第21話『ひび割れた虚像』【1】
生放送の歌番組の楽屋には、いつものように衣装や化粧道具が並び、スタッフが慌ただしく行き交っている。鏡の前では咲良深月が小さな声で発声をしていた。彼女は、White Noiseのメンバーの中で一番の歌唱力の持ち主だった。その美声は、こういうわずかな練習でも隠しようがなかった。
「深月、今日も本番前から本気じゃん」
赤根菜生が笑いながら声をかける。
深月は鏡越しに菜生を見た。
「本番で声出なくなるよりいいでしょ」
「それはそう」
菜生はあっさり頷いた。椅子に腰を下ろし、自分のスマートフォンを覗き込む。SNSでも確認しているのだろう。彼女はSNSでの営業やネタポストが上手かった。普段は明るくおしゃべりで、White Noiseのメンバーの潤滑油のような彼女だが、スマホを見ているときの目はやけに冷静だった。
そしてその隣では、彩野紗梨愛が鏡に向かって前髪を整えている。
「今日の衣装、絶対写真映えするよね。ファンサもいっぱいしなきゃ」
White Noiseのメンバーは、それぞれのやり方で本番に備えていた。
そして、少し離れたところに朝霧舞白がいた。
美夏は鏡越しに、その横顔を見る。
ひとつ、気づいたことがある。
回帰前の世界の、あの舞白は知っていた。
寿志清純と楽屋で二人きりになれば、何が起きるのか。
天導隆一と廃遊園地へ行けば、どうなるのか。
それ以外にもきっと、多くのことを知っていたのだろう。
今の舞白にそれらの記憶はない。しかしアザゼルの話によると、完全に失われたわけではなく、断片的な記憶を夢に見ることがあるという。そうであるならば、自分の知らない情報が、夢という形で今の舞白の前に現れる可能性がある。それを知る必要があった。舞白がなぜ、自分を破滅させたのか。彼女は何を憎み、何を許せなかったのか。それを理解しなければ、思わぬ形で足下を掬われる羽目になりかねない。
舞白のことは許せない。しかし、だからといって遠ざければ、重要な情報を取りこぼしかねない。もっとも優先すべきことは、目的の達成だ。そのためなら、憎い相手とも手を組む。それくらいのしたたかさは必要だ。舞白への報復は、彼女が致命的な行為に及んでからでいい。
「ねえ、舞白」
「……なに?」
美夏が声をかけると、舞白は振り向いた。
美夏は、なるべく何気ない声を作り、話しかける。
「この前言ってた夢の話なんだけど。最近も見るの?」
舞白の表情が、ほんの少しだけ強張った。
だが、その理由を尋ねるより先に、楽屋の入口が開いた。
スタッフに続いて、数人の男女が入ってくる。
その中心にいた男を見た瞬間、美夏の表情が固まった。
寿志清純。今日は映画のプロモーションを兼ねて、歌番組に出演する予定になっている。その隣には、黒瀬聖子。相変わらず、彼女は寿志のすぐそばに張り付いていた。
「寿志先生、お疲れさまです!」
「いやあ、今日もよろしくお願いします」
聖子は寿志に向かって、露骨なほど腰を低くしていた。
美夏は、思わず目を逸らした。どうにも、この女は苦手だった。
そんなことを思ったとき、小さく息を呑む音が聞こえた。美夏は舞白を見る。舞白は寿志ではなく聖子を見つめていた。顔から血の気が引いている。驚いている。いや、ショックを受けているのかもしれない。
美夏は眉を寄せ、小声で舞白に尋ねた。
「舞白、あの人を知ってるの?」
「ううん。知らない人。会ったことないと思う。たぶん。でも……」
舞白の目は聖子に釘付けになっている。
その横顔を見ながら、美夏は思った。
──やっぱり、夢で見たの? 回帰前の世界で会ったの?
そのとき、スタッフの声が美夏を現実に引き戻した。
「White Noiseさん、本番前の打ち合わせお願いします!」
スタッフに促され、美夏たちは楽屋を出た。
廊下の先には、すでに本番用のステージが組まれている。
巨大なLEDスクリーン。幾重にも配置された照明。床には、カメラが滑るように移動するためのレールが敷かれていた。観客席にはまだ人影が少ない。それでも、ステージの上だけは本番と変わらない緊張感に満ちていた。
司会者の神代和茂が五人の前に現れる。
「お疲れさまです」
美夏たちは一斉に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。そういえば、君たちと会うのは今回が二回目だったね。前にも、この番組に出てくれたでしょう?」
「はい。覚えていてくださったんですね」
美夏は少し驚いた。前回の出演は、まだWhite Noiseの名前はほとんど知られていなかった。歌って、短いトークをして、それだけで終わった。それでも神代は、彼女たちのことを覚えていた。
「もちろんだよ。初々しくて、礼儀正しい子たちだと思ったからね」
神代はメンバーを見回した。
「今日は前より、ずいぶん堂々としているじゃないか」
「本当ですか?」
紗梨愛が嬉しそうに身を乗り出す。
「ええ。場数を踏んだ顔になっている」
「やった!」
菜生が小さく拳を握る。
深月は控えめに笑い、舞白も頭を下げた。
美夏は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
前回の出演から、何かが大きく変わったわけではない。
それでも、神代は彼女たちを覚えていた。
「星凪さんは、前に子役をやっていたでしょう?」
神代が改めて美夏に視線を向ける。
「……はい。よくご存じですね」
「昔の映像を見たことがあるんだよ」
神代は懐かしそうに笑った。
「演技が上手だった」
「ありがとうございます」
美夏は頭を下げた。
「今はアイドルなんだね」
「はい」
「芸能界は長いかもしれないけれど、焦らなくていいよ。売れることも大切だけど、長く続けることはもっと難しいからね」
神代の声は穏やかだった。
美夏は顔を上げた。長く続ける──回帰前の自分には、そんな未来など存在しなかった。売れなければ意味がない。結果を出さなければ意味がない。若いうちしか価値がない。母親にも、事務所にも、世間にも、ずっとそれだけを求められていた。長く続けることなど、考えこともなかった。
乾いた土に水が染み込むように、神代の言葉が胸に広がる。
「……ありがとうございます」
美夏はもう一度頭を下げた。
「こちらこそ。今日の本番、楽しみにしているよ」
神代が笑う。その穏やかな笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜けた。




