第四章 まだ名もなき集まり
それから数日後。
ミハイルはまた自宅の客間にいた。
ただし、今日は黒いドレスを着ていない。
普通の男物の服である。
それだけで妙に気分がよかった。
ミハイル「やっぱり服ってのは、自分で着られるのが一番だな」
アレクサンドル「そんなところで幸福を感じるなよ」
ミハイル「お前のせいだろ」
アレクサンドルもいつもの男物の服だった。
ナターシャは今日は来ていない。
そして、なぜかアレクサンドルの隣に、見知らぬ若者が立っていた。
年齢はミハイルより少し下だろう。
細身。
色の薄い髪。
顔立ちは整っている。
だが、それ以上に目につくのは――。
落ち着きがない。
さっきから手を握ったり開いたりしている。
部屋を見回す。
ミハイルを見る。
アレクサンドルを見る。
また下を向く。
ミハイル「……誰?」
アレクサンドル「連れてきた」
ミハイル「それは見れば分かる」
アレクサンドル「ニコライ・フョードロヴィチ・ラヴロフ。コーリャ」
若者が慌てて頭を下げた。
ニコライ「は、初めまして。ニコライ・フョードロヴィチ・ラヴロフです」
ミハイル「ミハイル・アンドレエヴィチ」
ニコライ「存じています」
ミハイル「俺を?」
ニコライ「アレクサンドル様から……」
ミハイルがゆっくりサーシャを見る。
ミハイル「お前、俺のこと何て話した?」
アレクサンドル「初心者でも何とかなる実例」
ミハイル「もっと言い方あるだろ!」
ニコライが慌てて両手を振る。
ニコライ「い、いえ! その、悪い意味ではなくて!」
ミハイル「分かってるよ」
ミハイルは改めて若者を見る。
ミハイル「で?」
ニコライの顔が曇る。
ニコライ「……僕も、呼ばれまして」
ミハイル「何に」
少し間があった。
ニコライが小声で答える。
ニコライ「メタモルフォーゼに……」
ミハイル「ああ」
それだけで全部分かった。
◆
ニコライ・フョードロヴィチ・ラヴロフ。
十九歳。
貴族の家に生まれ、この頃ようやく役所勤めを始めたばかりだという。
宮廷にも顔を出し始めた。
そして。
とうとう例の招待が来た。
ニコライ「来月です」
ミハイル「初めて?」
ニコライ「はい」
ミハイル「何か練習した?」
ニコライ「一応……」
ニコライがますます小さくなる。
ニコライ「レヴェランスは……少し」
アレクサンドル「見せてもらった」
ミハイル「どうだった?」
アレクサンドル「お前の最初よりはまし」
ミハイル「比較対象を俺にするな!」
ニコライ「でも、階段が……」
ミハイル「階段?」
ニコライ「怖くて」
ミハイルが止まった。
ニコライ「あと、座る時と、立つ時と……歩く時に裾を踏まないかとか……」
ミハイルは何も言わなかった。
ニコライ「踊りも全然自信がなくて……」
また何も言わない。
ニコライ「それから、方向を変える時にスカートが――」
ミハイル「分かった」
ニコライ「はい?」
ミハイルはアレクサンドルを見る。
ミハイル「こいつ、俺じゃん」
アレクサンドル「だから連れてきた」
ミハイル「なるほど」
ニコライ「え?」
ミハイルはニコライの肩を叩いた。
ミハイル「安心しろ」
ニコライ「は、はい」
ミハイル「ひどい目に遭うぞ」
ニコライ「ええっ!?」
アレクサンドル「安心させろよ!」
◆
その日の午後。
客間に一人、貴婦人が増えていた。
淡い青灰色のドレス。
若々しく、派手すぎない装飾。
細身のニコライにはよく似合っている。
似合ってはいるが。
ニコライ「…………」
本人は死にそうな顔をしていた。
ミハイル「大丈夫か?」
ニコライ「大丈夫に見えますか?」
ミハイル「見えない」
ニコライのスカートの形を最後に整えたプラスコーヴィヤ(パーシャ)が、少し離れて満足そうに眺めている。
プラスコーヴィヤ「とてもお似合いですよ」
ニコライ「ありがとうございます……」
声が消え入りそうだった。
ミハイルは思わず笑った。
ニコライ「何ですか?」
ミハイル「いや」
ついこの間まで、自分がまったく同じことをしていたのだ。
ミハイル「気持ちは分かる」
ニコライ「本当ですか?」
ミハイル「本当に」
アレクサンドル「じゃあ歩いてみろ」
ニコライ「もうですか!?」
ミハイル「始まったぞ」
ニコライ「何がです?」
ミハイル「地獄が」
アレクサンドル「お前まで脅すな!」
◆
ところが。
ニコライの練習が始まってみると、妙なことが起こった。
アレクサンドル「歩幅が大きい」
ニコライ「はい」
ニコライが止まる。
そして。
近くの机へ行った。
紙を取り出す。
ペンを持つ。
何かを書いた。
ミハイル「……何してんだ?」
ニコライ「書いてます」
ミハイル「何を」
ニコライ「歩幅を小さくする、と」
ミハイルとアレクサンドルが顔を見合わせた。
アレクサンドル「それくらい覚えられるだろ」
ニコライ「忘れたら困ります」
アレクサンドル「忘れないって」
ニコライ「僕は忘れるかもしれません」
再び歩く。
アレクサンドル「身体だけ先に回るな。足から方向を変える」
ニコライ「はい」
また机へ。
書く。
ミハイル「また?」
ニコライ「足から回る、と」
アレクサンドル「いちいち書いてたら日が暮れるぞ」
ニコライ「でも大事ですよね?」
アレクサンドル「まあ、大事だけど」
ニコライ「なら書きます」
ミハイルが覗き込む。
一、歩幅は小さく。
二、方向を変える時は足から。
三、スカートだけを意識しすぎない。
すでに三項目。
ミハイル「几帳面だなあ」
ニコライ「怖いんです」
ミハイル「何が」
ニコライ「本番で失敗するのが」
あまりにも真剣だった。
ミハイルは笑うのをやめた。
ニコライ「一度聞いたことを忘れて、陛下の前で転んだりしたら……」
ミハイル「なるほど」
ミハイルは紙をもう一度見る。
ミハイル「でも、これ」
アレクサンドル「何だ」
ミハイル「案外便利じゃない?」
アレクサンドル「こんなのが?」
ミハイル「俺も最初、同じこと何回も聞いただろ」
アレクサンドル「確かに」
ミハイル「いちいち最初から教えるより、最初に読ませた方が早い」
アレクサンドルが少し考えた。
アレクサンドル「……まあな」
ニコライの顔が少し明るくなった。
ニコライ「じゃあ、書いてもいいんですね?」
ミハイル「好きなだけ書け」
ニコライ「はい!」
アレクサンドル「なんで急に元気になるんだよ」
◆
その数日後。
紙は一枚では足りなくなった。
歩き方。
方向転換。
座り方。
立ち方。
階段。
レヴェランス(カーテシー)。
踊り。
扇の扱い。
スカートの持ち方。
ニコライは教わるたびに書いた。
そして。
質問も増えた。
ニコライ「座る時、スカートは右へ寄せますか? 左ですか?」
アレクサンドル「場合による」
ニコライ「どんな場合です?」
アレクサンドル「…………」
ニコライ「書きますので」
アレクサンドル「ちょっと待て」
別の日。
ニコライ「レヴェランスの時、手はどこまで上げるんです?」
アレクサンドル「そのくらい」
ニコライ「そのくらいでは分かりません」
アレクサンドル「見れば分かるだろ」
ニコライ「分かりません」
ミハイル「俺も昔それ言われた」
アレクサンドル「お前は黙ってろ」
さらに別の日。
ニコライ「階段ではスカートをどのくらい持ち上げれば?」
アレクサンドル「踏まない程度」
ニコライ「何寸くらいです?」
アレクサンドル「知らねえよ!」
ニコライが困った顔をする。
ミハイルは笑った。
ミハイル「サーシャ」
アレクサンドル「何だ」
ミハイル「お前、意外と説明下手だな」
アレクサンドル「うるさい!」
◆
困ったのは、アレクサンドルだけではなかった。
その頃になると、噂を聞いた数人の男たちが、時々ミハイルの屋敷を訪れるようになっていた。
誰かが大々的に募集したわけではない。
ただ、
――あそこへ行けば、少し教えてもらえるらしい。
という話が、いつの間にか伝わっただけだった。
中には、若者だけではなかった。
既に何度もメタモルフォーゼを経験している年配の貴族まで来た。
年配の貴族「階段では、裾はもう少しこう扱うんだ」
ミハイル「こう?」
年配の貴族「違う違う。もっと自然に」
ミハイル「見本をお願いします」
年配の貴族「…………」
ミハイル「?」
年配の貴族「口で説明する」
ミハイル「見せてもらった方が早いんですけど」
年配の貴族「口で説明する」
ミハイル「なんでです?」
年配の男が咳払いした。
年配の貴族「若い者の前で、改めてドレスを着て階段を下りろというのかね」
ミハイル「でも知ってるんですよね?」
年配の貴族「知っている」
ミハイル「じゃあ――」
年配の貴族「口で説明する」
絶対に譲らなかった。
帰った後。
ミハイル「何なんだよ」
アレクサンドル「気持ちは分かる」
ミハイル「お前は普通に俺の前でやったじゃないか」
アレクサンドル「俺は若いからな」
ミハイル「そういう問題なのか?」
アレクサンドル「年を取ると色々あるんだよ」
そこへ声がした。
ナターシャ「だったら、私がやればいいじゃない」
三人が振り返った。
ナターシャだった。
◆
それ以来。
話が少し早くなった。
ニコライ「年配の方が、スカートをもう少し斜めに持つと仰っていました」
ナターシャ「こう?」
ニコライ「たぶん、それです!」
ミハイル「ああ、そういう意味だったのか」
アレクサンドル「なるほど」
ナターシャ「あなたまで納得してどうするのよ」
アレクサンドル「俺も言葉だけじゃ分からなかったんだよ」
誰かが知っている。
だが、説明できない。
説明できても、実演したくない。
あるいは、長年やっているせいで本人には当たり前すぎて、説明する必要すら感じていない。
そこへナターシャが入る。
口で言われたことを実際にやってみる。
違えば直す。
ニコライが書く。
ミハイルが質問する。
アレクサンドルが経験から補足する。
いつしかそんな形が出来上がっていた。
◆
ある日の午後。
ニコライが紙を机いっぱいに広げた。
ニコライ「ちょっと整理してみました」
ミハイル「何を?」
ニコライ「全部です」
アレクサンドル「全部?」
見る。
紙の上には項目が並んでいた。
歩行。
方向転換。
着席。
起立。
階段。
レヴェランス(カーテシー)。
舞踏。
裾の扱い。
手と腕の位置。
ミハイルはしばらく眺めた。
ミハイル「……増えたな」
アレクサンドル「最初は歩くだけだったのにな」
ナターシャ「これでもまだ足りないでしょうね」
ミハイル「まだあるの!?」
ナターシャ「あるわよ」
ミハイル「聞きたくないな……」
ニコライが別の紙を出す。
ニコライ「それで、誰がどれをできるかも分けてみました」
アレクサンドル「は?」
ミハイル「ちょっと待て」
紙には名前が並んでいた。
その横に項目。
そして印。
アレクサンドル「俺のところに何で丸が多いんだ」
ニコライ「できるからです」
アレクサンドル「まあ、そうだけど」
ミハイル「俺は?」
探す。
ミハイル「……少なくない?」
ニコライ「今のところは」
ミハイル「階段はできるぞ!」
ニコライ「一人で安定して下りられたのは、この前が初めてでしたので」
ミハイル「厳しいな、お前!」
ナターシャ「正確ね」
ミハイル「褒めるな!」
ニコライが真面目な顔で言った。
ニコライ「でも、誰が何を知っているか分からないと、聞く相手も分かりません」
四人が黙った。
ニコライ「僕はまだほとんどできません。でも、アレクサンドルさんは色々知っている。ナターシャさんは女性側の作法を全部知っている。ミハイルさんは……」
ミハイル「おい」
ニコライ「初心者がどこで困るか分かります」
ミハイルが止まった。
アレクサンドル「それ、意外と大事だぞ」
ミハイル「意外とは何だ」
ナターシャ「本当に大事よ」
ニコライは続けた。
ニコライ「だから、これを残しておけば、次に初めて呼ばれた人が来ても、僕たちみたいに最初から全部困らなくて済むんじゃないでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
アレクサンドルが腕を組む。
アレクサンドル「まあ……」
ミハイルが紙を見る。
ほんの少し前。
自分はレヴェランスという言葉すら、まともに覚えていなかった。
今なら少なくとも、人に説明できることがある。
ミハイル「……悪くないな」
ニコライ「本当ですか?」
ミハイル「俺みたいな奴がまた来るんだろ?」
アレクサンドル「来るだろうな」
ミハイル「だったら、最初にこれ渡した方が早い」
ナターシャ「全部渡したら逃げるかもしれないけどね」
全員が紙を見る。
項目の多さを見る。
ミハイル「……確かに」
◆
その日の夕方。
客間から人がいなくなった後も、四人だけが残っていた。
机の上には紙。
練習に使った椅子。
階段。
壁際には、今日使ったドレスがいくつか置かれている。
ミハイルが言った。
ミハイル「次、いつやる?」
アレクサンドルが見る。
アレクサンドル「お前から言うようになったな」
ミハイル「俺の練習じゃない」
ニコライを見る。
ミハイル「こいつ、まだ階段が危ないだろ」
ニコライ「すみません……」
ミハイル「謝るな。俺もそうだった」
ナターシャ「来週なら空いてるわ」
アレクサンドル「俺も大丈夫だ」
ニコライ「僕もです」
ミハイル「じゃあ来週」
それだけだった。
会則もない。
名前もない。
誰が代表なのかも決まっていない。
参加資格もない。
ただ、次も集まる。
それだけ。
しかし。
数日後。
四人のもとへ、それぞれ新しい知らせが届いた。
次の宮廷舞踏会の日取りが決まったのである。
前回よりも規模は大きいらしい。
参加者も多い。
そして当然。
例の趣向も行われる。
ミハイル「…………」
招待状を見ながら、ミハイルはため息をついた。
以前なら、ここで終わっていただろう。
だが今回は違った。
机の上には、ニコライの書いた紙がある。
歩行。
階段。
レヴェランス。
裾さばき。
ミハイルはその紙を見る。
そして、小さく笑った。
ミハイル「まあ……前よりはましか」
その時の彼はまだ知らなかった。
次の舞踏会では。
レヴェランスが綺麗にできるかどうかなど、どうでもよくなる瞬間が来る。
巨大なスカートをどう扱うか。
階段をどう下りるか。
人混みの中でどう動くか。
彼らが半ば冗談のように覚えてきた技術が――
別の意味を持つことになるのである。




