポ柊203 玄関前 担当:白洲律 危険手当:300,000円(乙) 備考1:担当アルバイトは傘の修繕跡と止め紐の刺繍から、持ち主をコーポ柊203の初代住人の夫(昭和59年、同バス停の事故で死亡)と推定。203の玄関外の傘立てへ返却して鎮静。 備考2:コーポ柊203の怪異(呼称:おかえりさん)は、初代住人の女性と推定される。 備考3:被害者3名は翌朝、それぞれ自宅で意識がはっきりした状態に戻った(宵帳にて確認)。
危険手当、30万。 借金は、1,318万から1,288万。
◇
0時30分、俺は外階段を下りた。
後ろから、ドア越しに小さく声がした。
「律くん。……どこ行くの?」
「帰ります」
それだけ言った。
◇
1時53分51秒。 夜見坂駅のホーム。
マチさんが懐中時計を閉じる。 白い手袋が、蓋を押さえたまま止まっていた。
「本日はこれにて、でございます」
そのとき、スマホが震えた。 真壁さんからだ。
「白洲。室長が決めた。203、7月3日。甲、正職員2名。室長と俺。お前は中に入る係だ」
「了解っす」
通話が切れた。
俺はスマホをポケットに戻した。
マチさんが、こちらを見ていた。 黒い長髪が、風もないのにゆっくり揺れている。
「律さん」
「はい」
「あの方の家には、線路が通っておりませぬ」




