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高校のとき掃除した部屋で、「おかえりなさい」と言われた




6月6日、17時。 梅雨の晴れ間というやつで、夕方の日差しがアスファルトに白く残っていた。 母さんの軽ワゴンが路地に入って、ゆっくりと停まる。 助手席の窓から、コーポ柊の外観が見えた。 木造2階建て。 外壁の塗装はとうに色を失って、ところどころ板が反りかえっている。 階段の鉄骨は錆で赤茶けていた。 築40年超。


「あんた、203、ひとりで行けるわね」


母さんは軽ワゴンのキーを回してエンジンを止めた。 203号室の窓だけ、カーテンが閉まっている。


「管理会社からよ。3か月前に住んでた大学生が行方不明になって、家族が荷物だけでも片付けてほしいって」 「はあ」


母さんはダッシュボードから手帳を出して、端を親指でめくった。 「残置物の撤去。あとは原状回復の見積もり。1階の別の部屋、あたしが見てくるから」 「俺、ひとり?」


「よそのおうちを出るときは『失礼しました』」


母さんが、段取りを確認するときの声で言った。


「『行ってきます』も『ただいま』も言わない。あそこはあんたの家じゃないから」 「知ってる」 俺は203号室の窓を見た。 風もないのに、端だけが少し揺れているように見えた。


母さんのスマホが、ダッシュボードの上で震えた。 画面に「小春」の文字。 母さんは手を伸ばして、通話をスピーカーのまま受けた。


「もしもし」


「あ、母さん。今、帳簿つけてたんだけど。コーポ柊の203って、うちの帳簿に4回出てくるんだけど」 「4回」


母さんはスマホを手に取ると、スピーカーを切った。 そのまま耳に当てて、窓の外を見ながら言った。


「あとでね」


通話が切れた。


「4回って」 「あとで聞くの」


母さんが運転席のドアを開けた。 俺も車を降りた。 外階段の鉄骨は、手すりを掴むたびにギシリと鳴く。 上りながら、俺はふと、この階段を3年前にも上ったことを思い出した。


高校2年の夏。 父の腰が悪くなりかけて、初めて俺が現場の台所をひとりで任された。 そのときの現場が、このコーポ柊の203号室だった。


外階段を上りきる。 203号室の前。 母さんから預かった鍵を差し込んで回す。 カチ、と軽い音がしてドアが数センチ、開いた。


その隙間から、匂いがした。


出汁の匂いだった。 鰹節と醤油を火にかけたような、甘くてしょっぱい湯気の立つ匂い。 3か月も人がいない部屋の匂いじゃない。 俺はドアノブを握ったまま、動きを止めた。


ドアを開けた。 人が住んでいた匂いと、人がいなくなった匂いが、同じ部屋で混ざっている。


台所は右手の奥だった。 1DKの細い廊下を抜けた先、蛍光灯の下にコンロがひとつ。 廊下の壁紙には、白い縦の継ぎ目が3本浮いている。 鍋がかかっている。 蓋の縁から白い湯気が細く立ちのぼって、天井の染みのほうへ流れていく。 ガスは点いていない。 なのに湯気は立っていた。


コンロの前に、女がいた。


エプロン姿だった。 小柄で髪は肩まで。 背中を向けて、まな板の上で何かを刻んでいる。 包丁を持つ手は小さくて、白い。 顔は見えない。 見えないというより、蛍光灯の真下にいるのにその横顔のあたりだけ、影が濃く落ちている。 首から上だけ、誰かが墨で塗りつぶしたみたいだった。


俺は鞄を下ろしてつなぎの前を一度、手のひらで押さえた。 心臓は普通に打っている。 怖くない。 怖くないというのは、こういうときたぶん得だ。


女が、包丁を止めずに言った。


「おかえりなさい」


「ごはん、もうすぐだよ」


「お邪魔してます」


俺は言った。


「白洲クリーンサービスです」


とん、とん、とん、と、包丁の音が続いていた。


それが、一拍だけ止まった。


女は振り返らなかった。 一拍のあと、また、とん、とん、とん、と刻みはじめた。 まるで、止まったことなんてなかったみたいに。


台所の隣の六畳間には、大学生の残置物がそのまま残っていた。


教科書が床に積まれている。 民法の判例集、ミクロ経済学の入門書、書きかけのレポート。 ゲーム機がテレビ台の前に置きっぱなしで、コントローラーのコードが絡まったままだった。 脱ぎっぱなしのスウェットが、押し入れの前で丸まっている。


俺は軍手をはめ直して、段ボールをひとつ組み立てた。 こういう作業は、手順が決まっている。 親父に教わったとおりにやれば、あとは体が勝手に動く。


(この部屋、3年前もやったな)


あのとき、台所の換気扇はアルカリ洗剤で落とした。 噴霧して、置いて、最後に雑巾で拭き上げる。 拭き方は、いつも決まっていた。 左から右へ。 それから、仕上げに縦へひと拭き。


台所の換気扇のフードに、うっすらと拭き筋が残っている。 左から右へ、最後に縦へ1回。 3年前の俺の拭き方だ。 そういえばあのとき、廊下の壁紙は親父が張り替えていた。 継ぎ目は3本。


俺は軍手をはめたまま、居間側から台所の流しの前を見た。


流しの前。 30センチ四方だけ、フローリングの色が違う。


3年前に俺が染みを抜いた場所だ。 人が長く倒れていた形の染み。 それが、薄く戻ってきている。


「これ、3年前に俺が抜いたやつっすね。戻ってきてる」


俺は言った。


女が、背中を向けたまま言った。


「律くん、覚えててくれたの?」


俺は答えなかった。 答えられなかった。


名乗った覚えは、なかった。 この部屋に来たのは3年前の夏で、俺はただ台所の換気扇と床の染みを掃除して帰った。 帰り際、自分が何か言った気がする。 玄関で、靴を履きながら何か。 けれど、何と言ったのかは思い出せない。 俺は流しの前の染みから目を離せなかった。


台所のほうへ戻ると、食卓の上が変わっていた。 さっきまで何も載っていなかったテーブルに、茶碗が並んでいる。 ひとつ、ふたつ、みっつ――数えたら7つだった。 7つとも、ごはんが盛ってある。 白くて、湯気が立っている。 箸が茶碗の横に揃えてあって、箸先がきちんと手前に向いている。 誰も座っていない。 なのに、7つとも湯気が立っている。


俺は立ち止まって、手前から2番目の茶碗を見た。 箸が、動いた。 1ミリだけ。 右に、ずれた。 それから、止まった。 (……今、動いたな)


「律くん」


女が台所から出てきた。 エプロンのままで、手に茶碗をひとつ持っている。 8つ目の茶碗だった。 白くて、縁が少しだけ欠けている。 ほかの7つと、揃いじゃない。 女は俺の横を通って、食卓の一番手前の、誰も座っていない椅子の前にその茶碗を置いた。 女はしゃもじで、8つ目の茶碗にごはんをよそった。


「律くんのぶん」


女が言った。 顔は見えない。 首から上は相変わらず影が濃い。 けれど声は、台所の湯気みたいに柔らかかった。


「ただいまって言ったら、座っていいよ」 食卓の茶碗が、湯気を立てている。 7つは誰も座っていない椅子の前。 1つは、俺の前に。 箸が、また1ミリ動いた。 奥の茶碗の箸が今度は俺のほうを向いて、少しだけ浮いた。 (……座れってことか) 座らない。


俺は鞄を肩にかけ直して、段ボールをひとつ抱え、玄関のほうへ向いた。 歩き出す。 廊下は1DKの、本来なら6歩で玄関に着く。 1歩。 取っ手が、遠い。 2歩。 まだ遠い。 3歩。 (……伸びてるな) 廊下が伸びている。 歩いた分だけ、ドアが遠ざかる。 4メートル。 6メートル。 壁紙の継ぎ目が、歩いても歩いても同じ間隔で先へ先へと流れていく。 俺の歩幅は変わらない。 なのに距離だけが増えていく。


「どこ行くの?」


後ろから声がした。 台所のほうから。 柔らかい。 湯気みたいな声だ。


「仕事なんで」


俺は振り返らずに答えた。


「ごはん、冷めちゃうよ」 「いや、食わないんで」 「おかえりなさいって、言ったでしょう」


その声だけが、少し低くなった。 俺は歩くのをやめなかった。 早くもならなかった。 早足で逃げるのは、よそのうちでやる作法じゃない。 母さんに叩き込まれてる。 現場では、走らない。 慌てない。 落ち着いて、いつもどおりに。


「おかえりなさいって、言ったでしょう」


もう一度。 同じ高さ。 同じ速さ。 けれど、少しだけ近い。 (近づいてるな。声が) 廊下の先で、ドアの取っ手がゆらりと揺れた。 6メートル。 8メートル。


「壁紙の継ぎ目が増えてます。3本のはずっす」


俺は歩きながら言った。


「うちが張り替えたんで、分かります」


歩いても歩いても、継ぎ目が先へ先へと現れる。 4本目。 5本目。 6本目。 俺は足を止めないまま、右手をポケットに入れた。 作業日報の控えが、折り目だらけで指に当たる。


現場で迷ったら、最初に数字を見る。 親父の口癖だった。 「廊下、壁紙の張り替え。継ぎ目3か所。施工、白洲クリーンサービス」


声に出して読む。


「ここ、うちが直した廊下なんで。長さ、分かってます」


すり、と音がして、壁紙の継ぎ目が目の前で止まった。 7本目が、消えた。 6本目も、5本目も、4本目も。 壁紙は元の、3本の継ぎ目だけになった。 白い壁に、うっすらと縦の線が3本。


ドアの取っ手が、すぐそこにあった。 6歩分の、元の廊下。 3年前に俺が歩いた距離。


俺はドアの前で、一度だけ振り返った。 廊下の向こう。 台所の蛍光灯の下に、エプロン姿の女が立っていた。


それから、ドアノブに手をかける。 ドアはあっさり開いた。


俺は靴を履いて、立ち上がる。 ドアをくぐる前に、もう一度だけ振り返る。


「失礼しました」 俺は言った。


女の声が、蛍光灯の下から少しだけ低く落ちた。


「……行ってきます、は?」


廊下の空気が、その一言で止まった。 俺は振り返らない。 手はもう、ドアの外側の取っ手を握っていた。


言ったら、その部屋が俺の帰る場所になったことになる。 ドアを閉める。 静かに閉めた。


カチ、と静かな音がして、ドアが枠に収まった。 その直後だった。 ドアの向こうで、女が言った。


「いってらっしゃい、って。……言わせて、くれないのね」 声は、責めていなかった。 怒ってもいなかった。 ただ、少しだけ淋しそうで台所の湯気みたいに柔らかかった。 (……言わせてやらないんすよ) 心の中でだけ、そう答えた。


◇


外に出ると、日はまだ残っていた。 俺は段ボールを軽ワゴンの荷台に積んだ。 1階のほうから母さんが戻ってくる。


「どうだった」


俺は預かっていた鍵を母さんに返した。 母さんは俺の顔を見ずに、荷台の段ボールを数えながら言った。


「台所に人がいた」


俺は答えた。 母さんは、軽ワゴンの運転席のドアを開けながら、こちらを一度だけ見た。


「あらそう」


それだけだった。


◇


22時。 宵帳 第三事務所。 蛍光灯はまだ2本が切れかけたままだった。 俺はポケットから作業日報の控えを出して、机の真ん中に置いた。


「コーポ柊203号室、残置物の撤去終わりました」 「お疲れさまです」


「で、何かありましたか」 「ありました」


俺は言った。


「台所に、エプロンの女の人がいました」


烏丸室長の笑顔は、1秒も崩れなかった。


「茶碗が7つ並んでて、もう1つ、俺のぶんが出されました。高校のとき掃除した部屋っす。名前、呼ばれました」 「ほう」


烏丸室長は椅子から立った。 キャビネットの3段目を開けて、一番奥からファイルを出した。


「コーポ柊(旧・柊荘)203」


烏丸室長はファイルを机の上に置いた。


「白洲くん。この部屋、うちの記録にあります」


烏丸室長はファイルを開いた。


「40年で、住人が7人行方不明になっています」 「7人」 「ええ。うちが入ったのは2回。どちらも、職員が『ただいま』を言いかけて、撤退しています」


烏丸室長はファイルを閉じた。 背後で、椅子がきしんだ。 真壁さんが、机に突っ伏していた上体を起こした。


真壁さんは目の下に手を当てて、それから俺の顔を見た。


「お前、あそこ入って帰ってきたのかよ」 「はい」


俺は言った。


「失礼しましたって言って出てきました」


「……お前マジか」 「マジっす」 「あそこ、2人とも『ただいま』を言いかけて引いたんだぞ」 「言ってないっす。うちの決まりなんで」 「決まり」 「よそのうちを出るときは『失礼しました』。『行ってきます』も『ただいま』も言わない」


真壁さんは、しばらく俺を見ていた。 それから、両手で顔を拭った。 烏丸室長が、ファイルを胸に抱えて言った。


「前に入った職員は2人とも、玄関まで戻るのに2時間かかりました」 「白洲くんは、30分ですね」


烏丸室長は笑顔のまま、ファイルをキャビネットに戻した。


「次に入る時は、言ってくださいね」 「次」 「このファイル、まだ閉じませんから」


烏丸室長はキャビネットの扉を閉めた。


「白洲くんの辞表と同じところに、入れときます」 「……辞表、まだ入ってるんすか」 「未決箱ですから」


烏丸室長は湯呑みを持って、自分の机に戻った。 真壁さんは、まだ天井を見ていた。


「……お前の家、怖えな」 「そうっすか」 「普通に怖えよ」


「手当、出ます?」 「家業の現場なので、対象外ですね」 「そっすか」


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0433】 分類:甲(暫定) 呼称:おかえりさん 発生場所:区内 木造アパート『コーポ柊(旧・柊荘)』203号室 担当:白洲律(アルバイト) 状態:継続(未封) 経過: 家業(白洲クリーンサービス)の残置物撤去作業中に、台所で調理する女性型の怪異と遭遇。「おかえりなさい」の呼びかけに応じず作業を継続。退出時に廊下の延長を確認したが、自力で脱出。 危険手当:なし(家業の作業中の遭遇のため対象外) 備考1:担当アルバイトは決まりごと(「ただいま」と言ってはいけない)を守って退出。怪異は担当アルバイトの名前を呼んだ。 備考2:担当アルバイトは3年前、家業の清掃で同室に入っている。


烏丸室長が備考2を書き終えるまで、ペンが1秒止まった。


◇


帰り支度で、鞄を開けた。 軍手。 マスク。 作業日報の控え。 その底に、見覚えのないものが入っていた。 小さな真鍮の鍵だ。 柊の葉の形のキーホルダーが付いている。 段ボールに入れたのは、教科書とゲーム機とスウェットだけのはずだ。


鍵を裏返した。 ペンで、小さく書いてある。 『203』。 持ち上げると、鍵から出汁の匂いがした。

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