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実家の現場で、遺影の隣に知らない人が1人ずつ増えていく




「お兄ちゃん、遅い。あと、またその服」


5月30日、17時。


真壁さんからLINEが来ていた。 住所は宵帳にも区役所経由で上がっていて、その下に1行だけ添えてあった。 『写真に増えた人を、家族として数えてはいけない』。 俺はスマホの画面を指で押さえたまま、路地の日向を歩いた。


下町の一軒家の前に、小春が立っていた。


「現場なんで」 「それ、現場で着る服じゃないでしょ」


小春は門を開けた。 勝手に先に歩く。 玄関で母さんが待っていた。 依頼人の長女が廊下の奥から出てきた。 50代。 黒いカットソー。 目の下が赤い。


「お待ちしてました。白洲さんですよね」 「はい。どうも」


亡くなった人の部屋にしては、匂いがしない。 仏間の襖を開けた。 線香の匂い。 仏壇。 遺影。 天井の鴨居に、写真が並べてあった。 8枚。 家族写真だ。 結婚式、運動会、旅行、正月。


「これです」


長女が鴨居を指さした。


「葬式のあとから、増えてるんです」


俺は鴨居を見上げた。 8枚の写真のそれぞれに、同じ男が写っていた。 灰色のスーツ。 灰色の髪。 痩せている。 顔は、ピンぼけていた。 どの写真でも同じ位置に立っている。 家族の後ろ。 端。 影の薄いところ。


「増えた、というのは」 「最初は1枚でした。お通夜の日。それから毎日、1枚ずつ。今は8枚全部に」


長女が自分の肩を押さえた。


「それで、毎晩22時になると」 「はい」 「写真の中のその人が、1人分ずつ、こっちに近づいてくるんです」 「ゆうべは、ここに立ってたら」 「肩に」 「手を、置かれました」


長女がカットソーの襟を引いた。 青白い、手の跡があった。 指の形がはっきりと。


「今朝、起きたら、これで」


母さんが「あらあら」と言った。 俺はもう一度、鴨居の8枚を見た。 灰色の男が、8枚とも、こっちを見ていた。 ピンぼけの顔のまま。 けれど、さっきより、少しだけ大きい気がした。


「宵帳さんにも、電話したんです」


長女が、俺と母さんの間で言った。


「区役所に言われて。変な話は、そっちに、と」 「そうっすか」 「宵帳さんの方って、時給1万円の学生さんが来るって聞いて。……お兄さん、その方ですか」


俺は頷いた。


「はい。どうも」


仏間の空気が、少し止まった。 小春のペンが、止まった。 バインダーの上で、芯が紙に当たったまま動かない。


「……時給、いくらって?」


小春は顔を上げなかった。 声だけが、見積書のほうを向いていた。 母さんは聞こえないふりをした。


「このタンス、桐ですかねえ」と長女に言って、メジャーを当てている。 「時給の話は、あとで」


俺は言った。


「今、現場なんで」 「お兄ちゃん。あとで、帳簿の話」


小春はペンを動かし始めた。 俺は鴨居を見上げた。


「決まりごとが、ひとつあるんすよ」 「決まりごと」 「写真に増えた人を、家族として数えないでください」


長女の眉が、少し寄った。


「数える、って」 「名前を呼ぶ。食事を出す。そういうこと全部っす」 「ただ、数えたら、しばらく戻らないんで」


俺は鞄から軍手を出した。


「見積もり、続けます」


◇


19時。


俺は母さんに断って、鴨居から額を8枚順に下ろした。 脚立の上で軍手のまま、ガラス面に指を残さないように縁を持つ。 小春が下で段ボールを支えた。


「お兄ちゃん、それ伏せて入れるの」 「伏せる」 「なんで」 「こっち見てるから」


小春は何も言わずに段ボールの蓋を開けた。 8枚を伏せて重ねる。 ガラスとガラスの間に、母さんが古新聞を挟んだ。


21時50分。


段ボールの中で、音がした。


こつ。


こつ。


指で叩く音だった。 内側から。 伏せた額の裏。


ポケットのスマホが明るくなった。


画面の隅で銀色の点がふくらんだ。


「ねえ」


ウツシの声だった。 画面の外を、ずっと見ている。


「写真の中のひと」 「はい」 「こっち見てるよぉ」


俺は段ボールの蓋を開けた。


空だった。


段ボールの中に、額は1枚もなかった。 8枚分の窪みが、新聞紙についている。 なのに、額はない。


俺は顔を上げた。


鴨居を見た。


8枚、戻っていた。


灰色の男が、8枚とも、こっちを見ていた。


そして、写真の中の長女の、すぐ後ろに立っていた。


肩の高さに、男の胸のあたり。 距離にして30センチもない。


小春は顔を上げた。


「お兄ちゃん、それ、さっきより近くない?」 「1、2、3、4……」 「数えるな」


俺は小春のバインダーを閉じた。


「……分かった」


小春はバインダーを胸に抱えた。 俺は脚立をもう一度立てて、鴨居に近づいた。 額の上、壁紙に、四角い日焼けの跡がある。 8枚の額と、もうひとつ。 9つ目の跡だけ、ひと回り小さい。 子どもの写真が入っていた大きさだ。 真ん中に釘穴。 釘は抜いてある。


「母さん」 「なあに」 「この家、小さい額、あった?」


母さんは鴨居を見上げた。


「あら。本当。小さいのが1枚、あったのね」


母さんはしゃがんで、段ボールに手を伸ばした。 新聞紙を広げ直す。


「外した写真って、どこの家にもあるのよね」


手が、少しだけ止まる。


「うちにも1枚あるわ」 「おじいちゃんちの、縁側の」


母さんはそれきり口を閉じて、見積書の束を小春に渡した。


◇


玄関の外で、小春のスマホのシャッター音がした。


22時。


見積用の外観写真だ。


小春は路地にしゃがんで、門柱と塀を撮っていた。


22時2分。


小春が、声を上げなかった。


それが、いちばん変だった。


俺は表へ出た。


路地の先、門灯の下で、小春がスマホを両手で持ったまま立っていた。


「どうした」 「……撮れた」


小春は画面を俺に向けた。


夜の路地。 門柱。 塀。 自分の影。


その後ろ。


灰色の男が、立っていた。


小春の真後ろ。 1メートルも離れていない。 ピンぼけの顔が、レンズのほうを向いている。


小春は振り返った。 いなかった。


もう一度、画面を見た。 まだ、いる。


小春が、1歩下がった。


「……いや」


声が、息だけになった。


画面の中の男の手が、小春の肩に置かれた。


灰色の指が、肩の線に沿って沈む。 同時に、小春の肩が、前へ押された。


「……っ」


小春の上体が傾ぐ。 振り返らない。 振り返れない。


現実の小春の後ろには、誰もいない。 どこにも、いない。 画面の中だけ、男が立っている。


小春の足が、縁石を探して外れた。 表通りの車道に、片足が出る。


右から、軽トラのライトが来た。


2灯。


近い。


俺は、走った。


「小春!」


ライトが、路地の出口を白く塗る。


小春のバッグの肩紐に手を伸ばす。 指が、肩紐の手前で止まった。 1秒もない。 心臓は普通に打っている。 怖くはない。 次の瞬間には手が動いて、俺は肩紐を掴んでいた。 思いきり引き戻す。


小春の体が歩道に倒れ込む。 軽トラがクラクションを鳴らして、すぐ横を通り過ぎた。


灰色の男は、もういなかった。


小春が歩道にしゃがみこむ。 それでも声はいつも通りだった。


「……今の、怖かった?」 「特には」 「だよね」


俺は自分の右手を一度見た。 指が少し開いている。 小春の肩紐を掴んだときの形のまま。 それをポケットに入れた。


小春が顔を上げないまま言った。


「お兄ちゃん、足遅い」


小春の指先が、まだ震えている。 声だけが平らだ。


「小春。写真の人、数えた?」


小春が、少しだけ黙った。


「……さっき、4まで」


◇


22時20分、仏間に戻る。


俺は鴨居の前にもう一度脚立を立てた。 9つ目の日焼け跡を軍手の指で測る。 縦横、L判よりひと回り小さい。 キャビネの半分。


俺は懐中電灯で奥を照らす。 額縁はなかった。 物置も同じだ。


長女が仏壇の前に立ったまま、こちらを見ていた。


「あの、ひとつだけ」 「はい」 「母は、あの引き出しだけは誰にも触らせなかったんです」


長女は仏壇の下、一番低い段の小さな引き出しを指した。


俺は母さんを見た。 母さんは小さく頷いた。


「遺品整理の範囲ですね」


俺は仏壇の前に座った。


線香の匂いの下に、桐の匂いがした。 引き出しに手をかける。 開けると、中に桐の箱がひとつ。 蓋に焦げ茶の紐が十文字に掛かっている。


俺は紐を解いて、箱の蓋を開けた。


中に、額があった。


小さい。 測った通りの寸法。 ガラスの下に、白黒の写真が1枚。


半ズボンの男の子が写っていた。 7歳ぐらい。 前歯が1本抜けている。 笑っている。 後ろは川。 男の子の肩に、大人の手が置かれている。


俺は額を裏返した。


裏板に、鉛筆で小さく書いてある。


『昭和47年 夏 まもる』


長女が、俺の手元を覗き込んで息を止めた。


「……兄です」


声が、喉の奥で潰れた。


「私が生まれる前に、川で」


小春は動かなかった。


スマホが震えた。


ウツシは、何も言わなかった。


俺は鞄の底から道具箱を出した。 親父が使っていた金槌を、俺が使っている。


脚立を鴨居の前に立て直した。 9つ目の日焼け跡。 真ん中の釘穴に、釘の先を当てる。 最後に2度、強く。 釘の頭が壁紙に沈んで平らになった。


俺は紐を釘に掛けた。 手を離すと、額はわずかに揺れて止まった。


9枚、並んだ。


半ズボンの男の子が左端で笑っている。


その瞬間だった。


8枚のほうが、音もなく白くなった。


家族の後ろに立っていた灰色のスーツが、端から薄れていく。 髪が、肩が、ピンぼけの顔が、紙の白に溶けていく。


8枚とも、元の家族写真に戻っていた。


長女が、口元を押さえた。


「いない。どこにも」


長女は仏壇の前に膝をついた。 背中が丸くなって、小さく震え始めた。 声を殺して泣いていた。


母さんが長女の隣にしゃがんで、背中に手を置いた。 何も言わずに、ただ置いていた。


小春は鴨居を見ていた。 9枚目を。


「お兄ちゃん」 「ん」 「あの子、笑ってる」 「笑ってるな」 「お母さん、これ、掛けたかったんだよね」 「掛けたかったんだろうな」


小春はバインダーの端を親指で折った。


ポケットの中でスマホが震えた。 画面に真壁さんの名前。


「はい」 「家族は」 「います。母さんと小春と、依頼人の長女さん」 「家族ごと現場にいたのかよ」


声が裏返った。


「見積もりの手伝いで」 「お前なあ」 「8枚の写真に増えた人が、9枚目の額を掛けたら消えたっす」 「……は?」


電話の向こうで、真壁さんが息を吸う音がした。


「家族写真に入りこむ型は、記録に2件ある」 「はい」 「2件とも、数えちまった家族が写真の中に入って、出てくるのに半年かかった」 「半年」


真壁さんの声が、少し低くなった。


「外の現場で、家族ごと無傷はお前が初だ」 「次から家族は連れてくなよ」 「現場なんで」 「現場だからだよ」


通話が切れた。


◇


【宵帳 第三調整室 事案報告書 No.0431】 分類:丙 呼称:空き席の人 発生場所:民家(一軒家)1階 仏間 担当:白洲律(アルバイト) 経過: 葬儀後、仏間の家族写真8枚に灰色の服の男性が1名ずつ写り込み、毎晩22時に依頼人(長女)へ接近。依頼人の肩に接触痕。担当アルバイトが額を撤去したが、21時50分に原位置へ復帰。 危険手当:100,000円(丙) 備考1:担当アルバイトは壁の日焼け跡の数から欠けた写真を特定。元の位置に戻して鎮静。 備考2:担当アルバイトの家族(民間事業者)同席。うち1名が怪異に接触されかけたが無事。


◇


道具の積み込みが終わるまで、母さんはエンジンをかけたまま待っていた。 軽ワゴンの後部座席で、小春がバインダーを開いた。 紙をめくる音が、やけに大きく聞こえる。


「普通って言ったよね」 「ん」 「この前」 「時給1万円のどこが普通なの」


小春の声は静かだった。 静かなほうが面倒だ。


「……普通じゃないな」


俺は助手席の窓に頭を預けて言った。


小春は黙って電卓を出した。 ピ、ピ、と短い電子音が続く。 4月分。 5月分。 叩く指が止まった。


「……お兄ちゃん」 「なに」 「残り、1,458万」


それきり黙った。


運転席の母さんが、バックミラー越しに少しだけ嬉しそうにしていた。 口元だけで。


◇


実家の勝手口を開けると、小春が先に上がって階段を駆け上がった。 リビングの電気もつけずに、2階のほうへ声を張る。


「お父さん、今日の分。残り、1,458万」


数字だけを並べて、それきり黙った。


「律」


父の声だった。 寝ている。 布団の擦れる音がして、それから咳がひとつ。


「……無理すんなよ」


「はい」


それきり、声はしなくなった。 いびきが戻ってくるまで、少し間があった。


台所で母さんが皿を洗っていた。 背中をこっちに向けたまま、蛇口の音を止めない。 肩が小さく揺れている。 皿を1枚、水切りかごに置く。 もう1枚。 置く場所が少しずれている。


◇


電車は終電に近かった。 吊り革を握った右手を見る。 指が少し開いている。 小春の肩紐を掴もうとしたときの形のまま、力が入っていない。


怖くはなかった。


じゃあ、なんで止まったんだろう。


まあいいか。

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