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第三章 レヴェランスの地獄

挿絵(By みてみん)


 その日の特訓は、ミハイルが想像していたより一時間ほど早く始まった。

 正確に言えば、特訓そのものではない。

 その準備である。


ダーリヤ「では、もう少し締めますよ」

ミハイル「待て待て待て!」


挿絵(By みてみん)


 自室に、ミハイルの声が響いた。

 ダーリヤは聞く耳を持たない。

 腰回りを整え、衣装の締め具合を確かめている。

 ワルワーラはその横で髪をまとめ、プラスコーヴィヤは床いっぱいに広がった黒いスカートの形を直していた。


ミハイル「今日は練習なんだろ!? 本番じゃないんだぞ!」

ダーリヤ「存じております」

ミハイル「だったら何でこんな本気なんだよ!」

ダーリヤ「アレクサンドル様から、できるだけ本番と同じ状態にしてほしいと伺っておりますので」


 ミハイルの動きが止まった。


ミハイル「……あいつが?」

ワルワーラ「ええ」

ミハイル「サーシャァ……!」


 どこにもいない本人へ向かって怒鳴った。


プラスコーヴィヤ「でも、前回より慣れていらっしゃいますね」

ミハイル「何が」

プラスコーヴィヤ「じっとしているのが」

ミハイル「それは慣れたんじゃなくて諦めたんだよ!」


 ワルワーラが笑う。


ワルワーラ「今日は途中で眠らないでくださいね」

ミハイル「あれは着付けが長すぎたんだ!」

ダーリヤ「本日はまだ一時間ほどですよ」

ミハイル「一時間でも十分長い!」


 結局。

 黒い絹。

 銀糸の刺繍。

 大きく広がったスカート。

 整えられた髪。

 本番ほど念入りではないものの、化粧まで施された。

 鏡を見る。

 そこには、前回とほとんど変わらない黒衣の貴婦人が立っていた。


ミハイル「……練習なんだよな、これ」

ダーリヤ「はい」

ミハイル「なんでこんなことに……」


 その時。

 扉が開いた。


アレクサンドル「お、できたか」


 アレクサンドルが入ってきた。

 普通の男物の服で。

 ミハイルは無言で彼を見た。


挿絵(By みてみん)


アレクサンドル「何だよ」

ミハイル「……お前」

アレクサンドル「何だ」

ミハイル「自分だけ、その格好で来たのか」

アレクサンドル「俺は教える側だからな」

ミハイル「一時間かかったんだぞ!」

アレクサンドル「ご苦労」

ミハイル「殴るぞ!」

アレクサンドル「その格好で?」

ミハイル「それ前にも聞いた!」


 ダーリヤたちが笑いをこらえている。

 ミハイルはますます腹を立てた。


     ◆


 それから間もなく。

 ミハイルは屋敷の客間の中央に立っていた。

 そして、すでに後悔していた。

 理由は簡単である。

 また着ている。

 あの黒いドレスを。


ミハイル「……なあ」

アレクサンドル「何だ」

ミハイル「本当に全部着る必要あったのか?」

アレクサンドル「ある」

ミハイル「何でだよ」

アレクサンドル「軽い練習着でできても、本番の服でできなきゃ意味ないだろ」

ミハイル「でも重いんだよ、これ」

アレクサンドル「だから慣れるんだよ」

ミハイル「お前ほんと容赦ないな」


 アレクサンドルは聞いていなかった。

 部屋の端まで歩き、振り返る。


アレクサンドル「じゃあ、歩け」

ミハイル「……歩く?」

アレクサンドル「そうだ」

ミハイル「それが練習なのか?」

アレクサンドル「まず向こうまで」


 ミハイルは顔をしかめながら歩き出した。

 一歩。

 二歩。

 三歩。


アレクサンドル「でかい」

ミハイル「何が」

アレクサンドル「歩幅」

ミハイル「またかよ」

アレクサンドル「まただ」


 ミハイルは歩幅を小さくする。


アレクサンドル「まだでかい」

ミハイル「これ以上小さくしたら進まないだろ!」

アレクサンドル「進むんだよ」

ミハイル「軍隊じゃ、もっと大股で歩けって言われるぞ」

アレクサンドル「今日は軍隊じゃない」

ミハイル「知ってる!」


 もう一度。

 歩幅を小さくする。

 今度は妙にちょこちょことした動きになった。


アレクサンドル「今度は不自然」

ミハイル「じゃあどうしろってんだ!」

アレクサンドル「普通に歩け」

ミハイル「普通が分からなくなってきたんだよ!」


 アレクサンドルは額を押さえた。


アレクサンドル「いいか。お前は脚だけで歩こうとしてる」

ミハイル「脚で歩く以外に何があるんだ」

アレクサンドル「この服を着てる時は、服ごと動くんだよ」

ミハイル「…………」

アレクサンドル「何だ、その顔」

ミハイル「いや。お前、いつからそんなことを真顔で言えるようになったんだと思って」

アレクサンドル「俺にも色々あったんだよ」


 それ以上は答えなかった。

 ミハイルも、なぜか聞いてはいけない気がした。


     ◆


 次は方向転換だった。


アレクサンドル「そこで右を向け」

ミハイル「こう?」


挿絵(By みてみん)


 身体だけを先に回す。

 黒いスカートが一瞬遅れて追いかけてきた。

 裾が大きく揺れ、近くの椅子にぶつかりそうになる。


ミハイル「うわっ!」

アレクサンドル「だから身体だけ先に回るな!」

ミハイル「じゃあ何から回るんだよ!」

アレクサンドル「足」

ミハイル「この前もそんなこと言ってたな」

アレクサンドル「覚えてるならやれ」


 もう一度。

 今度は足から向きを変える。

 少しましだった。


アレクサンドル「そう」

ミハイル「お」

アレクサンドル「今のはいい」

ミハイル「初めて褒めたな」

アレクサンドル「調子に乗るな。もう一回」

ミハイル「やっぱり嫌いだ、お前」


     ◆


 次は椅子だった。


アレクサンドル「座れ」

ミハイル「これは簡単だろ」


 ミハイルは何も考えず腰を下ろそうとした。


アレクサンドル「待て!」

ミハイル「何だよ!」

アレクサンドル「そのまま座るな!」

ミハイル「なんでだ!」

アレクサンドル「後ろ!」


 振り返る。

 自分のスカートが椅子の縁へ引っかかりかけている。


ミハイル「…………」

アレクサンドル「まず位置を確認して、少し整えてから座る」

ミハイル「面倒くせえ……」

アレクサンドル「それで転んだ奴を俺は見たことがある」

ミハイル「本当に?」

アレクサンドル「本当に」


 ミハイルは急に慎重になった。

 スカートを手で整える。

 椅子の位置を確かめる。

 ゆっくり腰を下ろす。


ミハイル「……座れた」

アレクサンドル「次、立て」

ミハイル「もう?」

アレクサンドル「立つ方が難しい」


 ミハイルは立ち上がる。

 途中で裾を踏んだ。


ミハイル「うわっ!」


 また座る。


アレクサンドル「ほらな」

ミハイル「笑うな!」


     ◆


 その次は階段だった。

 屋敷の階段を前に、ミハイルは真顔になった。


ミハイル「……これ、本当に下りるのか?」


挿絵(By みてみん)


アレクサンドル「階段だからな」

ミハイル「下が見えないんだけど」

アレクサンドル「下を見るな」

ミハイル「じゃあどうやって下りるんだよ!」

アレクサンドル「足で探れ」

ミハイル「死ぬぞ!」

アレクサンドル「死なない」

ミハイル「お前が下に立て」

アレクサンドル「何でだよ」

ミハイル「落ちたら受け止めろ」

アレクサンドル「そのスカートごとか?」


 アレクサンドルは一歩離れた。


ミハイル「逃げるな!」


 結局、手すりを使いながら一段ずつ下りた。

 最初の三段はひどかった。

 四段目から少しましになった。

 最後の一段までたどり着いた時、ミハイルは妙な達成感を覚えた。


ミハイル「……下りた」

アレクサンドル「次、上るぞ」

ミハイル「休ませろ!」


     ◆


 昼を過ぎる頃には、ミハイルは完全に疲れていた。

 椅子に座り、ぐったりしている。


ミハイル「もう十分だろ……」

アレクサンドル「まだレヴェランスをまともにやってない」

ミハイル「控室でやっただろ」

アレクサンドル「あれを『やった』と言うな」

ミハイル「厳しいな、お前!」


 その時だった。

 部屋の外で物音がした。

 やがて扉が開く。

 ミハイルは顔を上げた。

 そして固まった。

 若い女性が立っていた。

 淡い色の宮廷衣装。

 大きく広がったスカート。

 髪は女性らしく整えられ、首元には小さな宝石。

 立ち姿にも隙がない。

 決して派手すぎるわけではない。

 だが、妙に目を引く。

 何より。

 どこかで見た顔だった。


ミハイル「…………」


挿絵(By みてみん)


 女性がこちらを見る。

 少し笑った。


ナターシャ「何?」


 声を聞いた瞬間、ミハイルの頭の中で何かがつながった。


ミハイル「…………ナターシャ?」

ナターシャ「そうだけど」

ミハイル「え?」

ナターシャ「何よ」

ミハイル「いや」


 もう一度見る。

 あの美青年。

 舞踏会で自分を誘い、踊りを助けてくれた美青年。

 間違いなく同じ顔だ。

 なのに。

 全然違う。


ミハイル「……本当に?」

ナターシャ「失礼ね」

ミハイル「いや、だって、お前……」

ナターシャ「私が女だって、この前知ったでしょう」

ミハイル「知ったけど!」


 頭では知っていた。

 だが、実際に女性の格好をしている姿を見るのとは別だった。

 男装していた時は、本当に凛々しい若い男にしか見えなかった。

 今は逆に、どこから見ても若い貴婦人だった。

 服だけではない。

 立ち方が違う。

 肩の置き方。

 顎の位置。

 手の位置。

 足の運び。

 同じ人間なのに、身体の使い方そのものが違って見える。


ミハイル「……変な感じだな」

ナターシャ「あなたにだけは言われたくないわ」


 ミハイルは自分の黒いドレスを見た。


ミハイル「それはそうだ」

アレクサンドル「ちょうどいいところに来た」


ナターシャ「呼んだのはあなたでしょう」

アレクサンドル「こいつに見本を見せてやってくれ」

ミハイル「おい」

アレクサンドル「俺がやっても、細かいところになると説明しにくい」

ミハイル「さっきまで散々やってただろ」

アレクサンドル「最低限ならな」


 ナターシャがミハイルを見る。


ナターシャ「何が一番ひどいの?」

アレクサンドル「全部」

ミハイル「お前な!」

ナターシャ「なるほど」

ミハイル「納得するな!」


     ◆


 まず、ナターシャが部屋の端へ立った。


ナターシャ「普通に歩けばいいのね?」

アレクサンドル「そう」


 歩き出す。

 ミハイルは黙って見た。

 何も特別なことをしているようには見えない。

 ただ歩いている。

 それなのに、スカートが邪魔になっていない。

 裾が乱れない。

 上半身も揺れすぎない。

 巨大な衣装と身体が一緒に動いている。


ミハイル「……何が違うんだ?」

アレクサンドル「だからそれを見ろって言ってるんだ」

ミハイル「見ても分からないんだよ!」


 ナターシャが戻ってくる。


ナターシャ「たぶん、考えすぎなのよ」

ミハイル「何を」

ナターシャ「スカートを」

ミハイル「だって邪魔なんだから考えるだろ」

ナターシャ「最初はね。でも、そのうち自分の身体の幅がここまであるって覚えるの」


 ナターシャが、自分のスカートの左右を軽く示した。


ナターシャ「ここまでが私、という感じ」


挿絵(By みてみん)


ミハイル「服まで自分だと思えって?」

ナターシャ「そう」

ミハイル「無茶言うな」

ナターシャ「でも馬に乗る時だって同じでしょう?」


 ミハイルが止まる。


ナターシャ「馬の身体の大きさを無視して、狭いところへ突っ込まないでしょう」

ミハイル「…………」

アレクサンドル「お」

ナターシャ「馬に乗ったら、自分一人の幅じゃなくなる。その感覚に近いと思えば?」


 ミハイルは自分のスカートを見る。


ミハイル「……なるほど」

アレクサンドル「俺が一時間かけて説明したことを一言で理解しやがった」

ミハイル「説明が下手なんだよ」

アレクサンドル「殴るぞ」


     ◆


 次はレヴェランスだった。


ナターシャ「一度やってみて」

ミハイル「また?」

アレクサンドル「やれ」


 ミハイルはスカートを軽く持つ。

 片足を引く。

 膝を曲げる。

 身体を沈める。

 立つ。


ナターシャ「…………」

ミハイル「何だよ」

ナターシャ「すごいわね」

ミハイル「お。初めて褒められた」

ナターシャ「どこを直せばいいのか、一瞬迷った」

ミハイル「褒めてない!」


 アレクサンドルが吹き出した。


ミハイル「笑うな!」

ナターシャ「まず手」

ミハイル「手?」

ナターシャ「力が入りすぎ」


 ナターシャが同じようにスカートへ手を添える。

 掴んでいるようには見えない。

 指先を添え、ほんの少しだけ持ち上げる。


ナターシャ「持つんじゃなくて、添えるくらい」

ミハイル「落ちないのか?」

ナターシャ「落とさない程度に」

ミハイル「難しいな……」

ナターシャ「次に肩」

ミハイル「まだあるのか」

ナターシャ「上がってる」

ミハイル「意識してないぞ」

ナターシャ「意識してないから上がるの」


 ナターシャは背筋を伸ばした。

 片足を引く。

 スカートへ手を添える。

 静かに身体を沈める。

 それだけだった。

 それだけなのに、ミハイルとはまったく違う。

 無理がない。

 動作が途中で途切れない。

 頭から足元まで、一つの流れになっている。

 そして立ち上がる。


ミハイル「…………」

ナターシャ「何?」

ミハイル「いや」


 ミハイルは正直に言った。


ミハイル「綺麗だなと思って」


 ナターシャが一瞬黙った。

 アレクサンドルがミハイルを見る。


ミハイル「何だよ」

アレクサンドル「いや、別に」

ナターシャ「……そう」


 ナターシャは少しだけ顔をそらした。

 それからすぐにミハイルへ向き直る。


ナターシャ「じゃあ、もう一回」

ミハイル「急に厳しくなってない?」

ナターシャ「気のせい」


     ◆


 三回。

 五回。

 十回。

 ミハイルはだんだん無言になってきた。


ミハイル「……女性って、みんなこれやるのか?」

ナターシャ「上流の娘なら、まあ覚えるでしょうね」

ミハイル「いつ頃から?」

ナターシャ「私は小さい頃から」

ミハイル「こんなのを?」

ナターシャ「こんなのを」

ミハイル「嫌じゃなかった?」

ナターシャ「嫌だったわよ」


 即答だった。

 ミハイルが顔を上げる。


ナターシャ「姿勢。歩き方。礼。座り方。踊り。手の位置。何度も何度もやり直し」

ミハイル「……お前でも?」

ナターシャ「私だから、よ」


 ナターシャは少し笑った。


ナターシャ「十二の頃なんて、ひどかったわ」

アレクサンドル「想像つかんな」

ナターシャ「裾を持ち上げすぎる。歩幅が大きい。すぐ走る。姿勢が男の子みたいだって、何度叱られたか」

ミハイル「今の俺じゃないか」

ナターシャ「だいたいそうね」

ミハイル「…………」

ナターシャ「あなたたちは一年に何度かでしょう?」

ミハイル「まあ……」

ナターシャ「私たちは、それを普通に覚えろと言われるのよ」


 ミハイルは自分のドレスを見る。

 今日だけでも死ぬほど面倒だった。

 これを幼い頃から当然のものとして覚えろと言われる。


ミハイル「……女も大変なんだな」

ナターシャ「今頃気づいた?」

ミハイル「今までこんなの着たことなかったからな」

アレクサンドル「人生勉強になったな」

ミハイル「お前は黙ってろ」


     ◆


 夕方。

 最後にもう一度、階段を下りることになった。


ミハイル「まだやるの?」

アレクサンドル「最後」

ナターシャ「私が先に行くわ」


 ナターシャが階段を下りる。

 スカートの位置を少し整え、一段。

 次の一段。

 ほとんど下を見ていない。

 なのに危なげがない。

 踊っている時と同じだ。

 身体だけではなく、衣装まで含めて動いている。

 下まで着く。


ナターシャ「どうぞ」


 ミハイルが階段を見る。

 次に自分のスカートを見る。


ミハイル「……馬に乗ってると思えばいいんだな」

アレクサンドル「階段で馬を思い出す奴は初めて見た」

ミハイル「分かりやすいんだよ!」


 一段。

 足先で位置を確かめる。

 二段。

 スカートを必要以上に持ち上げない。

 三段。

 下を見すぎない。

 途中で少しよろめいた。

 だが止まらない。

 そして。

 最後の一段を下りた。


ミハイル「…………」

ナターシャ「できたじゃない」


 ミハイルは振り返った。

 階段が妙に高く見える。


ミハイル「……できたな」

アレクサンドル「最初よりはだいぶましだ」

ミハイル「もっと素直に褒めろよ」

アレクサンドル「調子に乗るから嫌だ」


 ミハイルが笑った。

 これで終わった。

 そう思った。


アレクサンドル「じゃあ、最後にもう一つ」

ミハイル「まだあるのかよ!」

アレクサンドル「今度は、今日教えたことを全部忘れろ」

ミハイル「…………は?」


 意味が分からなかった。


ミハイル「お前、今日一日何してたんだよ」

アレクサンドル「いいから聞け」


 アレクサンドルが黒いスカートを指す。


アレクサンドル「今までのは、人前でまともに振る舞うためのやり方だ」

ミハイル「そうだろ」

アレクサンドル「でも、いつでもそんなことやってられるとは限らない」

ミハイル「例えば?」

アレクサンドル「何でもいい。洪水。暴れ馬。建物が崩れる。暴徒に追われる」

ミハイル「最後だけ急に物騒だな」

アレクサンドル「要するに、今すぐここから逃げろって時だ」


 ナターシャが頷いた。


ナターシャ「その時にレヴェランスが綺麗でも何の役にも立たないわね」

ミハイル「それはそうだ」

アレクサンドル「そういう時は、格好なんて気にするな」


 アレクサンドルは思い切り手を上げる仕草をした。


アレクサンドル「裾を持てるだけ上げろ」

ミハイル「そんなに?」

アレクサンドル「足が見えた方がいい。膝が見えようが何だろうが構わん」

ナターシャ「非常時ならね」

ミハイル「最初からそれで歩いちゃ駄目なの?」

アレクサンドル「舞踏会でそれをやったら、俺は他人のふりをする」

ミハイル「薄情だな!」

アレクサンドル「いいからやってみろ」


 ミハイルは黒いスカートを両手で思い切り持ち上げた。

 それまで慎重に扱ってきた布が、一気に膝の近くまで上がる。


ミハイル「……うわ」


 足元が見える。

 圧倒的に見やすい。


ミハイル「これなら走れるぞ!」

アレクサンドル「だから走れ」

ミハイル「今?」

アレクサンドル「向こうまで」

ミハイル「よし!」


 走る。

 今までの上品な歩き方が馬鹿らしくなるほど速い。


ミハイル「おお! 走れる!」

ナターシャ「でも横幅はそのままよ!」

ミハイル「え?」


 そのまま扉を抜けようとした。

 パニエの端が枠へぶつかる。


ミハイル「うおっ!」

アレクサンドル「だから服そのものが小さくなったわけじゃない!」

ミハイル「先に言え!」

アレクサンドル「狭いところは横を向け!」


 今度は身体を横へ。

 抜ける。


ミハイル「なるほど!」


 確かに速い。


 ただし両手が完全に塞がる。

 大量の布を握っているので、腕も自由にはならない。


ナターシャ「それから、たくし上げた布を抱え込みすぎると、それはそれで動きにくいわ」

ミハイル「非常時まで難しいのかよ!」

ナターシャ「服そのものが消えるわけじゃないもの」


 アレクサンドルが机の上の扇を取った。


アレクサンドル「それと本番なら、こういうのを持ってることもある」


 閉じた扇をミハイルへ渡す。


ミハイル「これ持って走れって?」

アレクサンドル「いざという時に、いちいち荷物を整理してから逃げるのか?」

ミハイル「……それもそうか」


 右手で扇とスカートを一緒に握る。

 左手でも裾を持つ。


アレクサンドル「もう一回!」

ミハイル「よし!」


 勢いよく走る。

 ところが、途中で握った布がずれた。


ミハイル「あっ」


 反射的に腕を上げる。

 次の瞬間。

 閉じた扇の先が、自分の額を直撃した。

 ゴツン。


ミハイル「いっっってえええええ!!」


 その場にしゃがみ込んだ。


ナターシャ「ミハイル!」

アレクサンドル「何やってんだ、お前!」

ミハイル「痛い! めちゃくちゃ痛い!」


 額を押さえる。

 ナターシャが吹き出した。


ミハイル「笑うな!」

ナターシャ「だって、自分で自分を……」

ミハイル「なんでこんなに痛いんだよ、この扇!」

アレクサンドル「閉じたら普通に硬いからな」

ミハイル「先に言え!」

アレクサンドル「普通、自分の頭は殴らない」

ミハイル「くそ……」


 ミハイルは恨めしそうに扇を見る。

 優雅に風を送るための道具だと思っていた。

 閉じてしまえば、意外なほど硬い。


ミハイル「……こんなの、まともに人の頭に当たったら大変だぞ」

アレクサンドル「当てるなよ」

ミハイル「当てないよ!」


 ナターシャはまだ笑っていた。


     ◆


 ようやく本当に練習が終わった。

 朝には、こんなものを覚えて何になると思っていた。

 今でも、そう思っている部分はある。

 だが。

 できなかったことが、できるようになる。

 その感覚自体は悪くなかった。

 ミハイルは黒いスカートを見下ろした。

 普通に歩く方法。

 曲がる方法。

 座る方法。

 立つ方法。

 階段を下りる方法。

 綺麗に礼をする方法。

 そして。

 何もかも無視して逃げる方法まで覚えた。


ミハイル「なあ、サーシャ」

アレクサンドル「何だ」

ミハイル「次は何やるんだ?」


 アレクサンドルが少し驚いた顔をする。

 ナターシャもミハイルを見る。


ミハイル「何だよ」

アレクサンドル「いや」


 にやりと笑う。


アレクサンドル「ずいぶんやる気になったなと思って」

ミハイル「違う!」

アレクサンドル「じゃあやめるか?」

ミハイル「……それは」


 少し考える。


ミハイル「次にまたあんな目に遭うなら、何も知らないよりはましだ」

アレクサンドル「そういうことにしておいてやるよ」

ミハイル「腹立つな、お前」

ナターシャ「次は踊りじゃない?」

ミハイル「…………」


 舞踏会での悪夢が蘇った。


ミハイル「それだけは最後にしてくれ」

アレクサンドル「却下」

ミハイル「なんでだよ!」


 ナターシャが笑った。

 アレクサンドルも笑った。


 ミハイルは文句を言いながらも、もう黒いスカートを以前ほど邪魔そうには扱っていなかった。

 まだ上手いとは到底言えない。

 レヴェランスもぎこちない。

 階段では緊張する。

 踊りに至っては、考えたくもない。

 そして非常時に走れば、自分の扇で自分を殴る。

 それでも。

 ほんの少しだけ。

 あの日、宮廷の控室で何も分からず立ち尽くしていた男とは違っていた。

 この時、三人の間にあるものは、まだただの特訓だった。

 名前もない。

 決まりもない。

 仲間を増やそうなどとは、誰も考えていない。

 ましてや今日覚えた「なりふり構わず走る方法」や、額を痛めたあの扇が、後になって思わぬところで役に立つことなど。

 まだ三人とも、知る由もなかった。


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