第20話『クランクイン』【1】
映画『君が消えた世界はまだ続いている』の撮影が始まった。
撮影初日の朝、美夏が案内されたのは、学校の教室を再現したスタジオだった。
黒板には日直の名前が書かれ、教卓には使い込まれた出席簿が置かれている。古びた木製の机と椅子が整然と並び、窓の向こうには校庭を模した背景まで用意されていた。窓から差し込む光も、放課後らしい橙色に調整されている。
共演者の姿はない。初日の撮影は、美夏のソロパートのみ。そしてそこには、監督であるはずの寿志清純の姿もなかった。現場を仕切るのは、助監督と脚本チーム。助監督
の榊原燈真がモニターの前に立ち、スタッフへ指示を飛ばしていた。
「照明、もう少しだけ落として。窓の外が暗くなるタイミングで、教室の灯りを入れます」
「了解です」
「カメラ、寄りは少し遅めで。彼女がスマートフォンを見る時間を残してください」
スタッフが短く返事をし、機材を調整する。
美夏は窓際の席に座った。
今日の撮影は、映画の序盤のいくつかの場面。誰もいない教室で、帰りを待つ場面から始まることになっている。
「では、テストいきます。音、お願いします」
録音担当がヘッドホンを押さえた。
「音、回っています」
「カメラ」
「回っています」
榊原が美夏を見る。
「本番、お願いします」
スタジオから、音が消えた。わずかな物音すら聞こえない。
美夏は手の中のスマートフォンへと視線を落とした。
今は放課後。校舎には、もう誰もいない。画面を確認する。メッセージはない。指を動かし、もう一度確認する。やはり、ない。それでも少女は待つ。窓の外の空が、ゆっくりと暗くなっていく。照明スタッフが合図を送り、教室の天井灯が自動的に点いた。
白い光が、誰もいない教室を照らす。
美夏は窓の外を見つめた。
「……まだ、待ってていいよね」
「カット」
榊原の声が響いた。すぐにスタッフが動き出す。照明の確認、カメラの再調整、録音担当のチェック。美夏は椅子に座ったまま、助監督の指示を待った。
「星凪さん、悪くないんだけど……もう少し寂しそうにできますか?」
「はい」
「誰かが来ると信じている。でも、来ないかもしれない。その不安を、もう少しだけ、出すようにしてください」
「分かりました」
再び、スタジオが静まる。
美夏はスマートフォンを見た。待つ。
「……まだ、待ってていいよね」
「カット。うーん……」
助監督がモニターを見つめる。
「もう少し、切実さが欲しいですね」
三度目。四度目。
撮影のたびに、同じ台詞が教室に落ちる。
そのたびに、助監督は首を傾げた。
「表情はいいんです。でも、待っているというより、状況を確認しているように見える」
「……はい」
「誰かを待つことが、あなたにとって最後の希望なんです。そこを意識できますか?」
美夏は答えられなかった。
言われていることは理解できる。けれど、演技できない。美夏はもう『待つ少女』ではない。誰かが迎えに来ることを信じて、ただ待っている──そんな生き方は、回帰前の自分にすら、できなかった。
美夏は、返事の代わりに榊原に言った。
「……少し、時間をください」
「ええ。いいですよ」
撮影が止まり、スタッフが照明を調整する間、美夏は教室の隅に立った。
誰も話しかけてこない。失敗が続いているせいか、スタッフたちも必要な会話だけを交わしている。機材の冷却ファンが低く唸り、遠くで誰かが紙をめくる音がした。
美夏はその静けさの中で考えた。演技とは何なのか。それを言葉にできるほど演技を知らないことに気づく。では、今すべきことは、自分自身を表現することなのか。いや、違う。それだけは分かる。この映画の主役は、『星凪美夏』ではない。スクリーンの中にいる、別の少女だ。ならば、カメラに写るのは、自分自身である必要はない。自分にできない生き方を表現してこそ、演技だ。
──でも、だったら……どうすればいい?
美夏は目を閉じた。
頭の中に、ひとりの青年を思い浮かべる。
月城律。回帰前の世界で、もっとも好きだった人。
あのとき、最後に会ったとき、USBメモリを託したあとに律はなんと言っただろう。
美夏は、記憶の中の律を少しずつ呼び起こした。
言葉。声。表情。目の奥にあった光。自分を見るときの、あの優しい眼差し。
──来て。
美夏は心の中で呟いた。役を演じるのではない。自分の内部に、あの人を再現する。あの頃の月城律を、自分の心に降ろす。記憶の中にしか存在しない月城律と同化する。そして──美夏は榊原に声をかけた。
「……もう一度、お願いします」
「大丈夫ですか?」
「はい。もう一度、やらせてください」
スタッフが再び持ち場につく。
「本番いきます」
教室から人の気配が消えた。
美夏は窓際の席へ戻り、椅子に腰を下ろす。
スマートフォンを手に取り、画面に視線を落とす。そうして誰かを待つ。美夏は確信する。待っている者も、その『誰か』も、今は自分の中にいる。
「カメラ、回っています」
「本番」
美夏はゆっくりと窓の外へと視線を向けた。
空が暗い。誰もいない。それでも少女は待っている。待ち人が来ると信じている。来てくれると、信じたい。信じたいから、信じる。あのときの月城律のように。
「……まだ、待ってていいよね」
静かな声だった。
けれど、その一言には、さっきまでとは違うものがあった。
寂しさ。期待。恐怖。そして、それでも信じたいという願い。
誰も動かなかった。榊原も、カメラマンも、照明スタッフも、息を潜めたままモニターを見つめている。数秒後、助監督がようやく声を絞り出した。
「……カット」
その声と同時に、張り詰めていた空気がほどけた。
誰かが小さく息を吐く。録音担当がヘッドホンを外し、カメラマンが目元を拭う。榊原はモニターの前から立ち上がった。
「……すごい」
隠しきれない驚きが、その声に混じっていた。
「今の、すごく良かったです。最初とは別人みたいでした」
美夏はゆっくり顔を上げた。別人。それでいい。演じるというのは、そういうことなのかもしれない。自分ではない誰かを、自分の中に存在させること。その誰かが本当に存在すると、見る者に信じさせること。
「素晴らしかったです」
横から声がした。暁文だった。いつの間に、モニターの前まで来ていたのだろう。暁文は穏やかな顔で、美夏を見ていた。
「今の演技、原作のヒロインそのものでした」
その言葉に、美夏は少しだけ眉を動かした。
原作の主人公。自分が演じたのは、確かに彼女だ。そして暁文の言葉は、まるで彼が本当にその少女を知っているかのような言い方。
(やっぱりそう。この人が、本物のNo.404……)
そう強く思ったものの、美夏がそれを声にすることはなかった。




