↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/13

第一章


 挿絵(By みてみん)



 目を覚ましたとき、ミハイルは最初、自分がどこにいるのか分からなかった。


 ひどく身体が重い。


 腹のあたりが締め付けられている。


 腰から下には、何か巨大なものが載っているような感覚がある。


 そして鼻先には、どこか甘い化粧品の匂い。


ミハイル「…………」


 ぼんやりと目を開ける。


 自分だけがいつもと違っていた。


 視界の下半分を、黒い布が埋め尽くしている。


挿絵(By みてみん)


 黒い絹。


 銀糸の刺繍。


 幾重にも重なったレース。


 胸元には宝石まで光っていた。


ミハイル「……ああ」


 そこで思い出した。


 今日だった。


 宮廷で開かれる、あの妙な舞踏会。


 男が女物を着て、女が男物を着るという話は以前から聞いていた。


 ここ数年、宮廷ではそういう変わった催しがあるらしい。


 ミハイル自身には縁のない話だと思っていた。


 始まった頃にはまだ十代だったし、宮廷に出入りするようになったのも最近だ。


 先輩の士官たちが、


 ――今年もやるらしいぞ。


 ――今度は誰が呼ばれた。


 などと話しているのを耳にしたことがある程度だった。


 そして今回、自分にも招待が来た。


 男は女装して出席すること。


 それくらいは理解していた。


 採寸もされた。


 何度も身体の寸法を測られた。


 腰回りから胸、肩、腕の長さまで、やたらと細かかった。


 その時にも、


ミハイル「たかが仮装なのに、ずいぶん本気なんだな」


 と言った覚えがある。


 ただ、ミハイルが想像していたのは、もっとずっと気楽なものだった。


 男物の服の上からスカートでも穿かされるのだろう。


 女物の上着を羽織るのかもしれない。


 子供の頃、従姉妹たちの悪ふざけで女物のスカートを腰に巻かれたことが一度あった。


 ふわふわしている。


 歩きにくい。


 そんな程度の記憶だった。


 だから今回も、まあ似たようなものだと思っていた。


 多少滑稽な格好をして、皆で笑って終わる。


 宮廷式の大がかりな仮装遊び。


 そういうものだと。


 ところが。


ミハイル「…………」


 ミハイルはゆっくりと立ち上がった。


 腰から左右へ、とんでもない幅のスカートが広がった。


ミハイル「うわっ」


 椅子に引っかけそうになり、慌てて身体を止める。


 腹はきつい。


 肩も動かしにくい。


 足元も見えない。


ミハイル「なんだよ、これ……」


 壁際に置かれた大きな鏡が目に入った。


 何気なくそこへ顔を向ける。


 そして固まった。


 女がいた。


 黒い宮廷衣装に身を包んだ若い貴婦人。


 高く整えられた髪。


 銀の髪飾り。


 白く整えられた肌。


 頬には薄く色が入り、唇には紅が引かれている。


挿絵(By みてみん)


 目元まで普段とは印象が違う。


 ミハイルは反射的に後ろを振り返った。


 誰もいない。


 鏡へ戻る。


 貴婦人もこちらを見る。


ミハイル「…………俺?」


 鏡の女が、完全に男の声でしゃべった。


挿絵(By みてみん)


 そこでようやく理解した。


ミハイル「いやいやいや」


 鏡へ近づく。


 間違いない。


 自分だ。


 顔の形も目も鼻もミハイル自身である。


 だが、全体として見ると別人だった。


 服だけではない。


 髪。


 肌。


 眉。


 唇。


 首元。


 宝石。


 すべてが一つの姿を作るためにまとめられている。


 冗談で男にドレスを着せた姿ではない。


 最初から「宮廷貴婦人」に見せるために仕上げられていた。


ミハイル「女物を着るとは聞いてたぞ……」


 鏡を眺める。


ミハイル「聞いてたけど……」


 黒衣の女も困惑した顔になる。


ミハイル「聞いてた話と違うぞ!」


 その声を聞きつけたのか、扉が開いた。


ダーリヤ「お目覚めですか」


 入ってきたのは、先ほどまで着付けをしていたダーリヤだった。


 その後ろからワルワーラとプラスコーヴィヤも顔を出す。


ミハイル「ダーシャ!」


ダーリヤ「はい」


ミハイル「何だこれは!」


ダーリヤ「お召し物でございます」


挿絵(By みてみん)


ミハイル「それは見れば分かる!」


ワルワーラ「とてもお似合いですよ」


ミハイル「そういう話じゃない!」


挿絵(By みてみん)


 プラスコーヴィヤが、まじまじとミハイルを見ている。


プラスコーヴィヤ「でも本当にお綺麗です」


ミハイル「パーシャまで!」


ダーリヤ「そろそろお時間です」


ミハイル「待て。俺はこんな本格的なことをするなんて聞いてないぞ」


ダーリヤ「採寸もいたしましたでしょう」


ミハイル「妙に細かいとは思ったよ!」


ワルワーラ「レヴェランスの練習もしておいた方がよろしいと、何度も言われていたではありませんか」


 ミハイルが黙った。


ダーリヤ「なさいましたか?」


ミハイル「…………」


ワルワーラ「なさってませんね」


ミハイル「だって!」


 ミハイルは自分の巨大なスカートを指さした。


ミハイル「ここまでやるなんて思わないだろ普通!」


 三人が顔を見合わせた。


 誰も助けてくれなかった。


     ◆


 宮殿へ向かう馬車の中でも、ミハイルは落ち着かなかった。


 座っているだけでも場所を取る。


 スカートをどう収めればいいのか分からない。


 少し身体を動かすたびに、布がどこかへ引っかかる。


 鏡を見なくても、自分がとんでもない姿をしていることだけは分かった。


 宮殿に着くと、係の者からまず控えの間へ向かうよう指示された。


 そこまでは聞いていた通りだ。


 大広間へ入る前に、参加者が衣装を整えたり待機したりする部屋がある。


 問題は、そこへ行くまでだった。


 歩けない。


 いや、正確には歩ける。


 しかし普通に歩こうとすると、どうにもドレスが邪魔をする。


挿絵(By みてみん)


 一歩。


 布が足に触れる。


 二歩。


 裾を踏みそうになる。


ミハイル「くそっ……」


 スカートを持ち上げる。


 今度は上げすぎた気がした。


 下ろす。


 また邪魔になる。


ミハイル「これ、どうやって歩くんだよ……」


 廊下を通る間にも何人かの使用人とすれ違った。


 誰も笑わない。


 それが逆に困る。


 皆、「そういうもの」として扱っている。


 ミハイルだけが、この状況についていけていなかった。


 そして控室の扉を開けた。


     ◆


 最初に見えたのは、女たちだった。


 ミハイルはそう思った。


 赤。


 青。


 白。


 黄色。


 薄紫。


 花柄。


 金糸。


 銀糸。


 部屋の中に、華やかなドレス姿の人間が大勢いる。


 ある者は扇を手にしている。


 ある者は鏡の前で髪を直している。


 ある者は二、三人で談笑している。


 遠目に見れば、完全に貴婦人たちの控室だった。


ミハイル「…………」


 一瞬だけ、部屋を間違えたのかと思った。


 だが。


 よく見る。


ミハイル「……あれ?」


 一人、妙に肩幅が広い。


 その向こうの「女性」は、首が太い。


 別の者は、化粧の下に見覚えのある顔をしていた。


 近衛で見たことがあるような気がする。


ミハイル「……男か」


 さらに見回す。


 男。


 あれも男。


 こっちも男。


 遠目では貴婦人に見えた人々の多くが、実際には女装した男性だった。


挿絵(By みてみん)


 しかも、ミハイルと同じだ。


 服だけを取り替えたという程度ではない。


 髪も。


 化粧も。


 装飾品も。


 完全に作り込まれている。


ミハイル「みんな、このレベルなのかよ……」


 そこで、もう少し目が慣れてきた。


 すると別の意味で色々と見えてくる。


 全員が全員、見事に貴婦人へ化けているわけでもない。


 奥には、どう見ても五十代くらいの恰幅のいい男がいた。


 大きな腹の周りに、これまた巨大な花柄のスカートを広げて座っている。


 化粧は念入りだ。


 髪も整えられている。


 それでも、


 ――いや、あなたはさすがにおじさんだろう。


 としか思えない。


 さらに向こうには白髪交じりの年配者。


 こちらは姿勢こそ立派だが、顔だけ見れば完全に老紳士だった。


 その老紳士が淡い色のドレスを着て、扇を使いながら別の男と何事もないように話している。


 軍人らしいがっしりした体格。


 太った中年貴族。


 細身の若者。


 白髪の老人。


 年齢も体格もばらばらだ。


 かなり綺麗に化けている者。


 少し離れれば女性にしか見えない者。


 近づくと「ああ、男だ」と分かる者。


 どう頑張っても最初から男性にしか見えない者。


 それら全部が、同じように本式のドレスを着ていた。


ミハイル「…………」


 ミハイルは改めて自分の黒い衣装を見た。


ミハイル「俺だけじゃないのか……」


 当然といえば当然だった。


 男が女装する舞踏会なのだから。


 だが、頭で知っているのと、この光景を実際に見るのとではまるで違った。


ミハイル「……本気すぎないか?」


アレクサンドル「何が?」


 横から声がした。


 振り向く。


 赤いドレス姿の男が立っていた。


 ミハイルより少し年上だろう。


 背は高い。


 顔立ちは精悍で、化粧をされていても男性だとは分かる。


 しかし問題は、その立ち方だった。


 自然だった。


 巨大な赤いスカートを身につけているのに、まるで邪魔にしていない。


アレクサンドル「お前、初めてか?」


挿絵(By みてみん)


ミハイル「……なんで分かる」


アレクサンドル「見れば分かる」


ミハイル「そんなに?」


アレクサンドル「ものすごく」


ミハイル「うるさい」


 男が笑った。


アレクサンドル「名前は?」


ミハイル「ミハイル・アンドレエヴィチ」


アレクサンドル「ミハイルか。俺はアレクサンドル・イリイチ。サーシャでいい」


ミハイル「分かった。サーシャ」


 アレクサンドルはミハイルを上から下まで眺めた。


アレクサンドル「しかしまあ」


ミハイル「何だよ」


アレクサンドル「よく似合うな」


ミハイル「殴るぞ」


アレクサンドル「そんな格好で?」


ミハイル「殴れる!」


アレクサンドル「まずまともに歩いてみろ」


 ミハイルは言葉に詰まった。


 痛いところだった。


アレクサンドル「レヴェランスは?」


ミハイル「……一応、練習しろとは言われた」


アレクサンドル「で?」


ミハイル「…………」


アレクサンドル「してないのか?」


ミハイル「だって、こんな本格的なもんだと思わないだろ!」


アレクサンドル「何だと思ってたんだ」


ミハイル「仮装だよ。もっとこう……適当に女物を着るくらいの」


アレクサンドル「誰がそんなこと言った」


ミハイル「誰も言ってないけど」


アレクサンドル「じゃあ勝手に思い込んだだけじゃないか」


ミハイル「うるさいな!」


 アレクサンドルはため息をついた。


アレクサンドル「仕方ない。今やるぞ」


ミハイル「何を」


アレクサンドル「レヴェランス」


ミハイル「今?」


アレクサンドル「大広間で陛下の前に出てから練習する気か?」


ミハイル「…………」


アレクサンドル「そこに立て」


 赤いスカートを軽くつまむ。


 片足を後ろへ引く。


 背筋を伸ばしたまま、膝を曲げて静かに身体を沈める。


挿絵(By みてみん)


 大きなドレスが、その動きに合わせてわずかに形を変える。


 そして何事もなかったように立ち上がる。


ミハイル「…………」


アレクサンドル「何だよ」


ミハイル「いや……」


アレクサンドル「やれ」


ミハイル「今のを?」


アレクサンドル「そうだ」


 ミハイルもスカートをつまむ。


 片足を引く。


 膝を曲げる。


 上半身まで前へ倒れた。


アレクサンドル「違う!」


ミハイル「うわっ」


アレクサンドル「腰を折るな」


ミハイル「曲げてるのは膝だ!」


アレクサンドル「腰も曲がってる!」


ミハイル「細かいな!」


アレクサンドル「細かくない!」


 もう一度。


アレクサンドル「足が違う」


ミハイル「さっきこっちだったろ!」


アレクサンドル「いいからもう一回」


ミハイル「面倒くせえ!」


アレクサンドル「だから練習しとけって言われたんだろ!」


 反論できない。


 三回。


 四回。


 五回。


 やがてアレクサンドルが腕を組んだ。


アレクサンドル「……まあ」


ミハイル「何だ」


アレクサンドル「今すぐ大事故にはならない程度にはなった」


ミハイル「褒め方ってものがあるだろ」


アレクサンドル「行くぞ」


ミハイル「どこへ」


 アレクサンドルが扉を示した。


アレクサンドル「大広間」


     ◆


 扉が開く。


 音楽が一気に大きくなった。


 無数の蝋燭。


 高い天井。


 金色の装飾。


 大きな鏡。


 広間いっぱいに人々がいる。


 しかし、ミハイルが足を止めた理由は宮殿の豪華さではなかった。


ミハイル「…………」


 話には聞いていた。


 男は女装する。


 女は男装する。


 知っていた。


 だが。


ミハイル「ここまでやるのかよ……」


 目の前で踊っている。


 女物の宮廷衣装を着た男たち。


 男性用の衣装を着た女たち。


 それだけではなかった。


 単に服を交換しているのではない。


 役割そのものが入れ替わっている。


 男装した女性が堂々と立ち、相手を促す。


 ドレス姿の男が、それを受ける。


 向かい合う。


 礼をする。


 女性側に立った男がスカートを扱い、慎重な足取りで動く。


 男装した女性は男性側の役割を取っている。


 そこかしこで、それが当たり前のように繰り返されていた。


ミハイル「衣装だけじゃないのか……」


アレクサンドル「当たり前だろ」


ミハイル「俺は聞いてないぞ」


アレクサンドル「聞こうとしなかっただけじゃないのか?」


ミハイル「…………」


 また反論できない。


 目の前を一組が通る。


 男装した若い女性。


 その相手は、ドレス姿の初老の男だった。


 初老の男は、少しぎこちないながらも裾を整え、相手に合わせて動いている。


 その向こうでは、若い男が見事なドレス姿で踊っていた。


 遠くからでは完全に女性に見える。


 さらにその横を、どう見ても大柄な軍人らしい「貴婦人」が通っていく。


ミハイル「……すごいな」


 思わず口から出た。


アレクサンドル「何が」


ミハイル「いや……なんというか」


 言葉が見つからない。


 馬鹿馬鹿しい。


 異様だ。


 なのに、これだけ大勢が揃い、誰もふざけず本気でやっていると、妙な迫力があった。


 アレクサンドルが赤いスカートを軽く整えた。


ミハイル「何してるんだ」


アレクサンドル「踊るんだよ」


ミハイル「お前も?」


アレクサンドル「何しに来たと思ってる」


 一人の男装した女性が近づいてくる。


 アレクサンドルは何のためらいもなく相手へ向き直った。


 そして先ほどミハイルに教えたのと同じ――いや、それより遥かに自然な動作で礼をする。


 赤いドレスの裾が、ふわりと動く。


 女性も応じる。


 やがて二人は広間へ入っていった。


ミハイル「…………マジかよ」


 ほんの少し前まで、


 腰を曲げるな。


 足が違う。


 と怒鳴っていた男が。


 今は何食わぬ顔で「女性側」に立っている。


 しかも上手い。


挿絵(By みてみん)


 少なくともミハイルにはそう見えた。


 周囲の誰も笑わない。


 誰も指を差さない。


 これが、この場の普通なのだ。


 ミハイルは一人で取り残された。


ミハイル「…………」


 右を見る。


 男女逆転。


 左を見る。


 男女逆転。


 前を見ても。


 後ろを見ても。


 今まで知っていた舞踏会と、似ているようで何かが全部違う。


謎の美青年「そんなところに立っていると、邪魔になりますよ」


ミハイル「え?」


 振り返る。


 若い男が立っていた。


 ミハイルは一瞬、見入った。


挿絵(By みてみん)


 美しい。


 そう思った。


挿絵(By みてみん)


 年齢は自分と同じくらいだろうか。


 細身で背が高い。


 整った顔立ち。


 男性用の礼装を着ている。


 立ち姿にも隙がない。


 まるで物語に出てくる若い貴公子だった。


謎の美青年「初めてですか?」


ミハイル「……それ、今日何人目だ」


謎の美青年「?」


ミハイル「いや、何でもない」


 青年が少し笑った。


謎の美青年「踊らないんですか?」


ミハイル「今、赤いのを見てた」


謎の美青年「アレクサンドル?」


ミハイル「知ってるのか?」


謎の美青年「ええ」


ミハイル「あいつ、なんであんな普通にやれるんだ」


謎の美青年「慣れでしょうね」


ミハイル「またそれか……」


 青年が広間を見る。


 それからミハイルへ向き直った。


謎の美青年「では、一曲いかがです?」


ミハイル「…………俺と?」


謎の美青年「ほかに誰が?」


 手が差し出された。


 ミハイルはその手と、青年の顔を交互に見る。


ミハイル「先に言っておくけど、俺はろくに踊れないぞ」


謎の美青年「大丈夫です」


ミハイル「何が大丈夫なんだ」


謎の美青年「私が合わせますから」


ミハイル「……そういうもんなのか?」


謎の美青年「そういうものです」


 少なくとも、壁際で突っ立っているよりはましだろう。


 ミハイルは諦めて、その手を取った。


ミハイル「分かったよ」


謎の美青年「よろしく」


     ◆


 始まってすぐに後悔した。


 相手はうまかった。


 だからこそ、自分のひどさがよく分かった。


 まず最初の礼から怪しい。


 さっきアレクサンドルに教えられた通りにしたつもりだった。


 しかし、立ち上がったときには既に相手が次の位置へ動いている。


ミハイル「待て待て」


謎の美青年「焦らなくても大丈夫です」


挿絵(By みてみん)


ミハイル「俺だけ遅れてるだろ」


謎の美青年「少しだけ」


ミハイル「少しじゃないだろ」


 音楽に合わせて位置を変える。


 青年は軽やかだ。


 一方のミハイルは、足よりもスカートのことが気になる。


謎の美青年「歩幅が大きいです」


ミハイル「これでも小さくしてる!」


謎の美青年「もう少し」


ミハイル「軍隊じゃ、もっと大股で歩けって言われるんだぞ」


謎の美青年「今は軍隊じゃありません」


ミハイル「分かってる!」


 方向を変える。


 スカートが一瞬遅れてついてくる。


ミハイル「うわっ」


謎の美青年「裾を気にしすぎです」


ミハイル「気にしないと踏むんだよ!」


謎の美青年「でも下ばかり見ていると、もっと危ないですよ」


ミハイル「注文が多いな!」


 青年が笑った。


 妙なことに、その笑顔まで格好よかった。


 向かい合う。


 離れる。


 また近づく。


 一瞬だけ手を取る。


 ミハイルが位置を間違えそうになるたび、青年がごく自然に調整してくれる。


 押しつけがましくない。


 だが確実に助けられている。


 ミハイルは少し悔しくなった。


ミハイル「お前、相当慣れてるな」


謎の美青年「そうでしょうか」


ミハイル「俺と全然違う」


謎の美青年「あなたは今日が初めてでしょう?」


ミハイル「見れば分かるか?」


謎の美青年「かなり」


ミハイル「もう聞き飽きたよ!」


 曲が終わる頃には、ミハイルはすっかり疲れていた。


 戦場でもないのに、こんなに足元へ神経を使ったことはない。


ミハイル「……終わった」


謎の美青年「お疲れさまでした」


ミハイル「そっちは全然疲れてないじゃないか」


謎の美青年「慣れていますから」


ミハイル「またそれだ」


 そこへ赤いドレスが戻ってきた。


アレクサンドル「お、終わったか」


ミハイル「サーシャ!」


アレクサンドル「どうだった、ナターシャ」


謎の美青年「思ったよりは踊れたわ」


 ミハイルが止まった。


ミハイル「……今、何て?」


アレクサンドル「何が?」


ミハイル「ナターシャ?」


 美青年が首を傾げた。


アレクサンドル「紹介してなかったのか」


ミハイル「何を」


アレクサンドル「ナターリヤ・セルゲーエヴナ」


 ミハイルは青年を見る。


ミハイル「ナターリヤ?」


ナターシャ「ええ」


ミハイル「…………女?」


ナターシャ「そうですけど」


ミハイル「女!?」


 声が広間に響いた。


 何人かがこちらを見る。


ナターシャ「失礼ね」


ミハイル「いや、だって!」


 改めて見る。


 男にしか見えない。


 少なくともミハイルには、つい今までそう見えていた。


ミハイル「どう見ても男じゃないか!」


ナターシャ「今夜はそう見えるようにしているんだから、当然でしょう」


ミハイル「いや、それは……」


 言葉が止まる。


 自分を見る。


 黒いドレス。


 化粧。


 宝石。


 広がったスカート。


 次にナターシャを見る。


 美しい青年。


 その向こうには赤いドレスのアレクサンドル。


 広間には、男装した女たちと女装した男たち。


ミハイル「…………」


 今日一日の情報が一気に頭へ戻ってきた。


ミハイル「もう無理だ」


アレクサンドル「何が」


ミハイル「情報量が多すぎる」


 ミハイルは近くの椅子へ逃げるように腰を下ろした。


 巨大な黒いスカートが周囲へ広がる。


ナターシャ「大丈夫?」


ミハイル「大丈夫じゃない」


アレクサンドル「そのうち慣れる」


ミハイル「慣れたくない」


アレクサンドル「みんな最初はそう言う」


ミハイル「俺は本気だ」


アレクサンドル「それもみんな言う」


 アレクサンドルが腕を組んだ。


 真紅のドレス姿で。


アレクサンドル「とりあえず決めた」


ミハイル「何を」


アレクサンドル「お前、特訓な」


ミハイル「は?」


アレクサンドル「レヴェランス。歩き方。踊り。全部ひどい」


ミハイル「余計なお世話だ!」


アレクサンドル「次に呼ばれたらどうする」


 ミハイルの動きが止まった。


ミハイル「…………次?」


アレクサンドル「あるぞ」


ミハイル「また?」


アレクサンドル「今度いつかは知らんけどな」


ミハイル「一回で終わりじゃないのかよ!」


アレクサンドル「誰がそんなこと言った」


ミハイル「誰も言ってない!」


アレクサンドル「また勝手に思い込んだのか」


ミハイル「うるさい!」


 ナターシャが笑う。


ナターシャ「でも、習っておいた方がいいと思うわ」


ミハイル「お前まで言うな!」


アレクサンドル「決まりだな」


ミハイル「決めるな!」


アレクサンドル「どうせ暇だろ。付き合ってやるよ」


ミハイル「暇じゃねえ!」


 アレクサンドルとナターシャが笑った。


 ミハイルだけは笑えなかった。


 このときの彼は、まだ知らなかった。


 今日、仕方なく覚えた一つのレヴェランス。


 歩くだけで苦労する巨大なスカート。


 そして、赤いドレスの男と、美青年にしか見えない女。


 そのすべてが、やがて彼の日常を大きく変えていくことを。


 ましてや、この奇妙な技術を真剣に学ぶ者たちの集まりが生まれ、その名が後々まで残ることになるなど――。


 この時点のミハイルには、想像する余地すらなかった。


おまけ


挿絵(By みてみん)


ダーリャ、ワルワーラ、プラスコーヴィヤ。

アンドレエヴィチ家に仕える三人のメイドたち――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。