誰もいない病室から、毎晩23時にナースコールが鳴る
6月9日、21時。 アパートの洗面所。
俺は鞄から鍵を取り出して、洗面台の縁に置いた。 真鍮の小さな鍵。 柊の葉の形をしたキーホルダーが付いている。 裏に『203』。 洗っても、出汁の匂いが取れない。
管理会社の郵便受けに、2回返した。 どちらも翌朝には、鞄の底に戻っていた。
鏡の中から、声がした。
「それ、やだぁ」
鏡の端から、銀色の目がのぞいていた。 黒い長い髪が、鏡の奥でゆらゆら揺れている。 ウツシだ。 鏡の表面に白い指が押し当てられて、内側からこっちを見ている。
「台所の匂いがするぅ。キミのなのに、キミの匂いじゃない」 「落ちないんすよ」 「やだぁ。ボク、それ嫌い。夜見坂の女より嫌い」
「キミ、今日、いつもより遅いよ。もう21時回ってる」 「これから事務所です」 「やだぁ」 「仕事なんで」 「分かってるけどぉ」
俺は洗面所の電気を消した。 鏡の中の銀色の点が暗闇でちかりと光って、それからふっと消えた。
22時。 宵帳 第三事務所。 真壁さんは机に突っ伏していた。
ティッシュを開いて、机の真ん中に置いた。 裏返して『203』の文字を烏丸室長のほうへ向ける。
「これっす」
烏丸室長は湯呑みを置いて、眼鏡の奥から鍵を見た。
「コーポ柊の鍵ですね」 「はい。撤去のあと、鞄の底にありました。郵便受けに2回返したんですけど、翌朝には戻ってました」
烏丸室長は湯呑みを持ち上げて、ひとくち飲んだ。 それから笑顔のまま言った。
「定期券と同じですね」
俺は烏丸室長を見た。 真壁さんが突っ伏したまま、片目だけこっちに向けた。
「定期券、っすか」
「白洲くん。マチさんは、いま夜見坂から緑台までのホームを歩けますね」 「はい」 「なぜでしょう」 「……俺の定期券があるから、っすか」 「そうです」
「同じことが、この鍵にも言えます」 「鍵っすか」
「この鍵を持っている人の台所まで、203の怪異が来られるかもしれません」
真壁さんが突っ伏していた上体を勢いよく起こした。 「おい待て」 「それって、白洲のアパートの台所にあのエプロンが来るってことか」 「来るかもしれません、です。断定はできません」
俺は机の上の鍵を指でつついた。
「うち、台所ありますけど」
「手放さないでくださいね」 「手放すと、取りに来ますから」
「なんで笑顔で言うんだよ」 「事実ですから」 「事実を笑顔で言うなよ」
「真壁さん。笑顔のほうが角が立ちませんでしょう」 「立ってるよ。心にめっちゃ立ってる」
烏丸室長が湯呑みを置いて、伝票を机の真ん中に滑らせた。
「では、次の事案です」
「区内の総合病院です。旧東病棟の5階、512号室」
「半年前から空き部屋です。使っていません」 「なのに、毎晩23時を過ぎますと512号室のナースコールが鳴るそうです」
「それで、夜勤の看護師が2人対応しました」 「応答ボタンを押して『すぐ行きます』と答えたそうです」 「そして、病室に入ったきり朝まで出てこなかった」 「それから1週間、目を覚ましません」
「決まりごとです」 「無人の病室のナースコールに『すぐ行きます』と答えてはいけません」
「……病院か」 「はい」 「……無理」
「病院は無理。病院だけは無理なんだよ」
鞄のファスナーを閉めると中で、かちりと鳴った。 真鍮の音だった。
◇
22時50分。 旧東病棟は、新病棟から渡り廊下を渡った先にあった。 消毒液と、古いリノリウムと黴の匂いが混ざっている。
カウンターの上に、古い型のナースコール親機が置いてある。 512の表示だけが、赤く点いたまま消えない。
夜勤の看護師長は、50代の女性だった。
「あのコール、私が新人のころの型ですよ」
真壁さんが、俺の半歩後ろで小さく息を吐いた。 背中を壁につけて、両手で自分の二の腕を掴んでいた。
「お前、先に見てこい。俺はここで待ってる」 「分かりました」
512号室の前。 カチリと鳴って、ドアが少しだけ開いた。
中は暗かった。 ベッドがひとつ。 窓際にあった。 カーテンは閉まっている。
半年使っていない部屋の匂いじゃない。 もっと乾いていた。
俺は部屋に入った。
ベッドの頭の壁にナースコールの差し込みがあった。 白いプラスチックの丸い差し込み口。 呼び出しボタンはベッドの柵に掛かっていた。
シーツは掛けられていた。 枕はなかった。 皺がひとつもなかった。
俺は差し込み口に手を伸ばした。 白いプラスチックを指で挟んで、ゆっくりと引いた。 カチリと軽い音がした。 コードの先が抜けた。
「抜きました」
廊下に向かって言った。
俺は振り返った。 看護師長が廊下の入口に立っていた。 顔がこちらを向いていない。 ナースステーションのほうを向いている。
「……出てます」
俺は部屋を出た。 廊下をナースステーションのほうへ歩いた。
親機の表示窓に、赤い文字が出ていた。 『512』。
23時7分。
赤い『512』が点いたまま消えない。
「うわああああ!」
真壁さんの声だった。 裏返っている。 「出てる! 出てる出てる出てる!」
非常灯の緑の下で、真壁さんが壁から離れていた。 両手で自分の頭を押さえている。
「白洲! 抜いたんだよな! 線抜いたんだよな!」 「抜きました」 「なんで鳴ってんだよ!」 「分かりません」
俺はもう一度、512号室に戻った。
ベッドは新しい。
ベッドの右側の床に、4つの跡がある。
ワックスの下にうっすらと円い跡が4つ。 キャスターの跡だ。 古いベッドの。
30センチほど窓側に寄った位置だ。
昔のベッドは、もっと窓寄りにあった。
俺は立ち上がって、壁を見た。
昔のベッドの枕の高さ。
手の脂の跡だった。
枕の高さのところに縦に細長い染みがひとつ。 誰かが毎晩、この壁に手をついて起き上がろうとした跡だ。
そのすぐ下。 壁紙の下に、四角いものが透けている。
俺はポケットから軍手を出してはめた。 それから鞄の底を探って、スクレーパーを出した。 家業で壁紙を剥がすときに使う。
壁紙の下の四角いものは塗装で塗り込められていた。
俺はスクレーパーの刃を四角の上端に当てた。 斜めに寝かせて、ゆっくりと引く。
塗膜が薄く削れて、白い粉が刃の先に溜まった。
その下から、白いプラスチックの縁が出てきた。 古い型の、ナースコールの差し込み口。
コードだ。 古い子機のコードが、壁の中に押し込まれている。 白いビニールテープが、コードの付け根にぐるぐる巻きになっていた。 何重にも巻かれて、その上から塗装で固められている。
俺はテープを剥がした。 壁の中から出てきたのは古い型のナースコールの子機だった。
ボタンの上に、ビニールテープが何重にも巻いてある。 太くしてある。 握力の弱い患者が、指先じゃなくて手のひらで押せるようにした巻き方だ。
4枚目を剥がしたところで手が止まった。
テープの一番内側。 粘着面の反対側に、マジックの字があった。
『507→512 ササキ ゲン』
看護師が詰所で急いで書くときの、あの丸っこい字だ。
「……佐々木さん」
看護師長の声が、ドアの外で聞こえた。 看護師長が、ドアの枠に手をかけて中を見ている。
「それ、507の佐々木さんです」
「私が新人のときの、夜中に何度も押す人」
ナースシューズの先が、部屋の中と廊下の境目で止まっていた。 一歩も入ってこない。
「忙しかったんで?」 「ええ。他の患者さんもいるし、記録も書かなきゃいけないし。それで、親機に向かって『すぐ行きます』って言って、行かない夜が何度かあって」
「ある夜、佐々木さんのコールが鳴って私は『すぐ行きます』って答えました。それで、そのまま別の部屋の処置に入って」
「明け方に、巡回で入ったら佐々木さんはもう冷たかったんです。ベッドの柵に手をかけたまま、壁のほうに手を伸ばして」
「誰も来なかったんです。私が、行かなかったから」
俺は看護師長の話を聞きながら、壁の手の脂の跡をもう一度見た。
この人が、毎晩この壁に手をついてナースコールを押してたのか。
23時30分。
壁の差し込み口から、かすかに音がした。
看護師長が、ドアの枠の向こうで息を飲んだ。 「また……」
ベッドの上に、くぼみができていた。
シーツの真ん中あたりが、ゆっくりと沈んでいる。 肩の形。 腰の形。 膝の形。
壁に、指が浮かんでいた。
手の脂の跡の上だ。 その上に、4本の指が、壁の内側から押し当てられている。
白い。 白い指だ。 起き上がろうとして、起き上がれない手の形だった。
「すぐ、行きますから」
看護師長が言った。 新人のころに何回も言った言葉。 体が覚えている声だった。
看護師長の足が一歩、部屋の中へ入った。 ナースシューズの先が、ドアの枠を越える。
俺は振り返らずに、右手を横に上げた。
「言わないでください」
看護師長の足が、止まった。
俺は古い子機を両手で持った。 俺はベッドの横に立ったまま、壁のほうへ体を向けた。
「佐々木さん」
俺は言った。 声は低く夜勤の看護師が使うような、押し殺した落ち着いた声だった。
「どうされました」
壁の指が、ぴたりと止まった。 俺は一歩、ベッドの頭のほうへ寄った。 俺は手に持った子機を、くぼみの右手のあたりに置いた。 看護師が枕元に置き直すときの、あの手順だ。
「ここ、置いときますね」
「いつでも押してください」
その途端だった。 シーツのくぼみが、ふっと浅くなった。 肩の形が消え、腰の形が薄れ、膝の形が消えていく。 壁の指も、すうっと壁紙の奥へ沈んでいった。 ナースステーションのほうで電子音が鳴った。
「モニター、消えました」
赤い『512』が、親機の表示窓から消えた。 シーツの上には、もう何のくぼみも残っていなかった。
ナースステーションの電話が鳴った。 看護師長が親機ではなく、カウンターの固定電話を取った。
「はい。……ええ。……いつ」
「2人とも? 同時に?」
受話器を置いて、看護師長はこっちを向いた。
「新病棟のほうからです。眠っていた2人が、さっき同時に目を覚ましたと」 「同時に、っすか」 「ええ。今、名前を呼んだら2人とも『はい』って」
真壁さんが、非常灯の下からようやく歩いてきた。
「なあ。ナースコールの型、うちの記録に4件ある」 「4件」 「2件は、応えた看護師が同じ病室で亡くなってる」
「返事の仕方1つで、こうなんのか」
「……私、あの人に『すぐ行きます』って、何回言ったかしら」
誰にも答えられなかった。
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0434】 分類:乙 呼称:五一二の呼び鈴 発生場所:区内 総合病院 旧東病棟5階 512号室 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 23時過ぎに無人の512号室のナースコールが鳴り、親機に「512」が点灯する。応答した夜勤の看護師2名が病室に入ったきり、昏睡状態。 危険手当:各300,000円(乙。真壁・白洲の2名) 備考1:担当アルバイトは床のキャスター跡と壁の手の脂から旧ベッドの位置を特定。塗り込められた旧型子機を発見。 備考2:「すぐ行きます」ではなく、枕元に子機を置き直す処置で鎮静。昏睡の看護師2名回復。
危険手当、30万。 借金は、1,428万から1,398万。
◇ 夜見坂駅のホーム。0時41分。 終電の消えたあとの、蛍光灯だけが残るホームにマチさんが立っていた。紺のロングコート。白い手袋。
「律さん」
マチさんは半歩近づいた。鼻先が首元に寄った。 息を吸う音が、ひとつ。
「台所の匂いが、昨夜より近うございます」
顔が、離れた。
「そっすか」
◇
6月10日、4時10分。 アパートのドアを開けると、台所の電気がついていた。 味噌汁の匂いだ。
台所へ行く。 食卓の上に、茶碗がひとつ。 ラップがかけてある。 横に、味噌汁の椀。 蓋の縁から白い湯気が細く立っている。 その横に、卵焼きが一切れ。 箸が一膳、揃えてある。
茶碗の横に、メモ用紙。 丸い字で、ひとこと。 『おかえりなさい』
俺は鞄を下ろして、ファスナーを開けた。 底を指で探る。 軍手のあいだに、かちりと硬いものが当たる。 真鍮の鍵。
それから、茶碗のラップを剥がした。 ごはんは、まだ温かい。
洗面所のほうから、ウツシの声がした。 間延びしていない。 低い。
「……キミ。さっきまで、いたよ。エプロンの人」
「ボクの鏡、布で隠された。見えなかった。ボク、ここにいるのに」
鏡には、ふきんが1枚掛かっていた。 うちのふきんじゃない。 白くて、縁が少しだけ黄ばんでいる。
それから台所に戻って、椅子を引いた。 椅子に座って、茶碗を両手で持つ。 箸を取る。
「……いただきます」
誰もいない台所で、俺はそう言った。
味噌汁は、ちょうどいい温度だった。 帰ってくる時間を、知っていたみたいに。
食べ終わって茶碗を洗うと、流しの下の扉の内側から、包丁の音が1回だけした。




