40年前の住人から、切手のない手紙が届いた
6月19日、22時。 宵帳 第三事務所。 蛍光灯は今夜も2本が切れかけていた。 机の真ん中に切手のない封筒が7通、扇状に並べてある。 どれも少しだけ出汁の匂いがした。
真壁さんは火ばさみで一番手前の封筒をつまんで、裏返したり表に戻したりしていた。
「これな。中央郵便局の夜勤の局員が、回してきたんだよ」
「はあ」
「3日前から、還付棚に毎晩戻るんだと。差出人に返送しても、翌朝また戻ってる」
「住所、柊荘二〇三っすか」
「そう。で、その局員がな」
真壁さんは火ばさみの先で封筒の角をとんとんと机に当てた。
「3晩続けて、夢を見たんだと」
「夢」
「自分の家の玄関でな。誰もいねえのに、『おかえりなさい』って言われる夢」
火ばさみが止まった。
「3晩とも、同じ声で、同じ高さで言われるんだと」
真壁さんは封筒を机に戻した。 戻すとき、指先が少し震えていた。
烏丸室長は扇状に並んだ封筒を端から順にめくっていった。 指先は封筒に触れず、机の上で滑らせるだけだった。
「203号室、当時の住人の母親の方ですね。昭和60年に息子さんが行方不明になっています。うちの記録にあります」
「平成3年。こちらは姉。平成9年は、父。2004年は妻。2010年は、兄」
「6通目。3年前ですね。この年の春に行方不明になった住人の、母親」
烏丸室長の指が、最後の1通で止まった。
「そして7通目。今年3月に失踪された大学生の、母親」
「なあ、室長」
真壁さんは封筒を見たまま言った。
「これ、返したらどうなる」
「返してはいけません」
烏丸室長の声は、笑顔のままだった。
「記録にあります。戻ってきた手紙を、差出人に返してはいけない。返すたびに、203は家族からの返事を受け取ったことになる」
「返事」
「ええ。まだ1通も、開いてはいません」
烏丸室長は最後の封筒を、指先でそっと机の中央へ戻した。
俺は一番古い封筒の封を見ていた。
糊の跡が、どの封筒も同じ形だった。 左端が3ミリだけ浮いている。
鞄からペーパーナイフを出した。
刃の先は丸い。 家業で使うやつだ。
烏丸室長が、湯呑みを持ち上げた。
「では、白洲くん。一番古いのからお願いしますね」
「え」
真壁さんが声を裏返した。
「待て待て。開けさせんのか、こいつに」
「白洲くんが一番、影響を受けませんので」
烏丸室長は笑顔のまま言った。
「手紙を読んだ局員の家が、次の宛先になった。記録で2件。どちらも、開けて読み上げた者の家です」
俺は遺品整理の手つきで、封筒を年代順に机の左から右へ並べ直した。 昭和60年、平成3年、平成9年、2004年、2010年、3年前、今年。 封を切った順に便箋を封筒の上へ重ねていく。 家業で遺品の手紙を仕分けるときの順番だ。
俺は一番古い封筒を手に取った。 昭和60年。 宛名は当時の住人の母親。
ペーパーナイフの先を、封の左端の浮いた糊のあいだに差し込む。
息を吐く。
刃を、ゆっくりと右へ滑らせた。
封の端から1ミリ。
紙が、すう、と切れた。
封筒の中から、便箋の端が見えた。
黄ばんだ白。
その瞬間、事務所の蛍光灯が一度だけちか、と瞬いた。 真壁さんが息を飲んだ。
「読みます」
烏丸室長が湯呑みを置いた。 真壁さんが火ばさみを机に伏せた。
一番古い便箋を開く。 丁寧な縦書きだった。 行がまっすぐ通っている。
「母さん。こちらは毎日ごはんがおいしい。献立は日によって違う。味噌汁の出汁がよく出ている。帰れないけど、心配しないで。体に気をつけて」
3枚目まで、同じ調子で近況が続いた。 最後の行だけ、少し間が空いていた。
「茶碗が、ひとつ空いてる」
俺は便箋を伏せて、次の封筒を開けた。
平成3年は2枚。 字が少し崩れている。 「元気です。ごはんはおいしい。茶碗が、ひとつ空いてる」
平成9年は1枚。 献立だけだった。 「月曜、さんま。火曜肉じゃが。水曜、卵焼き」。 最後に同じ1行。
2004年、2010年、3年前。 短くなっていく。 献立の列と、決まった1行だけが残った。
「茶碗が、ひとつ空いてる」
6通目を読み終えて、俺は机の上を見た。 6通とも便箋の最後が同じだった。
真壁さんが黙っていた。 悲鳴も、火ばさみを落とす音もしない。
「真壁さん」
顔を上げると、真壁さんは机の端を掴んでいた。 指の色が白い。
「7人とも」
声が低かった。
「生きてるな」
「ええ」
烏丸室長が湯呑みを持ったまま言った。
「行方不明者は7人。全員、203の食卓に座っています」
7通目を開けた。 封を切ると便箋が1枚だけ、折り目に沿ってへたっていた。 字が乱れている。
「母さん。俺、ただいまって言っちゃった。バイトから帰って、つい。そしたら出られなくなった。でも、ここにいて分かった。あの人は、ほんとうは誰かを送り出したいんだと思う。いつも玄関を見てる」
烏丸室長は湯呑みを胸の前で持って、笑みを浮かべたままだった。
スマホの画面の隅で銀色の点がふくらむ。 ウツシの声が、いつもよりずっと小さく聞こえた。
「……ボク、この手紙きらい。キミが読むと、キミの声で聞こえる」
烏丸室長の笑みが、1秒だけ消えた。 湯呑みの湯気が、まっすぐ上に昇っていた。
「宛先、今の住所が分かれば届けられますよね」
俺は便箋を封筒の上に置いた。
「家族の多くは、転居しています。今の住所は、記録にはありません」
烏丸室長の声は、それでも静かだった。
俺は手紙を7通、年代順に重ねた。 どれも出汁の匂いがした。 机の上に、7人分の帰れない声が並んでいた。
烏丸室長は宵帳の古い記録から家族の住所を拾い、7通を出し直させた。 スマホの隅で銀色の点がふくらみ、ウツシが小さく「ぜんぶ、おなじ家に帰るんだよ」と言った。 間延びしていなかった。
1時間もしないうちに真壁さんのスマホが鳴った。 局員からだった。 7通とも、還付棚に戻ったという。 出し直した住所は全部違うのに、戻った場所だけが同じだった。 真壁さんは「なんでだよ」と呟いて、スマホを耳に当てたまま黙った。
俺は自分のスマホを取った。 実家に電話をかける。 3コールで出た。
「はい、白洲です」
小春の声だった。 背後でページをめくる音がする。
「俺。まだ起きてるか」
「お兄ちゃん?夜中に帳簿の電話してくるのやめて。こっちまだ終わってないんだから」
「悪い。帳簿に4回出てくるって言ってたよな」
「コーポ柊の203。うん。4回」
「その4回、いつだ」
小春は少し黙った。 それから帳簿を閉じる音がした。
「今から来て」
そこで電話が切れた。
◇
23時40分。 実家の1階の事務所は、灯りをつけているのは奥のデスクだけだった。 小春はエプロンのまま、机の下から帳簿の綴りを出してきた。
「これ、2004年から2010年まで。こっちが3年前と今年」
小春は綴りを2冊、机の上に並べた。 電卓を引き寄せて、指を置いた。
「お兄ちゃん、スピーカーなんでしょ。真壁さん聞こえてる?」
スマホを机の真ん中に置いた。 真壁さんの声が、少し遅れて返ってきた。
「聞こえてる。妹さん、夜中に悪いな」
小春は帳簿を開いた。 ページをめくる速さが一定している。
「2004年。依頼人、佐藤。荷物の送り先は同じ区内のアパート。家族の名前は……妻」
電卓を叩く。 指が止まらない。
「2010年。依頼人、田中。送り先は県外。名古屋。家族は兄」
「3年前。依頼人、鈴木。送り先はここから2駅。家族は母」
小春は顔を上げなかった。
「今年。依頼人、高橋。送り先は……」
ページをめくって、止まった。
「まだ書いてない。荷物、まだ送ってないから」
「今月の分は」
「うん。お兄ちゃんが撤去したとこ」
小春は今月の依頼書を引き寄せ、連絡先の欄を指でたどった。 指先が止まる。
「高橋さん。住所、ここ」
読み上げる声が、一度だけ途切れた。
「コーポ柊のすぐ裏の通り」
小春は電卓を置いた。 それから4本の指を立てた。
スピーカーから真壁さんの声がした。
「……妹さん有能すぎだろ」
「待って。この業者、うちが10年前に事業ごと引き取ったとこ」
小春は電卓の上に指を置いたまま、帳簿の隅の社名を指でなぞった。
「帳簿、物置にある」
「あるの」
「ある。10年前の分まで全部」
小春は立ち上がって、机の脇のフックから懐中電灯を取った。 スリッパのまま鍵を掴む。
「ついてこなくていいよ。すぐ戻る」
小春はそう言って事務所の裏口から出ていった。 懐中電灯の光が窓を横切って、庭のほうへ動いていく。 俺は机の前に座ったまま、スマホのスピーカーを見ていた。
「お前の妹、ほんとに怖くないのか」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺よりは強いっす」
真壁さんは黙った。 帳簿のページが、風もないのに一度だけ浮いて戻った。
7分ほどで小春が戻ってきた。 古い帳簿を2冊、胸に抱えている。 埃が腕についていた。
「あった。1985年から1997年まで」
小春は帳簿を机に置いて、埃を手の甲で払った。 ページをめくる。
「1985年。依頼人、中村。送り先は県内。家族は母」
「1991年。依頼人、小林。送り先は同じ区内。家族は姉」
「1997年。依頼人、加藤。送り先は……ここから3駅。家族は父」
小春は電卓を叩いて、それから指を7本立てた。
スピーカーから真壁さんの声がした。
「……そろったな」
「そろいました」
俺は小春が開いたままにした3年前のページを見た。 鈴木、と依頼人の欄にあった。 作業内容の欄に、俺の字があった。
『台所 床・換気扇』
3年前の夏、俺が書いた字だ。 ペン先が少し掠れている。 その下にもう1行、小さく書いてある。
滲んでいた。 指でなぞると、紙の表面が少しざらついた。 俺は読めないまま、目を近づけた。
◇
2時10分、中央郵便局の夜間窓口。
窓口のガラスは少し曇っていて、奥で区分機が低い音を立てていた。 夜勤の局員は目の下に隈を作って、それでも背筋を伸ばして座っていた。 3晩寝ていない、と真壁さんが言っていた男だ。
俺は7通を窓口の上に並べた。 宛名の下に、家業の送り状の書き方で書き足す。
旧住所に二重線。 横に『転居先』と書き、その横に帳簿の住所を入れる。 字は送り状と同じ大きさに揃える。 屋号は『白洲クリーンサービス』。 自分の名前は書かない。 差出人でも受取人でもない人間が名前を書くと、その手紙は誰のものか分からなくなる。 親父にそう習った。
「転居届の照合でお願いします」
局員は無言で7通を受け取り転居届のファイルを繰り始めた。 指で一行ずつ追い、鉛筆で封筒の角に小さく印をつけていく。 全部に印がついた。
「受け付けます」
局員は7通を束ねて、区分機の投入口に置いた。
機械が音を立てて回り始める。 封筒が1枚ずつ吸い込まれて、仕切りの上を滑っていく。 1通目が落ちた。 2通目。 3通目。 4通目。 5通目。 6通目。
7通目が落ちた。
その瞬間、区分機の音が止まった。
局員が立ち上がった。 機械の蓋を開けて、中を覗く。
「……詰まってないですね」
「そうっすか」
「7通とも、正しい区分に落ちてます」
2時50分。 還付棚は空だった。 7通はまだ戻ってこない。
夜勤の局員が、椅子の背にもたれて大きなあくびをした。 口を大きく開けて、それから手の甲で目を拭う。 目の下の隈が、蛍光灯の下で濃く落ちている。
真壁さんが窓口の脇で腕を組んだ。
「手紙の還付型は記録に2件」
声は低かった。
「2件とも差出人に返し続けて、読んだ局員の家が宛先になった」
真壁さんは還付棚を見たまま、唾を飲んだ。
「届け先を書き換えて止めたのは初めてだな」
区分機のランプだけが、奥で点いていた。
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0437】 分類:丙 呼称:還る手紙(コーポ柊203関連) 発生場所:区内 中央郵便局 担当:白洲律 危険手当:100,000円(丙) 備考1:担当アルバイトの家業の帳簿(残置物の送付先)から、行方不明者家族の現住所を特定。転居先を記載して配達、還付が停止。 備考2:手紙の内容から、行方不明者7名の生存の可能性が高い。コーポ柊203を甲として再調査を具申する。
危険手当、10万。 借金は、1,338万から1,328万。
◇
真壁さんの車は夜明け前の道路を走っていた。
「白洲」
真壁さんがハンドルを握ったまま言った。 目は前を向いていた。
「203、入ることになるぞ。正職員2人つけて」
「行きます」
俺は答えた。
◇
4時。 アパートの台所。
食卓の、朝の弁当の横に、封筒が1通置いてあった。
差出人は『柊荘二〇三』。 宛名は『白洲律様』。
中は便箋が1枚。 献立だけが書いてあった。
明日の朝ごはんの。




