夜の歩道橋は、数えると1段増える
「白洲。今日は俺がやる」
6月2日、22時。 宵帳 第三事務所。 蛍光灯はもう2本が切れかけていた。 真壁さんが椅子から立ち上がって、上着を羽織った。 俺は鞄を持ったまま、少しだけ真壁さんを見た。
「大丈夫っすか」 「お前よりはまともな対応すんだろ」
真壁さんは言いながら、机の上の湯呑みを取った。 手が少し震えている。 烏丸室長が、伝票を机の真ん中に押し出した。
「では、今日の事案です」 「桜通り歩道橋という、小学校の前の古い歩道橋でして」
烏丸室長は湯呑みを置いた。
「昼は24段です。ですが、夜23時を過ぎて声に出して数えながら上りますと」 「25段目が、現れるそうです」
真壁さんが湯呑みを机に戻した。
「は? 段が増える?」 「ええ。上りきった人は、そのまま橋の上を歩き続けて降りられなくなります」 「ゆうべ、塾帰りの小学5年の男の子が1人」 「3日前には、会社員の方が1人」 「まだ、戻っていません」 「決まりごとです」
烏丸室長は笑顔のまま言った。
「夜の歩道橋の段を、声に出して数えてはいけません」
真壁さんが壁から背中を離した。
「数えるなって言われて、数えねえよ普通」 「ですから、戻れなくなっています」
真壁さんが、机の端に置いてあった車のキーを取った。 握り直して、ポケットに押し込む。
「あの歩道橋の下の交差点な。新人のころ、立ち番してた」 「そうなんすか」
真壁さんは窓の外を見た。 もう暗い。
「影縫いは、影がある場所でしか動けねえ。あとは、影の形を縫い止める」 「はあ」 「真壁さんが前に出るの、珍しいっすね」 「うるせえ。お前ばっか手当もらってんの、ムカつくんだよ」
烏丸室長が、湯呑みに茶を注ぎ足しながら笑った。
「乙は担当者それぞれに出ますよ。真壁さんは毎回、辞退してますけど」 「……今日はもらう」
真壁さんは、ポケットの中で車のキーを握った。 手の甲に、汗が浮いている。
◇
23時5分。 桜通りの交差点は、この時間になると車も途切れる。 歩道橋の下で、母親がしゃがみ込んでいた。 膝に手提げ袋を抱えている。 塾のテキストが見えている。 真壁さんは、いつもの裏返った声じゃなかった。 しゃがんで、母親の目の高さに自分の顔を合わせた。
「警察の者じゃないです。こういう相談を受けてる民間です。いつ、帰ってこなかったか教えてもらえますか」 「昨日、塾の帰りに。延長があって、23時すぎだったんです」 「連絡は」 「ありません」 「はい。ありがとうございます」
真壁さんは立ち上がって、俺の横に並んだ。 俺たちは歩道橋を見上げた。 小学校の前の古い歩道橋だ。 塗装がところどころ剥げて、階段の手すりに錆が浮いている。 水銀灯が4本。 橋の両端に2本ずつ。 橋の真ん中を、2人が歩いていた。 小学生ぐらいの男の子。 ランドセルじゃなくて、塾の鞄を肩に掛けている。 会社員の男。 スラックスのままだ。 同じ歩幅で、同じ方向に歩いている。 こっちへは来ない。 端まで行くと、また真ん中から歩いている。 足音は聞こえない。 上から聞こえるのは、水銀灯の低い唸りだけだ。 真壁さんが、息を細く吐いた。
「あそこにいるな」 「いますね」 「降りてこねえな」 「降りてこないっすね」
母親が顔を上げた。
「あの、上に、いるんですか」
真壁さんが、母親の肩の前に手を出して、歩道橋の下から動かさないようにした。
「まだ、数えんなよ」
俺も言った。
「段、声に出して数えないでください」
母親は口を開きかけて、閉じた。 俺は階段の1段目を見た。 まだ、数えていない。
「なあ、白洲」
真壁さんが、歩道橋の階段を見上げたまま言った。
「お前、特殊清掃の目で見てあの階段どう見える」
俺は階段を見た。 滑り止めのゴムは、どの段も同じ灰色だった。 どの段も、真ん中ばかりが白くすり減っている。 左右の端には、土の色が残っている。 小学生が手すりを持たずに真ん中を上る。 会社員が、鞄を持ち替えて上る。 そういう擦れ方だ。 俺は上から5段目と6段目の間で目を止めた。
「上から6段目、誰も踏んだことない段っす」 「なんで分かんだよ」 「靴の跡が、そこだけないんで」
真壁さんが、もう一度階段を見た。 上から6段目だけ、ゴムが新品みたいに黒い。
「……お前、よく見てんな」 「家業のクセっすね。人の出入りは見るんで」
俺は口を閉じた。 上から6段目の黒いゴムを、目だけでなぞる。
「影縫い」
真壁さんの足元の影が、盛り上がった。 4本の脚ができて、尻尾ができて耳が立った。 犬の形の影だ。 影縫いは鼻先を地面に近づけて、階段のほうへ歩いた。
「行け。増えた段の影を縫い止めろ」
真壁さんが言った。 影縫いは階段の下まで来て、止まった。 それから、首を左右に振った。 水銀灯が4本ある。 光が4方向から来ている。 階段の1段1段に、影が4本ずつ落ちている。 影と影が重なって、境目がない。 どれがどの段の影か、もう分からない。 影縫いは階段の1段目に鼻先を当てた。 縫い始める。 けれど、糸が通らない。 縫っても縫っても、糸の先が別の段の影に着く。
「おい、なんでだ」
真壁さんの声が上ずった。
「水銀灯が4本あるからっす」
俺は言った。
「影が重なって、どれが増えた段の影か分からないんすよ」 「じゃあどうすりゃいいんだよ」
影縫いは、階段の下でぐるぐる回り始めた。 自分の尻尾を追うように。 黒い体がタイルの上で渦を巻いた。 それから、立ち止まった。 くうん、と鳴いた。 低い。 喉の奥で鳴らすような声だった。 尻尾が、垂れた。
「無理無理無理」
真壁さんが頭を抱えた。
「どれだよ。どれが増えた段なんだよ」
影縫いがもう一度くうん、と鳴いた。 母親が手提げ袋を抱えたまま、声を殺してこちらを見ている。 俺は、水銀灯を見上げた。 4本とも、点いている。 光が階段を白く塗っている。 ほかの段には、影が4本ずつ落ちている。 重なって、1本の濃い帯になっている。 俺は上から6段目を見た。 黒いゴムの段。 その段の下。 タイルに落ちるはずの影が。
「真壁さん」
俺は言った。
「あの段だけ、影がないっす」
「24段分の影しかないです。増えた段だけ、影を落としてない。だから影縫いは縫う影を捕まえられないんだと思います」 「じゃあ、どうすんだよ」 「影がないなら、影縫いをその段の影にしちゃえばいいんじゃないっすか」
真壁さんが、ゆっくりと俺の顔を見た。
「……お前、今なんて言った?」 「……俺が上がんなきゃ、届かねえってことだろ」 「そっすね」
真壁さんが、上着の裾を握ったまま階段の1段目に片足を乗せた。 靴底がゴムを踏む音が、やけに小さく聞こえた。
「影縫いは俺から離れられねえ」
「お前が先に行け」 「はい」
俺は真壁さんの横を通って、2段目に足をかけた。
真壁さんが息を吐いた。
「……行くぞ」
俺が先に上る。 真壁さんが続く。
その時だった。 下から、声が聞こえた。 子どもの声だった。
「ひとつ」
母親の声じゃない。 塾の鞄を掛けた男の子の声でもない。 もっと低い。 もっと平坦な。
「ふたつ」
後ろで、真壁さんの息が詰まる音がした。
「数えないで、俺の背中だけ見ててください」 「お前の背中、全然頼りになんねえな」
下から、数え歌が続いていた。
「みっつ」 「よっつ」
低い。 平坦だ。 母親が手提げ袋を胸に抱えて、口を押さえている。 声を出していない。 出せない。
「いつつ」
俺は上った。 真壁さんが後ろで息を詰めている。 靴底がゴムを踏む音が、ひとつずつ遅れていく。 真壁さんの足が片方だけ上がって、また戻る。
「むっつ」 「真壁さん」 「分かってる」
真壁さんの声が、歯のあいだで潰れている。 上から6段目。 黒いゴム。 土埃ひとつ付いていない。 俺は黒い段の1段下で止まった。 ここから先は、踏まない。
「ななつ」
真壁さんが、黒い段の手前で膝をついた。 上着の裾が、ゴムの上に落ちる。 手を伸ばす。 指が、黒いゴムの面に触れた。
「伏せ」
真壁さんの足元で、犬の形の影がほどけた。 4本の脚が崩れて、尻尾が解けて耳が落ちる。 黒いものが、黒い段の上へ平たく伸びた。 真壁さんの手のひらの下。 黒いゴムの上。 影が、段の形に広がる。 縁から縁まで。 1段分、ちょうど。 数え歌が、初めて少し詰まった。 俺は見た。 その段の下に、影が生まれた。 濃い。 真壁さんが、手を離した。 手のひらを上に向けて、自分の顔の前で開く。 黒いものが、指のあいだに残っていない。 段のほうに残っている。 黒いゴムの縁が、白くなり始めた。 端から灰色に。 灰色になったところから、薄くなった。 向こうの景色が透ける。 小学校の校庭のフェンス。 段が、消えていく。
「にじゅういち」 「にじゅうに」 「にじゅうさん」 「にじゅうよん」
止まった。 声が、24で切れた。 それきり、何も聞こえない。 水銀灯の唸りだけが戻ってくる。 じいん、という低い音。 真壁さんが、ゆっくりと立ち上がった。 膝が笑っている。 手すりを掴んで、2回、息を吐いた。 橋の真ん中で、男の子が、つんのめるように立ち止まった。 会社員も、その半歩後ろで止まった。 男の子の肩が震えている。 泣き声は、遅れて来た。
「……っ、う、」
母親が手提げ袋を落とした。
「あの子!」
真壁さんが走った。 階段を2段飛ばしで上って、橋の真ん中まで。 男の子の前にしゃがんで、両腕ごと抱えた。
「怖えよ! 普通に怖えよ!」
真壁さんの声が裏返っている。 誰に言っているのか分からなかった。 真壁さんは男の子を抱えたまま階段を降りてくる。 膝が笑って、3段目で一度止まった。
「白洲、そっち!」 「はい」
俺は会社員の腕を取った。 肩を貸すと、会社員の体重がこっちに傾いた。 スラックスの膝が、がくがくしている。
「歩けますか」 「……あ、あの、ずっと」 「後で聞きます」
階段を降りるあいだ、会社員は何度も振り返った。 橋の上には、水銀灯の唸りだけが残っていた。 母親が男の子を抱きしめた。 手提げ袋は歩道に転がったまま、塾のテキストが半分出ている。 男の子は母親の胸の中で泣いていた。 真壁さんは男の子を母親に渡すと、その場を離れた。 歩道橋の手すりに手をかけて、手を拭いている。 上着の袖で、掌を、二度、三度。 こっちを見なかった。
◇
車の中は、しばらくエアコンの音だけがしていた。 真壁さんのスマホが震えた。 画面に烏丸室長の名前。 真壁さんがスピーカーにした。
「はい。……ええ。……はい」
真壁さんは助手席の俺のほうを見なかった。 ハンドルを握ったまま、目だけをフロントガラスの外に向けていた。
「段の増える階段は、記録に5件。3件は職員が数えて上って、一晩戻りませんでした」
「影縫いで段そのものを縫い止めた例はありません。真壁さんが初めてですね」 「……はい」
通話が切れた。 真壁さんはスマホを膝の上に落とした。 それから、ハンドルに額をつけた。 長いこと、そのままだった。
「……あの交差点な」
顔は上げなかった。
「新人のとき、毎朝あの子らに『おはよう』って言ってたんだよ」
それ以上は言わなかった。 俺はフロントガラスの向こうを見た。 歩道橋の下で、母親が男の子の手を引いてゆっくりと交差点を渡っていた。 手提げ袋は、母親の反対の手にあった。
「そっすか」
◇
【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0432】 分類:乙 呼称:二十五段目 発生場所:区内 小学校前 桜通り歩道橋 階段 担当:真壁鉄平(正職員)/白洲律 経過: 23時以降に段を声に出して数えて上った者の前に25段目が出現し、上りきった者が橋の上を歩き続けて降りられなくなる。小学生1名(前夜)、会社員1名(3日前)が橋の上に滞留。 危険手当:各300,000円(乙。真壁・白洲の2名) 備考1:正職員(真壁)の契約怪異により、影を持たない段を縫い止めて鎮静。担当アルバイトは靴跡の欠落と影の数から増えた段を特定。 備考2:正職員が自ら段を上った。
危険手当、30万。 借金は、1,458万から1,428万。
◇
0時41分。 夜見坂駅のホーム。 マチさんはいつもの位置に立っていた。 紺のロングコート。 白い手袋。 懐中時計に目を落として、それから顔を上げた。
「律さん。お待ちしておりました」 「どうも」
マチさんは、半歩、近づいた。 いつもより半歩、近い。
「今日は、少し」
マチさんの鼻先が、俺の首元に近づく。 コートの裾が、俺のパーカーの袖に触れた。 息を吸う音が、ひとつ。 顔が、離れた。
「……台所の匂いが、いたします」
俺は自分の首元を、手の甲で一度拭った。 今日、台所には立っていない。




