うちの大学の旧校舎で、夜の講義が出席を取っている
「白洲さん、近代文学演習、あと1回休んだら単位出ません」
6月16日、12時10分。 教務課の窓口は昼で混んでいた。 職員の女性は眼鏡の奥から出席簿を叩いた。
「すみません。あと何回出れば」
「全部です。残り全部」
「はい」
俺は窓口の前で鞄を抱えたまま、頭の中でこの1週間の自分の時間を数えた。
0時41分、夜見坂駅のホーム。 マチさんと過ごす時間は毎晩1時間12分51秒。 1時53分51秒に終わる。 延長がつくと、その分だけ増える。 先週は2回延長した。 あわせて16分ほど。
家に着くのは4時すぎ。 寝る。 7時前に台所で「ごはんできてるよ」の声がする。 おかえりさんの朝ごはん。 食べ終わるまで玄関のドアが開かない日があって、この1週間は金曜と日曜がそれだった。 金曜は12分、日曜は19分ドアの前で待った。
7時41分の電車に乗り遅れる。 先月から1限の遅刻が7回。
「白洲さん?」
「あと全部、ですね」
「あと全部です」
スマホの画面の隅で銀色の点がふくらんだ。
「キミ、今日も遅刻したでしょぉ。ねえねえ」
「分かってるっす」
「分かってないよぉ」
「白洲さん。私語なら他所で」
「すみません」
教務課の窓口を離れて学食へ向かった。 昼の学食は混んでいた。 空いている席を探して、窓際の二人がけに鞄を置く。
今日の弁当も藍色の布に包まれていた。 包みを解くと、一段目に白ごはんと梅干し、二段目に卵焼きと唐揚げとほうれん草の胡麻和え。 今日は唐揚げが4つ入っている。 数が増えている。
写真を撮ろうとスマホを弁当に向けると、画面が勝手に真っ黒になった。 それから、隅の銀色の点がふくらんで黒い長髪が画面いっぱいに広がった。
「今日はボクの日ぃ」
画面の向こうでウツシが頬杖をついている。
「昼休みはボクと過ごす時間だよぉ。キミ、今日も遅刻したしぃ」
「悪いっす。教務課で呼び出し食らってたんで」
「ボク、教務課の窓口、画面の隅から見てたもん。おばさん、出席簿とんとんしてた。単位出ませんって言われてた。キミ、まずいんじゃないのぉ」
「まずいっす」
俺は箸を割って、唐揚げをひとつ食う。 衣が薄い。 生姜が効いている。
ウツシが画面の縁から手を伸ばして、弁当の写真に落書きを始めた。 唐揚げの上に赤い落書きで「毒」と書いて、卵焼きの上に「あやしい」。 梅干しの上に「すっぱい」と書いて、最後に白ごはんの上に大きく「キミのぶん」と書いた。
「食うのやめたほうがいいよぉ。ボクの言うこと聞いて」
「食うっす」
「むぅ」
そのとき、スマホが震えた。 LINEだ。 真壁さんから。
『今夜の依頼、お前の学校。旧校舎』
『近いっすね』
『22時に正門前』
画面を閉じるとウツシが隅の銀色の点に戻って、ちかりと光った。
「ボク、夜まで待ってるからねぇ。今日はボクの日なんだからぁ」
「はいはい」
俺は最後の唐揚げを食って、弁当箱を包み直した。 窓の外を見る。 中庭の向こうに、取り壊し予定の文学部旧館が見えた。 5階建ての古い校舎だ。 外壁はつたで半分覆われていて、窓はどこもカーテンが開いている。
3階の階段教室の窓だけ、昼なのにカーテンが閉まっていた。
◇
22時。 文学部旧館の3階は、非常灯の緑だけが点いていた。
廊下のリノリウムはところどころ剥がれて、下のコンクリートが白く出ている。 つたの匂いと、閉め切った部屋の黴の匂いが混ざっていた。 階段教室の扉は両開きで、取っ手に古い鎖が巻いてある。 鎖は錠前ごと外されていた。 施設課の職員が、懐中電灯を両手で持ったまま光の輪を床に落としている。 輪が細かく震えていた。
「昨夜、肝試しで入った学生が3人」
職員の声は、喉の奥で潰れていた。
「階段教室の席に座ったまま、立てなくなって。今も座ってます。息はあるんです。目も開いてる。でも、立てない」
「救急は」
「呼びました。担架で運ぼうとしたら、体がびくともしなくて。椅子ごと動かないんです」
真壁さんが俺の半歩後ろで、背中を壁につけていた。
「夜になると、その教室で出席を取る声がするんです」
職員は光の輪を扉に向けた。
「名前を呼ばれて『はい』と返事をした者は、講義が終わるまで席を立てない。……講義が、終わらないんです」
「1979年に、あの教室で教授が講義中に倒れて亡くなってまして」
「それから、だそうです」
「決まりごとです。夜の階段教室で名前を呼ばれても、返事をしてはいけません」
真壁さんは壁から背中を離さなかった。
「学校は無理」
声が小さかった。
「学校の夜は無理なんだよ」
「真壁さん」
「無理。俺、小学校のときから学校の夜だけは無理なんだよ」
22時10分。 俺は階段教室の扉の前にしゃがみ込んだ。 扉の下の隙間に顔を寄せる。 幅は指一本分もない。
そこから匂いがした。 チョークの粉の匂いだ。 乾いた、白い、指先にまとわりつく粉の匂い。 40年閉め切っていた部屋の匂いじゃない。
隙間のすぐ下の床を指先でそっと拭った。 薄く白い粉が指の腹につく。 新しい粉だ。
誰かが、黒板を叩いてる。
教室の中から、低い咳払いがひとつ聞こえた。 ごほん、と。 それから、ゆっくりと、黒板の前に立つ者の声で。
「……では、出席を取ります」
◇
22時30分。 俺は錠前の外れた鎖を跨いで、階段教室の扉を押し開けた。 蝶番が乾いた音を立てた。
中は暗い。 教壇の上だけぼうっと白い。 黒板には白墨で『昭和54年6月16日』と書かれていた。 書いたばかりみたいに濃い。
教壇の前に、背広の男が立っていた。 輪郭だけがはっきりしていて、顔のあたりは黒板の白に溶けている。 右手に名簿らしき紙の束を持っていた。 薄い茶色の、古い紙だ。
真ん中より前の席に学生が3人、座っている。 全員背筋を伸ばしたまま微動だにしない。 目だけが開いている。
「石川」「はい」「木下」「はい」
呼ばれた名前と返事が交互に続く。 学生の声は、3人とも本人の口から出ているとは思えなかった。 喉の奥で、空気だけが震えている。 唇は動いていない。
「飯田」「はい」
真壁さんが廊下から小さく声をかけてきた。
「白洲……名前、呼ばれたらどうすんだ」
「返事しません」
俺は扉の脇に立ったまま、小さく答えた。
教授は俺のほうを見なかった。 名簿に目を落としたままだ。 最後のほうまで来ると、声の調子が少しだけ落ちた。
「……杉本。杉本は、いないのか」
教室の中が、水を張ったように静まった。 学生の背中が、一斉にびくりと動く。 返事はない。 教授はそのまま待つ。 長い。 十秒か、それ以上。
教授は乾いた紙をめくる音をさせて、名簿の最初のページに戻った。
「では、出席を取ります」
二巡目だ。 俺は扉の脇から教室の中ほどへ、静かに歩いた。 教授の指が名簿の上を滑る。
「真田」
廊下で、息を飲む音がした。
「真田」
二度目。 廊下の奥で、靴が床を蹴る音。 振り返ると真壁さんの背中が非常灯の緑の中を走っていた。 耳を両手でふさいで、階段のほうへ。 声が聞こえる前に体が動いた、という逃げ方だった。
俺は教壇の前まで歩いた。 教授の正面に立つ。 目線の高さは、合わなかった。
「講義、終わりにしませんか」
教授は名簿から目を上げなかった。 俺というものが、あの名簿に載っていないみたいに。
左手のチョークが指から離れた。 チョークは宙で止まり、くるりと向きを変えた。 黒板の白墨の上を滑った。 粉がぱらぱらとチョーク受けに落ちる。
そして、乾いた音を立てて二文字だけ書いた。
『出席』
教授は、まだ名簿を見ていた。
教室の後ろの窓のカーテンが、閉まったままかすかに揺れている。 隙間風だ。
古い建物でなくした紙は、窓からの隙間風で暖房の裏に落ちてることが多い。
俺は窓の下のラジエーターに目を向けて、席のあいだを後ろへ歩いた。
教室の後ろ、窓際にスチームのラジエーターがあった。 鋳物の、古い型だ。 その裏。 壁とラジエーターのあいだの隙間は、指が二本入るかどうか。 俺はしゃがんで、顔を横から近づけた。
埃が積もっていた。 40年分だ。 上のほうは乾いた灰色で、下へ行くほど色が濃い。 地層みたいに層になっている。 俺は鞄から霧吹きを出した。 家業で壁紙を剥がす前に、埃を舞わせないよう湿らせるときに使うやつだ。 二、三回、細かく吹く。 層がしっとりと落ち着いた。
層の下のほうに白い角が見えた。 紙だ。 俺はピンセットで端をつまんで、まっすぐ引いた。 黄ばんだ紙が一枚、埃の層から抜けた。
大学の欠席届だった。 欄は活字で、記入は手書きだ。
日付、『昭和54年6月16日』。 氏名、『杉本』。 理由、『発熱のため』。
提出箱に出すつもりだった紙が、窓から吹き込んだ風でラジエーターの裏に落ちた。 それきり、誰も拾わなかった。
「杉本は、いないのか」
教授が、もう一度言った。
俺は答えなかった。
返事をしないまま、席のあいだを通って教壇の前へ出た。 教卓の上に、名簿が開いたまま置いてある。 俺は欠席届を、開いたページの上に置いた。 黄ばんだ紙が、乾いた音を立てて名簿に重なる。
「杉本さん、欠席です」
教務の窓口の職員が使う、あの平坦な言い方で。
「届け、出てます」
教授の手が止まった。 名簿の上に落ちた紙を、教授はゆっくりと持ち上げた。 顔のあたりが紙のほうへ傾く。 長いこと、動かなかった。
「……そうか」
声は低く、乾いていた。
「風邪か」
教授はペンを取り、名簿のどこかに短く書き足した。 ペン先が紙を引っかく音が、やけに近くで聞こえた。
「では、本日はここまで」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、チョークの粉が一度に舞った。 白い粉が教壇の上に溜まり、教授の輪郭が薄れて消えた。 背広の形も、名簿もペンも、粉の中に溶けていく。
席の学生3人が、同時に立ち上がった。 いや、立ち上がったというより、背中を椅子から引き剥がされたみたいに跳ねて、そのまま尻もちをついた。 3人とも床に座り込んで、肩で息をしている。 目が初めて動いていた。
黒板を見た。 『昭和54年6月16日』が、端から薄れて粉になって、消えた。
黒板には、何も残っていなかった。
真壁さんが廊下から戻ってきた。 顔色がまだ悪い。 耳を両手で塞いで走ったことをなかったことにしたいのか、入口で咳払いをひとつしてから中に入ってきた。
「教室型の出席確認は、記録に2件。2件とも名簿の全員が返事するまで終わらなくて、職員が代返して1人閉じ込められた」
「返事しねえで終わらせたのは初めてだ」
「代返はダメっすよ。単位に響くんで」
真壁さんが俺の顔をまじまじと見た。
「単位の心配してる場合か」
施設課の職員が入ってきて、学生たちを1人ずつ廊下へ連れ出した。
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0436】 分類:乙 呼称:夜の出席確認 発生場所:大学 文学部旧館3階 階段教室 担当:白洲律 救出対象:学生3名 危険手当:300,000円(乙) 備考1:担当アルバイトはラジエーター裏の埃の層から、未提出の欠席届(昭和54年)を発見。届の提示で講義が終了。 備考2:担当アルバイトは同大学の在学生。本人の出席状況は当機関の所管外。
危険手当、30万。 借金は、1,368万から1,338万。
◇
6月17日、朝7時。 アパートの台所。 5時間も寝ていない。 まぶたの裏が乾いている。
食卓にはもう弁当と味噌汁が置いてあった。 味噌汁を啜った。 熱い。 うまい。 眠気が少しだけ引いた。
食べ終わって茶碗を流しに置く。 鞄を肩にかけて玄関へ向かった。 ドアの取っ手を握って、回す。
開かない。
「どこ行くの?」
台所のほうから声がした。 エプロン姿の女が、流しの前に立っていた。 顔は影で見えない。
「授業なんで」
「ごはん、食べたでしょう」
「食べました。うまかったっす」
「……そう」
一拍、間があった。 包丁の音が、とん、と一回だけ鳴った。 ドアが、すっと開いた。
「行ってらっしゃい」
「失礼します」
俺は廊下に出て、ドアを閉めた。
◇
8時50分。 1限の近代文学演習。 滑り込むように入って、後ろの席に座った。 出席カードを回収に来た教授の手に、俺はカードを載せた。 現役の教授だ。 60代前半、白髪交じり、皺の深い顔。 生きている。 間違いなく生きている。
教授はカードを一枚めくって、俺の名前のところで手を止めた。
「白洲くん」
教授が顔を上げた。
「久しぶりだね」
◇
1限のあと、学食。 スマホが震えた。 真壁さんから、写真が1枚。 宵帳の事務所の郵便受けに、切手のない封筒が7通。 差出人は全部同じ住所だった。
『柊荘二〇三』
宛名は7通とも、違う人の名前だった。




