プロローグ 着付け
ダーリヤ「もう少し、こちらを締めますよ」
ダーリヤがそう言うと、ミハイルは鏡の前で小さくうめいた。
ミハイル「まだ締めるのか……?」
ダーリヤ「まだ、です」
背中で紐が引かれる。
息ができないほどではない。だが、いつもの軍服とは何もかも勝手が違った。胸から腰までを固く包まれ、腹を引っ込めろ、背筋を伸ばせ、肩の力を抜けと、朝から注文ばかりである。
ミハイル「どうして男がこんな目に……」
ワルワーラ「それは私たちにおっしゃられても」
ワルワーラが笑いながら答えた。
彼女の手には刷毛と化粧道具が握られている。
ワルワーラ「はい、こちらを向いてください。まだお顔が終わってませんから」
ミハイル「顔までやる必要あるのか?」
ワルワーラ「もちろんです」
即答だった。
隣では若いプラスコーヴィヤ(パーシャ)が、床いっぱいに広がった黒い絹のスカートを一生懸命整えている。
プラスコーヴィヤ「ダーシャさん、こっちの飾り紐は?」
ダーリヤ「後。先に裾を整えて」
プラスコーヴィヤ「はい」
ミハイルは大きくため息をついた。
朝からずっとこんな調子だった。
下着を替えさせられ、靴を履かされ、身体を締め上げられ、その上から何枚もの布を重ねられた。
今では自分の身体がどこまでで、衣装がどこからなのかすら怪しい。
しかも、終わりが見えない。
ワルワーラがミハイルの顎を軽く持ち上げた。
ワルワーラ「目を閉じてください」
ミハイル「……もう閉じてる」
ワルワーラ「寝ないでくださいね」
ミハイル「寝ない……」
言った直後、ミハイルの頭がかくんと落ちた。
三人の手が止まる。
プラスコーヴィヤが目を丸くした。
プラスコーヴィヤ「寝ました?」
ダーリヤが顔を覗き込む。
ダーリヤ「寝たわね」
プラスコーヴィヤ「こんな格好の途中で?」
ダーリヤ「朝から散々文句を言ってましたもの。疲れたんでしょう」
ワルワーラが吹き出した。
ワルワーラ「あらあら。またお休みになったわ」
プラスコーヴィヤ「起こします?」
ダーリヤは少し考えてから首を振った。
ダーリヤ「いいえ。このまま進めましょ」
プラスコーヴィヤ「いいんですか?」
ダーリヤ「起きていても文句を言うだけですもの」
三人は何事もなかったかのように作業を再開した。
眠っている本人をよそに、ミハイルの姿は急速に変わっていった。
頬に色が差され、眉が整えられ、唇には淡い紅が置かれる。
髪は高く結い上げられ、その上に飾りが重ねられた。
黒い絹地には銀糸の刺繍とレースが重なり、腰から下には巨大なスカートが静かに広がっていく。
黒という色のせいだろうか。
華やかでありながら、どこか威厳があった。
軽やかな少女というより、夜会の中央に立つ、気位の高い貴婦人。
プラスコーヴィヤが何度もミハイルの顔と衣装を見比べた。
プラスコーヴィヤ「……本当に男の方なんですよね?」
ワルワーラ「三度目よ、それ」
ワルワーラが笑う。
プラスコーヴィヤ「だって……」
ワルワーラ「黙ってその髪飾りを持って」
最後にダーリヤが胸元の宝石を留めた。
三人が一歩下がる。
そこにいたのは、先ほどまで不機嫌そうに椅子へ座っていた若い男ではなかった。
豪奢な黒い宮廷ドレス。
白く整えられた肌。
高く結われた髪。
黒と銀、宝石とレースに包まれた姿は、どこから見ても盛装した宮廷貴婦人だった。
しかも、ひどく堂々として見える。
本人が目を覚ましていれば、さぞ嫌そうな顔をしたことだろう。
だが当のミハイルは、そんな自分の姿をまだ知らない。
椅子の上で、静かに寝息を立てている。
ワルワーラが口元を押さえて笑った。
ワルワーラ「まあ」
プラスコーヴィヤも思わず頷く。
プラスコーヴィヤ「お綺麗ですこと」
ダーリヤは満足そうに一度全身を眺めると、淡々と言った。
ダーリヤ「では、起きたら鏡を見せて差し上げましょう」
三人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に笑った。




