駅務室の黒板に、3人分の時間割を書くことになった
〈ただいま、11分の遅れが生じております〉
0時52分、夜見坂駅のホーム。
蛍光灯が、端から1本ずつ消えていく。 消えたそばから、夜の色が濃くなる。 マチさんは、いつもの位置に立っていた。 黒い長髪が、風もないのにゆっくり揺れている。 白い手袋が、コートの内側で小さく動いた。 俺の定期券を握り直している。
「11分でございます」
声は静かだった。
「律さんが11分遅れるあいだ、わたくしはここに立っておりました」
「すみません。出ようとしたらドアが開かなくて」
「どちらの」
「うちの」
「ああ」
マチさんは、まばたきを1回した。 それだけだった。 でも、ホームの蛍光灯がまた1本消えた。 理由は言われなくても分かっている。
「……食べたのですね」
「食べました。味噌汁と卵焼きとごはん」
「そうでございますか」
マチさんは、俺の顔を正面から見た。 目がいつもより少しだけ細い。
ホームの時計は0時53分を指している。 白い手袋が、また、定期券を握り直す。
「11分、あの方の食卓におられたのですね」
マチさんは、半歩、近づいた。 コートの裾が俺のパーカーの袖に触れる。 鼻先が、首元に近づく。 息を吸う音がひとつ。
「台所の匂いが、いたします。律さん。あの方の台所の匂いが、律さんの首についております」
ホームの蛍光灯がまた1本消えた。 残りは3本。
スマホの画面が、勝手に明るくなった。 隅の銀色の点がふくらんで、黒い長髪が画面いっぱいに広がる。
「今朝もボクの鏡、ふきんかけられたぁ。歯磨きの3分、ボク見えてない。……契約違反だよねぇ、キミぃ」
銀色の目が、ふくらんだり縮んだりしている。 機嫌が悪いときのウツシは、いつもこうだ。
「律さん」
静かだった。
「11分は、あの方の台所への『別途』として、記帳いたします」
「それ、帳簿どこにあるんすか」
「わたくしの、内側でございます」
スマホのウツシが、あからさまに鼻を鳴らした。
「夜見坂の女、ずるいよぉ。キミの時間勝手に増やさないでよぉ」
「増やしてはおりません。記帳でございます」
「同じだもん」
ホームの蛍光灯がまた1本消えた。 残り2本。
俺は2人の声を聞きながら、この1週間を思い出していた。
1限の遅刻が続いている。 教務課の窓口であと全部です、と言われた顔がまだ残っている。
「会議、しましょう。3人で」
「……3人」
マチさんが、まばたきを1回した。 ウツシが画面の隅で黙った。 止まるのは珍しい。
「2時に、緑台の駅務室借ります。助役さんに頼んであるんで」
「あの方は、駅に来られませぬ」
マチさんの声が、少しだけ低くなった。
俺は鞄を肩にかけ直した。
「鍵、持ってくんで。給湯室、あるんすよ」
◇
2時10分、緑台駅のホームの端。 古い駅務室には埃と、蛍光灯の低い唸りが沈んでいた。 壁には、古い伝言板の黒板が立てかけてある。
給湯室から、とん、と包丁の音がした。
「律くん、夜食あるよ」
湯気の向こうに、エプロンの背中が見える。 小柄だ。 顔は影で見えない。 マチさんが、ゆっくりと給湯室のほうを向いた。 コートの裾が、埃の上をすった。
「あの方でございますか」
「そっす。来てもらいました」
「鍵、給湯室の棚に置いてきました」
俺は言った。 マチさんは白い手袋のまま、まばたきをしなかった。
「出汁の匂いがするんすよ。鍵のある台所なら、あの人、来られるんで」
暖簾の向こうで、包丁の音が一度止まった。
マチさんが、口を開いた。
〈まもなく、1番線に――〉
言いかけて、自分の口を白い手袋で押さえた。 駅のアナウンスが出かかった声を、喉の奥で止めたのだ。
「……失礼いたしました」
そのとき、窓ガラスが内側からとんとんと叩かれた。
「ちょっとぉ。ボク、全然見えないんだけど」
銀色の目が、窓いっぱいに広がっていた。 黒い長髪がガラスの奥でゆらゆら揺れている。 エプロンの人が、流しの横から白い布巾を1枚取って、窓にぱさりとかけた。
「あ」
ウツシの声が、ガラスの向こうで裏返った。
「またぁ! それボクの窓! エプロンの人、どいてよぉ!」
「蒸気で曇るから。あとで拭いておくよ」
おかえりさんの声は、給湯室の湯気と同じ温度だった。 マチさんが、窓にかかった布巾をじっと見ていた。
給湯室の引き戸がかた、と鳴った。
おかえりさんが盆を両手で持って出てくる。 湯気が盆の上でゆっくり揺れていた。 駅務室の机に茶碗を3つ、横並びに置く。 箸も3膳。 箸先は手前に、きちんと揃っている。
「みんなのぶんもあるよ」
マチさんが、茶碗の並びを白い手袋の上から見た。 首だけ、ほんの少し傾ける。
「わたくしは、いただきませぬ」
声は静かだった。 けれど、駅務室の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
窓の布巾の向こうで、銀色の目がすっと細くなる。
「ボク、鏡から出られないもん」
マチさんが、コートの内側で定期券を握り直した。
俺はチョークを取って、黒板の左端に「月」と書いた。 その右に「火」「水」「木」「金」。 1週間の表だ。
書き終えた端から、字が消えていく。 右から左へ黒板消しで拭ったみたいに白い粉が残って。 誰も触っていない。 受け皿の黒板消しが、ひとりでに粉を落としている。
「わたくしではございません」
マチさんが白い手袋を胸の前で揃えた。
「ボク、窓から出られないもん。手も届かないしぃ」
窓の布巾の向こうで銀色の目が細くなる。
給湯室からおかえりさんが顔を半分だけ出す。 顔は影だ。
「あたし、包丁しか持ってないよ」
「包丁で黒板消しませんよね」
「律くん、それ失礼だよ」
俺はまた「月」と書いた。 書いたそばから、端が白く霞む。
「月」が消えた。
俺はチョークを置いた。
「……これ、別件っすね」
◇
2時40分。 スマホで助役さんに電話をかけた。 スピーカーにして、駅務室の机の上に置く。
「ああ、その黒板ね。改札前の伝言板を撤去したときに、駅務室へしまったやつだよ」
「半年前からかな。夜中に駅員が書いた引き継ぎ事項が、朝には消えてるって苦情が続いてて」
「消されてるんすか」
「うん。書いた本人も覚えてないんだよ。翌日の勤務ごと、すっぽり」
通話を切った。
マチさんが、黒板の前で口を開いた。
「この駅の伝言板は、わたくしも見ておりました」
俺は黒板に近づいた。 消し跡が薄く残っている。 端から端まで、右上から左下へ一定の弧を描いて。 何度も重なっているのに、向きが全部同じだ。 手首を返して一気に拭く、職人の消し方だった。 昔の駅員の手つきが、そのまま黒板に残っている。
隅に、消されずに残っている落書きがあった。
「1997.3.4 ヨウコへ 先に帰る」
白墨の色が黄ばんで上から何度も粉がかぶっている。 消されていない。 行の頭に日付があった。 俺はチョークを置いて、黒板全体をもう一度見た。 消えているのは、日付のない書き置きだけだ。
黒板の木の枠に、剥げかけた古い注意書きが貼ってあった。
『伝言は48時間で消します』
日付がないと、書いたのがいつか分からない。 48時間を数えられない。 だから、書いたそばから消されるんだ。
マチさんが、俺の隣に立った。
「消されておりますのは、日付のないものばかりでございます」
「そっすね」
俺はチョークを取って黒板の左上に『6月22日』と書いた。 その横に、屋号ではなく苗字だけを書く。 『白洲』。
書いた途端、受け皿の黒板消しが止まった。 粉を落とすのをやめて、じっとしている。
俺は黒板消しを持ち上げて、裏返した。 フェルトの隅に安全ピンが刺さったままになっている。 古い名札を留めていたやつだ。
俺はピンを指で抜いて、駅務室の机の上に置いた。
「お疲れさまでした」
黒板消しは、もう動かない。
マチさんが黒板を見ていた。
「日付のあるものは、消されませぬ」
「そっすね。昔の駅員さんは、48時間で消すのが仕事だったんで。日付のないのは、すぐ」
「キミの字、残ったねぇ」
おかえりさんが、給湯室の戸口から半分だけ顔を出す。
「律くんの名前、黒板に残るんだ」
「残りますね」
「……そう」
一拍、包丁の音がした。
黒板には、日付と俺の苗字が残っていた。 マチさんと、窓と、給湯室の戸口がしばらくそれを見ていた。
◇
3時。 俺は黒板に「3人で同じにしましょう。1人6時間40分」と書いた。
「契約は8時間30分でございます。1秒も、減らせませぬ」
駅務室の蛍光灯が1本瞬いた。
「ボクだけ増えるのはいいけどぉ、あの人と同じなのはやだぁ」
窓の布巾の向こうで銀色の目が細くなる。
「家族はね、時間じゃないの。ずっとなの」
「誰も賛成してないっすね」
俺はチョークを取って、表の上に『168時間』と書いた。 その下に、引いていく。
『睡眠 35(1日5時間)』 『大学(講義と移動) 40』 『宵帳の事案 28』 『実家の現場 15』 『飯・風呂・その他 30』
線を引く。 残りは20。 丸で囲む。 それから黒板の上の『1人6時間40分』を見る。 3人分で20時間。 ぴったりだ。 俺はちょっと笑った。
「俺が出せるの、週20時間です」
俺は言った。
「これ以上削ると、寝ないと死ぬんで」
駅務室の空気が、その一言で止まった。
マチさんの白い手袋がコートの内側で止まっていた。 定期券を握り直す途中の形のまま、指先だけが動かない。 懐中時計の蓋も開かない。
窓の布巾の向こうで銀色の目が止まっていた。 ふくらみかけのまま、まばたきもしない。 黒い長髪が、ガラスの奥でぴたりと垂れている。
給湯室のほうでもとんとんと刻んでいた包丁の音が、止まっていた。
黒板には、丸で囲んだ『20』が残っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
俺はチョークを取った。
「マチさん。8時間30分。動かしません」
「はい。0時41分から1時53分51秒まででございます」
マチさんが懐中時計を開いた。 白い手袋のまま、秒まで読み上げる。 俺は黒板に書いた。 書いたそばから消えない。 日付と名前があるからだ。
「ウツシさん。5時間。帰り道と歯磨きと昼休み。ただし歯磨きの3分は、鏡の布巾を外すこと」
窓の布巾の向こうで銀色の目が瞬いた。
「やったぁ。じゃあボクの欄、ハートで囲んでねぇ」
「囲みません」
「なんでボクの欄ハートつけてくれないのぉ」
「黒板なんで」
「むぅ」
「おかえりさん。6時間30分。朝7時から30分を7日と、日曜の夕ごはん3時間。ただし玄関は7時30分に開けること。0時20分も」
給湯室から、茶碗を洗う音が続いていた。
「はあい」
「返事だけいいっすね」
「だって律くん、0時20分に開けてって。それ、あたしが寂しくなるやつ」
「開けてください」
「……はあい」
マチさんが契約帳を広げた。 羽根ペンで、秒まで書いていく。
『おかえり様 週6時間30分0秒(お試し・帳契外)』
『昨夜の遅れ11分は、おかえり様の別途より差し引き』
「お試し、っすか」
「帳契ではございませんので」
マチさんは静かに言った。
「律さんと印を交わしたのは、わたくしと、そちらの窓の方だけでございます」
窓の布巾の向こうで、ウツシが「ふん」と言った。
「日曜はハンバーグね」
おかえりさんが茶碗を3つ、重ねながら言った。
「ひき肉、多めにしとくから」
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0438】 分類:丙 呼称:消す手(緑台駅 駅務室) 発生場所:緑台駅 駅務室 担当:白洲律 危険手当:100,000円(丙) 備考1:担当アルバイトは消し跡の向きと日付の有無から、旧伝言板の消去の決まりを特定。日付の記入で鎮静。 備考2:同時刻、同室に契約怪異2体と未契約怪異(コーポ柊203)1体が同席。担当アルバイトの『時間割』により衝突なし。 (真壁の字で、横に小さく「どういう状況だよ」)
危険手当、10万。 借金は、1,328万から1,318万。
◇
3時50分、俺は駅務室のドアに手をかけた。
振り返ると、マチさんは懐中時計を見ていなかった。 白い手袋を胸の前で揃えたまま、まっすぐこっちを見ていた。
「律さん。また今宵」
「はい」
窓ガラスの布巾は外されていた。 銀色の目がガラスの端からこっちを見ている。
「キミ、帰り道12分だよぉ。ボクの時間だからねぇ」
「分かってます」
給湯室の暖簾の向こうで、おかえりさんが小さく口を開いた。
「いってらっしゃ……」
言いかけて、やめた。
暖簾の隙間から漏れていた湯気が、ふわりと一度だけ揺れた。
給湯室の流しを、最後に一度見た。 伏せた茶碗が5つ、きちんと並んでいた。 出したのは3つ。 あの人の分を入れても4つだ。
5つ目は、誰の茶碗だろう。




