エピローグ カーテシー・クラブ
事件から三日ほどが過ぎた。
ミハイルの屋敷。
いつもの客間には、四人が集まっていた。
ただし今日は、誰もドレスを着ていない。ナターシャはスカートを履いていたが、宮廷ドレスに慣れた者の目には「ドレス」のカテゴリには入らない。
ミハイルはそれだけでかなり機嫌がよかった。
ミハイル「やっぱり男物の服って最高だな」
アレクサンドル「そこまで感動することか?」
ミハイル「自分で着られる。歩ける。座れる。走れる」
ナターシャ「ずいぶん低いところに幸福を見つけたわね」
ミハイル「俺はこの数週間で、普通に歩けることのありがたさを知ったんだよ」
テーブルの上には、何枚もの紙が広げられていた。
ニコライが作った覚え書きである。
事件の日に濡れたものもある。
新しく清書されたものもある。
歩行。
方向転換。
着席。
起立。
階段。
レヴェランス(カーテシー)。
舞踏。
裾の扱い。
非常時の移動。
最初は数行だったものが、いつの間にかかなりの量になっていた。
ニコライ「とりあえず、分かっていることは整理しました」
ミハイル「増えたなあ」
アレクサンドル「お前が細かいことまで全部書くからだろ」
ニコライ「必要です」
アレクサンドル「『狭い扉では横向きになる』まで書くのか?」
ニコライ「必要でしたよね?」
全員が黙った。
事件の日。
巨大なスカートのまま扉に突っ込もうとしていた人間を何人見たか分からない。
アレクサンドル「……必要だな」
ニコライ「でしょう?」
少し得意そうだった。
ミハイルが別の紙を見る。
ミハイル「これ何?」
ニコライ「習熟表です」
ミハイル「まだやってたのか」
名前。
その横に項目。
そして印。
アレクサンドルはかなり埋まっている。
ニコライはまだ少ない。
ミハイルはその中間まで来ていた。
ミハイル「お」
思わず声が出る。
ミハイル「俺、増えてる」
ニコライ「階段と方向転換は、もう大丈夫だと思います」
ミハイル「レヴェランスは?」
ニコライ「もう少し」
ミハイル「厳しいな!」
ナターシャ「妥当じゃない?」
ミハイル「お前まで!」
ミハイルはナターシャの欄を見る。
ほとんど全部できることになっている。
ミハイル「……ずるくない?」
ナターシャ「何がよ」
ミハイル「最初から全部覚えてるじゃないか」
ナターシャ「何年やらされたと思ってるの」
ミハイル「十二の頃からだっけ」
ナターシャ「もっと前からよ」
ミハイル「それはそれで気の毒だな」
ナターシャ「でしょう?」
◆
しばらくは雑談だった。
だが。
四人とも、今日集まった本当の理由は分かっていた。
最初に口を開いたのはミハイルだった。
ミハイル「で」
アレクサンドル「うん」
ミハイル「これからどうする?」
ニコライが紙から顔を上げる。
ナターシャ「続けるんでしょう?」
ミハイル「まあ、そうなんだけど」
ミハイルはテーブルの紙を見る。
ミハイル「最初は俺が困って、サーシャに教えてもらって」
アレクサンドル「ひどかったな」
ミハイル「そこはいらない」
続ける。
ミハイル「それからナターシャに教えてもらって、コーリャが来て、他の奴も来るようになった」
ニコライ「はい」
ミハイル「今度だって、また初めて呼ばれる奴はいる」
アレクサンドル「間違いなくな」
ミハイル「そいつにまた最初から『歩けません、座れません、階段怖いです』ってやらせるのも馬鹿らしいだろ」
ニコライ「僕ですね」
ミハイル「俺もだ」
少し笑う。
ミハイル「だから、続けよう」
短い言葉だった。
だが誰も反対しなかった。
アレクサンドル「俺も賛成」
ニコライ「僕も」
ナターシャも頷いた。
ナターシャ「必要でしょうね」
そこでミハイルが言った。
ミハイル「じゃあ四人で――」
ナターシャ「ちょっと待って」
ミハイル「何?」
ナターシャ「私は入らないわよ」
ミハイルが目を丸くした。
ミハイル「なんで?」
ナターシャ「だって、これは男の人たちがメタモルフォーゼで困らないための集まりでしょう?」
アレクサンドル「まあな」
ナターシャ「私は困ってないもの」
ミハイル「確かに」
ナターシャ「必要な時には教える。見本もする。でも会員とかそういうのは違うと思う」
ミハイルは少し考えた。
確かにその通りだった。
ナターシャは、この集まりに欠かせない。
だが。
困っている当事者ではない。
ミハイル「じゃあ協力者」
ナターシャ「それならいいわ」
アレクサンドル「顧問?」
ナターシャ「偉そうだから嫌」
ニコライ「指導員……」
ナターシャ「仕事みたい」
ミハイル「じゃあナターシャでいいだろ」
ナターシャ「最初からそうして」
◆
そうして。
正式な――と呼べるほど大げさなものではないが――最初の三人が決まった。
ミハイル・アンドレエヴィチ。
アレクサンドル・イリイチ。
ニコライ・フョードロヴィチ・ラヴロフ。
たった三人。
場所はミハイルの屋敷。
規則らしい規則もない。
会費もない。
制服など、もちろんない。
むしろ制服があったら全員逃げるだろう。
やることは単純だった。
知っていることを教える。
できないことを練習する。
覚えたことを残す。
ただそれだけ。
問題が一つだけ残っていた。
ニコライ「名前はどうします?」
全員が止まった。
ミハイル「名前?」
ニコライ「集まりの」
アレクサンドル「いる?」
ニコライ「記録する時に困ります」
アレクサンドル「『例の集まり』でいいだろ」
ニコライ「後から見て分かりません」
もっともだった。
ミハイル「じゃあ……何とか研究会とか」
アレクサンドル「嫌だ。大げさだ」
ナターシャ「宮廷女性作法研究会?」
ミハイル「絶対入りたくない」
アレクサンドル「メタモルフォーゼ対策会」
ニコライ「少し役所っぽいですね」
ミハイル「衣装動作研究会」
アレクサンドル「余計に分からん」
しばらく案が出た。
全部いまいちだった。
やがてアレクサンドルが、面倒そうに椅子へもたれた。
アレクサンドル「もうさ」
ミハイル「何だよ」
アレクサンドル「カーテシー・クラブでいいだろ」
沈黙。
ミハイル「…………」
ニコライ「…………」
ナターシャ「…………」
ミハイル「それはやめろ」
ニコライ「僕もちょっと……」
ナターシャ「ひどい名前ね」
アレクサンドル「じゃあ他の考えろよ!」
ミハイル「せめてロシア語にしろ! レヴェランスだろ!」
アレクサンドル「レヴェランスクラブ?」
ミハイル「それも嫌だ!」
ナターシャが笑う。
ニコライも笑い始めた。
結局。
その日は正式な名前など決まらなかった。
◆
数日後。
ミハイルは客間へ入った。
ニコライが先に来ていた。
机の上には、また新しい紙がある。
ミハイル「何書いてるの?」
ニコライ「前回の記録です」
ミハイル「見せて」
何気なく紙を取った。
上の方に日付。
参加者。
練習内容。
そして。
ミハイル「…………コーリャ」
ニコライ「はい?」
ミハイル「これ」
指を差す。
そこには、小さく書かれていた。
――カーテシークラブ 第一回記録。
ニコライ「あ」
ミハイル「あ、じゃない!」
ニコライ「ほかに名前が決まらなかったので、とりあえず……」
ミハイル「よりによってそれを使ったの!?」
そこへアレクサンドルが入ってきた。
アレクサンドル「何騒いでんだ」
ミハイル「お前のせいだ!」
アレクサンドル「何が?」
紙を見る。
そして笑った。
アレクサンドル「いいじゃん」
ミハイル「よくない!」
ナターシャもやってきた。
ナターシャ「何?」
ミハイル「見てくれよ、これ!」
ナターシャが読む。
一瞬黙った。
そして。
ナターシャ「……もうこれでいいんじゃない?」
ミハイル「お前まで!?」
アレクサンドルが笑う。
ニコライも困ったように笑う。
ミハイルだけが納得していなかった。
だが。
後になって思えば。
こういう名前というものは、一度誰かが書いてしまえば妙に強い。
次の紙にも書かれた。
その次にも。
誰かが、
「あの集まり」
ではなく、
「カーテシークラブ」
と言った。
そして。
気づいた時には、もう誰も別の呼び方をしていなかった。
こうして。
1746年、サンクトペテルブルク。
わずか三人の男と、一人の女性協力者から始まった、小さな集まり。
立派な組織でもなければ。
宮廷の正式機関でもない。
ただ。
ドレスを着せられて困った男たちが。
次に困る誰かのために。
自分たちの失敗と、覚えたことを残そうとした。
それだけの集まりだった。
だが、その名前だけは。
妙に立派に。
そして妙に馬鹿馬鹿しく。
後々まで残ることになる。
――カーテシークラブ。
その始まりである。




