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第五章 炎の舞踏会


 次の舞踏会の日。

 ミハイルは鏡の前に立っていた。

 黒いドレス。

 銀糸の刺繍。

 宝石。

 大きく左右へ広がったスカート。

 最初にこの姿を見た時には、

 ――誰だ、これ。

 と思った。


挿絵(By みてみん)


 今でも好きになったわけではない。

 だが。


ミハイル「…………」


 ミハイルはスカートの左右を確かめた。

 一歩。

 二歩。

 身体と衣装を一緒に動かす。

 方向転換。

 今度はスカートだけが遅れて椅子へ激突することもない。

 鏡の前で軽くレヴェランス。


ミハイル「……まあ」


 立ち上がる。


ミハイル「前よりはましだな」

ダーリヤ「ずいぶんお上手になりました」


 後ろでダーリヤが満足そうに頷いている。


ミハイル「その褒められ方、あんまり嬉しくないんだけど」

ワルワーラ「でも本当に」

プラスコーヴィヤ「最初の時とは全然違います!」

ミハイル「最初の時を忘れてくれない?」


 三人は笑った。

 どうやら忘れてくれるつもりはないらしい。


     ◆


 宮廷の大広間は、前回よりさらに華やかだった。

 何百という蝋燭。

 金色の装飾。

 巨大な鏡。

 楽団。

 そして、その間を行き交う奇妙な男女。

 男装した女性。

 女装した男性。

 ミハイルも、もういちいち驚かなかった。

 いや。

 驚かない自分に、少し驚いてはいた。


ミハイル「人間って慣れるもんなんだな……」

アレクサンドル「何が?」


 振り向く。

 真紅のドレス。


挿絵(By みてみん)


 アレクサンドルだった。


ミハイル「お前を見ても何とも思わなくなった」

アレクサンドル「失礼だな」

ミハイル「褒めてるんだよ」

アレクサンドル「どこがだ」


 その横には、淡い青灰色のドレス姿のニコライがいた。


挿絵(By みてみん)


 相変わらず細身なので、遠目には若い娘に見えなくもない。

 ただし顔色が悪い。


ミハイル「コーリャ」

ニコライ「はい」

ミハイル「顔が青いぞ」

ニコライ「ドレスも青いですから」

ミハイル「そういう問題じゃない」

ニコライ「大丈夫です。たぶん」

アレクサンドル「たぶんじゃ困る」


 ニコライは胸元から小さな紙を取り出した。


ミハイル「まさか」

ニコライ「確認表です」

ミハイル「持ってきたの!?」

ニコライ「当然です」


 紙には細かな字で、

 歩幅。

 方向転換。

 レヴェランス(カーテシー)。

 椅子。

 階段。

 舞踏。

 その他。

 と書いてある。


アレクサンドル「舞踏会の最中まで読む気か?」

ニコライ「何かあったら」

ミハイル「何かって何だよ」

ニコライ「分かりませんけど……」


 その時。


ナターシャ「三人揃って何してるの?」


 聞き覚えのある声。

 三人が振り返る。

 今夜のナターシャは男装していた。

 華やかな男性用の宮廷衣装。

 刺繍。

 剣。

 髪も男性らしくまとめられている。

 どう見ても、美しい若い貴公子だった。


ミハイル「…………」

ナターシャ「何?」

ミハイル「いや」

ナターシャ「また?」


ミハイル「女だって分かってても、そっちの方が違和感ないなと思って」

ナターシャ「それ、褒めてる?」

ミハイル「たぶん」


 ナターシャは呆れたように笑った。


     ◆


 音楽が始まった。

 前回のミハイルなら、その時点で逃げたかった。

 今回は違う。

 完璧ではない。

 それでも、少なくとも何をすればいいかは分かる。

 相手が近づいてきた。

 女性。

 もちろん男装している。

 軽く礼をする。

 ミハイルもレヴェランス(カーテシー)を返す。

 ほんの一瞬。

 アレクサンドルと目が合った。

 向こうが小さく頷く。

 ――合格。

 そんな顔だった。

 ミハイルも少し笑った。

 そして踊り始める。

 歩幅。

 方向転換。

 相手を見る。

 スカートばかり気にしない。

 身体だけではなく、衣装まで含めて動く。

 ナターシャに言われた、


 ――ここまでが私。


 その意味が、今なら少し分かる。

 巨大なスカートは消えない。

 だが、もう「邪魔な異物」ではなくなっていた。

 曲が終わる。

 礼。

 立ち上がる。

 転ばない。

 裾も踏まない。


ミハイル「…………」


 自分でも少し嬉しかった。

 そこへアレクサンドルが戻ってきた。


アレクサンドル「どうだった」

ミハイル「見てただろ」

アレクサンドル「まあな」

ミハイル「どうだった」


 アレクサンドルが少し間を置いた。


アレクサンドル「七十点」

ミハイル「低くない?」

アレクサンドル「前は二十点だった」

ミハイル「じゃあいいか」


 そこへニコライも戻ってきた。

 青い顔がさらに青い。


ミハイル「どうした」

ニコライ「間違えませんでした」

ミハイル「よかったじゃないか」

ニコライ「間違えないようにしすぎて、ほとんど何も覚えてません」

ミハイル「それはそのうち慣れる」


 言ってから、ミハイルが止まった。


アレクサンドル「今、自分で言ったな」

ミハイル「何が」

アレクサンドル「『そのうち慣れる』」

ミハイル「…………」

ナターシャ「成長したわね」

ミハイル「うるさい!」


     ◆


 事件が起きたのは、その少し後だった。

 最初は、誰も事件だとは思わなかった。

 大広間の端で、何かが割れる音がした。

 続いて怒鳴り声。

 音楽が乱れる。

 何人かがそちらを見る。


ミハイル「何だ?」


 給仕姿の男が一人、走った。

 その後ろから別の男。

 そして警備の者。

 次の瞬間。


男の声「止まれ!」


 空気が変わった。

 走っていた男が、近くの卓をひっくり返した。

 銀器。

 グラス。

 皿。

 すべてが床へ散る。

 悲鳴。

 人々が一斉に動いた。


アレクサンドル「ミハイル!」

ミハイル「分かってる!」


 給仕姿の男たちは、本物の給仕ではなかった。

 後になって分かったことだが、大規模な催しで出入りする人間に紛れ込み、貴族たちの宝石や貴重品を狙っていた賊だった。

 それが見つかった。

 捕まりそうになった。

 逃げた。

 ただ、それだけならまだよかった。

 一人が警備の者ともみ合う。

 身体が卓へぶつかる。

 その卓の向こうにあった燭台が倒れた。

 蝋燭が床へ落ちる。

 一本。

 二本。

 そして。

 炎が、壁際の布飾りへ移った。

 最初は小さかった。

 ほんの掌ほどの火。

 それが、驚くほど早く上へ伸びた。


誰か「火だ!」


 その一言で。

 大広間が崩れた。


     ◆


 人が一斉に出口へ向かう。

 それが一番危なかった。

 女装している男たちの巨大なスカート。

 男装女性。

 椅子。

 卓。

 倒れた食器。

 全員が同時に動けば、当然ぶつかる。

 そして。


女装した男性「うわっ!」


 一人が裾を踏んだ。

 倒れる。

 その後ろの者が止まる。

 さらに後ろから人が押す。


ミハイル「待て!」


 気づけば叫んでいた。


ミハイル「押すな!」


 声が通った。

 近衛士官として人を動かす時の声だった。


ミハイル「前の奴を押すな! 一人転んだら全部詰まるぞ!」


 何人かが振り向く。


ミハイル「裾を上げろ!」


 目の前の男が戸惑う。


女装した男性「どこまで?」


ミハイル「全部だ!」


 第三章でアレクサンドルに言われた言葉が、そのまま出た。


ミハイル「膝が見えようがどうでもいい! 足が見えるまで上げろ!」


 自分が先にやる。

 黒いスカートを両手でつかむ。

 思い切り持ち上げる。

 足が見える。

 さっきまでの優雅さなど跡形もない。


アレクサンドル「お前、思い切ったな!」

ミハイル「今それ言う!?」


 アレクサンドルも赤いスカートをたくし上げた。

 こちらもひどい姿である。

 だが。

 走れる。


アレクサンドル「狭いところは横向きだ!」

ミハイル「そうだった!」


 扉へ殺到する人々に叫ぶ。


ミハイル「そのまま突っ込むな! 横向け! スカートの幅は消えないぞ!」


 何人かが真似をする。

 通れる。

 詰まりが少し解消した。


     ◆


 反対側。

 階段。

 ここでも混乱が起きていた。

 人が押し合っている。

 ドレス姿の男が一人、怖くて動けなくなっている。

 そのすぐ後ろ。


ニコライ「押さないでください!」


 聞き覚えのある声だった。

 ミハイルが見る。

 ニコライ。

 顔は真っ青だ。

 震えている。

 それでも逃げてはいなかった。


ニコライ「一人ずつです! 前の人が一段下りてから!」

誰か「急げ!」

ニコライ「急いで転んだら、もっと遅くなります!」


 声が裏返っている。

 だが正しい。

 ニコライは目の前の年配の男へ手を伸ばした。


ニコライ「裾を上げてください」

年配の男「これでいいか?」

ニコライ「もっとです! 今は見た目なんかどうでもいいです!」


挿絵(By みてみん)


 年配の男がスカートを持ち上げる。


ニコライ「下ばかり見ないで! 足で段を確認して!」


 その言葉。

 全部、彼が紙に書いていたことだった。

 年配の男が一段下りる。

 二段。

 三段。

 その後ろの者も続く。

 ニコライはまだ震えていた。

 それでも動いた。


挿絵(By みてみん)


ミハイル「コーリャ!」


 ニコライが振り返る。


ミハイル「そのまま頼む!」

ニコライ「は、はい!」


 声だけは相変わらず頼りない。

 だが。

 もう十分だった。


     ◆


 ナターシャは、別の意味で忙しかった。

 男装している分、四人の中では圧倒的に動きやすい。

 転んだ人を起こす。

 邪魔な椅子を蹴り飛ばす。

 倒れかけた卓を押し退ける。

 そして。

 まだ逃げようとしている賊の一人が、彼女の前へ出た。


賊「どけ!」

ナターシャ「嫌よ」


 男が手を伸ばした。

 ナターシャは身体を外す。

 腕を取る。

 勢いを利用して男の身体を崩す。

 男が床へ膝をついた。


賊「この女――!」


 ナターシャの表情が変わる。


ナターシャ「失礼ね」


 男装姿なので、言葉だけ聞けば妙な光景である。

 だが次の瞬間。

 ナターシャは相手を突き飛ばした。

 警備の者が駆けつける。

 賊は取り押さえられた。


ミハイル「…………」


 少し離れたところから見ていたミハイルが呟く。


ミハイル「あいつ、俺より強いんじゃないか?」

アレクサンドル「今頃気づいたのか」


     ◆


 火は壁際から天井近くへ広がり始めていた。

 使用人や警備の者たちが水を運んでいる。

 煙。

 悲鳴。

 人の声。

 それでも大広間から人は少しずつ減っていく。

 その時。

 ミハイルのすぐ横を、例の賊の一人が走った。

 まだ捕まっていない男。

 手には短い刃物。


ミハイル「おい!」


 男が振り返る。

 近い。

 ミハイルは剣を持っていない。

 今夜の自分は貴婦人役だ。

 両手には黒いスカート。

 そして。

 右手の中に何か硬いものがあった。

 扇。

 閉じた扇。

 自分の額を殴った時の痛みが、一瞬で蘇った。


ミハイル「…………」


 そういえば。

 これは。

 めちゃくちゃ痛かった。

 賊が近づく。

 ミハイルはスカートから片手を離した。

 扇を握る。

 振る。

 ゴツッ。


賊「ぐあっ!」


挿絵(By みてみん)


 閉じた扇が男の側頭部へ当たった。

 男がよろめく。


ミハイル「おお」


 効いた。

 本人が一番驚いた。

 さらに相手の手首を一発。

 刃物が落ちる。

 そこへナターシャが来た。


ナターシャ「下がって!」


 次の瞬間には男が床へ倒されていた。


挿絵(By みてみん)


 警備の者が飛びかかる。

 終了。

 ミハイルは手の中の扇を見る。


ミハイル「…………」

アレクサンドル「何だ、その顔」

ミハイル「いや」


 少し得意になる。


ミハイル「ふん。この扇ってのは、意外と打撃力あるんだぜ」

ナターシャ「自分で頭を殴って知ったくせに」

ミハイル「今それ言うな!」


     ◆


 ようやく大部分の人が避難した。

 残っているのは警備。

 使用人。

 火を消そうとしている者たち。

 そしてミハイルたち。


アレクサンドル「もう出るぞ!」

ミハイル「分かってる!」


 走る。

 途中。

 ミハイルの鼻に嫌な臭いがした。


ミハイル「ん?」


 焦げ臭い。

 煙のせい。

 そう思った。

 だが。


ナターシャ「ミハイル!」

ミハイル「何?」

ナターシャ「裾!」


 見る。

 黒いスカートの端。

 小さな火がついている。


ミハイル「うわああああ!!」


 さすがに慌てた。


アレクサンドル「止まれ!」

ミハイル「燃えてる! 俺燃えてる!」

アレクサンドル「走るな!」


 ナターシャが近くにあった水差しを掴む。

 思い切りかけた。

 じゅっ。

 火が消える。

 同時に。

 黒い絹に水が広がった。

 刺繍。

 レース。

 全部びしょ濡れ。


ミハイル「…………」

ナターシャ「無事?」

ミハイル「俺は」


 裾を見る。

 焦げている。

 黒いドレスなので一瞬分かりにくいが、明らかに布が傷んでいた。


ミハイル「……こっちは無事じゃない」

アレクサンドル「命よりいいだろ」

ミハイル「分かってるけどさ!」


 そして三人は、ようやく外へ出た。


     ◆


 火は消し止められた。

 大広間の一部。

 壁飾り。

 家具。

 床。

 かなりの損害が出た。

 幸い、大勢が命を落とすような惨事にはならなかった。

 怪我人はいる。

 転んだ者。

 煙を吸った者。

 切り傷。

 打撲。

 だが。

 最悪の事態は避けられた。

 そして当然。

 衣装の被害はすさまじかった。

 焦げたドレス。

 踏まれて裂けたドレス。

 水を浴びたドレス。

 煤まみれのドレス。

 飾りが取れたもの。

 レースが破れたもの。

 スカートの骨組みまで歪んでいるもの。

 ミハイルは自分の黒い裾を見る。


ミハイル「……これ、直ると思う?」

アレクサンドル「無理じゃない?」

ミハイル「そんな即答する?」


 ニコライが戻ってきた。

 青灰色のドレスもかなり汚れている。

 しかし本人は無事だった。


ニコライ「皆さん、大丈夫ですか?」

ミハイル「俺たちは」

アレクサンドル「ドレスは何着か死んだな」


 周囲を見る。

 そこら中で貴族たちが、自分の衣装を確認している。

 ため息。

 悲鳴。

 絶望。

 アレクサンドルが腕を組む。


アレクサンドル「こりゃあ……」

ミハイル「何だ」

アレクサンドル「しばらくペテルブルク中の仕立屋が遊んで暮らせるな」


 ミハイルは周囲を見回した。


ミハイル「笑えないぞ」

アレクサンドル「俺のも裾破れてる」

ミハイル「本当に笑えないな」

ニコライ「僕のもです……」

ナターシャ「あなたたち、無事だったんだからいいじゃない」


 三人が黙った。


ミハイル「……それはそうだ」


     ◆


 少し離れた場所で。

 ミハイルは、ニコライが握っていた紙に気づいた。

 皺だらけ。

 端が濡れている。

 それでも残っていた。


ミハイル「それ」

ニコライ「あ」


 例の覚え書きだった。

 歩行。

 階段。

 方向転換。

 裾。

 その一つ一つ。

 さっきまで本当に使っていた。


ミハイル「役に立ったな」


 ニコライは紙を見る。


ニコライ「……はい」

アレクサンドル「まさか、あんな使い方するとは思わなかったけどな」

ナターシャ「でも知らなかったら、もっと転んでいたでしょうね」


 ミハイルは黙って大広間の方を見る。

 煙がまだ少し残っている。

 思い出す。

 裾を踏んだ男。

 階段で動けなくなった人。

 押し合う群衆。

 数週間前の自分なら。

 何もできなかっただろう。

 むしろ。

 真っ先に転んでいたかもしれない。


ミハイル「……これさ」

アレクサンドル「何だ」

ミハイル「ちゃんと残した方がいいんじゃないか」


 ニコライが顔を上げる。


ミハイル「今日みたいなことがなくてもさ。次に初めて呼ばれる奴は絶対いる」

アレクサンドル「いるな」

ミハイル「そいつが俺みたいに何にも知らなくて」

アレクサンドル「いるだろうな」

ミハイル「なんで全部俺基準なんだよ!」


 ナターシャが笑う。

 だが。

 ミハイルはもう一度、ニコライの紙を見る。


ミハイル「でも本当に」


 少しだけ真面目になる。


ミハイル「誰かが覚えてるだけじゃ駄目なんじゃないか?」


 アレクサンドルも黙った。

 ニコライが紙を握り直す。

 その時。

 周囲が急に静かになった。


     ◆


 一人の女性が歩いてきた。

 いや。

 その夜の彼女は、女性の姿ではなかった。

 華麗な男性用宮廷衣装。

 堂々とした立ち姿。

 周囲の人々が一斉に道を開ける。

 ミハイルにも、さすがに分かった。


 エリザヴェータ・ペトロヴナ。


 ロシア皇帝。


 この奇妙な舞踏会の中心人物。

 ミハイルは反射的に姿勢を正した。

 だが。

 自分の格好を見る。

 黒いドレス。

 びしょ濡れ。

 裾は焦げている。

 煤まで付いている。

 最悪だった。


ミハイル「…………」


 それでも礼をする。

 今まで練習したレヴェランス(カーテシー)。


挿絵(By みてみん)


 こんな時にまで役に立つ。


 本来ならレヴェランスをするところだった。

 だが、さすがにこの状況で女帝本人を前にすると、ミハイルは思わずいつもの男の礼のように深く頭を下げていた。


 エリザヴェータが足を止めた。


エリザヴェータ「あなたたちですね」


 四人が顔を上げる。


エリザヴェータ「避難を手伝ってくれたのは」

アレクサンドル「恐れ入ります」


 珍しくサーシャが非常にまともな声を出した。

 ミハイルは少し驚いた。

 女帝は一人ずつを見る。

 アレクサンドル。

 ニコライ。

 ナターシャ。

 そして。

 ミハイル。


エリザヴェータ「よく頑張りましたね」


 それだけだった。

 だが。

 妙に重かった。


エリザヴェータ「あなたたちのおかげで、大事に至らずに済んだ者も多かったと聞きました」

ニコライ「……ありがとうございます」


 ニコライの声が震えている。

 ミハイルも頭を下げた。


ミハイル「恐れ入ります」


 女帝の視線が下へ移る。

 ミハイルの黒いドレス。

 特に。

 焦げた裾。

 しばらく見ている。


ミハイル「…………」

エリザヴェータ「ずいぶん思い切ってやりましたね」


 何のことか分かった。

 スカートを膝近くまでたくし上げて走ったことだ。


ミハイル「……非常時でしたので」


 女帝が微笑む。


エリザヴェータ「ええ」


 少しだけ頷く。


エリザヴェータ「それでよいのです」


 ミハイルは意外なほど、ほっとした。

 そして。

 エリザヴェータはもう一度、焦げた裾を見る。


エリザヴェータ「ただ」

ミハイル「はい」

エリザヴェータ「その衣装は、もう難しそうですね」


 ミハイルも見る。

 黒い絹。

 焦げ。

 水。

 煤。


ミハイル「……はい」

エリザヴェータ「次は何色になさいます?」


 ミハイルが顔を上げた。


ミハイル「次がある前提なんですか!?」


 アレクサンドルが横で吹き出した。

 ナターシャも顔をそらした。

 ニコライですら笑っている。

 女帝も楽しそうに笑った。


     ◆


 その夜。

 ミハイルの黒いドレスは、ほぼ修復不能と判定された。

 ダーリヤが見れば、たぶんもっと容赦なく言うだろう。

 また採寸。

 また仕立て。

 また一時間以上の着付け。

 考えるだけで頭が痛い。

 だが。

 ミハイルは不思議と、以前ほど嫌ではなかった。

 焦げた黒い布。

 汚れた青灰色のドレス。

 裾の破れた赤いドレス。

 煤の付いたナターシャの男装。

 そして。

 ニコライがまだ大事に持っている、濡れた覚え書き。

 今日。

 半ば冗談で覚えてきたことが。

 人の役に立った。

 それだけは確かだった。


ミハイル「なあ」

アレクサンドル「何だ」

ミハイル「さっきの話」

アレクサンドル「どれ」

ミハイル「残すって話」


 アレクサンドルがミハイルを見る。

 ニコライも。

 ナターシャも。


ミハイル「今度、ちゃんと話そう」


 アレクサンドルは少しだけ笑った。


アレクサンドル「そうだな」


 ニコライが濡れた紙を見つめる。


ニコライ「じゃあ、整理しておきます」

ミハイル「こういう時だけ元気だな、お前」

ナターシャ「いいじゃない」


 四人が笑った。

 まだ。

 その集まりに名前はなかった。

 規則もない。

 正式な会員もいない。

 ただ。

 必要だから集まる。

 分からない者に教える。

 知っている者が残す。

 それだけだった。

 しかし。

 次に彼らが集まった時。

 その小さな集まりには。

 とうとう一つの名前がつくことになる。


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