差し入れのおにぎりを食べた先輩が、事務所から帰れなくなった
真壁さんは、腹が減ると機嫌が悪い。
6月12日、朝7時。
アパートの台所。 食卓の上に、布で包んだ弁当が置いてあった。 3日連続だ。
布は藍色で、四隅がきちんと結んである。
包みを開けると弁当箱が二段あった。 一段目は白ごはんの上に梅干しがひとつ。 二段目は卵焼きと、小さな唐揚げが3つとほうれん草の胡麻和え。 包みの隅に、ラップで包んだおにぎりが3つ。 夜食の分だ。
「毒だよぉ、絶対」
洗面所から声がした。 鏡の端から銀色の目が出ている。
「それ、食べちゃだめだよ。ねえねえ聞いてる? 毒だよぉ。ぜったい毒。エプロンの人、キミのこと閉じ込めたいんだよ。お弁当で、おなか壊させて動けなくして、それで」
「食うっす。うまいんで」
ウツシはしばらく黙った。 それから、鏡の表面に白い指を押し当てて、内側からとんとんと叩いた。
「……ボク、キミの分まで食べてあげたいのに。ボク、食べられないんだよぉ。ずるいよ。ずるい」
◇
大学の昼休み。
中庭のベンチで弁当を開けた。 ひとつ目の唐揚げを食う。 衣が薄い。 生姜と、ほんの少しだけ醤油が多い。
うまい。
卵焼きを食う。 出汁が効いている。 甘くない。 俺は甘い卵焼きより、こっちのほうが好きだ。
(これ、どうやって味を知ったんだ)
俺が甘い卵焼きを嫌いだって、どこで知ったんだ。
◇
22時、宵帳 第三事務所。
蛍光灯は相変わらず2本切れかけていた。 窓の外は雨がぱらついていた。
俺が自分の机の前で弁当の包みを開くと、真壁さんがこっちを見た。
「お前、それなんだ」
「弁当の包みっす。夜食用のおにぎりが入ってます」
「寄越せ。腹減ってんだよ」
包みを解いた。 藍色の布を開くと、中からおにぎりが3つ出てきた。
真壁さんが一番手前のおにぎりを掴んだ。 ラップを剥がして、そのまま一口でかじる。
「うめえな」
真壁さんは二口目を食いながら言った。
「お前んちのお袋さんか」
「いや、203の人っす」
真壁さんが、おにぎりを咀嚼していた。
三口目にいこうとしたところで、動きが止まった。 口の中に米粒を入れたまま、こちらを見る。 顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……今、なんて」
「コーポ柊の」
俺はもう一度言った。 真壁さんは口を押さえた。
「203の」
俺は付け足した。
「お前、待て。待て待て待て」
真壁さんは口を押さえたまま、給湯室のほうへ走った。 流しに手をついて、口を開ける。 けれど、もう遅い。 喉が、ごくりと動いた。
「あ"」
真壁さんが、流しの前で固まった。 背中が、小刻みに震えていた。
「……吐けねえ」 「そっすね。飲み込んだんで」
「お前マジか」
「マジっす」
「なんで食えるんだよお前」
「うまいんで」
「俺、今日、帰れるかな」
「大丈夫っすよ。多分」
「多分って言うな」
真壁さんは、給湯室の入口に背中を預けてずるずると座り込んだ。
そのとき廊下のほうからこんこん、とノックの音がした。
「宵帳 第一調整室の戸川です。書類をお持ちしました」
ドアが開いた。
戸川さんだった。
戸川さんは書類を俺の机の端に置いた。 そのとき、机の上のおにぎりに目が止まった。
「白洲さんの夜食ですか。いいですね」
戸川さんは、書類を置いた手をそのまま伸ばして、おにぎりをひとつ取った。
「ちょっと」
俺は言いかけて、やめた。
戸川さんはラップを剥がして、にこやかに言った。
「いただきます」
戸川さんは三口目を食い終わって、満足そうに息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
「おやすみなさい」
戸川さんは、にこやかにドアを閉めた。
6月12日、22時15分。
真壁さんは立ち上がった。 上着を掴んで、袖を通す。
「帰る。今日は帰る」
「お疲れっす」
真壁さんはドアを開けた。
ドアが閉まる。
5秒。
からから、と音がした。
事務所の奥。 給湯室のほうからだ。
振り返る。
給湯室のドアが、ゆっくりと開いた。 暗い給湯室の中から、真壁さんが出てくる。
「……え」
真壁さんが、目を見開いて固まっている。
「おかしい。確かに俺、ドアから出た。車のキー持って、廊下歩いて階段下りて、1階で外に出た」
「そしたら、給湯室だった」
「これ、お前の弁当の匂いだ。出汁の匂いだ」
真壁さんは「もう一回」と言って、今度は非常階段へ向かった。 ドアを開けて、鉄の階段を下りる音がした。 真壁さんが、自分の机の前に立っている。 机の上には、おにぎりのラップが転がっている。
「なんでだよ」
真壁さんは窓に走った。 非常はしごの窓を開けて、外へ足をかける。 鉄の桟を下りる音がしばらく続いて、止まった。 自分の机の前に立っている。
「俺、絶対外に出た」
「出たんでしょうね」
真壁さんが叫んだ。
「お前それ今食う!?」
俺はラップを剥がした3つ目のおにぎりを、口に入れる。
「冷めるんで」
梅と鰹節の味がした。 うまい。
「白洲」
真壁さんの声が、初めて静かになった。 顔は青白い。
烏丸室長が、自分の机から湯呑みを持って近づいてきた。 にこにこしている。
「真壁さん」
「203の方の料理を食べて、それが怪異の料理だと知って怖がった人は、料理を出された場所を家だと思いこみます。家からは、出ていけません」
「記録では、203の歴代住人のうち2人が最初はこれで帰れなくなりました。その後、『ただいま』を言って、行方不明です」
「じゃあ俺、毎日3食食べてますけど」
俺は言った。
「白洲くんは、怖がってないので」
烏丸室長が、湯呑みの湯気の向こうでにっこりと笑った。
「なんでお前が平気で俺がダメなんだよ」
「おいしかったっすよね」
「おいしかったよ! だから嫌なんだよ!」
「真壁さん。泊まりますか」
烏丸室長が、事務所の鍵を真壁さんの前に差し出した。
真壁さんは、その鍵をじっと見て首を横に振った。
「泊まらねえよ。俺は帰る。家で寝る」
俺は鞄を肩にかけて、入口のドアの前に立った。 真壁さんがその後ろに並ぶ。
「白洲。お前が先に出ろ」
「はい」
俺はドアを開けた。
俺は一歩、廊下に出た。
「真壁さん。腕、掴んでてください」
「は? なんでだよ」
「一緒に出たほうがいいかなって」
後ろで、真壁さんが小さく息を吐いた。 それから、俺の左腕を掴む。 強かった。 指が、震えていた。
「行きますよ」
俺は真壁さんの腕を掴み返した。
一歩。
二歩。
三歩。
俺は振り返った。
手の中に、真壁さんの腕がなかった。
代わりに、ドアの取っ手を握っていた。
俺は、事務所の入口の外に、ひとりで立っていた。
「白洲えええええっ!」
事務所の中から、真壁さんの声がした。
中を覗くと、真壁さんが、自分の机の前に立っていた。 両手で机の端を掴んで、叫んでいる。
「なんで俺だけ! なんで俺だけ出られねえんだよ!」
俺は事務所に戻って、机の上の藍色の布を見た。 家業の癖で、端から端まで目を走らせる。 結び目が固い。 四隅の結び方も、うちのやり方じゃない。 俺は布の端を指でつまんで、裏返した。
結び目のすぐ内側。 藍色の糸で、小さく刺繍がしてあった。
『柊荘二〇三』
「真壁さん。500円玉、持ってます?」
真壁さんは机の端を掴んだまま、俺の顔を見た。
「払わないとまずいんで」
俺は言った。
「うちの家業の決まりっす」
「依頼人の家で、お茶菓子出されることあるじゃないすか。親父は、出されたら必ず食うんすよ。断らない。で、帰るときに玄関の上がり框に500円玉を置いてくんす」
「なんで」
「お代っす」
俺は言った。
「よその家のごはんをタダで食うと、その家の家族になったことになるんすよ。家族になると、帰れなくなる。だからお代を置く。お金を払えば、それは店のものになる。仕出しになる。仕出しは食っても、家族にはなんないんで」
真壁さんは、口を開けたまま俺を見ていた。
それから、ゆっくりと上着の内ポケットに手を入れた。 財布を開いて、小銭入れの部分を指で探った。
手が震えている。
500円玉を1枚、つまんだ。
取り出そうとして、落とした。
500円玉が机の上でくるりと回って、止まった。
俺も財布から500円玉を出して、2枚を藍色の布に包んだ。
俺は給湯室の入口に立った。 中は暗い。 流しの蛇口から、かすかに水の音がしている。
給湯室に入る。 空気が、台所の明け方みたいな温度をしている。
流しの横に、包みを置いた。 四隅の結び目が上を向くように、小さく整える。
「ごちそうさまでした」
俺は言った。
「お代、置いときます。真壁の分も」
給湯室の奥で、空気が止まった。
蛇口の音が、やんだ。
それから、流しの下の扉の向こうから包丁の音が1回、した。
とん、と。
「真壁さんも、言ってください」
「なんでだよ」
「口にした人の分を払うんで。言わないと、お代にならないんで」
後ろで、真壁さんが唾を飲む音がした。
「……ご、ごちそうさまでした」
真壁さんの声が、震えていた。
その途端、流しの下の扉の隙間から湯気が1回、出た。
白い湯気が、ふわりと床を這うように広がる。
ため息みたいだった。
俺は給湯室のドアを閉めた。
「もう一回だ。お前が先に出ろ」
「はい」
俺がドアを開ける。 真壁さんが続く。 一歩、二歩、三歩。 振り返ると真壁さんがいた。 廊下にいた。
「……出た」
真壁さんの声が震えていた。 階段を下りる。
ビルの外に出る。 雨上がりのアスファルトに街灯が滲んでいる。
真壁さんは二歩歩いてその場にしゃがみこんだ。 両手を膝について、肩で息をしている。
「帰れる……」
小さな声だった。
ポケットのスマホが震えた。 画面に烏丸室長。
「白洲くん。真壁さん、出られましたか」
「はい。今、外っす」
「よかった。料理型の囲い込みは記録に3件。2件は、食べた職員を家族ごと引っ越させて、やっと離れました」
真壁さんが顔を上げた。 俺のスマホの音が聞こえている。
「お代を払って帰した例は、ありませんね」
真壁さんの顔から、また血の気が引いた。
給湯室の流しの横に置いた藍色の包みは、翌朝も同じ場所にあった。 結び目を解くと、500円玉が2枚とも消えていた。 布だけが、しわひとつなく畳まれていた。
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0435】 分類:乙 呼称:差し入れ(コーポ柊203関連) 発生場所:宵帳 第三事務所 担当:白洲律 救出対象:職員1名 経過: コーポ柊203号室の怪異の料理を摂取した職員が、怪異の料理と知って恐怖を示した直後から、事務所のどの出口から出ても自席の前に戻る状態となる。 危険手当:300,000円(乙) 備考1:担当アルバイトは家業の作法(よその家の飲食に代金を置く)で、料理を「家のもの」から「仕出し」に変えて解除。 備考2:担当アルバイトは3日間、同怪異の料理を毎食摂取。影響なし。
危険手当、30万。 借金は、1,398万から1,368万。
◇
6月13日、0時41分。 夜見坂駅のホーム。 マチさんはいつもの位置に立っていた。 紺のロングコート。白い手袋。 懐中時計に目を落として、それから顔を上げた。
「律さん。お待ちしておりました」
「どうも」
マチさんは半歩近づいて、それから俺の鞄の口に目を止めた。 ファスナーが少し開いている。 中に、空の弁当箱が見えていた。
「律さん。その箱の、中身を」
マチさんの声は静かだった。 けれど、いつもの「お待ちしておりました」より、少しだけ低かった。
「食べました」
マチさんの白い手袋が、コートの内側で定期券を握り直した。 俺の定期券だ。
「……そうでございますか」
けれど、まばたきがいつもより1回多い。
そのとき、ポケットのスマホがぶるりと震えた。 画面が勝手に点いた。 待ち受けの隅の銀色の点がふくらんで、広がって。 黒い長髪が、画面の縁からするりと垂れた。
「ボクの鏡、布かけられたんだよぉ。ふきんで。白くて縁が黄ばんでるやつ」
マチさんは、スマホの画面を見ていた。 まばたきを、1回だけした。
「わたくしのホームには、台所がございません」
静かすぎて、蛍光灯の唸りが少し大きく聞こえた。
「ボクの鏡にも、ないもん」
いつもの「〜だよぉ」じゃなかった。 「〜もん」だった。
「あの人、きらい」
ホームとスマホから、同時だった。
「律さん。自販機で、温かいお茶を」
マチさんが言った。 俺は先に自販機に150円を入れた。 ガコン、と落ちてきたペットボトルを取って、マチさんに渡す。 マチさんはそれを受け取って、両手で持って俺の前に差し出した。
「わたくしからの、差し入れでございます」
「お茶、俺が買いましたけど」
「律さんが買ったお茶を、わたくしが差し入れるのでございます」
理屈は分からなかったが、受け取った。 温かい。
「ねえねえキミぃ。ラーメン、見て。ボクが選んだの」
画面いっぱいにラーメンの写真が並んだ。 替え玉、餃子、半チャーハン。 100枚。 一枚も同じ写真がなかった。
「夜見坂の女より、ボクのほうがキミのこと分かってるもん」
マチさんはコートの内側で懐中時計を握った。
「律さん。あの方の台所には、決まりごとがございます。……お気をつけて」
◇
4時。 アパートの台所。 食卓に、朝の弁当がもう置いてあった。 包みの結び目に、紙が挟まっている。
『律くん、お代はいりません。家族だから』
布の端の刺繍が、増えていた。
『柊荘二〇三 白洲』




